「自伝及び中米内戦体験記」9月17日

  新たな出会い「その年の2学期」

 

「ある生徒の死」

 

その夏私は「シルクロードの旅」から8月24日に帰国した。3週間の旅は実り豊かだったけれど、学校の事をほとんど忘れていた期間でもあったので、気分を日常に戻すのに少し時間がかかった。しかし、29日になってPonからの電話に、「そうだ、自分は教師だったのだ、こうしてはいられないのだ」という思いにさせられた。

 

夏休みの最後の1週間、中学生は九十九里の海に水泳の実習に行っていた。高校の行事ではなかったので、高校所属の教員は一人も行っていなかった。海岸の宿から電話をかけてきたPonの声は、絶望的だった。一人の生徒が海に呑まれて行方不明になって、もう生存可能な時間を過ぎたということだった。

 

しかもその生徒は、彼女が手塩にかけていた生徒だった。家庭が崩壊していたために、小さいときから寮にいた。一般の教員には手に負えないところがあったらしいが、彼女はその生徒の詩の才能を評価して、かわいがってもいたし、生活の上でも一生懸命指導していた。

 

読ませてもらったことがあるが、彼の詩は、確かにある才能のほとばしりを見せていた。彼の生きている世界が、一般の常識人には入ることのできない世界であることも、容易に納得できるような詩を彼は書いていた。

 

彼のそういう世界に入ることのできた唯一の教師が、たぶんPonだった。よく彼女は彼の詩を私にそっと見せてくれた。私にだって指導不可能な人生の深みに彼は生きていた。早熟というか、ある意味で、彼は不気味なほど完成していた。

 

彼の玄という名前だって、彼の生きた世界そのものをあらわしているような名前だった。「玄が海に呑まれた。生存可能な時間を過ぎている。もうだめだ!」と彼女は悲痛に叫んだ。

 

その声を聞いて、私は学校に向かって飛び出した。何をすべきかということを考えていたわけではなかった。学校になんかいったって、何もできるわけではなかった。そのときは、自分でも何かの役に立つかもしれないし、少なくとも帰ってくる教員たちを、厳粛な態度で迎えなければと思っていた。

 

私が学校についたとき、すでに学校には行方不明の生徒の遺体が上がったという知らせがとどいていた。

 

「遺体!」

 

はじめ何の事かわからなかった。呆然とした先生たちが、ただ何もせずに自分の席に固まっていた。いつも影に日向に協力してくれた中野先生が隣にいた。何があったのかを彼に目で聞いた。彼はひそひそ声でつぶやいた。

 

「指導の間違いがあったらしい。」「明らかに危険な土用の海で、しかも午後波が荒くなってから、指導員もつけずに自由行動をさせた。」「帰る間際で最後の日だったから、生徒たちがもう少し遊ぼうというのを軽く許したらしい。」

 

「犠牲者は玄だけか」と私は聞いた。私の前に座っていた教員がそっと言った。「玄が明にしがみついたところを、明が振りほどいたらしいよ。」そんなことがあったのか。明のことが心配になった。「明はどうしている?」「泣いているらしい。」「馳河先生はどうしている。」私には担任のPonのことが気になった。「彼女のことだから、人一倍苦しんでいるだろう。」気の毒そうに中野先生が言った。

 

彼女は最年少の教師で、体育は無関係だったが担任だからついていったにすぎない。行事は体育の教科の中で行われることだったから、すべての指導は体育の先生の元で行われていた。私が指導員の人数確保のため、泳げもしないのにプールの縁に立たされたのと同じ理由で、彼女はついていったのだ。まずいぞと思った。こういう場合、責任の所在を担任に押し付けられることが多い。

 

次の朝は重苦しい雰囲気の中で職員会議があった。Ponの顔を盗み見たが、彼女は真っ青だった。その中で、狸教頭だけがなんだかぷりぷりと怒っていた。冷たい表情をして怒っている彼女の言葉を聞いていて耳を疑った。彼女は亡くなった生徒を非難していた。

 

おまけに、あの生徒のわがままを聞きつづけて指導を怠ったのは担任だといってPonを責めていた。常識と外れた行動を取る玄を担任の彼女は確かにいつもかばっていた。体育科の先生ならぶん殴って従わせるようなことを彼女は決してしなかった。

 

相手は自分よりも絶対的に弱い立場にいることがわかっていて、暴力を振るうのは正しくないと彼女は言っていた。彼女にとって、玄は私にとっての哲人君と同じだったのかもしれない。

 

思ったようにことは運んでいた。学校は責任をとらない方向に事を運んでいくらしい。すべてはひそひそと話し合われ、学校葬が執り行われることになっただけで、保護者に対してどういう話がなされたのか、高校のほうには伝えられなかった。生徒の両親は別かれていて、それぞれ再婚していたから、彼は両親のどちらの家族ともほとんど一緒に暮らさなかった。だから、その両親のどちらからも、責任を問う訴訟などは起こされなかった。しかし携わった先生方がただ密かに苦しんでいた。

 

「もう一人の生徒の死」

 

そうやって内密のうちに彼の存在は表面的には忘れられていった。

 

しかしその年、学校には次々と事件が起きた。やはり中学のあるクラスで、盗難事件が続発した。そのときも、離婚家庭の一人の寮生が事件の当事者として名前が挙がった。今度は女子だった。両親が離婚してこれも再婚しているため、どちらの家庭も彼女を受け入れず、親戚中をたらい回しにされていた。担任は若い体育科の教師だった。

 

こっそりPonが私に嘆いていった言葉によると、問題を起こす生徒に体育科教師がただ殴るけるの暴行を加えるだけで、子供の本当の問題に真剣に向き合おうとしても誰も聞いてくれないということだった。

 

その生徒はお金を盗んだということで問題にされていた。「あの子は」とPonが言った。

 

「あの子はお金がほしいんじゃないんだ。自分を受け入れる場所も人間もいないという環境の中で、自分の存在を確認しようとしているだけなんだ。財布を盗む、人が騒ぐ、そして、人は自分の行為に注目する、そうして彼女は自分の存在を確認している。あれは追い詰められたものの自己確認の行為なんだ。子供はどこかに所属する必要があるんだ。両親と話し合って、あの子の生きてもいい場所を与えて、不安を取り除いてやる以外に、彼女を救う道はないんだ。盗んだという行為を罪とか何とか言って改心を迫ったって仕様がないんだ。殴れば彼女は受け入れるものがない事をもっと決定的に悟るだけなんだ。」

 

この分析は、恐らくPonの自分の人生をかけた経験による分析なのだろう。それを理解できる人間は同じ経験に苦しんだものだけだということを、私は知っていた。彼女は私に深く自分の人生を語ったことがあるわけではなかった。あの、女子と男子の役割がはっきりわかれていた男女差別の激しい時代に、彼女は10 代で部屋が煙で見えなくなるほどの喫煙家になり、学生時代に同棲堕胎を経験し、親に勘当を受け、20代で教師となったその当時、彼女の表情はまるで100年の歳月を生きてきたかのように老成し、誰よりも優れた洞察力を持って生徒を見つめていた。彼女は自分の心の闇を知っているから生徒の心の闇を理解していたのだ。

 

「この生徒を指導する自信はありません」といって、体育家の若い男性の担任は、生徒を退学させる方向に話を運んだ。その直後、離婚して他家に嫁したその子の母親は、娘を道づれに無理心中したのである。

 

高校には小森先生と中野先生と私が、いつも職員会議で討論の中心になって生徒の保護に回っていた。生徒の処分が問題になると、私が机をたたいて校長に迫ったりするから、私をうるさがってみな、決定的な方向に話を持っていったりしなかった。しかし、中学には生徒を守ろうとする教師は、Ponしかいなかったのである。中学の教頭は、創立当時からいる教育のベテランを自認していて、かなり熱心なキリスト教徒だが、それだけに保守的で、強圧的で、独善的で、神の名において処罰するのが好きだった。

 

この事件があったとき、高校の先生たちは内容も経過も結末を知らせられていなかった。高校のほうに事件があると中学の教頭は口を挟んでくるくせに、中学のことは高校に何の相談もなくほとんど秘密裏に済ませてしまったのは、私たちの突っ込みがうるさかったからだというしかない。

 

その学期、中学から、生徒二人の死者を出したのである。暗いニュースで始まったその学期末、ばたばたといろいろなことがおきた。

 

海外の日本人学校の視察のためと称して、O先生がロンドンに日本人学校の校長として飛ばされ、高校の良心としての重鎮であった中野先生もロスアンジェルス日本人学校に飛ばされることになった。

 

残ったのは、無力なイエスマンだけになった。おまけに数学の住職先生は急にどういうわけか退職して、別の学校に乗り換えた。どんなに自分が苦しい問題のさなかにあっても、常に支えとなってくれていた中野先生と、住職先生がこの学校からいなくなると知った私は、心の張りも教育への気力も失って、「どうしよう!」とPonのうちに入り浸り、再び酒浸りになっていった。私には強い意思と教育熱があったが、神経が人一倍弱かったから、支えるものを失ったら、落ちた豆腐のように崩れてしまって先に進む気力を失ったのである。

 

「新しい講師達」

 

2学期に一度に起きたドサクサの中で、いつやってきたのかわからない、新しい講師が学校の中に数人出入りするようになった。事件の中でまったく紹介もされないで入ってきていたのである。講師だからいつも会うわけではない。ドサクサの中で入ってきて、紹介もされず、おまけに何曜日に来るとも知らされていない講師だから、誰もあまりその存在を気に留めなかった。

 

しかしそのうちの一人が、私の後ろに席を占めている小森先生と、時々話している言葉を聞いて、オヤ!と思った。

 

知っている言葉だった。あの懐かしいスペイン語!小森先生がスペイン系の修道院を数軒経てきた人物だったから、彼女がスペイン語の知識を持っていることは知っていた。そして彼女は、この学校がこれから力を入れていくはずの帰国子女教育の責任者として雇われたので、外国人講師の着任も彼女を通してのことだったはずである。

 

学校は、帰国子女が国外で学んできた言語を維持させるため、英語圏、フランス語圏、ドイツ語圏、からの帰国者に対応するために、特別クラスを設けていたが、スペイン語圏からの帰国者のためにまだ講師を雇っていなかった。メキシコとアルゼンチンからの帰国者がいたので、小森先生はそのことを問題にしていた。

 

彼はそのための臨時雇いらしい。顔を見て目礼をしたが、その人物はスペイン人ではなかった。小柄で、色が浅黒い。

 

ラテンアメリカ人だな、と私は思った。眼光が鋭いぞ!と思った。一瞥してから、もう一度その眼光を見直して、何かいうことでもあるのかな?と思わせるような目をしていた。

 

「あれ何者ですか?」と帰り道、私は小森先生に尋ねた。「中米のどこかの国の、国費留学生だけど、メキシコからの生徒のため、理事長が捕まえてきたようです。」「じゃあ、就業ビザじゃないはずだけど、いいのかな。」「うーん、まあ、アルバイトでしょう。」「へえ。理事長さんの発案ですか。」

 

「『馬』の紹介らしいですよ。」と彼女は意味ありげに私を見た。「馬」とは美術の講師である。顔がまったくの馬そのもので、二足歩行しているのが不思議なくらいだった。私はその「馬」とうまが合わなかった。敬遠したほうがよさそうだなという目つきをした私に小森先生が言った。

 

「彼自身はなかなか知性がありそうだけど。言っていること、普通じゃないですよ。多分『馬』の直接の知り合いじゃなくて、『馬』のご主人の知りあいでしょう。彼は日本で多分サークルのようなものが必要だと思うけど、PonやPonの彼氏たちの知的集団を紹介でもしようかと思っています。」

 

「ああ、あの哲学論争集団か。あの集団の知性に対応できるほどの知識人なのか。へえ、」と私は思った。小森先生推薦なら、「馬」抜きで付き合ってやってもいいかなと思った。

 

「マンジットの手紙」

 

私はシルクロードに行くころから母の病気の知らせもあって、あの個人的な不祥事以来、一時アパート暮らしをしていたけれど、実家に戻っていた。母とうまくいってはいなかったが、毎日仕事に出ているので、まあまあ喧嘩もせずにすごしていた。私個人にたいした問題がなかったから、表面平和であった。

 

そこに一通の手紙が舞い込んだ。それはあの長身のインド人、添乗員だったマンジットからの手紙だった。私は正直とてもうれしかった。事務的な手紙ではないから、旅行者全員に出したものではないだろう。覚えていてくれたんだ、と単純に思った。手紙によると、彼は日本にくるという。彼の百貫でぶの叔父が日本に根拠地を持っているという話は聞いていたが、彼がくるという話は聞いていなかったので、また会えるなあと思ってうれしかった。

 

それで私も返事を出した。電話番号を知らせ、日本に来たら知らせてくれるよう、会えるのを楽しみにしていると書いておいた。

 

それからどれくらい経ったか忘れたけれど、あるとき電話がかかってきた。電話の声はちょっと彼とは違うようだった気がしたが、有楽町か何かで会おうといっていたので、ほいほい、と軽く返事をして、約束をした。

 

私は東京に住んで長いとはいえ、実家は東京の郊外で、学生時代は都心の学校に行っていたが、アルバイトに明け暮れていて遊ぶこともなかった関係で東京を知らなかった。その後修道院に入ったし、今の勤め先はもっと西部であったから、都内の言われた場所がはっきりわかったたわけではなかったのだ。

 

なんだか馬鹿にうれしそうに出かけようとする私を、母がとがめていった。「わからない場所に男に誘われたからといっていくもんじゃない」というような意味の言葉だった。例のごとく、母は30を過ぎた私の行動をいつも見張っていて、相手が男となると何がなんでも反対という態度に出た。

 

その時私は真実うれしかったのだし、かなり飛んでいきたい思いだった。

 

「自分に会いたがる人物」に対してほとんど無条件に喜びを感じるほど、私に「会いたがる人物」の存在は貴重だった。私はまだ、「普通を求める自分」から脱皮していなかった。

 

私は「普通」でありたかった。子供のときからの「普通でない」というコンプレックスは、「普通でない使命を持たされた人間」としての、もしかしたら、逃げに過ぎないかもしれなかったが、その挙句の果てに、生きる道を探り当てた。

 

しかし私は、何しろひとつの集団に1%しかいない「自分を受け入れる人物」の顔ぶれを見ていると、やっぱり不安を誘うような面相の人物ばかりだったから、「普通」への憧れはいつも私の心を占めていた。

 

おまけに添乗員なんて言う人は、世界中の無名の人を相手にその場限りで人間関係を終える人種だと思っていた私は、自分を名指しで、個人的な好意を寄せてきたマンジットの気持ちがうれしかった。

 

あの旅はマンジットの存在のおかげで楽しかった。個人で申し込んだからうっかりしたらまったく人との交流のない旅になるかもしれなかった時に、彼はいつも私のそばにいた。だから心に思い出として一番にとめていた人物だったのだ。

 

恋文を待っていたわけではなかったし、恋文をよこしたわけではなかった。私がうれしかったのは、とにかく自分のような「普通ではない」人物のほうを「見る」人がいた、それも一時的なことだと思っていたのに、そうではなかったという単純な喜びだったのだ。

 

自分が旅行の間中かぶっていた白いつば広のカウボーイハットの裏側に、彼はお別れに日、サインを残していった。手紙を受け取って、私はそのサインをじっと見た。

 

会ったからとて、何かを期待するつもりはなかったけれど、なつかしかった。私は仕事が終わってからいそいそと有楽町に向けて電車に乗った。電車を下りて、彼の指定した場所を探した。レストランのはずだったが、それはホテルのレストランだった。

 

そこに私は二人のインド人を発見した。それはイランに居を構えていて、私たちを食事に招待した、マンジットの叔父、ランジットと、その従者だった。おかしいなと思い、私はきょろきょろと目で、マンジットを探した。

 

近づこうとしない私のところにランジットはよって来た。彼は立て横同じぐらいの巨大なボールみたいな姿をしている、私が「百貫でぶ」とこっそり呼んでいた男である。目を細め、満面に笑みをたたえて、私の体に手を触れようとした。

 

私はこの男をはじめから信用していなかった。言葉が通じようが通じなかろうが、私には相手が信用できる人物か否かを即座に感じ取る感性を持っていた。彼の満面に浮かんだ笑みの中に怪しい炎を感じ取った私は、彼をよけて尋ねた。

 

「マンジットはどこですか?」「上にいるよ」と彼は言った。そして彼は先に立って案内し始めたので、ついていった。勧められたエレヴェーターを避けて、階段をのぼった。

 

マンジットはどこにもいなかった。彼が自分の個室らしいホテルの一室に私を押し込もうとしたとき、「図られた!」と悟った私は、彼を振り切って、逃げ出した。一目散に、後も見ずに疾走して今降りた駅に駆け込み、電車に飛び乗った。後ろのほうで、何か叫んでいるランジットの声がしたが、振り向かなかった。あんな生き物に興味ないよ!ばっきゃろう!とは言わなかった。

 

突然、脱兎のごとく走ったために血の気が引いていき、顔が蒼白になっているらしいのを感じた。電車の席が空いていた。崩れ落ちるように座り込んだ。学校を5時に出たから、有楽町まで1時間半と見ても、まだ7時ぐらいの時間だった。私は家に帰らずPonを呼び出して、飲み屋の暖簾をくぐった。

 

Ponになにも言わなかった。Ponも何も言わなかった。彼女は自分の体験から、あいてが言わないことは聞かない、問われもしないことは言わないという、思いやりをいつも持っていた。私もそうやって彼女と付き合っていた。二人の間に自然にできた鉄則だった。

 

ぽわ~~~っと彼女は白い煙を吐いていた。煙に巻かれながら自分もふと煙草を吸ってみようかなと思った。「やめたほうがいいよ」と彼女は言ったけれども、私はちょっと煙草に火をつけて、すうっと煙を吸い込んだ。煙は私の体をめぐり、脳を刺激し、恐ろしい麻薬のような快感を伴い、目の前がぐるぐると回って、私はその場で倒れた。グニャグニャとした感覚の中に途方もないエクスタシーとまさに抗っている記憶のみが残った。それが私の最初で最後のタバコ体験だった。あのエクスタシーは、悪魔のものだ、と私はあの時思っていた。

 

私はその晩Ponのアパートに泊まった。体が痙攣し、下痢が止まらなかった。鏡をのぞいたら顔は青白くむくみ、怪談に出てくる幽霊のようだった。口紅をつけたらまさに吸血鬼だ!と私は自分をあざ笑った。