「自伝及び中米内戦体験記」9月12日

「一つの課題」

 

私のクラスの生徒の中に、在日韓国人の女の子がいた。明るく利発な子だった。バイブルキャンプのとき、緑ネクタイホモ発言の理事長が、生徒全員に対して、「国際性を身につけることについて」という講演をした。その時ふと彼はその在日韓国人の斎さんのほうを見て「あなたも韓国人としての誇りを持って生きているでしょ?」といった。その時私には意外だと思ったことに、彼女は突然泣き出したのである。

 

思えば、私のうちにやってきて、わいわい騒いで帰えっていくのはいつも男子ばかりだった。クラスのなかで男の子達の影に隠れていた女の子達との意思の疎通は、ぜんぜんできていない事をその時悟った。

 

私はそこで、斎さんの心の問題に少し付き合ってみようと思った。彼女は、在日韓国人で、私が修道院でであった、本国で育ち、教育を受けた韓国人の意識と、明らかに違うものをもっていた。彼女達は、猛々しいともいえそうな、愛国心を持っていて、ほとんど日本人を憎んでいた。まして、「日本人と同じ」などと言われることに、嫌悪の情を持っていた。

 

そして、私のうちには、過去、趣味で古代史に取り組んでいたときに集めた、古代の日本と朝鮮半島の関係の歴史書がうずたかく積んであった。その中には独立後の韓国人、北朝鮮人、在日韓国人の学者の書いたものもかなりあったので、当然問題は古代のみならず近世、近代、現代の苦渋に満ちた歴史を引きずっていたから、私は斎さんの心の問題に対して決して無知ではなかったのだ。

 

同時に、私は修道院体験を通して、その時代の韓国人たちの思いを知っていた。彼女達は韓国人としての誇りを前面に出す余り、修道院という、少なくとも建前上「愛の館」のなかでさえ、日本人の仲間を受け入れなかった。彼女達に、「あなた日本人だから大丈夫」などということは、ナンセンスだった。

 

だからこそ私は「民族としての誇りを持つのが当然」と言う前提で発言した理事長の言葉を支持したのだった。 その事が誰にもわかっていない。男の子達の一部だけが、泣いた斎さんとその友達の発言に疑問を呈していた。何とかしようと私は思った。

 

私が担当していた古文の授業はその時ちょうど古事記の一節に入ろうとしていた。ヤマトタケルノミコトの物語だったから、余り朝鮮半島の歴史とはつながりが無かった。

 

あれをもっと拡大して、日朝関係の古代史まで持っていこう。私は計画を立てた。

 

あの理事長にしてはめずらしく良い事いったなと私は思っていた。実は、私には、その時彼女が泣く理由がつかめなかったのだ。

 

ところがそのとき、不意に泣き始めた斎さんの周りに友達がかけよって慰めにかかった。

 

「あなたは日本人よ。みんな同じ日本人だからダイジョウブ!」

 

彼女達は理事長のほうを見てひそひそと言った。「今まで日本人だと思って生きてきたのに、あんなことを言うなんて、ひどい!」

 

「ええっ?」と私は面食らって生徒達の顔を見た。

 

その際理事長の言葉が正しいと思った私は説明を試みた。

 

「彼は斎さんが韓国人としての独自性と誇りを持っているのは当然と考えて発言した事で、これは差別意識からいった事ではない。差別していたら、韓国人の誇りのことを、理事長先生は口にも出さないでしょ。」

 

そうしたら斎さんを取り巻く友人達は私に向かって目をむいた。

 

「そんな事今言うなんて、先生、大人気無い! 」

 

私はこの反応にかなり戸惑った。大体、「大人気ない」って何のことだ?韓国人に「あなたは日本人だ、日本人だ、大丈夫」ということが、「大人げある」の発言なのか?

 

彼女達が私のことをどのような理解の仕方をしているのかわからなくなった。

 

記紀神話研究開始」

 

キャンプから帰って9月の2学期が始まるまで、私は授業計画に没頭した。もう一度古事記を読み、日本書紀を原文で読破した。そこに出てくるあらゆる人名を整理してかきだし、系図を作った。天皇の生前の名前と死後つけられる忌み名を並べてかきこんだ。長い長い系図がB4の紙をたてに10枚ぐらいに及んだ。それを自分から少し離してずいっと眺めたときある面白い大発見をした。

以下はその一部

f:id:naisentaiken:20200912083303j:plain

 

つらつらと自分で書き出した天皇家系図を眺めていたとき、ある世代から突然実名と諡号(しごう)のつけ方に変化があるのに気がついた。諡号とは天皇崩御した後に贈る名前である。

 

漢風諡号と和風諡号があって、一代神武と二六代継體天皇までは、実名が既に和風であるから和風諡号というものがない。わずかにあるのが神武と崇神天皇だけで、前者は「始馭天下天皇」と表記し、後者は「御肇国天皇」と表記して、ともに、「はつくにしらすすめらみこと」と読む。

 

前者の実名は、「かむやまといはれびこひこほほでみのみこと」、後者の実名は、「みまきいりひこいにゑ」。その二人を除いた天皇は和風諡号を持たず、諡号はもっぱら漢風のみ。二七代安閑天皇以後、諡号は和風、漢風両方を諡られている。

 

しかもこの和風諡号は、継體天皇以前の実名に極めてよく似ている。そして実名のほうはちょうど二つの諡号が贈られるようになった世代から、みこと名がなくなって、地名に皇子を加えて呼びなにしている。宣化天皇は「桧隈の高田の皇子」、欽明天皇は「磯城島の皇子」という呼び名となっている。

 

是はどう言うことだ!と私は思った。

 

ひとつの民族が名前のつけ方を代える、しかも万世一系を誇る天皇家がその実名のつけ方を変えるということは、ゆゆしい事態である。現在の天皇家だって、アメリカの統治下にあったときでさえ、実名に「仁」と言う文字を使う伝統は守ってきているではないか。西欧風の名前が現在特に女のこの名前に見られるが、それでさえ、かな文字より漢字の当て字が使われている。民族がその統治者である一族ごと名前のつけ方を変えたということは、異常事態である。

 

民族の名前のつけ方を完全に変えてしまった国々の事を考えた。それはフィリピンとラテンアメリカ。つまり完全に異民族に制覇されてしまった国々。この二つの地域は先祖伝来の姓でさえ消滅して、スペイン風の姓を名乗っている。

 

「これは、王権の簒奪があったな!?」と私の勘が働いた。このあたりを追求してみればもしかしたら、日本と朝鮮の民族の間の複雑な関係がわかって、その複雑な関係を解明すれば、現代にまで持ち越した両民族の関係改善に貢献できるかもしれないし、斎さんの悩みにもう少し接近できるかもしれない。

 

そこで私はこの研究に自分のクラスの生徒全員を巻き込んだ。私はひとつの仮説を持っていたのだ。

 

註:「記紀神話考」は独立して掲載予定

 

「仮説」

 

私はあの学校の教員になる前から、古代史には少なからず興味を持っていて、新しい研究書が出るたびに買って読んでいた。20数巻に及ぶ井上光貞著の日本史は興味のある古代の部分だけは読んでいたし、その記述に疑いを持てば、そのあたりの時代を扱った歴史書を韓国朝鮮の学者のものまで読んでいた。それで私の頭の中にはひとつの仮説が形成されていた。

 

記紀は「改竄されたから歴史書としての価値がない」として、特に正史の学者は研究放棄をしてしまったころ、在野の研究家はかなり自由にこの書物をまな板に載せていた。

 

その中に私が注目したひとつの記述があった。

1)それは、朝鮮半島が戦乱のさなかにあって、「辰」と言う名のひとつの国が滅亡したこと。 

2)それと時を同じくして通称「魏志倭人伝」といわれる中国の史書倭国騒乱の記述があること。 

3)古事記前半にある民族の攻防、神武東征の伝承。 

4)系図の途中にある皇統の断絶と思しき人名の変化。 

5)朝鮮半島への足がかりにこだわる古代日本政府。 

6)これらの記述から考えられるのは日本土着の皇統は断絶したか、

7)または朝鮮半島からの民族移動の中で、朝鮮半島を追われた民族によって簒奪され、多分朝鮮半島への足がかりを失ったときに、土着の皇統の名前をついでその正当性を誇示するために、記紀は編纂されなければならなかったのだろうと言うこと。

8)多分日本土着の皇統を継いだ朝鮮半島からきた簒奪者は、朝鮮半島南部にあったという辰国の本家なのだろうと言うこと。 

9)だからあのようにしつこく朝鮮半島南部の支配にこだわり事あるごとに出兵しようとしたのだろう。任那滅亡によって支配権を断念した簒奪者は、諡号に土着の皇族の名前を冠することによって、支配権の正当性を世に知らしめた。しかし支配者の心の底には絶えず失った故国を奪還したいと言う思いがあったに違いない。 

10)日本と朝鮮との間の複雑な関係は、朝鮮の民族内部の争いなのだ。

 

しかしこれはあくまでも仮定の域を脱してはいなかった。この分野においては、私は高校の古典を教える一介の趣味人であって、これを証明するには知識が足りないと思っていた。

 

高校の教科書に書いてある古事記の抜粋はほんの触りの部分だけである。戦後の皇国史観アレルギーの立場から、古事記は禁書に近い扱いを受けていて、うっかり突っ込んだ授業をすると右翼呼ばわりされかねない。

 

でもそのころは今みたいにインターネットなんかなかったから、ガリ版に毛の生えたぐらいの輪転機で、どんなものを書いたって外部に漏れる心配はなかった。

 

私は教科書に載らない皇室の起こりにかかわるかなりの部分を手書きで生徒たちに紹介した。いわゆる「魏志倭人伝」と呼ばれた倭国にかかわる記事も、論争のにぎやかな邪馬台国、九州、近畿の両方の説も、合わせて紹介したから、当然日本史の分野に踏み込んでいた。

 

社会科の先生が手伝ってくれないかなと思ったが、無理だった。ところがそのとき、一人助け舟が現れた。マリア教仲間の小森先生だった。彼女はもともと国語科の先生だったから、私の研究に興味を示してくれて、昔授業に使ったという彼女の手製の天皇家系図を見せてくれた。ごちゃごちゃして整理のできていない系図だった。

 

それで私は彼女に私の手製の長い長い系図を見せた。それを見て彼女はたまげて笑った。

 

「うひゃあ!系図ってこうやって書くのですか。こりゃあ、学術論文級ですよ!」

 

別に「こうやって」といわれたって、特別なことをしたつもりはなかった。自分として新しいことだと思って書いたのは、誰が誰を殺したかと言うことを矢印を使って図面に書きこんだこと、漢風、和風の諡号を書きこんだことぐらいである。

 

昔母が、自分の実家に巻物にかかれた長い系図があった事、その一族の中に西行が入っていたことなどを得意そうに語っていたことを思い出して、私自身はその系図にお目にかかったことはなかったが、とにかく巻物の要領で続けていけば良いはずだと思って作ったものだった。

 

彼女はそれ以来自分の手持ちの資料を私に提供してくれた。彼女が言った、「これは学術論文級の研究だ」と言う言葉に励まされて、つまり、おだてられた豚として木に登って、国語科の範囲とか高校生の範囲とか、高校教師とか、そういうどうでもいいことに、なんて言うものはお構いなく、研究にのめりこんでいった。