「自伝及び中米内戦体験記」9月21

 

「1977年正月」 「イロパンゴ湖のほとり」

 

私は私の人生の一番最低な日々を、見知らぬ初対面の人々に見せなければならない苦痛を、もう耐えることができなかった。時はそろそろクリスマスで、正月がやってくる。私は正月に特別な思いを抱く文化の中で育った日本人だ。みんながお祭り気分のとき、情けない思いを抱えて、演技をすることなどできないと思った。

 

それで、私はエノクに頼んだ。私はダリオに心から感謝しているけど、誰にとっても楽しい気分でいるときに、私がいるために騒動を起こすのは忍びないから、この時期一人にしてくれないか。どこかのホテルに静かにしていたいのだけど、一人で何もすることがないから、ノートと鉛筆と画帳を買って来てほしい。それさえあれば私はある期間生きていられる人間だから。

 

彼はその気持ちがわかったと見えて、この国の有数の景勝地であるイロパンゴ湖のほとりに立つヴィスタラゴというホテルに私を連れていってくれることになった。ほんの少しの身の回りのものと、買ってもらった筆記用具とをもって、私はエノクが運転するダリオの車で、例のごとく方向がまるでわからなかったけれど、うねうねとした田舎道をとおって、この国に来て初めての観光地にやってきた。

 

観光地といっても、日本と違って、当時ほとんど人が利用していない。しかもそのホテルの周りに店も民家も何も見当たらなかった。一人になりたい私にとって、実におあつらえ向きなホテルだった。

 

部屋には温かい水の出るシャワーが付いている。ダリオのうちには湯舟がなかったから、湯舟に入りたかったが、ホテルにも湯船はなかった。そして、ついに8年間この国で湯舟に入ることは一度もなかった。この国は日本みたいに水が有り余っている国ではない。シャワーが使えるということが、贅沢であることは、そのうちわかってくるのだが、そのときはアメリカ経由で日本から来たばかりで、「高級ホテル」にシャワーしかないのがちょっと理解できなかった。

 

景色は申し分なく美しかった。イロパンゴ湖のほとりにそびえたつ山は、サンヴィセンテというそうだ。姿は富士山に似ている。でも、湖の名前が現地語らしいのに、山の名前がスペイン語なのがちょっと気に入らなかった。

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ホテルの窓から見えるイロパンゴ

 

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この写真は何年後か家族といった時のイロパンゴ

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ホテルヴィスタラゴ;これも孫が生まれてから家族といったとき

 

母が自分の子供のころ、「ヌタクカムシュぺ」と呼んでいたアイヌの山を、「大雪山」などという浅はかな名前にしたといって怒っていたのを思い出した。だから我が家では大雪山を「ヌタクカムシュぺ」と呼んでいた。「神の住む山」という意味だそうだが本当かどうかは調べていない。だとしたら、本当に、大雪山より趣がありますよね。イロパンゴにはどういう意味があるのだろう。ここにきてはじめて私の癖が顔を出した。心にはじめて沸いた余裕であった。

 

私は心行くまでこの目の前に広がる絶景を楽しんだ。大晦日だった。大晦日に私はいつもバッハを聞くのを慣わしとしていたな、と思った。そして正月二日はいつもあの奥高尾を歩いた。いてつく道をカッカッと音をさせて歩いた。草の根にしがみついてよじ登った戸倉三山。年末はいつも孤独だった。そして今、私は喧騒よりもやっぱり孤独を選んでしまった。異国の初めての年末だった。

 

一人で、私は贅沢なお昼を注文した。この国は生牡蠣がすごくうまい。一皿注文すると1ダースの牡蠣が殻ごときて、目の前で殻から取り出してくれる。生きているのがびくびく動く。牡蠣の気持ちにはなってみたことがない。ビールを注文したらコップがこない。ラッパのみするのが習慣かな?

 

私はスーツケースに入れてきた、アフガニスタンの古物商で買った銀の器を取り出して、一人ビールを注いだ。私はこの古い器が気に入っていたから、事故でなくならないように、手荷物に入れてきた。アフガニスタンの古典的ごみとエルサルバドルの雑菌が入ったビールを飲む。

 

ラ・パロマが聞こえてくる。満足な気分で、鏡にわが身を写してみた。来たよ、手負い虎よ、とうとうこの国に来たよ。だけどおまえはいつも孤独だなあ。久しぶりにいつもの鏡に向かって対話する自分に戻った。鏡の中の私はやっぱり三好先生だった。(手負い虎=私が自称するネット上の名前)

 

メニューに「テンプラ」というのがある。日本のてんぷらと同じかなと思って、これも注文した。李白の詩をふと口ずさんだ。その日の私はいつもの変わらぬ私だった。サラダが出てくる。見知らぬ野菜が入っている。後で散々食べるのだけれど、チピリンとかいう野菜のスープも初めての味わい。

 

「てんぷら」はまったく正真正銘の「てんぷら」だった。5匹のえび。ジャガイモ、にんじん、たまねぎ。スペインを旅行した時、マラガで食べたのも天ぷらだったな。スペイン語圏ではてんぷらは当たり前らしい。でも、日本と変わらぬものは面白くない。エノクに散々飲んではいけないといわれた水道の水で割ったウイスキー。実は昨日も飲んだけれど、体に異常はなかった。

 

朝、きらきらと金色の霧に包まれて見えなかった山々が午後2時近くなって見え始めた。感嘆して眺め、描こうと思った絵がかけない。美しい松島の景色を見て、ああ、松島や、ああ松島や、としかいえなかった芭蕉の心を理解する。

 

芭蕉李白が出てくるところがやっぱり私は国語の先生である。

 

「1977年元旦」

 

新年おめでとう!と私は一人で言いながら起きた。昨日サルバドル富士と私が命名したサンヴィセンテのご来光を拝もうと、早く起きた。こういう神経を私は8年間失わなかった。

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サンサルバドル富士に紫のかすみがたなびき、新年の太陽がおだやかに昇る。赤い腹の背の黒い美しい鳥が囀っている。ピンクのフエゴという木の花が咲いている。孤独だったが、私は新年の挨拶をする相手がいるだろうと思って化粧をし、母が買ってくれた着物をそっと着てみた。腰掛けて静かに小鳥の声を聞く。ああ、新年だ、自然の中で新年を迎えるのはなんて素敵なことだろう。静寂の中で私は満足だった。それほど私は「静寂」が好きだった。

 

実はまったく予期しない事態が起きていた。この国の「休日」という観念を私はまったく予想していなかった。起きていくら耳を済ませても、聞こえるのは自然の中の小鳥の歌声のみである。人の気配がない。

 

どうしたんだろう。。。。実は、このホテルの中には私以外の人間が一人もいなかったのである。お客がいるのにお客をほおって置いて従業員もいなくなるのが、この国の休日だったのだ。

 

しかも、エノクは自分の国でホテルに泊まったことなんか一度もないから、このことを知らなかったのだ。ダリオのうちには電話がない。慌ててエノクの両親の家の電話を探したが、ホテルの電話が使えなかった。一日食事ができないという事態になった。昨日の残りは何もない。従業員が引き上げる前に全部下げてしまった。

 

仕方がない。これも自分が決めた道の結果のひとつとあきらめて、六根清浄 修行するか。私は気まぐれに着た着物の帯をぐいときつく締めた。あまり後悔はしなかった。だいたい日本の裏側のエルサルバドルで、「六根清浄」なんて言う言葉が出てくるのは異常ですがね。

 

ダリオのうちで、みっともない思いで、無様な姿をさらけ出して祭りの中で泣いているより、この山の中で修行しているほうがよほど自分らしくていい。日本にいても年末年始は山の中で、、食べていたのは、たかが、こわばった握り飯じゃないか。自分はあの時以来、修験者なんだ。そう思って私は久しぶりにその日一日そこに座って黙想のときをすごした。

 

正月二日。昨日より早く起きた。窓をあけたら霧がほとんどなくて、湖面が白く輝いている。今日の日の出は美しいぞと思って急いで浴衣を着た。この浴衣、エノクが日本に来た時、浴衣がほしいというので、私とおそろいで、作ったものだ。男性に浴衣を着せたこともないので、帯をどうするか知らないけれど、いつか一緒に着ようと思って持ってきた。

 

浴衣なんか小学校の家庭の時間に作ったきり、まったく作ったことがなかった。でも一度手が覚えたものって、何年経っても通用するものだ。本を見ながら作った。この浴衣の作り方のみならず、昔の日本の義務教育はまじめに受けてさえいたら、それだけでどんな事態が起きても生きていけるようにできている高度で優秀な教育だったと、その後内戦を生き抜いた後思った。

 

眺めていると、山の肩が金色になって、太陽がしずしずと昇りだし、山の肩で隠れて三日月型になっていた太陽がだんだん丸くなっていく。それが山をすっかり離れて黄金の姿をあらわした。そのとたん、山も雲も太陽の輝きに圧倒されて目に見えなくなった。

 

おおおおお!これはすごい!拝みたいような日の出である。あれは神様だと思った古代人の気持ちがよくわかる。太陽の方角を見ていると目がくらむので、方向を変えてみたら、湖畔の葦がゆれていた。

 

いいなあと思って日記帳に鉛筆でスケッチをした。頼んだ画帳は見つからなかったらしくエノクは持ってきてくれなかった。いつか自分で探してこよう。結婚したら絵の教室に入れてくれるとエノクがいったので、中学生以来描いていなかった絵でも始めようかという気になっていた。

 

実は学校の教室の机の悪戯書きでも画歴に入れてよければ、絵を描くことを欠かしたことはないのだけれど、教室に入って絵を学んだことはなかったから、ちょっと楽しみだった。彼が日本にきて、小森先生のうちで飲んでいたとき、私が彼の肖像画を描いた。彼はそれを見て、私に絵を習わせようと思いついたらしい。

 

私が一人でイロパンゴ湖のほとりで修行している間、エノクはダリオと二人で、エルサルバドル第2の都市であるサンタアナという都市で家を探していた。二人が落ち着く場所として、サンサルバドルに住めば、必ずリタとの摩擦が起きる危険を感じたのだろう。

 

「サンタアナの下宿生活」

 

1月4日、私は湖の修行を終了して、サンタアナの下宿屋のようなところに落ち着いた。マルタという寡婦が経営している、数部屋の宿である。マルタには一人の息子と二人の娘がいて、長女はサンサルバドルで勤めており、後の二人は高校生だった。

家は非常に大きく、スペイン式のパテイオが三つもある。部屋数が六つで、それに応接間、食堂、台所、洗濯場、女中部屋とあるから、それらをつないでいる空間が非常に広い。

 

みんな家族みたいにしている。子供たち以外に女子大生みたいなのが二人、それに身分不明の男性がいて、女中と私たちを入れれば、総勢10人がここに住む。私はその「家族みたい」というのが弱いのだが、この際仕方ないから「それみたい」にしている。みんな無邪気で楽しい生活がはじまった。特に次女のシルヴィアの恋人は日本人だったから、彼らは日本人に親しみを持っていた。

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サンタアナの下宿で着たおそろいの浴衣。

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これは下宿人仲間のマリイサベルと

 

「なるようになるまで」

 

リタだって狼じゃない・・・

 

サンタアナに引っ越してきたとき、エノクは心労のせいで、死んだように眠っていた。日本から戻って以来、細いソファで着替えもせず寝ていたのだという。それまでしてなんでまたリタの言うなりになるのかと聞いてみた。

 

彼が言う。

 

彼女は最後の手段として、子供に薬を飲ませたりして、心中するぞ、心中するぞと脅迫をした。挙句の果ては彼の勤める大学に押しかけて、彼の講義中の部屋に病気の子供を置いていったり、会議中の部屋に乗り込んで、子供を押し付けていったりしたので、自分は学部長としての役職がまっとうできなくなった。

 

それでとうとう役職辞退しなければなり、とにかく大学に講義中に来て、教室に子供を置いていくのだけは止めさせようと思って、彼女の居る家にいて言うとおりしていた、ということだった。

 

そうか、彼女はとうとうエノクを滅ぼそうとしているのか。エノクのいうことが本当なら、彼女ははじめから一人相撲じゃないか。

 

自分を受け入れない相手を何とかして自分のほうを向けさせようとするあまりのエスカレートだったのだろう。あらゆることをやってみた。ピストルも振り回したし、子供を殺すぞと演技もしてみた。職場の生活まで不能にしようと試みた。それでもやっぱりいうことを聞かなかった。精も根も尽き果てて二人とも共倒れするまで、彼女の闘争は終わらないだろう。

 

彼女はエノクが結婚しない限り、一生涯、そんなことをやっているのだろう。エスカレートすればするほど、人の心は離れるということを外側から教えてあげられる人がいないんだろうか。策を弄したり脅迫したりする前に、するべきことがあっただろうに。

 

私は恋を成就させるにはどうしていいかわからなくて、いちいち11歳も若いPonに意見を聞いていた自分を思い返していた。リタにだって、始めに優しい愛情があったのだろう。いっしょにいなければいてもたってもいられないような恋の発動があったのだろう。それが今、滅びに向かって突き進んでいる。

 

だからあんなにエノクの両親が私を歓迎したのだな。ダリオの家にいたときお母さんがきてエルサルバドルの料理を作ってくれたが、そのとき彼女はもう、なんとも憎憎しげに言っていた。

 

「La Ritaにはこれっぽっちも権利なんかないんだ。(人名に冠詞をつけるのは、人間扱いしていない証拠)あの女はただ私の息子を食い物にして支配しようとしているだけなんだ。それにあの女には別の男だっている。その男からも財産を巻き上げる気だ。男という男の財産巻き上げるために、子供を生むんだ。愛情があって、生むんじゃないんだ。今まで家族中を巻き込んで困らせることばかりやってきてたんだ!」

 

どの母親も自分の息子に不幸をもたらす女性についてはこういう態度で語るかもしれない。私の母も疑心暗鬼で苦しんでいることだろう。今関わったすべての人間が傷ついている。当のリタの心はずたずただろう。図らずもこんなただの生理的問題に精神の高潔を気取っていた私がかかわってしまったのだ。私は加害者になってしまった自分をじっと見つめながら、それでも加害者であることを辞めようとはしなかった。

 

いずれにしてもこういう生活に終止符を打つことは、誰のためにもいいことだ。それしかないということは仕方がないことなんだ。ただじっとしているだけで加害者になってしまった自分を、この弱い弱い加害者を、案外いとおしみながら、私はうなだれて自分を許していた。

 

それはそうと、子供って彼女にとってなんだったのだろう。私はその母親が最大限に子供を利用し、もう利用価値がなくなったときにどうなるんだろうと心配した。エノクに「引き取る気があるんなら協力するよ」といったら、「母親はともかくとして、子供のほうが母親にしがみついていて離れない。不安なんだろう。あんなにしがみついているものを僕は引き離すことなんかできないよ。」と言っていた。

 

私はそのとき静かに、勤めていた学園の、行き場を失って無理心中した中学生の親子のことを思い起こしていた。

 

「とりあえず仕事を持ちたかった」

 

エノクはサンタアナで私と下宿住まいをするようになってからも、仕事先の大学は首都にあったから毎日首都に行っていたし、時には帰らないこともあった。

 

日本からの荷物はなかなか到着せず、下宿先では食事も女中が作っていたからひまを持て余し、首都にある日本領事館に求職の手紙を出した。確か日本人学校があるはずだと思ったから、あらかじめ用意してきた卒業証書、修士号の学位記、中高一級の教員免許証等の写しと手書きの履歴書を同封し、教師としてでなくとも、大使館そのものに採用してもらえたらありがたいし、できるなら日本人社会を紹介してほしい旨書き送った。

 

このことはエノクにはいわなかった。リタという人はとにかく自暴自棄になっているから、私が首都に出たら危険だというのである。しかしサンタアナにはまだそんなに言葉が流暢でもない外国人の私にできる仕事などないのである。彼がまだリタの闘争相手をしているのなら、私だって仕事を持って生きる道を模索しなければならないし、いざというときのことを考えたって、日本人社会を知っておくことはいいことだと判断した。

 

私みたいな人間が、いつまでもただ生理的人間として生活していられるわけがない。何とか自分らしさを取り戻して生きるには、仕事を持つことだと思った。リタの国でもあるまいし、首都はどこを歩いても、リタに満ちているわけではあるまい。弱々しく受身だった私も、そろそろいつもの自分が鎌首をもたげ始めていた。

 

その返事がきて3月の日本人補修校の卒業式に私は招待を受けた後、4月から土曜だけではあったが、まったく久しぶりに教壇と言うところに立ち、生徒を持って授業することができるようになった。

 

相手は小学生だったが、こちらは18のときから、小中高校生、短大の学生にいたるまで、求められる教科を片っ端から教えていた超ベテランだった。だから、何とか国中から、子供を教えられそうな父兄を集めてプロの教員なしでやっていた日本人補修校では、資格を持った私は案外歓迎を受けたのである。

 

正式な結婚に至る道はまだまだ遠く、二人とも国際結婚というものに何が必要かと言うことを知らなかったから、膨大な書類を日本から取り寄せなければならず、一朝一夕で結婚なんか成立しなかった。私は役所が出した書類に関しては、出身市町村の転出届と戸籍謄本とパスポートしか持っていなかった。

 

一番難航したのが、警視庁から出されるはずの「無犯罪証明」なるものだった。反対している家族がそんなものをとってくれるはずがない。Ponに頼んでとってきてもらうことにしたのだが、最終的にそれは不可能なことだった。「無犯罪証明」なるものを要求している国外にある日本人が、当該本人に該当するかを証明するものがなかったからである。

 

なにしろ、すごいことを言うのである。大使館の証明をもらっても、その証明を証明するもの必要で、証明の証明をもらっても、その証明に本人が該当するかを証明することはできないというのだ。まるで、地球の下には亀がいて、亀の下には亀がいて、その下にも亀がいて、そのまた下にも亀がいて、という物語を繰り返しているようなばかばかしさだった。

 

そのやり取りに疲れ果て、どうしようと思案に暮れていた。

 

それを成立させたのが、エノクの姉の夫である弁護士だった。彼は法律の抜け道をウルトラCでかいくぐって、「無犯罪証明」なるものなしで、国際結婚を法規に反せず成立させるある地方の自治体を見つけたのである。

 

その自治体の役所まで、野超え山超え谷超えて、おんぼろ車に埃まみれでたどり着き、とりあえず証人としてかき集めた、たまたまその役所で庭の芝を刈っていた二人のじいさん以外には、出席者の誰もいない冗談みたいな結婚式をあげたのは、その年の5月19日であった。

 

二人のパスポートに結婚を証明する文が手書きで書き込まれ、それ以外に結婚証明書という2ページにわたる、まるで物語みたいな書類をもらって、役所を出たとき、二人は顔を見合わせて、わっはっはあと笑い転げた。

 

二人とももっとロマンテイックな結婚式を考えていたのだが、こんなふざけた、しかしいかにも破れかぶれの二人らしい結婚式で、「正式な」夫婦になっちゃったのが、笑いを誘ったのである。

 

「悲しくて後はおかしき浮世かな」

 

ワッハッハア ワッハッハア!!!