「自伝及び中米内戦体験記」9月11日

「ある男の話」

 

ある男がいた。その男は社会科の教師であった。何事によらずいいかげんな男で、野球かサッカー部の顧問をしていたが、クラブは生徒に任せて生徒が帰る前にいつも帰ってしまった。そのために当直の先生が残った生徒の面倒を見ることを余儀無くされた。彼の仲間の先生たちは其れをなあなあでやって見過ごしていた。

 

或る時私が当直をやっていたとき、彼は「じゃね」とかいって帰ってしまったが、そのとき私は「じゃね」でもって、彼のクラブの生徒を自分に任されたことに気付かなかった。彼の「じゃね」がそのような意味を持つことは、彼の仲間内だけの無言の了解事項であった。

 

その日彼の「じゃね」の後で彼の生徒が怪我をした。私がその生徒に顧問の先生は誰なのかと聴いてはじめて例の社会科の教師であることが分かったほど、私はうかつにも、彼の行動様式を知らなかった。私は対応に困り、学校の構内に住んでいた、これも先に帰ってしまった高校の教頭を呼び出して、生徒の怪我に対処した。

 

私はこのことに懲りて、次の職員会議のとき、「各クラブの顧問の教師は生徒が帰るまで責任を持って学校に残る様」と、問題を提起した。

 

驚いた事に彼は自分のこととは思わなかった。ニィコニィコと笑いながら、「三好先生はとても良い問題提起して下さいました、いつも真面目に生徒指導をして下さる事に心から尊敬しています」などと言う調子のいいことを言って、私のバックアップをして見せたのである。

 

私はいらいらした。其れで私は彼のほうをまっすぐ見て、「先生、あなたのことです。」といった。

 

それから私が問題だと思った事実を項目を示してみんなに報告した。

 

1)運動部の生徒がいつも遅くまで残っている事

2)問題を起こしたときに顧問が責任を取るのが筋である事

3)当直の、説明も何も受けていない、事情を知らない私みたいな新任の教師に任されても困る事

4)先日の生徒の怪我も結局居合わせた先生とすでに帰った教頭を呼び出して対応せざるを得なかった事。

 

それを聞いた彼は真っ赤になって怒った。

 

「運動部の生徒はいつも遅くまで残るからその面倒をいちいち見なければならないのなら、僕は指導なんかできません!」驚いた事に我を忘れて彼はそう叫んだ。

 

たまげた私は食い下がった。

 

「生徒を放置して家に帰ってしまうと先生は指導ができるのですか?先生の指導と言うのは家に居てリモコン操作で生徒を操る事ですか?」

 

私は彼を追及した。彼の理不尽な話の展開に私は腹を立てていた。教頭が割って入り、「今までなんとなくお互いの融通でやって来たことだけれど、女性の先生の手にあまる事も起きるから、用事があって生徒を置いて帰るのなら、代わりの先生を必ず代役に置く様に」と言って、その場を治めた。

 

しかし職員会議が長引いたため、私が誘って呼び入れたマリア教仲間の小森先生が気分を悪くして倒れたため、私が伴って喧嘩してきまずくなっている例の男の車で、八王子の彼女のアパートまで送るという事態になった。

 

彼女を送った後、私はその男の車で送られてそのまま自宅に帰ると言う羽目に落ち入ったのである。

 

彼は調子の良い男だったから、帰りの道中ずっと私におべっかを使いつづけた。先ほどの生徒指導に対する私の問題提起などどこ吹く風と、私が髪をまとめるためにつけていたハンカチが「良く似合って素敵ですよ」だの、アメリカ旅行で母が買ってくれた指輪は「普通の人が持ってないようなセンスがあって、さすがぁ」だの、「これから僕は先生のご意見にしたがって、もっと真面目に勤めます」だの、およそ女を口説くときに使ううそつき男の気持ちの悪いせりふを800ぐらい並べ立てて、八王子から武蔵野市の自宅までの大した距離でもない所を40分もかけてしゃべりまくった。

 

以後彼は、ことあるごとに私を家まで送るようになった。便利だという、それだけの理由で、私は送ってもらうことを拒否しなかった。それがどういうことを意味していたか、全く気が付かなかった。

 

「バイブルキャンプ」

 

夏休みにはいる直前、バイブルキャンプとよばれる行事があった。学校の精神であるキリスト教の精神を学生達に体験させるための合宿だった。指導教師は例の宣教師、折邊先生である。

 

はじめは何しろ私が「マリア教」なので、拒絶していたが、職員会議で、議論を重ねるたびに仲良くなり、生徒の指導に関して問題が起きたときお互いに協力関係を維持するようになっていた。基本的に二人ともまじめだったし、生活の背景に同じ神を奉じる宗教を持っていたから、しまいに宗派の違いを乗り越えて個人的な相談までもし合うようになっていた。

 

職員会議のなかで、矛盾を追及し、火を吹くような発言をしつづける私におされながら、彼はつねに聖書を片手に私をバックアップしてくれた。聖書が片手だから、正論が通った。通らざるを得ない環境があった。

 

迫害に耐えて2000年を生き延びてきたカトリックの社会は、この学校の教会よりもっと世故にたけていた。正論など他の世間と同様とおらなかった。建前と本音が使い分けられていた。上意下達で議論の余地が無かった。それなりに上の責任は大きかったが信者はものを言わない羊の群れだった。今でこそ改革が進み、信者が上意の形成に参加できるようになっているが、古い信者はもともとの考えを崩してはいない。

 

バイブルキャンプの内容に関しては、私は何もタッチしなかった。あくまで自分のクラスの引率教師であって、精神的な責任は持たされていなかった。しかしグループに分かれた議論のさいは、人数が足りなかったのでかり出された。

 

私のクラスの子供たちは、いつも私のうちで集まったりしているため気心が知れている。すごく世俗的で実際的な子供たちだった。実人生にかかわる議論ならするけれど、聖書の内容にまでは安易に入ってはこなかった。

 

「折邊先生が一生懸命らしいから、付き合ってやろうや」という調子だった。彼らは礼儀として付き合っているらしい事を私は知っていたが、そんなこと口にするわけには行かなかった。

 

なぜだか宣教師の折邊先生は、聖書に記されているキリストが行ったと言う奇跡の証明からはじめたから、それは余計生徒たちの拒絶反応を喚起した。

 

同じアプローチの仕方でも、キリストの言葉を実人生に反映させる方向から入れば、彼らはもっと聞く耳を持ったであろうに。奇跡の証明は無意味だと私は常々思っていた。宗教にはどんな宗教だろうとわけのわからないものが含まれている。そこに注目させたら、現代人はついてこない。

 

でもこれだけは私の出る幕ではなかったので、グループに分かれて議論するときに、ぼそぼそと小声で話す彼らの反論にちょっと対応できなかった。彼らは面白くなさそうだった。しかも、私の気持ちをすばやく察した子供たちは、「この続きは先生のうちでね」とかいってグループの発表のとき、大人顔負けの玉虫色の発表をした。憮然として私の目は宙を浮き、視点定まらずの状態だった。

 

もと担任の住職先生がそれを見て、すべてを察したように、私を斜めに見てニヤニヤしている。

 

「あの・・・私は初めてで何もわからないので質問します。」と言うのが私の職員会議で口を聞くときの決り文句だった。

 

職員会議が終わると住職先生はいつも私に、「誰よりも物事をわかっているくせにアア言う事言うんだから」と言ってからかった。ピッピッピと数人の視線が飛び交い、それですべてを理解しあう面白い関係ができていた。

 

「バイブルキャンプ 2 」

 

合宿の終わりの日、キャンプファイアをたいた。歌を歌い余興をした。生徒たちは楽しそうだった。私のクラスの生徒たちは普段から登山をしたりスキーをするものがいたため、こう言うときの企画がうまかった。

 

ところで、最後にくじをひいて先生に余興をしてもらおうと言う事を言い出したものがいた。わいわいとくじを引き私があたってしまった。

 

これはとても困る事だった。私は学生時代から遊んだ事が無い。苦悩の青春時代をひたすらに勉学と金稼ぎですごした。唯一の心の開放は一人登山と一人酒だった。青春の終局点に修道院があった。祈りと歌と、深い自省のうちにすごした。自分が生きて生まれた事の意味を探して生き延びようとした。心のゆとりなど何も無かった。酒の席でさえ生徒の教育を研究していた。何をしたら子供たちを喜ばせることができるか見当もつかなかった。

 

せんせーぃ、せんせーぃと子供たちが呼ぶ。ええ、ままよ!とみんなの輪の真中に踊り出た。

 

自分の生徒たちに叫んだ。「じゃあ、蛸躍りするから、みんなうたってね~!」みんなが私のうちに時々集まって飲みながら歌っている歌を手拍子つけて歌い出した。

 

えい!たこおどりだぞ!私は出きるだけ身をくねらせて手足をたこのようにふにゃふにゃさせながら、ほいほい、うたえ!と掛け声かけてぴょんぴょこ踊った。体をくねらせているだけで別に意味があるわけではない。子供のときから大家族の中で気を引くために培った、とっさの場合のオドケの精神があっただけだった。

 

ぎゃはははははは!ぎゃははははは!

 

以後私はたこ踊り先生と言う異名を得た。後で実際を見ずにそれだけ聞いた人が、私がなにか特殊な舞踏を知っているのかと思ってまじめに、今度拝見したいなんて言ってきたときには恐れ入った。

 

そんなもの私はその時発明したものだから、もう一度やれっていわれたってできないのだ。蛸が知ったら迷惑だというだろう。

 

バイブルキャンプは私のたこ踊りで終わった。おかげでまじめ人間だった私の評判は一気にかわった。指導者の、まじめの2乗の折邊先生も、「あんな事僕にはできないよ」 と言ってとっても尊敬してくれた。

 

彼は小太りで、毛が薄く、私より彼のほうが蛸っぽかったが、ちょっと身をくねらせる事はできなかっただろう。評判が変化した事がよかったか悪かったか私は知らない。

 

「帰路;連合赤軍受難の地を訪れる」

 

キャンプが終わった。例の男が車で一緒に帰ろうと私を誘った。私はその時はもう彼の車にも彼の誘いにも慣れていた。どうせ誘ってくれるだろうと思っていたので私ははじめから或る事を計画していた。

 

キャンプの場所は軽井沢だった。連合赤軍がうちゲバを重ね、お互いに殺しあって自滅していったところが近かった。地蔵峠の先、十二塚というところ。彼らの青春の墓所だった。ついでだから、そこに連れていって暮れと私は頼んだ。

 

彼は気安くひきうけた。彼に思想や理念があったわけではない。生きる真剣さも、責任感も、多分道徳も希薄な男だった。女がことさら好きだった。彼は私がなぜそのような場所を訪れたがっているかも考えず、趣味のいいリボンで髪をまとめ、アメリカの指輪をつけた女とドライブする事を楽しもうとしたらしかった。

 

その年の1月、連合赤軍の幹部だった森恒夫が獄中で自殺をした。私は彼の生い立ちから思想形成にいたる物語を週刊誌から知っていた。苦労してそだった。純情だった。社会改革のための生贄の羊となりたいと、彼はその母親に言っていた。連合赤軍の幹部となって、永田洋子との出会いによって自滅していった。

 

その純粋さとその弱さ。自分の人生と重なった。獄中で聖書を紐解いていたと言う彼の心中を思って心の救いを見出してから死んでくれよと願っていた。その彼が自殺したとき、自分の最後を見るようにやりきれなかった。

 

せめて祈ってやろうと私は思った。どこで?彼らが狂ってうちゲバの末、果てていった場所以外に、祈る適当な場所は無いだろう。何も無い山の中かもしれない。鬼の、悪魔の、と言われた彼らだ。花を手向ける人もいなかろう。

 

車は地蔵峠を超えていった。車窓から私は彼らの墓所の形跡を探した。近いぞと思った。彼も車の速度を緩める。杉林を過ぎたところの道端に労務者風の男が数人休んでいた。彼は車を止めて聞いた。

 

 

「十二塚はどこですか?」「え?」怪訝な顔をして男達が目をこちらに向けた。「ほら、赤軍の埋められていたところ。」「ああ。」男達はある方向を指差した。

 

小道があった。小道の入り口に黒と橙色の縞縞の蜂が転がっていて蟻がたくさん群がっていた。死んで動かない蜂とせわしなく動く蟻が私の心に空虚に映った。

 

連合赤軍殉難の地」と書いた小さな標識が立っていた。小道を奥にたどっていくと卒塔婆が2本立っていた。その裏を見たら寺田家、遠山家とかいてあった。

 

革命に忠誠!と叫んで、死んでいった勇猛な幹部の名前だ。この二人の両親はどんな思いでこの卒塔婆を立てたのだろう。それは多分私などの思いもよらぬ親心なのだろう。私のような部外者が自分の心の整理のために、気まぐれに訪れるそんな心とは無関係の絶望と悲嘆のなかから救いを求める親心。

 

卒塔婆の文字は難しいから覚えていない。ただ道標にあった「連合赤軍殉難の地」と言う文字が心に残った。ひどくやさしい穏やかな気持ちを私は感じた。仏教はやさしいなと思った。彼らが殺伐とした殺し合いのなかで死んでいったその事実を殉難と言う言葉で供養する、祈る心を私は感じた。

 

私は家庭的な愛をひたすら拒絶してきた。しかしここで私は卒塔婆を立てた親達の心中を思った。家庭的な愛を否定して私は自分の道を貫いているつもりだった。しかし卒塔婆を立てた親達の心を感じたとき私は思った。家庭的な愛こそが絶望の中からさえ崇高な域に達することができる。「愛はもしかしたら絶望の中からのみ生まれる。」

 

杉林の中から例の教師が出てきた。「ここにも三つあるよ!」と彼はニッコニッコしながら明るい声で叫んだ。彼の態度は観光地見学気分である。墓穴が三つあるという意味らしい。三つある墓場の意味を考えず、こんなに楽しそうに、私に指し示すことのできるこの男を、私は薄気味悪く思った。

 

そばに咲いていた藤色の花をつんで私は卒塔婆の前に置いた。彼の指差す方向に歩いていくと赤茶色の土管が立っていて新しい穴が三つあった。

 

ああ、この穴に8人が埋められていたのだ。土管の前にジュースの缶やゆで卵が置いてあった。彼らの知り合いか、土地の人の思いやりか知らない。お供え物を見て私は再び、アア、仏教は優しいな!と思った。さっき卒塔婆の前に置いた同じ花を供えた。

 

森はわりと明るかった。小さな蛾が飛んでいた。そんな小さな生き物にさえ、私は心を動かされた。そこに何かがあったわけではない。去年8人の死体が投げ込まれ、そして発掘された場所だと言うだけだった。

 

ここは親達の怒号と号泣と、そして報道陣の足跡が入り乱れたところ、学生達の青春の焼け跡、正義を信じるキャラバンシューズの若者達が牙を向いてやってきて、不義なる仲間を墓穴に投げ込んだ場所だった。そしてここはそれらの歴史を飲み込んで、私のようなバカの訪れる事も無くなり、雑草がはびこってやがては自然にかえるべき場所だった。正義の名の元にともすれば排他的になる自分の過去の道程を思い、私の心は複雑だった。

 

ああ!愛のない正義は正義とは言えず、正義のない愛は愛とはいえない・・・とあのシスター広瀬が言っていたっけ・・・

 

私はこの地に立って、感慨にふけり、祈りながらふと白峰をおとずれた西行の心境を思いやった。悲嘆と恨みのうちに死んでいった自分のかつての主を弔うために西行は白峰をおとずれた。彼はその主君の墓所で、華やかだった頃を思い、戦の事を思い、荒れた都の事を思い、自分の身の上を思った。

 

「いかにかすべきわが心」と心に念じながら、彼は自分の心をもてあましていた。

 

それはまったく連合赤軍の世界ではない。私の今の心の状態でもない。ただ似通っていたとすれば、つわものどもの夢の跡を思い、感慨にふける求道者としての思いだったかもしれない。

 

「え?」

 

私が連合赤軍卒塔婆の前で感慨にふけっている間、運転男は子供みたいにあちらこちらを探検して回っては、こっちに穴がある、あっちに穴があると喜んで探し回っていた。

 

ここで荒れ狂った青年達の人生とその結末については何も感じてはいないようだった。そして私がなぜここを訪れたがったのかということにも無頓着だった。彼は嬉々としてさえ見えた。卒塔婆に花を手向ける私を見て、私を喜ばせようと思ったらしく、あちこちから花をつんで持ってきた。当惑しながら、私はその花を受け取っては、卒塔婆の前にささげた。

 

 

彼は明らかになにか勘違いしていた。まるで少女の気を引こうと、花をつんで持ってきてくれる西洋の物語の少年みたいだった。彼は彼の別の思いを楽しんでいるかに見えた。私はその見当違いをやれやれと感じると同時に、心の隅になんだか、この男を「可愛いのかも」と感じる気持ちがその時湧いていた。彼の行動は私が担任をしている高校生の男の子よりたわいなく幼かったから。

 

卒塔婆の前でただ突っ立っている私を後にして、また新しいところに冒険しにでも行ったのか彼の姿が見えなくなったので、もうそろそろ切り上げようかと私はもと来た小道を戻っていった。林道をすたすた下っていったところに工事の道具小屋のような物がたっていた。草がはげて赤土が剥き出しになっていた。ここをキャラバンシューズの若者達が仲間の死体を引きずって歩いたのだろうな、と私はその光景を想像した。やりきれない思いがして、思わず合掌。

 

突然車が目の前に出てきてかの男がドアを開けておりてきた。私の肩に手をかけ、私を覗きこむようにしていった。「満足した?」へ?これが「満足っていうの?」バカじゃねえかと一瞬思った。

 

彼は私を抱きかかえるように車の中に座らせた。そしてそのままじっと私の手を握って離さない。彼の息づかいが近くにあった。

 

え?こういうことを考えていたのか!?この男。彼の体温。その息遣い。自分が30過ぎるまで避けに避けてきた生物の雄の感触がそこにあった。むむ。。。私は身動きできかった。こういう状況を夢にも想像しなかった、ミッションスクールから修道院を経てきた、家族以外の異性の経験皆無の人生を歩んできた私は、実際に、「身動きができなかった」。

 

闘争に身をゆだねて地獄を見ながら死んでいった若者達のために祈ろうと思って私はここに来た。その事を何も感じもしなければ憤る事も悲しむ事も、または軽蔑する事さえしない、自分の雄としての発動以外の感受性の無い男の行動に、私はかすかに苦痛を感じた。ここまで糞だったかと思いながら、私は歯を食いしばり、男の顔をじっと見ながら、しかし私は一微動だにできなかった。こういう関係を男女の関係というのなら、私はかつて女などではなかったから。

 

暗くなった。道中の危険を察して、その日はそれで帰宅したが、二人とも沈黙したままだった。ただ私の心には、ものすごい危機感が残った。