naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月23日

「次郎兄さんの葛藤」(1)

 

次郎兄さんは、厄介な男だった。まあ、実家の家族のメンバーは、みんな一癖あるのだけど、彼は、一癖に加えて、学歴コンプレックスを抱えていた。

 

彼にだって、学歴が何もないわけではない。学制の変化した過渡期に、その年齢になったため現在の大学を出ていないが、彼の出た専門学校は、出てから大学に昇格したという、時代の中にいただけである。

 

しかし、およそ、コンプレックスというものは、抱えている理由は本人にしかわからないものである。

 

彼は父が死んだとき、成人して仕事を持っていた唯一の男だったから、勢い、一家の大黒柱としての責任を負わされ、父の死後7年間に渡って、母を助けて一家を支えた。

 

旧制中学がちょうど新制度に変わるときに5年制の中学を4年で終了させられた世代である。学生時代は軍隊教練で、ほとんどまともな勉強もできなかった、中途半端な時代だけに、新制度になった高校も受け皿がなく、仕方なく、専門学校で建築を収めて、就職した。

 

だから、6人兄弟のうち、唯一大学を出ていないことが彼のコンプレックスの原因になっている。

 

そんなわけで、彼は5人の弟妹が自分を犠牲にして学歴をつけたと信じて、そのコンプレックスからいつまでも自由になれなかった。特に、三郎兄さんは、彼の4歳年少で、一番歳が近かったが、かろうじて新制度になった高校に入り、成績もよかったから、東大を受験して、失敗した。しかし、彼はどうしても勉強を続けたかったのに、浪人なんかやっていられる時代ではなかった。

 

そこで、その才能を惜しんだ教会の神父さんたちが修道院がらみの神学校に彼を押し込んで、すべて修道院の計らいで、博士号までとるに至った。

 

だから、彼は全ての学費を修道院から受けたばかりでなく、住居も、岐阜の修道院だったから、彼は学歴はおろか、18歳以後の生活費全般を実家に頼るということはなかった。彼に関する限り、次郎兄さんの世話にはなっていないのである。

 

しかし次郎兄さんは、最も年齢の近い弟が、自分を助けず修道院に入り、自分だけが戦後の困難を乗り切るのに犠牲になったことを、理不尽だと思い、彼を個人的に恨んでいた。

 

神父さんになるということは過去のカトリックの世界では物凄く神聖視されたことだった。母の思いも強く、自分の重荷を少しでも担うことのできた年齢にあったはずの、この神父さんの卵の弟に、次郎兄さんは恨めしいと思いながらも、やむを得ず弟からの協力を断念した。

 

修道院に入って神父さんになるという、三郎兄さんの行った道は、あの時代にとっては「贅沢」に見える道だったのだ。

 

その贅沢な道を、三郎兄さんは一人家族のくびきを離れて行き、次郎兄さんは誰の助けもなく、あの7年の危難の時代を一人で乗り切ったと彼はいう。

 

だから三郎兄さんの還俗を知った次郎兄さんの気持ちは穏やかではなかった。

 

彼は一家の重責を担うには、余りにも性格が弱かった。原因はいろいろあるとしても、彼は結婚も失敗し、一家は離散して、しかも事業に失敗して失意の連続を生きていた。

 

「俺は三郎が神父さんになるというから彼の使命の遂行に協力したのに、彼は神父をやめて家族を持ち、今は国立大学教授という社会的身分も得て、俺よりも幸福に暮らしている。

 

それなのに家族の犠牲になって苦労した俺は、どうなんだ。結婚に失敗して家族はバラバラ、事業にも失敗して家も土地も借金で失ってしまうような状態にある。俺の苦労がまったく報われないのはのは納得できない。自分の不幸はみんな戦後の混乱期を学歴も犠牲にして苦労させられたことにあって、その責任は弟妹が負うべきだ。」

 

彼はこういって、母に泣き付いた。

 

「次郎兄さんの葛藤」2

 

彼は私より14歳年長だから終戦時18歳、聞くところによると学生時代は、軍事訓練に明け暮れて、防空壕を掘ったり、上官に殴られたりして過ごした青春時代だった。父が死んだとき23歳。彼にとっては青春の真っ只中だったが、確かに彼は家族の経済を支えて青春の夢をみることができなかった。

 

今彼は結婚に失敗し、自分を不憫だと考えた。

誰よりも苦労しながら誰よりも報われず、兄弟がみんな高学歴を得て社会で活躍しているときに、弟妹の成長に貢献した自分は誰よりも不幸で、孤独な生活を強いられている。

 

おまけに三郎は今頃になって還俗し、幸福に見える家庭生活を選んだんだ。金がないときは修道院に逃げ込んでおきながら、学歴を取ったら、還俗するなんて、納得できない、そう、彼は考えた。

 

彼の主張は彼の立場からすれば、確かにそうだった。ただし兄弟が生まれた順序によって、時代から受ける影響が違うから苦労の質が違うだけで、兄弟の中で苦労をしていないものは、一人もなかった。

 

末っ子の私に言わせれば、私は生まれたときから、防空壕の穴の中で空襲警報に耳をそばだて、息を潜め、困窮の中で畳に落ちた一粒の米を兄弟と争いながら、食うや食わずの幼年時代、少女時代をすごし、おまけに9歳にして父を失った。

 

小中学校の義務教育時代、父の死後の6年間はともかく、高校時代からは学校独自の奨学金育英会奨学金に頼り、大学入学費は四郎兄さんが出し、その後卒業するまで、働きに働き、所得倍増計画の中での神武景気岩戸景気も、その恩恵に預かっていない。

 

父が死んだとき、下の4人はすべて義務教育年齢だった。

 

四郎14歳、五郎13歳、明美11歳、私は9歳。四郎五郎は小中学生の頃からアイスキャンデー売り、牛乳配達、新聞配達、造花つくりのアルバイトをして過ごしたのに、次郎兄さんは幼少の頃から戦前の豊かだった時代をすごし、何の不自由もなく名門私立校で小学校を卒業し、戦時中とはいえ、同じ系列の旧制中学校を卒業し、建築士の免許も得て建築会社に勤めた。

 

少なくとも彼は幼少年時代は豊かに過ごしたが、私も姉も栄養失調で足が立たないような幼年時代から、大学を卒業する22歳のころまで、豊かさの経験などしていない。

 

次郎兄さんは特別「学歴」にコンプレックスを持っていたが、あの時代の23歳としては、特別他の兄弟と比べて学歴に差があるとは思えない学歴を持っていたし、何よりも、誰も保持していない建築士の免許を保持していた。

 

そして彼は、なによりも成人するまで父の保護下に成長した、兄弟の中で唯一の男なのだ。

 

高校以上の学歴に関しては、4人が4人自分で働いて苦学して得た私達の方が、よほど、其の「苦労」の度合いは強かった。すぐ上の兄たちは、浪人時代だって家庭教師をやって母にアルバイト代を差し出していたのであって、すべてを次郎兄さんの腕一つに頼って、自分達は気楽に学生生活を送ったわけではなかった。

 

次郎兄さんが目の敵にしている三郎兄さんの「最終学歴」は、バチカンのグレゴリアン大学でとった博士号だが、高校以上は、彼の能力を惜しんだ教会の神父さんの援助を受け、博士号を取ったのは彼の所属していた修道院からの「派遣留学」であって、出身家族からの経済的負担は、15の歳からまったくないのである。

 

終戦直後、次郎兄さんがいなければやっていけなかったことは確かだが、少なくとも義務教育以上の「学歴取得」のために彼を「犠牲」にした家族はいないのだ。

 

彼の戦後の苦労を思って、母は彼の結婚のとき、父の残した200坪のうち50坪を贈与した。残りの150坪を就学年齢にあった他の兄弟の生活基盤として、母を含めた6人の所有としたのであって、彼の苦労を母が何も報いなかったわけではない。

 

三郎兄さんの還俗を知ったとき、たまたま次郎兄さんは、自分のものとなったその50坪を、借金のカタにしてしまって身動きが取れなかっただけで、それと三郎兄さんの還俗とは、もともと無関係なのである。

 

ところが次郎兄さんは、母にせっついて、いい続けた。

 

「この200坪は、もともと俺のものだ。あの戦後の苦労の見返りに、俺がもらうはずだった。それなのに、苦労をしていない弟達が所有しているのは、理不尽だ。」

 

母はその当時、次郎兄さんを除いた5人の息子達との共有財産である150坪の土地に、収入源のアパートを持ち、そしてそのアパートに隣接する父の代からの自宅に住んでいた。

 

次郎兄さんは、その家土地を利用したくて仕様がなかった。

 

彼は、アパートと母の家を両方とも壊して、自分が作った借金のかたになっている自分名義のアパートとつなぎ、兄弟全員の共有の大きなマンションを作って、1階の部分はブテイックその他の店をいれて、兄弟全員で共同経営しようと言い出した。

 

「次郎兄さんの葛藤」3

 

次郎兄さんは夢見男だった。もともとは建築士として仕事を始めた男なのだけど、若いときから気が多くて、他人に唆されては、色々な仕事に手を出して失敗し、その度に家財産の権利書をそっと引っぱりだしては土地を担保にして借金を重ねることが常だった。

 

その積み重ねだった次郎兄さんの計画に賛成する弟達はいなかった。誰もが皆、独立して家族を養っている身の上で、夢見男の夢に付き合って、共倒れするわけに行かなかった。彼は夢を追って事業をするたびに失敗するほど、事業経営が下手だったのだ。

 

しかも皆、彼の本心を知っていた。

 

彼は借金に苦しんでいた。その上彼は「昔、お前達を世話した。だから200坪の土地は自分が動かす権利がある」という言葉をあまりに大げさに言い過ぎた。そんなことを言いすぎさえしなければ、世話になった事実を忘れたものはいないのだから、みんな彼の過去の怪しげな履歴に目を瞑って、何とかできる範囲の援助を惜しまなかっただろう。

 

しかし、彼は母の死後、裁判を起こして戦ったほど、母と弟妹6人の名義になっている150坪に執着していた。

 

しかし、次郎兄さんにせっつかれた母は、そのときやはり、三郎兄さんの還俗に心が揺れていたから、次郎兄さんの気持ちに同情をして、問題が複雑になりすぎた。

 

三郎兄さんの還俗に対して、なんとかあきらめて、彼の家族を心に受け入れたとはいえ、本心は、次郎兄さんと共通の、納得できない思いを母は持っていた。そこに、次郎兄さんの嘆きをきき、かつて自分の考えで色々と苦労させた次郎兄さんの心のうちを思って同情し始めたのだ。

 

とうとう彼女は、自分ができる範囲で次郎兄さんに協力しようと彼の考えに乗り気になった。

 

「年端の行かない子どもたちのことを思って、自分はただ次郎を犠牲にしただけだった。それなのに、皆成長するにしたがって、それぞれ勝手に行動をし始めた。」

 

と考えた母は、ここに至って、悔恨の念で揺れに揺れたのである。

 

母は次郎兄さんの嘆きを聞いて、終戦直後、「自分だけじゃなくて、三郎もいっしょに働かせてください」と泣いて頼んだという次郎兄さんの苦悩を思い出し、もう慙愧の思いにかられて、彼の思いを何とか実現させたいと、とうとう私に相談を持ちかけた。

 

「私は死ぬ前にこの家を次郎ちゃんの思い通りさせてあげたい、あなたなら協力してくれる」と母は言い出した。

 

「アパート改築」

 

次郎ちゃんの思い通りにさせてあげたい、という母の気持ちが残りの息子達にわからないわけではなかった。彼が苦労した、ということは一家全員が認めることであった。

 

しかし彼の「苦労」の原因は彼が信ずるように、戦後の混乱期、経済的大黒柱になったからだけではない別の要因があることも事実だった。

 

母が何とかしたいという気持ちは、多分母が次郎兄さんの人生に介入し過ぎたことに気が付いたからだったろうけれど、それによって、各々が独立して家族に責任を持っている他の兄弟が巻き添えになり、彼と運命を共有することはできない相談だった。

 

彼の苦労を思い、一目措いていた家族全員が、彼の人物の胡散臭さに、やりきれない思いをしていたのだ。彼に対しては、もうすでに、恩義とか、尊敬とか、総領を立てるとかいう感情を通り越して、皆の心に一致してあったのは、「憐憫の情」だった。

 

しかし、60過ぎても母親から事実上まともに独立できない次郎兄さんを、それでも幸福にしてやりたいという思いを持つ母の思いには切実なものがあった。母は、「もう自分も死ぬ寸前だし、他の子供たちは何とか社会にでて、この家財産に頼らなくてもどうにかなるだろうから、一人不幸で、過去に恨みを持ち続けている次郎ちゃんの思いを叶えてあげたい」という気持ちを、理解してはいた。

 

しかし、ことは、「家財産に頼る」、という問題ではなくて、名義を並べている兄弟が次郎兄さんの「事業」に引きずり込まれて、「共倒れするかどうか」という問題だった。当時はバブルの絶頂期で、件の共有財産の価値がものすごく高かったから、仮に面倒さから財産放棄して、兄に譲渡したとしても、または仮に売却という形にしたとしても、双方にかかる税金が馬鹿にならなかった。

 

そして、アメリカの姉以外は、持ち家は皆ローンの支払い中だったし、定年を前にしている三郎兄さんの方の、二人の子供はまだ幼児だった。そして難民として帰ってきた私は、もちろん、持ち家を持たず、エノクの給料は、始め月額10万円そこそこで、何とかまともな給料になるまで、私が英語教室をやって支えていたのである。いくら喧嘩したくなくても、憐憫の情があっても、名義を並べていた4人は、「共闘」せざるを得なかった。

 

我々は子供だった頃の、物件に関する訴訟の記録を読んだ。

 

次郎兄さんの主張に反して母が残した訴訟の記録を見る限り、あの家を守ったのは母であり、こう言う言い方を赦してもらえるなら、詐取であろうとなんであろうと、法律的に人手に渡った形になっていたあの家を取り戻すことができたのは、ほとんど母の愛する夫の遺児を育てるための、死に物狂いの闘争心と、彼女が最後のよすがとしてしがみついた祈りと信仰のおかげとしか言いようがなかった。

 

物的証拠がほとんどないのに、詐取した相手が父の筆跡を真似て署名した、文書偽造をしたことを裁判で認めたのである。ましてや、次郎兄さんの「証言」なるものは、裁判官があきれるほどの異常なものだった。

 

裁判の原告側の証人となったのは教会の神父さんたちで、彼等は父の聴罪師だったというだけで、「証人」としては父の人物を保証したに過ぎない。「次郎ちゃん」はそのとき成人していたが弱冠23歳の青年で、裁判の記録を見る限り、事前に母が草稿したという証言さえ、読めなかった。

 

過去の記録を読まずとも、母が何度も何度も繰り返し、このあたりのことを言って聞かせたので、みんな自分達が子供だったときに起きたこの裁判の事情というものを知っていた。

 

そしてそのあと何度も何度も、当の「次郎ちゃん」が、母が取り戻した家の「権利証」を持ち出しては、家を担保に借金をしようとして、以後母が「家」を守ったのは、「次郎ちゃん」の借金癖からであって、ほかに我が家の安泰を脅かす事情というものは発生しなかったのだ。

 

しかも、家の固定資産税は,みんなが成人してからは、当の次郎兄さんの分まで、残りの兄弟が分担して支払っていた。自分の経営がまずかったから借金だらけになった次郎兄さんの「不幸」は、あの戦後の7年を除いては、別に誰かのせいでなく、夢見男としての彼自身のせいだったのだ。

 

だから裁判そのものは、私が小学生のときに終わったにもかかわらず、そのために生じた借金と、次郎兄さんが引き起こす色々な出来事の為に、裁判の後遺症を私が記憶する限り、30年くらい引きずっていた。

 

そんなわけで、私の実家では子供のころから訴訟の話を巡る法律用語が普通の会話の流れの中にあった。

 

これはちょっとしたエピソードだけど、あるとき家族の中で、「もし火事になったら初めに何を持って逃げるか」ということが話題になった。

 

明美姉さんと私は小学生で、どうせたわいないことしか期待されない年齢だった。

 

で、私はかなり真剣に考えたんだけど「祭壇を持って逃げる」と言い出して、みんなから失笑を買った。私は家の祭壇の中央にある西洋の教会堂をかたどった白い優美な十字架のケースが好きだったし、一番大切なものだと思っていたのだけど、みんなの馬鹿にした大笑いに随分戸惑ったのを覚えている。

 

そのとき明美姉さんが言った。

 

「私は家の権利証を持って逃げる。」

 

「家の権利証」は紫の風呂敷に包んであって、それを押入れの奥深くしまいこんであるのは、次郎兄さん以外はみんな知っていた。

 

「これは一家が生きていくのに一番大切なものだから、いざというときは持ち出せ。普段は手を触れてはいけない。」

 

と、まるで楽園の真中の木の実を食べてはいけないといった神様の如く、重々しく母が言い渡してあったから、あの風呂敷包みは神聖不可侵のもので怖かったし、言い方を代えれば、何かその包みは戦地で最後に自決する為に渡される手榴弾のような趣もあった。

 

私はまだ10歳前後の子供だったから、そんなもの触ることさえ思いつかなかったのだけれど、姉は母の戒めを重々しく守ったのである。姉は当然賞賛を受けたのだが、後に成長した姉に言わせると、「自分はあの発言の為に『しっかり者』という烙印を押され、以後母からのまともな世話をしてもらえなかった。いつもあほなことばかり言っていた私のほうが可愛がられた」というのである。

 

今考えると両方ともかなりへんてこな小学生だった。火事のときに祭壇を抱えた小学生と権利証を抱えた小学生が家から飛び出す姿を想像してみると、なんだか滑稽である。

 

それはともかくとして、法的所有権がどうあろうと、あの家はそれを守り抜いた母のものだという考えがみんなの共通の思いであったので、母がこうしたいと言い出せば、次郎兄さんがどんな人物であろうとも、母の意見としては無視できないという考えがみんなの心にあった。

 

なぜなら、母はやっぱり母だった。母の次郎ちゃんに対する多分最期の愛情は、何しても見ていられないほど失敗をする次郎兄さんの夢の実現に向けて発揮されてしまったのだ。

 

兄弟は協議した。誰だってみんな、次郎兄さんの苦労も母の気持ちもわかっていた。

 

妥協できる案として、母が存命中は母の生活費になっているアパートの改築を次郎兄さんの好きなような設計に任せて、彼が1階にブテイックをこしらえて経営したいというなら、そこまでさせてあげよう。しかし次郎兄さんの所有物件である、彼の借金の担保となっているアパートとつなぐという案は、後に災いが生じて兄弟5人が火の粉を被るわけには行かない。次郎兄さんが倒れても、他の兄弟が倒れなければ彼を助けることもできるが、みんな倒れたら助けることもできない。そこまで考えて我々は次郎兄さんの壮大なマンション建設の案の一部に同意し判を押した。

 

私が23歳のころ改築して、それから20年母の収入源となっていたアパートが、次郎兄さんの夢をのせて、1階にブテイックを入れたワンルームマンションに生まれ変わることになった。しかし、あくまでも母の生きている間の収入源としての改築という考えで、母の気持ちを汲み、次郎兄さんの暴走を抑えてなんとか切り抜けようとしていた他の兄達と、自分の借金だらけの地所とつないで広大なマンションを建設する為の第1ステップと考える次郎兄さんとの間にはかなりの温度差があった。

 

我々は彼の本心を知っていた。彼は借金に苦しんでいた。しかも弟妹を「昔世話した」という過去の恩義をあまりに大げさに言い過ぎた。彼は家族に弱みを見せるのを嫌って、いつも我々が手に負えないほどの大風呂敷を広げ、強引に自分の「夢を実現」すると言う名目を設けて自分の思いを通そうとした。

 

「次郎兄さんの人物像」 

「私の記憶している次郎兄さん」

 

私の次郎兄さんの思い出は防空壕の入り口から始まる。彼は夏の白い帽子を被っていて、夕日を浴びながら歌を歌っていた。

 

その歌…「俺が死んだら三途の川でよ~、鬼を集めて相撲とるよ~」という歌なんだけれど、妙に印象的で私の記憶の世界ではそのときの防空壕の入り口の様子から、夕日に照らされた彼の赤い顔から、口ずさむ歌の哀愁が総体となって、一幅の絵のように刻まれている。

 

彼は頑丈で働き者だった。働いているからと母が用意した鍋一杯のシチュウを飲干す姿は、まるで、酒呑童子のようだった。下の弟妹はお腹がすいていたから、自分たちが手を付けてはいけないシチュウを横目で見てうらやましかったが、シチュウは働いているものの特権だった。

 

戦後防空壕をつぶして庭を全て畑にし、弟妹を殴ったり怒鳴りつけたりしながら先頭にたってよく働いた。あの頃覚えたジャガイモの植え方やトマトの育て方が、エルサルバドルの内戦の中で、役に立った。ボタン一つで、チーーーンなんてやって、食事を作る世界にいたら、私は内戦を生き抜けなかっただろう。

 

彼が教えてくれたことが、長じて中米男と結婚してから、かの国の内戦の生活に役に立つことを知らなかったから、子供の私にとっては彼はただ怖いだけの男だった。いつもいつもびくびくとして逃げ回っていた。

 

彼は本業の建築会社をリストラされたことがあって、一時的に米軍の立川基地の労働者として働いていたことがある。その仕事の内容は私は今でも知らないが、日中の仕事と夜の仕事があって、いつ帰ってくるか判らないのである。私はいつ現れるかわからない次郎兄さんの動向にいつも神経を立てていた。

 

すぐ上の兄の五郎がそんな私をあざ笑って言ったものだ。「次郎兄さんがくると、お前はすぐに今やっていた行動を変える」。

 

つまり神経がいつも彼の前で緊張していた私は、パブロフの犬さながらに、条件反射で「今やっていた行動」を禁じられると思って、別の行動を始めたのだ。座っていたら立ち、立っていたら座り、遊んでいたら勉強をはじめ、算数をやっていたら国語に変える、私は防御本能で「禁じられる」前に行動を変えたのである。

 

私は若いころ、多分、今でも自分より年上の、特に長男長女の位置にある人間とまともに付き合えなかった。長男長女はいつも私を支配し、命令し、行動を禁じる存在であり、到底自分の立場に理解をする存在ではないのだ。同級生でも長男長女とはうまくいかず、なるべく席を同じにしないように逃げてさえいた。

 

後になって判ったのだけれど、自分の生徒であっても長男長女とは意見が合わない、あちらこちらで問題を起こす彼等に手助けをしようにも、彼等の高慢なプライドに触れてしまってどうすることもできないという状況にさえ遭遇した。だから、私の友人には年下が多く、しかも年下のほうが「対等」につきあえるため、結婚相手さえ年下で、その年下の主人は実家の中での位置は3男である。

 

彼は本業の建築屋の仕事を請負うという関係で、数千万のお金を動かすこともあるが、その数千万が彼の手元に定着したことがなく、全く無一文になって、学生だった妹の私に借金を申し込んだりするようなこともあった。ただし、その借金を私に返したことがなく、上の姉に「返した」ということになっていて、上の姉はいつもそれを着服していた。それでも彼の建築屋の仕事は細々とながら続いていて、私には専門外だし見たことがないから判らないが、器用な男だから本業そのものは「いい仕事」として評価されてもいたらしい。

 

彼はまだ若いころ、自分とは関係のない建築現場に行きがかると足を止め、一日でも二日でもその仕事を眺めていて、いろいろなことを身につけた。その「眺める」という行為は露天商の包丁磨きから肉屋や料理屋の包丁捌きにまで及んで、自分の巣に戻っては練習したから、彼の生活上のあらゆる知恵は学校に行くことなく身につけたものである。

 

私は中米の暮らしを思い出して考えたのだけれど、彼みたいな人間は文化が熟して、もう完成度の高い文明圏の中にある日本ではうだつがあがらないが、発展途上国では物凄く有用で重宝がられただろうということ、こう言う状態の中で財産争いなんかさせておくのはもったいないなあということだった。

 

「マンション完成」

 

新しいワンルームマンションが完成するまで、母には収入がなかった。兄弟達は、誰も一人で母を支えることはできなかった。四郎兄さんは6人の子持ちで、受験生を抱えており、五郎兄さんも3人の子持ちで受験生を抱えていた。三郎兄さんは子供は2人だけど、まだ小さくて、これからの責任を考えたら、とても自分の生活をかけて次郎兄さんの理不尽に付き合うことはできなかった。

 

経済力がどうのという前に、母のものは自分のものだと思っている次郎兄さんが、「ヒモ」みたいに母を通じて、母の面倒を見ている弟妹の生活に侵食してくることを恐れた。次郎兄さんが背後にいると、善意も無駄になってしまうのだ。援助するとしたら各自がこっそり、「ヒモ」に分からないように、母に援助しなければならなかった。

 

当時住んでいた社宅で、私は近所の子供を集めて英語教室をやっていた。42歳で日本に来て、初めて日本企業に勤めたエノクは、まだ日本国籍を取得していなかった。仕事は2年ごとに契約更新をしなければならず、不安定だった。定年まで勤めても、18年、年金も退職金も当てにならず、子供はまだ6歳だった。勢い、私は英語教室にかけた。子供の学費資金と年金補強のために、自分が稼ごうと思った。

 

そこで始めてから生徒が口コミで増え始め、頼まれれば、二つ返事で引き受けるうち、教室は常時50人ほどの生徒を抱えることになった。

 

しかし私はどうしても相場のような高額な月謝が取れなかった。あの頃、私は苦労して人様の助けで学歴をつけたという過去を忘れることができなかった。おまけに私はエルサルバドルの内戦下に8年生きて、文字も読めない、学校にも行けない子供達が、4歳の頃から労働力となって生きている悲惨な状況を見てきた。

 

だから自分が受けたもので自分だけがいい思いをすることにブレーキがかかっていた。「いい思い」というのは、日本の標準の「いい思い」ではなくて、識字率30%の国の「いい思い」だった。

 

自分は自分のために学歴を身につけたのではないという思いが、いつも心を支配していた。私に学費免除で大学院の課程を終了させてくれた、もう故人となられた学長の言葉が忘れられなかった。

 

卒業して給料をもらい始めてからすぐに、「借金を返す」つもりで会いに行ったとき、「あなたはもう卒業をしたんだ、いまさら学費はいらない、お金があるなら社会に戻せ」と彼女は言った。あの言葉を聞いた時、私は彼女の好意を「かえせば済む借金」と考えていた自分を恥じた。

 

あの時私は若かった。どんなに苦しくてもプライドだけで生きていた。金持ちが集まる私立大学で、自分だけが貧乏で、自分だけが人の情けを受けていると感じてプライドが傷ついていた。だから「借金」は自分でかえせばその大事なプライドが保てると思っていた。悲しい哀れな「プライド」だった。

 

今私は内戦の世界から戻ってきて、学長が言った「社会に戻す」とは、どう言う事かを知り始めた。自分はどうしたって、自分が受けたものを独り占めにしてはいけなかった。故人に恩返しをすることはできなかった。社会に還元しなければならない。やっと私はそう言う思いを感じ始めた。

 

欲張るまい、自分達が食べられる程度、儲けさせてもらえばいい。そう思った。同業者が価格破壊だといって抗議しにきたときも、友人が、日本では月謝が安いと、人間も能力も安く見られるといって進言してくれたときも、私の脳裏にはあの学長の言葉が離れなかった。

 

安い月謝につられてあれほど集まったのかもしれない。子供達を集めてみると今度はいい加減に教えられなかった。どこまでも私の心はただで受けたのではない自分の学歴に対する使命感のようなものに支配されていた。教えるなら誠意を持って教えよう。集まった子供達にまともに教えるために、1クラス5,6人に抑えた。だからレッスンは1日2クラスになって夜10時過ぎまで仕事をすると言う事になった。おまけに相手の理解力によっては時間を延長してでもつきあった。安く抑えているから、つき10万前後しか入らなかったのだけれど、それでも私は収入を独り占めにしていると言う後ろめたさを感じていた。

 

なにかをしたい。水を求めて町を駆け回り、メルカードで、買い物客の荷物を持っては、お金を稼ぎまわっている10歳にも満たない裸足で泥だらけの少年少女の姿が、私の脳裏から離れなかった。でも私は、彼らのためにどうしてよいかわからなかった。

 

母の経済状態がマンション完成までゼロだと知ったとき、じゃあ、と私は考えた。もう一つクラスを増やそう。母の分だけ働こう、と思った。社会を考える前に手始めに自分の母だ。

 

もう1週間、目一杯に教えていたから、時間がなかった。だから新しいクラスを作るために、成績順にクラス編成を変えて1クラスの人数をふやし、新しいクラスができるように時間を明けようと思った。できたクラスは母のためだから、何人入ってきても、収入は自分のためには使うまい。何だかお金を手にすると、人の役に立ちたいという思いとは裏腹に、自分のために使いたくなる思いをあらかじめ抑えるように、そう自分に言い聞かせた。

 

そう思ったら、急に生徒が10人入ってきた。母のためのクラスだった。そんな「偶然」には驚愕する。「何を着よう、何を食べようと思い悩むな。空の鳥、野の花は、働きもしないのに、人が作ったどんなものより美しく装ってくださる神様がいる。」あの言葉は真理らしい、と私は何度思ったことだろう。

 

内戦を生きぬき、日本に難民となって、ぶるぶる震えながら帰ってきた。低開発国の難民が日本で苦労してろくな仕事にも就けないときに、エノクは三菱系の子会社に就職し、自分の経歴を生かして仕事をすることができた。それらのことはただ「幸運」などという言葉では言いあらわせられない不可思議に近い現象だった。

 

その時も、宣伝もしなかったのに、必要なときに都合よくきちんと生徒が入ってきた。人ではないものの存在が、ちらりと私の頭の片隅をよぎった。

 

うれしかった。人様によって身についた自分の能力が、わずかでも「自分だけのため」ではなく生かせられることが。母に月3万円を送金したら、「仕事を増やしてまで自分のために、お金を作ってくれた子供なんか一人もいなかった」といって母は喜んでくれた。

 

そりゃ、サラリーマンが仕事を増やして収入を多くすることなんかできないだろう。何かしようと思ったら、身を削らなければならない。その点、女は自由なんだ。

 

喜ばれて私も喜び、マンションが完成して、人が入り、収入があるまでそれを続け、少し得意だった。しかし私のこういう行動は、思わぬ疑念を兄達に抱かれる結果となった。

 

「るり子は母の財産を狙っている!」

 

げえ!何で、こういう発想になるんだろう?!

 

そうこうする内に、マンションが完成した。私の一時は住んだことのある古い学生下宿は一部屋4畳半で、トイレも共同だったし、風呂がなかった。銭湯がまだ健在で、風呂屋の煙突はいつも煙を出していた時代のことである。兄が作った新しいワンルームマンションは外見も立派で、中身も各部屋バストイレが付いていて、一人ものなら私も住んでもいいくらいな居心地のよさそうなつくりだった。階下には次郎兄さんの思いいれのある婦人服と装身具のブテイックが入って、ショーウインドウから中が見えるしゃれた店だった。

 

兄は機嫌よく、「飾りがないからお前、絵を描かないか」と私にいって来た。あの時まだ、私は絵を描くことを、誰にも公表していなかった。本職が絵描きの父の家で育った兄達だって、絵は父の絵が世界1と思って育ったから、末っ子の私に絵を描く能力があるとは思っていないはずだった。

 

へえ、と私は思った。何で私に絵を描かせたいんだろう?

 

エルサルバドルで描いたのが数点あったけれど、その絵を公の場に出して、日本で評価される自信がなかった。日本て、他人の評価を気にする国だ。ピカソの影響でも受けていなければ現代絵画とはみなされない。。。そう思ったが、兄は自分の眷属の作品を店において自慢したかったらしい。そう言う気持ちも分からないではない。じゃあ、と私はブテイックなら、エルサルバドルの風景より、人物の方がいいかな、と軽い気持ちで、派手なスペイン人形をもとに人物像を描いた。

 

スペインの人物の絵が完成して持っていったら、兄はすごく喜んでいた。今見ると、それほど完成度の高い絵ではない。

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「モンテエルモッサの少女」

本当は人物じゃなくて、これ↓

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兄の自慢のブテイックもできた。母が毎日店番に駆り出された。母も少し喜んでいた。次郎ちゃんの店。次郎ちゃんがやっと自分の夢を実現できるんだ、と彼女は思った。滑り出しはよかった。