「自伝及び中米内戦体験記」9月22日

「そして8年の歳月が経過した」

「母の母として」1  

 

極めて非常識な半生を生き、極めて非常識な結婚生活を始め、そして非常識が常態となった8年が経過した。何か自分の意思に反した異常が起きるたび、私はそれを、自分の心に呼びかける神の意思と勝手に理解した。

 

そのことが客観的事実ではないとしても、たとえ科学やその他の「理解可能な」あり方に反していようとも、そうでも考えなければ、私は自分の意思に反した異常性を受け入れることができなかった。

 

人はそれでも、それは「お前が選んだ道だ」と、言うだろうことを知っている。しかし、私がある家庭に生まれ、ストレスに満ちた家庭生活を送り、その後の「異常な」人生選択を迫られて行動したという全ての事実の「原因」は、私が選んだことではなかった。人間にはどの人種のどの家庭に生まれるか、「選ぶ自由」などない。

 

だから私は結婚生活8年後、無理やり日本に引き戻される飛行機の中で、若いとき、やはり異常性の中で出会ったマドレの言葉を生きようと思った。私がもと出た岸辺に引き戻されるのは、マドレのあの不思議な言葉の成就のためだと、私はふたたび、受け入れた。それはまさに、若いとき、受けたつもりのあの霊感の成就のためであった。

 

私はあの飛行機の中で、自分にはいかにも理不尽に思われる人生の意味を、一所懸命考えた。そのときひらめいたのが、23歳のときに出会い、25歳で別れた、あの「マドレ」の言葉だった。

 

「私があなたのお母さんになる。貴女は貴女のお母さんのお母さんになりなさい。」

 

あの不思議な言葉の意味を、私は長い間量りかねていた。しかしあの言葉を自分に課せられた人生の宿題のように、私は決して忘れなかった。

 

ちょっとやそっとの「親孝行」でごまかすことのできそうにない深い意味を、私はあの言葉に感じていた。とりあえず私はできる限りの世間的「親孝行」をした。しかし母はどんな種類の親孝行も、そう単純には受け入れる人間ではなかった。何をしてもやりがいがなく、何をしても喜ばれなかった。

 

エルサルバドルからも、私は母に何度も何度も手紙を書き、気に入ってくれそうな「もの」を送り、母を気遣っていたが、それは「もの」である限り、母はそれに答えなかった。

 

それどころか、難民となって、エルサルバドルをあとにする決意をして、かの村瀬先生と連絡を取ったときに、日本の家族は全員で立ち上がって、日本に来るなといってきた。私自身にどんな咎があろうとも、日本の家族の示したあの反応はショックだった。私は夫に悟られないところで、むせび泣いた。

 

だから、できることなら、私はエルサルバドルから戻りたくなかった。しかし、避けられない運命が、私をとうとう昔船出した岸に押し戻した。

 

私は観念した。観念すると同時に、自分はこの運命を何とか肯定的に捕らえなければならなかった。「これには意味がある、」と私は思わざるを得なかった。遣り残したマドレの宿題を、今成就するべく期待されている、と私は信じた。これは理屈でも理論でもなく、「信仰」だった。

 

私はマドレがあの時、苦しむ私をただ助けたのではなくて、私の心に「愛の種」を植え付けた。マドレが私の心に咲かせた「花」、あれは私だけが自分の心の静謐に、しまいこんでおくようなものではなかった。

 

「母の母になる。」私は自分に言い聞かせた。「そのために自分はこの国に呼び戻されたのだ。」

 

「母の母として」2

「母の苦悩」

 

母に再会してから、私たちは松戸の社宅に移った。実を言えば、わざわざ母の近くを避けて松戸を選んだとはいえ、気になって、毎日毎日母に電話をした。日本には4人兄がいるのだけれど、誰も同居していなかった。母はもう83歳になっていた。母が多分一人暮らしを選んだのだろう。何時行っても家の中はきちんと片付いていたし、趣味の庭も手入れされていた。母はその年で自分の身の回りのことをすべて自分でこなしていた。洋裁をして私たちを育てた、あの手回しの、満州撫順の店で購入した、昭和4年の保証書の付いたシンガーミシンは、昭和59年の当時もまだ健在で、母は自分のものを縫っていた。

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数日続けてご機嫌伺いに電話をかけていたら、母が言った。

 

「有難う。毎日誰でもいいから子供達のうち誰かが一言でいいから電話して欲しかった。たくさんいるのに誰もそういうことをしてくれる人がいなかった。」

 

え!?そんな母の言葉をまったく期待していなかった。4人の兄とその家族は一体どうしていたんだろう。母の性格を思い、多分何が原因なのか想像はつくものの、80を超えた一人暮らしの母にたまさかの電話もかけないのか。

 

しかし私も母の弱音を聴いたことがない人間だった。生まれてから35歳まで、私にとって母は恐怖の対象だった。中学時代の反抗期に抵抗を試みたが、無理だった。私が次兄に必死の抵抗を試みたとき、母は私の首根っこを押さえつけて土下座させて謝らせた。あの屈辱感は身に応えた。勝てない相手だと思っていた。鬼のように怖かった。いつもいつもおびえていた。

 

異国の男との結婚を決定して母を振り切ったのが、成功した最初の抵抗だった。あの時初めて、私のすそにすがって「一人にしないで」と哀願する母を見た。しかし何が何でもと結婚を決意したあの時の自分の情念の激しさに、母を弱い人間として見るゆとりがなかった。

 

その後、残してきた母はいかにと気にしながら、8年の年月国外にあって、姉を通して伝えられる母の便りの厳しさに、やはり私は泣いていた。泣く私を見て、傍らにいたエノクが、「なぜ昔の家族にこだわるんだ。お前の家族は俺じゃないか。家族は俺だけで十分じゃないか。」と言い続けた。「過ぎたことを考えるな、ここにお前の家庭はあるんだ」、と。

 

「寂しがる」弱い母を知らなかった。兄達は家族を連れて敬老の日、クリスマス、誕生日、父の命日に集まることは忘れなかったらしいことは写真などを見て分かったが、多分一人になった母に必要だったのは、そういう儀礼的なイベント訪問ではなくて、「毎日気にかけていますよ」、という息子達の気遣いだったのだろう。

 

そうか、毎日の電話が欲しかったのか。そういう言葉を真っ直ぐに初めから聞けたら、私は何もこんなに母を恐れて、わざわざ実家から2時間もかけなければ行くこともできない松戸に逃げ込むこともなかったのだ。

 

私の母に対する恐怖は本物だった。初対面で挨拶するエノクの握手も拒んで、「貴方と私は関係ありません」といってそっぽを向き、初めから母はエノクを受け入れなかった。近くに住んだら家族崩壊につながるような事態になる。本気で私はそう考えて、エノクの会社があらかじめ社宅の地域の希望を聞いたとき、あえて、遠いほうを選んだのだ。

 

かつて同じ敷地に隣りあわせで住んだ次兄の家族がそうであったように、母が息子たちの家族に介入して破壊することになるだろうと、私は本気になって怖れた。兄は結婚し3人の子供を儲けた後、別居し、離婚した。子供3人はばらばらに施設で育った。兄には兄自身にも嫁さんにも問題があったとはいえ、兄がもう少し母から独立し、自分の地所にこだわらず、義父が買ってくれた家に住んでいれば、一家があんな形で離散することはなかったであろうと、私は心で思っていた。

 

だから他の兄達が母と同居しないのは、多分同居できない理由があるのだろうとは想像できた。しかし、「気にかけていますよ」という一言を、誰もかけられなかったのだろうかと、8年国外にいた私は胸のうちで無責任に、兄たちを批判した。

 

あの赤貧洗うがごとき戦後を、夫に先立たれて、学歴も資格もない女の身で、鬼になって乗り切った母を思った。旧制高校を出て、専門学校で建築を修めた次兄を除く5人の子供達全員に大学卒業の学歴を与え、死に物狂いで働いて、苦境を生き抜いた、すでに80を越した母の孤独を、思いやる人が誰もいないほど、母は家族の前では強さを前面に押し出していたのだ。その母の、私の電話に対する「有難う」という深い声が、私の心を揺さぶった。期待していなかった、思いかけない母の、正直な言葉だった。

 

「母の母として」3

 

電話で聞く母の声から、母はすでに自分が想像していたような強い母でなく、何かしゃにむに人にすがるような雰囲気を感じた。

 

時々行ってみるか。。。と私は思った。

 

当時私はまだ、3つの国を経由しての逃避行から来る精神的なストレスから完全に立ち直ったわけではなくて、いつもいつも体に問題を抱えていた。週末に2時間かけて娘を連れて母の家に到着すると、疲労のあまり私はそのまま長いすに横たわって、ほとんど、ぐったり動かなかった。

 

母は家族が多かったときの昔使っていた鮨用の渋茶がかった樽に、散らし寿司をたくさんこしらえて待っていた。私が母を介護するために訪問したのに、長いすに延びて動かない私を見て、「相変わらず弱いのね」といいながら、母が私を介抱していた。母の其の手は、遠い昔私が小学生だったころ、現実の厳しさに耐えられずに、ほとんど病気に逃げ込んだ私に見せたことのある、優しい手だった。割れそうな痛みで頭を抱えてうずくまる私にマッサージをしてくれた、あの手だった。

 

その母の手首に、私がスペイン旅行から持ち帰った、マドレのプレゼントの金のブレスが、胸には金のメダイが光っているのを確認した。あの金のメダイはマドレのプレゼントで、母の名前も刻んであった。ブレスは、スペイン旅行の帰国後、修道院に入ることを決めた私が持っていたキャノンのカメラを、ある宝石商の娘の要求に応じて売って得たお金で買った物だった。あの旅行の間、マドレは「親孝行の仕方」を教えてくれたのだと私は思っていた。

 

其の二つの品物を母は20年の間肌身離さず、身につけていた。金属の「金」だからではない。マドレの心の「金」を彼女は大事にしていたのだろう、物を言わない母の胸のうちを思いやった。

 

私がスペイン旅行に行ったのは、マドレに会いたかったからで、そのためにあの当時、独立資金としてためていた預金をすべて使い、2週間ばかりぶっ続けで、昼夜をいとわずスペイン語の本を1冊翻訳して旅費を作ったのだ。スペインの地方の修道院に左遷されていたマドレが、私のために課外授業の英語のクラスを用意して子供たちを集めて、待っていてくれた。1年間、私はマドレのそばで、子供達に英語を教えて暮らした。その間、マドレは何時も何時も、母のために、どこからともなく、いろいろなものを集めてきては、私の名前で母にプレゼントを送らせたのだ。

 

それから二人はぶらぶらと街を歩いた。宝石屋があったので、母にマドレが贈ろうと考えている金のブレスの値段を調べようと、入ったとき、店の主人の娘が、私の持っているカメラを見ていった。「それ日本のものですか?」そうだ、と答えたら、見せてくれという。マドレの商談で、高額でカメラを売ることに成功し、それで、母のために18金の素敵なブレスを買ったのである。

 

戦後の貧乏時代、自分の装身具なんか夢にも見ずに生きていた母は、このマドレの二つのプレゼントに感動し、あれから、寝るときも風呂に入るときも、まったくはずすことなく、身に着けていたらしい。其のことを私は母の死後初めて、義理の姉から聞いた。

 

母の腕と胸に光るブレスとメダイを見て、もしかしたら、と私は思った。

 

あのマドレが私にとって、第二の母であったように、母に取っても、マドレは心の母だったのかもしれない。

 

体力的に日帰りがつらいので、一晩とまって帰るのだけど、母は、最初で最後の国際電話のときに、そこしかお前が泊まる場所はないといった、かの有名な「物置」のことは何も言わず、昔「ホール」と呼んでいた12畳敷きの部屋に、私と娘の布団を敷いてくれた。

 

母のアパートは健在で、満室だったから、泊まるならここしかなかった。昔兄弟6人が雑魚寝していた8畳間は、母がベッドをいれて寝室にしていた。

 

ベッドから斜め前方の天井近くに大方4人の兄のうちの誰かが設置したのだろう、テレビが据えられていて、寝ながらテレビが見られるようになっていた。部屋を眺めてみると、母が暮らしやすいようにそこここに工夫がされているのがわかった。

 

あの家庭の中心だった祭壇は、家のちょうど真中の壁をアーチ型にくりぬいた空間に、重々しく薄暗くしっかりと存在していた。西洋の教会堂の形をしたクリーム色のケースに収まった十字架像も、周りに置かれた聖母像も、私がスペインのアントニオから、コロンブスの時代から家に伝わるという銀の蜀台や「天国に行った」家族の写真も元のままの元の位置に置かれていた。銀の蜀台は、とりわけぴかぴかに磨かれていた。さらにアーチ型の祭壇の周りの壁には、父が描いた祖母の肖像画となくなった姉の肖像画がかかっていた。他の聖画の位置は昔私が配置したままになっていた。あの部分だけ全く昔と変わらなかった。

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家の中心にあった祭壇の前で

 

母は植物が好きで、家の中も外もいつも緑に覆われていた。庭などにある榎や欅や大銀杏は武蔵野市の保護指定を受けるほど立派な物で、従って、木を切らなかったら、庭は森の如くうっそうとしていた。よそから見るとその一角は手入れのしていない森に見えたが、母は自分の好みに合わせて、よく手入れしていた。野生のスミレの群生する場所とか、シャガの群生する場所とかがあって、うっかり歩けない聖域なのである。母と兄が作った不恰好な池には母の好みの魚がいて、鯉も何匹か泳いでいた。池の掃除のために中に入ると、鯉が母の足の周りに集まって触れて来るそうで、母の大事なペットらしかった。

 

母は野鳥が好きで庭に来る野鳥に餌付けをしていたから、母の森には野鳥の巣もたくさんあった。雀、四十雀、もず、ムクドリヒヨドリ、尾長、つぐみ、きつつき、うぐいす、目白、ヒワ、ノバト、その他数限りない野鳥達に、母はねぐらを供給していた。夕方ひとしきり鳴くそれらの鳥達の合唱はかなりのものだったが、母はそれらの鳥達の声を全て聞き分けていたらしい。

 

帰り際、何か必要なものはないかと、母の身の回りを点検した。母はその当時、心臓に疾患を抱えていてニトログリセリンとか言う恐ろしげな薬を持ち歩いていたから、心臓のことにばかり気を配っていて、他のことはおろそかにしているようだった。母は昔腎臓を患ったことがあり、トイレが近かった。しかし家のトイレは以前下宿人の便宜を図って水洗トイレにするとき、場所も移したので、8畳間の母の寝室から遠くなっている。それで母は小さなバケツを寝室において、簡易トイレ代わりにしているらしい。こりゃまずいな、と私は思った。あれを何とかしようと、私は思い、その日は母の家を後にした。

 

「母の母として4」

「三郎兄さんの決定」

 

帰国してまもなく、まだ村瀬先生のお宅にご厄介になっていたときに、私達が「ペテロ神父さん」と呼んでいた、三郎兄さんが遠路、青森から私を訪ねてやってきた。

 

彼は若いときに家を離れ、修道院に入ってカトリック司祭になった。その後彼はローマ、グレゴリアン大学で聖書学の博士号を取り、紆余曲折を経て、弘前大学の文学部教授になって、聖書学を教えていた。その人生の「紆余曲折」の詳しい内容は、私は知らなかったが、多くの兄弟の中でこの兄だけが、私と顔も性格も似ていたため、一緒には育たなかったが、親しみを持っていた唯一の兄だった。

 

「どうも、色々ご心配をおかけしています、」と私が言ったら、

 

「実はなあ」となんだか真剣な眼差しで彼は切り出した。前置きなしで物を言うのも二人はそっくりだった。

 

「はあ、なんか怖い話しですか?」「実はなあ、俺は結婚したよ。」

 

一瞬私は彼の顔をじっとみつめた。それからおもむろに尋ねた。

 

「正式にですか?」

「当然だ。ローマ教皇の許可をもらった上の決定だ。」

 

万感の思いが私の胸にも込み上げてきた。かつて、若かった頃、スペインに帰ったマドレを追って、私はヨーロッパ旅行をした。その途中、私はこの兄とドイツで落ち合い、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリアを3週間ほど一緒に旅した。

 

自分が其のうち修道院に入るのだという事を兄に語ったとき、それを聞いた兄は私に、「自分が愛する当然の権利があるものを捨てて神様に仕えると言う道は、意味はあるけれど寂しい道だよ。」といっていた。兄は私が高校時代に司祭になり、長いこと家の中では特別な存在であった。

 

あの時代、カトリックの世界の中で、神の召命を受けて司祭になると言う道は、きわめて尊いことだった。召命を受けた者を家族に持つことは家族にとって、考えられないほどの誇りだった。その兄の、この極めて人間的な言葉に、私は意外だなあ、と思った記憶がある。

 

彼の告白を聞いたとき、20年も前のヨーロッパ旅行の思い出が脳裏をよぎり、あの言葉の延長線上に、彼の今回の決定があったのだな、と私は理解した。

 

自ら神の召命を受けたと感じて修道院体験をし、思わぬ問題に巻き込まれて修道院を出、家族の反対を押しきって結婚したと言う人生体験を経てきた私は、兄のこの人生の選択に言うべき意見などなかった。彼と一緒に乗ったヨーロッパの列車の中で、彼は子供を見つけると手招きして自分の側に近寄せては、遊んでいた。子供が好きなのだなあ、とあの時思った。

 

その姿が頭を掠めたので、「で、こどもは?」と私が聞いたら、「もうすぐ生まれるよ。」と、恥ずかしそうに、彼は応えた。

 

「そう。で、そのこと家族みんな知っているんですね?」

 

「いや、母様にはまだ言ってない。四郎と五郎が母様に言ったら、気が狂っちゃうからよせというんだよ。」

 

下の二人の兄が母に真実をいう事を反対しているらしい。私はそれはおかしいなと思った。どうせいつかわかることを、他人からうわさという形で聞くより、本人の口から言った方がいいだろうに。私はそこで言った。

 

「それはね、男の考えですよ。お兄さん達は男だから、家庭の中でいつも母様の側にいたわけではないから、母様の性格をよくしらないんです。母様は真実に耐えられる強さを持っていますよ。苦しむでしょうけれど、他人から聞えてくるより、本人が言ったほうが苦しみが少ないはずです。それに、正式に結婚したのに、奥さんをいつまでも日陰者にしておくのですか。そんな状態、奥さんにとって心外でしょう。私がそんな立場に立たされたら悲しいですよ。子供だって、いつまで存在を隠すのですか?可哀想じゃ有りませんか。母様はね、うそをつかれて疑心暗鬼でいるより、真実に直面するほうを選ばれる方です。」

 

母の行動は理不尽なことが多かった。しかし私は知っていた。彼女が恐ろしく正直で、同時に、ごまかされることを嫌うことを。

 

三郎兄さんは、私に当座の費用にといって5万円をくれて帰っていった。そうか。結婚したのか。なんだか寂しくも有り、又よかったのかなあという思いもあった。帰り際、「言うなよ」、と念を押した彼の言葉が重荷だった。 

 

「母の母として5」

「三郎兄さんの秘密(1)」

 

松戸に移って落ち付いた頃、母が電話をかけてきた。話したいことがあるから来て欲しいということだった。日本の秋らしい末枯れた季節になっていた。例の如く私はフラフラになって母の家に辿り着いてみると、母は険しい顔をしていた。兄達の誰かに何かあったな、と思った。私は末っ子だったから、経済的なことやその他生活上のことで相談を受けることはなかったから。

 

母は初め何も言わず、縫い物をしながらただ押し黙っていた。言いたくなるまで黙っていよう。そう思って私は長いすに延びて、母が物を言うまで待っていた。暫くたってから、母が暗い闇の中でつぶやく幽霊のような声で言った。

 

「三郎が神父の癖に、女と同棲しているらしい。ここにきても神父の振りをしていて嘘をついている。卑怯な男だ。」

 

「なんですって?」身を起こして私が言った。「三郎兄さんは女と同棲なんていう暮らしはしていませんよ。」自分の道を変えたと言う事は、本人から聞いて知っていた。あれが嘘だったら、何も、難民となって帰国したばかりの、しかも、他人の世話になってその場をしのいでいた私のところにまで、言いにこなかっただろう。

 

「隠したって判っている。」

 

ふん!という表情で母はいった。

 

「どういう根拠でそんなこと決めるんですか?」と私は言った。「匿名電話で知らせがあった。『ペテロ神父様は女性と同棲しています。勇気を奮ってお知らせいたします。』といってその人は電話を切った。」母はそういって激しい、暗い、険しい顔をしていた。まるで母自身が闇の中にいるように見えた。

 

言う事に事欠いて、80を超えて一人暮らしをしている女性に、なんていう電話をしてくるやつなんだ、其の匿名の主は!思わずムカムカッとした私に母は言った。

 

「そんな卑怯な電話を信じるのですか?」

私は何しろ「匿名」という無責任な態度が嫌いだった。一方的に自分の意見だけ言って、相手に反論どころか質問の自由も与えないという態度を、どんな理由があれ、軽蔑し、嫌悪していたから。

 

私は自分の住んでいる社会で問題を感じるとき、よく公開で意見を言ったり、投書したりしたが、匿名になどしたことがなかった。日本に帰って、政治や社会問題にいろいろ考えることがあったので、朝日、読売などの全国紙に数回投書し、四回採用されたことがあったが、友人たちが見つけて、「あなたは政治難民なのに、こんなこと投書して危なくないの?」といってきた。其のときだって「身の危険と自分の主張は別問題です。」と言って澄ましていた。

 

教会の広報誌に投書したときも、私の意見に対する反対意見がすべて匿名だったことに腹を立てて、そのときの人間関係の破綻は現在に及んでいる。匿名とは、自分だけは安全地帯においたまま、自分は傷を受けることを避け、他人は攻撃して傷付けて平気な卑怯なやり方だ。私の実名を記した意見にたいして、あれほどの人数の匿名投書を赦した教会に対しても、私は不信を感じていた。

 

だからその電話が「匿名」で、言いっぱなしで質問の自由を与えず切ってしまったと言う事に、私はもうそんな奴相手にする必要はないと思った。「匿名」と言う手段で人間個人の人格にかかわるようなことをいえば、いわれた人間は解決のしようもない闇の中で苦しむだけなのだ。苦悩のあまり自殺する人間だっているだろう。

 

そういう苦痛を相手に与えて、自分は平穏な生活を続けていると言うことはそれ自体ほとんど殺人行為だと私は思っている。私は卑怯な奴は嫌いなのだ。何度も言うが、私は卑怯な奴は嫌いなのだ。そんな奴は人間じゃない。他人の心を思いやるためのほんのすこしの想像力も持っていない、卑怯で腰抜けで、真実に直面する勇気のない、人間の名に値しない屑なのだ。

 

母は苦しんでいる。その匿名電話の犯罪によって苦しんでいた。その苦しみを自分の体験から理解した私は、母の苦しみをどうしても取り除こうと考えた。私は母を知っている。性格上多くの問題を抱えているが、彼女が真実に直面することをいとわず、耐えることのできる人間であることを知っている。彼女は己の業に苦しんできた。だけど彼女は真実の人なのだ。

 

「その電話、どれだけの信憑性があると思われますか?」私は長いすから起きて、威儀を正して母に聞いた。「火のないところに煙は立たない!」と母は吐き出すようにそういった。

 

「では、煙なんか見ていないで、本当の火を見たらいかがですか?」

 

母は私を見た。

 

じっと伺うように私の目を見た。私は母の視線をがっと受けた。「つまり、母様は、三郎兄さんが、どんな形であれ、神父が同棲というような反倫理的な方法でなく、社会的にも道徳的にも認められているような生き方をしていれば、今までの生き方を変えたとしても、それを受け入れる用意がありますか?」

 

暫くの沈黙のあと、母は言った。「それは、あの子が反社会的なことをしているのでなければ、それはそれなりに納得できるでしょう。でもあなたは何を知っているの?他の子も本人も何を聞いてもしらをきってばかりいて、私は何も知らされていないのだけれど…」

 

「はい。みんなそれなりに、考えてのことでしょうが、私は多分母様の性格を一番知っているのでしょう。口止めをされましたが、真実を知っていただくほうが正しいと思っています。」母は黙って私の言葉を待った。

 

「三郎兄さんはローマ教皇の許可を得て、還俗して正式に結婚しておられます。子供がひとり、多分、もうひとりもう生まれたでしょう。そのことを私は帰国してすぐに本人の口から聞きました。匿名電話などと言う卑怯な人間の口からではありません。

 

弘前国立大学の文学部の学部長を勤めながら、教会の仕事も引き続きしておられます。聖書学者としての著作も出しておられますし、タルムードのヘブライ語の翻訳も引き受け、それらの仕事を通して、司祭であったときの使命を引き続き全うするつもりだと、本人が著作に書いておられます。

 

自分と何の関係もない他人の人生の方向転換を認めない、おろかな人間の匿名電話なんか気になさる必要はありません。三郎兄さんはまじめに自分の人生を考えて歩んでおられます。」

 

「そう…」母は身動きせず私の話を聞いたあと、私から目をそらし、遠くの幻影を追うように目を浮かした。

 

「母の母として6」

「三郎兄さんの秘密(2)」

 

長い長い沈黙のあと、憑かれたように1点、宙を見つめていた母がつぶやいた。

 

「あの子には、還俗して自分の人生を楽しむ権利なんかないはずだ…。」

 

それからふ~~と一息して母は言った。

 

「あの時殺しておけばよかった。」

 

なんと!

一体、どのとき、誰を殺しておけばよかったと、この母は言うのだ!?

 

このとき自分の耳が捉えた、この意味の判りかねる、しかし衝撃的な母の言葉を私はにわかには、飲み込みかねた。

 

物に憑かれたような表情の母を見て、私は自分の考えをまとめようとあせった。私は知っている。この母は正直なのだ。この母は仰天するほど正直なのだ。この母は絶望的に正直なんだ。そのことを私は知っていた。そのことを知っていたから真実を言わなかった兄達の心にも深い苦悩があっただろう。

 

そのことを知っていたからあえて真実を暴露した私にも深い苦悩があった。こうなったら最後の最後まで、この母に付き合うぞ、とそのとき私は決意した。

 

真実に向き合うと言うことが、どういうことかを私は知っていた。うそやごまかしを嫌う人間も、決して真実の前に強靭ではないことを、私は自分の経験で知っていた。厳しい現実はオブラートや真綿で包んで、できることなら見ないほうがよかったかもしれないと思うほど、それに出会ったときには神経が摩滅し消耗するものだと言うことも知っていた。自分の責任において母にこの真実を知らせたからには、真実に向き合うことの苦悩を共有しようと、私は思った。苦悩の波はこれから来る。このまま母を放置できなかった。

 

息を呑んで黙ってしまった私に、母は地獄の底から上ってきた亡霊のような冷たい声で言った。

 

「人を殺めた者は古来、出家すると決まっている…」

なんと!なんと言う言葉を私の耳は捕らえたのだ!

 

「人を殺めたって、一体どういうことですか?」私は混乱し、動揺し、いぶかしみ、地獄の亡霊の言葉におびえながら、母に訊いた。

 

「三郎が殺したのだ。桜子を殺したのは三郎なんだ。あんな優しい子を、戦争で食料がなくなって、自分の食べ物さえみんな兄弟にやってしまうほど優しかったあの子を、三郎がいじめて追い詰めて、頭をミシンの角にぶつけて殺したんだ。」

 

私の全身から血の気が引いた。体が硬直し、私の視線は母を凝視した。母も蒼白で頭の毛が逆立っていた。拳を握り、目をいからせ、空を睨んでいた。その形相はこの世のものとは思えなかった。

 

そのとき私は、自分は一体、何故、ここにいるのかを考えた。何故この家族に生まれ、この母の子として、この兄の妹として生まれ、艱難辛苦に耐えながら幼年時代、少女時代、青年時代、更に内戦の国での結婚生活を経て、今ここに生きて帰ってきたのかを考えた。

 

過去何回もこの家の1員としての自分の存在理由を疑った。過去何度も私はこの家に自分が生まれた意味を疑った。私は誰からも受け入れられず、誰の為にもなっていなかった。この家で、私は人間でさえもなかった。

 

あの窮乏の時代、私は何度、お前さえいなかったなら!と言われただろう。お前さえ生まれていなければ家族がこんなに食べ物がなくて苦しんだりしなかったのに!あの言葉を聞くたびに、私は生まれ、存在してはいけなかったのだ!と、何度感じたことだろう。

 

あの絶望的な疎外感の中で、私は自分の存在理由を把握できなかった。

 

「何も変えずにそのまま生きていて良いのだ」と言ってくれたエノクの言葉にしがみつき、その言葉だけが自分を生かすことのできる唯一の福音と感じて、彼の個人的な問題の複雑さを知りながら、私はこの家を後にした。

 

「そのまま生きていていい。」と言う言葉が、しがみつくべき唯一の藁であったほど、私はこの家で生きていけなかった。あの藁があったから、私はこの母を振り切った。

 

しかし、今、母のこの言葉を聞いた時、自分ははっきり、自分がこの家族に対して使命を帯びているのだと言うことを悟った。今と言う今、私は自分の使命を果たす為にここにいる、と私は確信した。今母と向きあっている意味を、私は納得した。この母にとっての自分に与えられた役割を果たすべく、それを使命として果たす為にここに召命を受けている。

 

あなたはあなたの母となれ!

あの声が脳裏をかすめた。そうだ!今こそ、母となれ!

 

私はあの兄を知っていた。私が物心ついたときはすでに修道院に入っていて、一緒に育たなかったけれど、たまさかの帰郷のときの思い出を私は忘れたことがなかった。

 

小学生のときから米俵を2俵持ち運びできるほど、彼は力持ちだった。彼が10歳年下の私のそばを通り過ぎるとき、私はよく骨を折り、腕の関節をはずし、三角布で腕をつっていた。乱暴だったかもしれないが、彼は決して私を意図していじめたわけではなかった。彼の、自分で意図しない力の放出のため怪我をしても、私は彼にいじめられたという認識の記憶がなかった。

 

私は2歳のときから人を見る目をもっていた。そして2歳のときから、私の人を見る目は正しかった。私が「小さい母様」と呼んだ、母親代わりを勤めたあの姉がなくなったのは、私は3歳のときだった。

 

姉の死後、姉に関する情報は家族のタブーとなっていて、誰も彼女について語らなかった。だから3歳までの姉にまつわる記憶は純粋に私だけのものだった。私は明確に彼女の言葉も行為も覚えていた。そして一生涯、彼女は私の心の中で「小さい母様」だった。

 

私が5,6歳のころ、三郎兄さんが私に人形を作ってくれたことがあった。とうもろこしの芯と割り箸を使って形を作り、顔は綿を巻きつけて整え、頭髪はとうもろこしの鬚だった。手足は割り箸でできていて、胴体にえんじ色のフェルトの服を着せてあった。多分自分で工夫して作ったのだろう。

 

その人形を彼は作って「ほら!」と言ってくれたのだった。姉が死んでから、私にそんなことをしてくれる兄弟はいなかった。だから私はあの人形のすがたも作りもこまごまとした細工のあとも記憶している。

 

そしてそれがどうして「記憶」になってしまったかと言うと、母がその人形を汚いと言って、私からもぎ取って捨てたからだ。私が5,6歳なら、10歳年上のあの兄は15,6歳の少年だったろう。15,6歳の少年が5,6歳の妹の為に工夫して人形をこしらえたその姿からは、どう見ても「妹を殺める」人間と考えられなかった。

 

私は、この母に何とか冷静に話を持っていくために、そのときじっと問題の兄と姉の年齢を数えていた。

 

姉は1944年に11歳で早世している。母はいつも三郎兄さんとこの亡くなった桜子お姉さまのことを、年子だと言っていた。それならば、三郎兄さんはそのときわずか12歳ではないか。今母と向かい合ってこの話をしていた時、兄は55歳、実に43年間、この兄は実の母から、「妹を殺めた兄」として、殺意の対象になっていたのか!

 

過去、私が目撃し、私の心を震撼とさせた思い出が、やっと意味あるつながりのあるものとして、私の胸に甦ってきた。私はその時、包丁を使うたびにその包丁を新聞紙に包み、更に布を巻きつけて、米びつの奥に隠していた母の表情を思い出した。

 

何故そんな面倒なことをするのですか?と尋ねたら、「これを抜き身にしておくと、自分の性格では人を殺してしまいそうだ。」と言っていた。あのとき横合いから見た母の表情も物凄かったが、私はその言葉を母の自制心なのだと思っていた。具体的に殺意の対象があるなどとは夢にも思っていなかった。

 

アメリカにいる姉が一度私に過去の思い出として語ったことがあるこの兄の思い出を、その時ふっと思い出した。「三郎兄さんがお姉様をいじめたといって、母様から竹刀(其の時代の兄の学校は剣道を必須教科としてやっていた)で何度も殴られて、壁にへばりついて泣いていた。」

 

私は一緒に育った記憶のないこの兄の、家族の中の位置というものを想像した。

 

この事故があったとき、彼は12歳、東大を受験して落ちて名古屋の修道院に入ったのが今の年齢計算でいくと18歳。家庭の中での彼に関する私の思い出は、やはり幼児のころ、井の頭公園に連れて行ってもらったことと、あの人形の思い出しかない。

 

修道院に入ってからは時折、修道院の果樹園からのお土産としてリュックにぶどうを詰め込んできたこと以外には、彼はいつも大声でラテン語の聖歌を歌っていた、聖歌を歌うその姿にはある威圧があって、私は近づけなかった、そういう思い出しかなかった。

 

12歳のあの兄に、殺意などなかった。と私は感じた。彼が一寸私の腕を引っ張っただけで、私の腕の関節がはずれるほど、力持ちで粗野だったが、繊細な神経を持っていた。あの人は決して他の兄弟と同じではなかった。

 

注意深く私は、私が語るべき言葉の構想をまとめた。そして、静かに静かに私は言った。

 

母の母として7」

「三郎兄さんの秘密(3)」

 

「母様。」母はぼんやりと私を見た。「母様。その事故があったとき、三郎兄さんは何歳だったか、ご記憶がありますか。」母は自分が何を問われているのかわからないような顔つきだった。「三郎兄さんはその時まだ12歳の小学生でした。」

私が一呼吸入れている間、母は不思議そうな顔をして私に言った。

 

「まさか、あの子はもっと大きかったはずだと思ったけれど…」

 

「母様は、長いことその問題に集中して考えているうち、三郎兄さんだけを気持ちの中で成長させてきたでしょう。小さいお姉さまを大人の大男の三郎兄さんがいじめて殺したと言う風に。」

 

「あの子、そんなに小さかったかしら…」母は再び言った。

 

「お姉さまはそのとき小学校5年生でしたね?」私は念を押した。

 

「それで、三郎兄さんは年子だと母様はいつも言っていらしたのが、本当なら、三郎兄さんはその時小学6年生のはずです。」

 

「そお…」と母は意外そうに言い、「そんなに小さかったの…」とつぶやいた。

 

「お姉さまは即死したのですか?」私は姉が病床に寝ている姿を覚えていたから、即死ではなかったことを知っていた。しかし、私は母に自ら真相を思い出させようと思って、そう訊いた。

 

「あの子はあれから、頭が痛い頭が痛いといって、だんだんと弱っていって、寝付いてしまった。平嶺さんに見せたけれど、手遅れで治らなかった。」

 

平嶺さんという町医者を私ははっきり覚えている。今でも彼の似顔を描けといわれたら正確にかけるほど、彼の容貌を記憶している。常にダークグレイの三つ揃いの背広を着た小柄な男で、侍のようなぴっと上がった黒い眉毛の下に光る黒い精悍な眼を持ち、鼻の下には1センチばかりの黒い口鬚を蓄えていた。

 

聴診器等の医者の七つ道具を入れた古くなって擦り切れた黒いカバンをいつも持って、診察に現れた、父を看取った医者である。彼はまるでうちのお抱えの医者みたいに、私が記憶している限り、私が大学生のころまで、家族のものの熱を出すような病気のときは、同じ姿で現れた。

 

記憶する限り我が家の誰かが病気だったとき、母が庭で毟って作ったドクダミやオオバコなどの煎じ薬で効かない時、置き薬の「越中富山の萬金丹(まんきんたん)」の世話になるか、最終的にはこの医者に頼っていた。

 

私は子供の容態の深刻さを見誤った両親が、我が家の最高の医療の段階であるこの町医者に頼ったことを理解して、ため息をついた。

 

「三郎兄さんが馬鹿力を持っていて、自分の意思とは無関係に、力のない女の子に怪我をさせたと言うことなら、私にも記憶があるからわかっています。あの人は私の腕を良く引っ張って関節をはずしたり折ったりしました。

 

私は痛いから泣いたけれど、あの人が私をいじめたのではないことは、4,5歳の私にも容易に理解できることでした。あの人は気持ちが優しく、私に人形を作ってくれたり、動物園に連れて行って遊ばせてくれました。そんなこと、他の兄さん達が一度もしなかったことでした。」

 

思わず話に引き込まれた母が口をはさんだ。

 

「桜子もそれは言っていたのよ。三郎兄さんは優しいんですよ、って。でも、そういう風にあの子がとりなすから、私は桜子が余計不憫だった。あんなに優しい子を三郎はいつも暴力をふるっていじめていたんだ。桜子オ、桜子オって追いまわして。私はあの子を竹刀でこっぴどく殴ってやったんだ。」

 

私はこの言葉を聞き逃さなかった。

 

「お姉さまもそう、言ってらしたんですね。三郎兄さんが優しい人だって。私だけの意見じゃないんですね?」

 

「もし、わずか12歳の少年の自分の意思とは無関係の馬鹿力のため、お姉さまが怪我をしたとき、両親が適切な治療をなさらず、危害を加えた年端の行かない少年だった兄さんを罰することのほうを優先させたとしたら、お姉さまの死に少年だった12歳の兄さんだけが責任を負うべきものでしょうか?」

 

私はとうとう核心に触れてしまった。

 

母はびくりと体を震わせ、目をむいて私に向かって吼えるように言った。

 

「あなたは桜子の死の責任が私にあったというのか!」

 

私の髪の毛も逆立った。誰がこんなことをやりたかっただろう。子供の頃から恐れの対象でしかなかった母に、誰が40を過ぎた今になって、糾弾したいと思うだろう。

 

「いまさら私はお姉さまの死の責任が誰にあったなどということを問題にする気はありません。私は幼少でその場に居合わせたわけではありません。でも私は信じることができます。三郎兄さんは、兄弟の中でとりわけ優しい人で、力があっていきすぎがあったかもしれませんが、決してその気になって妹を殺すような人ではなかったことを。

 

私はその時3歳だった。私はお姉さまの死後、お姉さまについて誰からもどんな話も聞いていませんが、お姉さまがどういう人であったかを記憶しています。あの人の優しさもあの人の言動も、あの人の性格も記憶しています。

 

まして、三郎兄さんは生きていたんです。私は三郎兄さんとは一緒に育たなかったとしても、断続的に私の前に現れたあの人の姿から、あの人がどういう人物であったかも洞察することができます。

 

私は2才のときの記憶、3歳のときの記憶、4歳のときの記憶、周りの人が語った言葉、全てを忘れていません。記憶力において、私は普通の人間じゃないのです。」

 

一気に言った私の言葉に対して母は叫んだ。

 

「うそおっしゃい!2歳のときのどんな記憶をあなたは持っているというのか!」

 

「はい。では申します。母様がある夕食のとき、私に食事をさせず、庭の棕櫚の木に縛り付けて夜中放置したのは、私が2歳のときでした。その時お姉さまが、家の中からしきりに縛り付けられた私を見て、母様に哀願していました。

 

「もういいでしょ、もういいでしょ、るり子を木から解いてもいいでしょ。」そうやって、お姉さまはいつも一番先に私を助けにきてくれました。あの人はおもちゃのなかった私に、ボール紙でお人形を作ってくれました。お人形の名まえは「クルミちゃん」といいました。私は毎日そのクルミちゃんを抱いて寝ました。

 

ところが毎朝そのクルミちゃんが無くなって、私は泣いて探しました。「クルミちゃんは?クルミちゃん」といって探す私を他の兄さん達がからかっていました。四郎兄さんも五郎兄さんも、私の泣き声を真似て、『クルミちゃんは?クルミちゃん』といってはやしたてながら、私の後をチンドンヤについていく子供みたいに付いてきました。そのたびにお姉さまが新しいクルミちゃんを作ってから、私に着替えをさせて学校に行きました。

 

あの人は一人で他の兄弟が誰も持っていない優しさを持っていました。だから私は夜でも昼でもあの人が見えないと、「小さい母様、どこに行ったの?」といって求めまわりました。あの人は私を緑色のおんぶ紐で負ぶって寝かせてくれました。昔あったアーチ型の2つの肘掛け椅子をあわせて作った、ベッドに私を寝かせてくれました。それからマリア様の歌を教えてくれました。その歌歌って聞かせましょうか。

 

「マリア様、お手手合わせて、いつの日も、私の為に、祈りくださる、目が覚めて、休むときまで、父母の、御心に沿い、良い子であれと。」

 

母はポカ‐‐ンと口を開けて、その当時もう改定されて消滅した昔の子供の聖歌を聞いていた。私が2歳のとき、亡くなった姉が教えてくれた歌だった。

 

私は追及の手を緩めなかった。この時を措いて、他にこう言う機会が来ることがないだろう、私の口が語ることを、全てこの口をして語らしめよう。この口はすでに私の口ではなく、私の意思とは無関係に勝手に話しつづけていた。

 

「もしほんの11歳と12歳の子供の兄妹の喧嘩が、片方に死をもたらすような深刻な状況にまでなったとしても、12才の少年が一生涯その結果を背負って、人生を楽しんではならないと言うほど重い罪を犯したとは思えません。

 

私はお尋ねしたい。実の親から40年間お前は人を殺めたと言いつづけられた子供の気持ちを考えたことがおありかということを。」

 

「あなたなんかに私の人生の苦悩がわかってたまるかあ!!」

 

母が自分の胸を拳で握って、前のめりに私に飛び掛らんばかりの姿勢をとり、私を睨みつけ絶叫した。私は一瞬ひるんだが、ここで引いたら私がここにいて、母と対決する意味がないと感じた。私の使命は兄を救うことだ。私の使命は母を救うことだ。

母の母として!母の母として!まさに母の母として!

 

そのことを思い、私は耐えた。

 

「おっしゃるとおり、わかりません。私は45年しか生きておりません。母様は84年間生きてきました。その人生の苦悩を全て理解することなど私にはできません。だけど私は、母様がたとえ何百年生きて苦悩しようと、息子の少年時代のほんの一瞬の失敗の為に、その息子をいたわるどころか一生涯人殺し人殺しと言いつづけ、一人の人間を苦しめ続ける権利など、母様にも誰にもないと思います。

 

三郎兄さんは一所懸命生きました。あの人は人一倍誠実に生きてきました。本人がどれだけ苦しみ、どれだけ祈ったでしょう。青春時代を修道院で過ごし、自らを家族から隔離し、苦行と祈りの生活を選んだ、今、自分の人生の転換期を迎え一つの選択をした、その人生の選択は尊敬するに足るとしても、他人から阻止されたり、他人に口を出されたりするようなものではありません。」

 

「母の母として7」

「三郎兄さんの秘密(4)」

 

私は私の口が語る言葉を聞きながら、涙を流した。重い重い言葉だった。母が自分の苦悩の人生をひたすらに正直に生き抜いてきたことを知っていた。

 

その苦悩の人生は時に刃を剥き、他人の存在を脅かした。私は過去母の存在を恐怖した。恐怖のあまり私は私の存在理由を疑った。その母の人生に私はとうとうかかわった。かくも深く、かくも真剣に、うめきながら自分の存在理由を確認しつつ、私は母の人生の最後の街道に立ちはだかった。私は母を生かし、兄を生かすことによって、生きる自分を確認した。私はすでに母の娘ではなかった。

 

誰がなんと批判したって、私が子供の頃どんなに苦しんだからといって、誰も母の心の中を覗いたことはなかった。私は一人の人間としての母を知らず、母の心の闇を知らなかった。私は9人も子供を産まなかったし、其のうち3人まで早世するのを見送ったという体験をしたこともなかった。私は母の子供時代の体験を知らず、自分が産んだ子供たちのうちに被害者と加害者が存在し、其の中で愛憎に苦しむなどという体験は、すでに私にとっては人知を超えていた。

 

この私に母を批判するための、ましてや糾弾するための、どんな権利もなかった。私は其の事実を深く深く理解した。私がここにいて、母の苦悩を知り、そのためにものを言ったとしても、其の口は、私の意思とは別の意思によって、語るために使われた、としか考えられなかった。

 

母は放心していた。私は疲労困憊していた。まるで、一時的に霊媒になったかのように、私の口は語り、そして、私の口は語るのをやめ、腑抜けのような体は長椅子にぐったりとして仰向けになった。涙が頬を伝い、耳の中に流れた。声を上げずに私は泣いた。母がどんな表情をしているか、私は見なかった。

 

あなたはお母様の母になりなさいと言ったあのマドレの不思議な言葉を思い起こしていた。苦しい!私は苦しんだ。私は強い人間ではなかった。

 

弱いくせに、この母が怖くて仕方ないくせに、私は母を追い詰めた。逃げ道を遮断し、この家族の無明の闇の核心をついた。私は母を糾弾した。神に与えられた母の母の役割を、私はその時実行に移していた。

 

憔悴した母がそのとき突然つぶやいた。「あの子、子供なんかうるさがって寄せ付けない父親なんでしょうね…。可哀想な子供、寂びしそうな顔を想像するとやりきれない。」母は勝手に想像して泣き出した。まるで、泣く理由を探してでもいるかのように、思い浮かぶことをつぶやいては泣いた。まるで兄が父親にはなったけれど、どうせろくな父親ではないだろうとでも言うように。

 

「そんなことありません。三郎兄さんは嬉しそうでしたよ。子供のことを話すとき、てれながらだけどとても嬉しそうでしたよ。三郎兄さんは可愛がっていますよ。子供を寂しがらせてなんかいません。」私は半身を起こしていった。

 

「母様。三郎兄さんはとても子供が好きなんです。ヨーロッパを旅したとき、三郎兄さんは公園でも電車の中でも、子供を見つけると相手して遊んでいましたよ。ヨーロッパ中の言語を使って、フランスの車内ではフランス語を使って、ドイツの車内ではドイツ語を使って、イタリアではイタリア語で、子供を見るとあやしていましたよ。」

 

私は昔神父さんだったころの兄の案内で、ドイツからイタリアまで旅行をしたとき目撃したことを母に語った。

 

私が自分の生涯であの兄と行動をともにしたのはあのヨーロッパ旅行が最初で最後だった。あの時兄は自分が選んだ修道生活を寂しい人生だといっていた。私は神父さんというものは神様から召命を受けて納得してなるものだと思っていたから、彼のあの人間的な言葉をあの時は素通りした。

 

あの時兄は、私になぜ修道院に入るのか、と聞いた。私は馬鹿にされるのを恐れて、霊感を感じたとは言わなかった。其の私を横目で見て、兄は言った。

 

「スペインのマドレが好きだからか?」

 

「そんなことはない」と私が即座に答えたら、兄は言った。

 

「そう言う理由で入ったっていいじゃないか。人を愛して、そのため一人でスペインに行くんだろ?それほど人が愛せるって言うのは尊いことだよ。」

 

この兄が人間的で、青春のすべてを神秘のヴェールに覆い隠されていた修道生活をしてきた人間とは思えないほど、彼は人間の真実を知っていた。

 

何かの拍子に、彼の持ち物の中に、私の写真が入っていたのを見た私がいぶかしんで、何故私の写真なんかをヨーロッパにまで持ち歩いているのかを訊いたことがあった。あの時私は本当に不思議だった。よりによって私の写真なんかを持ち歩く家族がいることが、家族に疎外感を持っていた私には、想像を絶する奇行だったのだ。私は何時だって「愛される自信」どころか、「愛される筋合い」がないという感覚で生きていた。

 

もしかしたら、真相を知らなかった私だけが、彼に家族らしい連絡を取った唯一の家族だったのかもしれない、と、その時のことを思い出して、私には初めて合点がいった。

 

この兄にまつわる断続的な思い出を、母の話を聞いて思い起こしてみると、いまさらながら兄の心の悲哀を感じさせた。中学生のころ、学校で習った手編みの手袋を修道院の三郎兄さんに送ったことがあった。

 

年月がたって私はそのことを忘れてしまったのだが、仲間の神父さんが任地の吉祥寺教会に来て私に始めて会った時、言った。

 

「あなたがペテロ神父様の妹さんですか。僕が一番印象に残っているのはね、お兄さんがうれしそうに手袋を見せて、妹が編んだんだっていってらした。その手袋、手にはめないで胸に抱いてね、いとおしんでいましたよ。あれ見たら、お兄さんに手袋を編む妹さんなんかいて、僕はうらやましかったよ。」

 

終戦直後、何にも楽しみが無かった時代に、彼はわざわざ無産者の道を選んだ。家族から離れ、孤独を選んだ。送られてきた「妹の編んだ手袋」があの兄にとって何を意味したのか、私はそのとき初めて理解した。

 

「あの人形のお礼です」

 

あの人形を兄はどんな思いで作ったんだろう。私は母が黙ったので再び天井を見ながら、幼女のころ兄が作ってくれた人形のことを思い起こしていた。

 

14,5歳の少年の発案としては面白い工夫のされた人形だった。学問が好きな兄で、他の兄達の話しではすごい努力家だった。

 

その努力の合間に、彼は薄暗いランプの下で、妹の為に小さな人形を作った。手元にあった素材はとうもろこしの芯と鬚、綿と割り箸とわずかなフェルトの布だった。そんな貧しい素材を使って少年は一所懸命人形を作った。妹が喜ぶだろうと思って人形を作った。私はあの人形を2,3日しか持っていなかった。

 

見かけを尊ぶ母が汚いといって捨ててしまったから。貧しい素材を使って一所懸命勉強の合間に妹の為に人形を作ったあの少年の心と見かけの悪さを嫌って、それを子供から取り上げた大人の心と、どちらがイエス様の心にかなっていただろう、なんて、成長した私は考えたこともある。

 

「あの子に親として、なにもしてやれなかったのか…。」薄暗い部屋の片隅で、今度は母が桜子お姉さまのことを思いだしたらしかった。母はむせび泣いた。母の声は耐えられないように震え、高鳴り、嗚咽になった。

 

夢想の中にいた私は吾に返り、がばと跳ね起きた。ソファを飛び降り、地に手をついて懇願した。

 

「母様!お姉さまはもう天国におられます。もう苦しんでなんかいません。それどころか、お姉さまは私たちを守っておられます。今はどうか、生きている子供達のことを考えてください。どうか生きている三郎兄さんに、母としてできることをしてあげてください。過去の事情で三郎兄さんが自分の家族に紹介することもできない、若いお嫁さんを嫁として、二人の子供達を孫として認めてあげてください。」

 

それは絶叫であり懇願であり、使命遂行のための吠え声であった。

 

私は作ってくれたあの人形のお礼を三郎兄さんにしていなかった。今こそあの人形のお礼を私はしなければならないと思った。

 

ある初夏の日、母は建築家の次郎兄さんのドライブで、遠く弘前に旅立った。

 

私の母は強かった。私が始め信じたとおり、母は真実を受け入れるだけの強靭な魂を持っていた。

 

「じゃあ、三郎の家族にあってくるから。」といって旅立った母の後姿を、私は万感の思いで見送った。

 

三郎兄さん、有難う。40年前下さったあの人形、ずっと心に持っていた。長い間、あの人形の御礼をしていなかった。今、あなたの元に、母様が行きますよ。あなたの三郎・ジュニアと新しく生まれた可愛い赤ちゃんをだっこしに、お婆様がいきますよ。三郎兄さん、有難う。これがあなたが40年前、あの暗いランプの下で作ってくれた、とうもろこし人形のお礼です。

 

兄はその後1枚の写真を送ってきた。お婆様と孫二人、兄と兄嫁が両脇を囲んだ、どこにでもあるような平和な家族の写真だった。