「自伝及び中米内戦体験記」9月26日

「にわかホスピス(1)」

 

母の病状はすでに取り返しのつかないことになっていた。執刀医は中を見て、手をつけられないと判断して、そのまま縫い戻した。駆けつけた三郎兄さんが、「話のできる」一族の長として、医師の説明を受け、母の癌の状況を写真で見た。

 

「あと、3ヶ月持っていいところです。入院していても回復させることはできません。」

 

かなりショックを受けたのだろう。それ以来、三郎兄さんの言動は、かなり常軌を逸していた。

 

母は、手術が終わって、自分はこれで元気になるのだと思っていた。人一倍気丈な人だった。麻酔からさめて、手術の痛みから解放され、なんとか立ってトイレまでいけるようになると、母は病院の中で、長年習慣になっていた朝の体操を始めた。手術が済んだら、後は自分の気力で回復に持っていけるのだと、彼女は信じたのだ。本当に、母は自分で回復してしまうかもしれない、と私が思うほど、彼女はその気になっていた。病気というものは、ある部分、気持ちの問題で、どうにかなるものだ。この分だと、母は奇跡を起こしてしまうかもしれない。私はそう思って、母を見守った。

 

自分は元気になる、と信じたとき、母は遺産に関わるごたごたを思い出した。同時に、自分が戻ってもう一度住むはずだと信じた、あの昭和11年から暮らしている家の庭が、自分の入院中、どうなっているか、気になりだした。思いつくことを忘れないうちにと思うのか、矢継ぎ早に、三郎兄さんを通じて、いろいろと指令を発し始めた。

 

「遺産に関する遺言書を作り直したい。

 

次郎ちゃんには最終的に任せられないけれど、次郎ちゃんが住む家がなくなるようなことがないように、保証してやりたい。どうしてやればいいのか一緒に考えてほしい。

 

庭の木は切ってはいけない。あれは武蔵野市の保護まで受けている木々なのだ。草はむやみに毟ってはいけない。山から持ってきたいろいろな草花を踏んではいけないから、あるくときに気をつけてほしい。

 

池の鯉は、もう、世話ができないかもしれないから、桜上水に放してやってほしい。

 

九官鳥とカナリヤは誰かが世話してほしい。

 

細部にわたってこまごまとした指令を発していたときに、三郎兄さんは、母をさえぎって言った。

 

「母様。もう、そんなことをいくら言っても、どうにもならないのです。母様の命は、あと3ヶ月です。」

 

四郎兄さんも五郎兄さんも、兄嫁たちも私も声を失った。三郎兄さんは独断で、母が気力によって起こそうとしていた奇跡を粉砕した。愕然とした母は朝の運動をやめ、生きる気力を失った。再び病院のベッドに寝たきりになった母が、ある時そっと、静かな涙を流しているのを、私は見た。

 

ことはすべて、考えられないような事態に流れて行った。日赤は回復の見込みがない末期がんの患者をただ預かっていても仕方ないから、家族が別れを惜しむためにも、本人が、満足な死を迎えるためにも、退院したほうが良いと言ってきた。

 

しかし母は一人暮らしだった。近くには問題男の次郎兄さんが住んでいて、中央線の2駅向こうには五郎兄さんが住んでいたが、兄嫁も自分の病気を抱えていた。四郎兄さんのところは子供が6人、其のうち何人かが受験生だった。

 

私は主人と相談した。

「母が承諾したら、うちに引き取りたいけれど、どうでしょうか?」

 

主人は当然のごとく、賛成した。ただし私はあまり自分のところに来て貰える自信はなかった。小学校4年生だった娘にも相談した。娘は眼を輝かして言った。

 

「おばあさまがうちに来てくださるなら、もう、うれしくて仕様がない!」

 

でも、と私は言った。

 

「おばあさまがいらっしゃるとしたら、日の当たる、庭の見える部屋をあげるのよ。そうしたら、あなたの使っている部屋しかないけれど、あなたは奥の4畳半に移ってもらう事になるんだけど・・・。」

 

娘は言った。

 

「お部屋、おばあさまに上げる。すぐに引っ越すから。」

 

娘は喘息を病んでおり、この家に移ってきたとき、娘の部屋を一番心地よい日当たりのよい、庭に面した部屋に決めたのだった。奥の4畳半は物置に使っていた、薄暗い、北向きの日の当たらない部屋だった。娘はいとも簡単に、自分の部屋をおばあさまに提供する気になっていた。

 

一人っ子で、事情があって、地域の学校から東京の私立に転校させ、私は英語教室で忙しくて相手にしてもらえなかった娘は、祖母が来てくれるのがうれしかったのだ。

家族の合意を得た。物以外の用意は整った。「うちでもよかったら来てください」と私は母に直接言った。

 

しかし、いつの間にか、話は、ホスピスの実験をしているカトリック桜町病院に母を預けようということになって行った。

 

「桜町病院なら、末期癌の患者の心のケアもしてくれるし、死の準備のために、修道院のシスターが毎日祈りに来てくれるし、カトリック信者の最後としては、ここが一番適当だろう。」

 

このように、兄たちは考えた。五郎兄さんが桜町病院の近くに住んでいた。それで、すべての手配は五郎兄さんがして、母は彼女が夢に見た、自宅にも行かずに、直接桜町病院に運ばれた。

 

3人の兄たちが母を桜町病院まで運び、母の言う遺言書の作成まで、済ませ、彼らはすべて、面倒なことが済んだかのように、結果を私に報告してきた。

 

私もこの人たちの一族だ。だけど私は自分には一言の相談もなく決められた、この一族の決定に、疑問を禁じえなかった。

 

傍からどんな風に見えようと、この、幼いころから実母と死別し、家族関係で苦しんだ孤独の母が、其の心の深奥で、もの狂おしく家族の情愛を求めていたことを、私は知っているのだ。

 

母は独りになることを恐れていた。私は結婚を決意して、母を振り切るとき、勝手気ままに私の人生に介入して私を苦しめた母が、私の衣服にすがり、私の前に手をついて、「ひとりにしないで頂戴、何でもあなたの言うとおりにするから、行かないで頂戴」と哀願した、あの母を絶対に忘れはしなかった。

 

すでに自分の孤独を悟って、あきらめ、それから決して同じことを言わず、自分に自分の運命を言い聞かせるように、孤独に耐えて生きてきた母を、私は忘れることはなかった。

 

其の母が、自分がすべてを犠牲にして育てた息子たちのただ一人からさえ、最期を看取ってやろうとの申しでもなく、一番彼女の恐れていた孤独の中で、生きているすべての家族にとっては最も簡単な方法で、「死の準備」がお膳立てされることに、私の心は傷ついた。

 

私はある朝、誰にも連絡をせず一人で、母の「収容された」桜町病院に行って見た。母は何も飾りのない殺風景な小さな部屋の小さなベッドに横たわっていた。母は不安そうに私を見て、「ああ、やっと来てくれたの・・・」といった。

 

何かを訴える目をしていた。「いかがですか」と私が言ったら、母は観念したように首を振った。「みんな親切なのはわかるけれど・・・」と、かすれるような声で言い出した母は、しばらく宙に目を浮かして沈黙した。言葉を捜しているようだった。

 

「ここはホスピスの実験病院だから、毎日毎日視察団みたいな巡礼団みたいな見知らぬ人々がやってきて、いちいち、どうですか、がんばってね、とか言う言葉をかけていくの。自分はひとりで声をかけているつもりでも、声をかけられた病人は一人なんだ。親切な言葉に対して黙っているわけに行かないでしょう?しかたない・・・1日に何10回も、目を開けてありがとうございます、満足してます、感謝しています、と答えなければならないの。私は巡礼団の見世物ではなくて、明日死ぬかもしれない患者なんだ。元気な人には其れがわからない。つらい・・・」

 

さもありなんと私は思った。兄たちは、母様には死ぬ準備が必要だから、信者として一番いい場所で、祈りの雰囲気の中で死を迎えてもらったほうが、良いに決まっているといっていた。母は自分の死の準備を準備してくれようとする息子たちの言葉を、妙な顔をして聴いていた。兄たちはみんなカトリック信者だった。そのことで、私には疑いがあるわけではない。

 

だけど人間一人が死ぬとき、「死ぬ準備」のお膳立てをするのは他人ではなくて、本人なのだ。死ぬときに求められる信仰があるとしたら、それは、聖歌やシスターの存在や決まった言葉の祈りの唱和や、それらの、ある程度生きている間は、組織運営上必要かもしれない形式ではなく、神と個人の1対1の対話以外の何が必要なのだろう。

 

カトリックだから、信者だから、カトリックホスピスで、シスターが近くにいるから、「死ぬ前の準備」として最適な場所だろう、とすべてを「設定」して、元気な人は思うだろう。しかし、誰も「死ぬ前」を体験していないんだ。

 

彼女は言う。「人間、80過ぎたら、誰だって、死ぬ準備なんかしている。いまさら、まったく会った事もないシスターから、毎朝聖歌を歌って貰ったり、祈ってもらわなければ、死ねないということはない。死ぬ準備に、他人の指導はいまさらいらない。むしろ静かに、誰にも知られないところで、自分の住み慣らしたところで、家族に囲まれて死にたい。

 

あの家で、お父様と一緒に作ったあの家で、誰にも看取られなくても良いから、あそこで死にたい。お父様だって、亡くなる時はあんなに貧しかったけれど、ぼろぼろの畳の上で、衛生も何も設備もないあの家で、家族が囲んで見送ったんだ。最先端の医療なんかいらない。私もああいう死に方をしたい。」

 

「それに」と彼女は続けた。「ここは死を迎えるためのホスピスの実験場で、毎晩毎晩、近くで誰かが死んでいく。苦しみうめく声が聞こえる。あの声を毎日毎晩聞かされるのは、心の平安どころか、静寂もない。いかにも、ここは死ぬための人生の終焉施設だということを、これでもか、これでもか、と知らせられているみたいだ。あの声を一度でいいから、聞いてごらん・・・」

 

そして私は其の晩、遅くまで母のそばにいて、「其の声」をきいてしまったのだ。私はとうとう決意した。兄弟が何を言おうと、母をこの病院から奪還しよう。私が母の最期を看取ろう。私はそのために、帰国したんだ。再びあのときの思いが心に浮かんできた。このために、そうだ、このために・・・。

 

私は母の看護婦さんに話し合いを申し込んだ。母の気持ちを伝え、自分の気持ちを伝えた。私が母の最期を看取りたい、私は母がどんな人物かをよく知っている、兄たちの処置も理解できる、しかし私は、母の最後のわがままを、今は何も言わず、すべて引き受けてあげたいのだ、兄たちを説得してほしい。ホスピスのような状況が必要なら、私が其れをいたしましょう。

 

「にわかホスピス(2)」

 

その看護婦さんは、意志も使命感も強い人だった。

 

ホスピスの精神は、患者が一番希望する方法で、最期を看取ることだから、引き取り手があって、本人も其れを望むなら、まったく問題ありません。」と、彼女は言った。

 

「たとえほかの家族が同意しなくても、引き取り手と本人の望みなら、私は責任を持ってお母様を送り届けましょう。」

 

そういう彼女の強い視線を、私は頼もしく思い、すべてを彼女に任せた。

 

そして何より、母の意思が決定的だった。「私は死に場所を決めた。瑠璃子のところに行く。私の家に来てくださいと言ってくれたのは、あの子だけなんだ。」

 

其の鶴の一声で、兄たちも同意した。ことが決まったら、なるべく誰でも納得できるような形で、兄たちが求めたホスピスを私がやってみようと、私は考えた。

 

私は電話でまず、その時武蔵境の実家にいた三郎兄さんに協力を求めた。

 

「私の家をホスピスにします。そこで、母様の心が安定するように、私の家で、武蔵境の家の情景を再現したいから、お父様の絵と、母様のベッドと、母様が自分で作った衣装と、考えられる限りの身の回りのものを、松戸の家まで運んでください。」

 

しかし三郎兄さんは言った。

 

「どうせ死ぬためだけなら、いろいろお金かけてそこまで運び込まなくても、ベッドなんかどうにでもなるじゃないか。あんな古くて重い汚いベッドを運ぶくらいなら、後でも使えるように、そっちにわしが行って、軽くて新しい清潔なベッドを買ってやるよ。あんなもん、母様が死んだ後、処分に大変だよ。」

 

その言葉を聞いて、私は激しく抗議した。

 

「その古くて重くて、汚くて、くさくて、細菌まみれのベッドを持ってきてください。どうせ何を入れたって、トラック1便に収まるんです。料金に変化はないはずです。

 

母様はいまさら新しいベッドで死にたいなんて思っていないんです。『どうせ死ぬから』とおっしゃいますが、『どうせ死ぬから』、今まで生きてきた環境で見送ってあげたいのです。

 

うちは家族が3人で、畳があるから、後で使える新しいベッドなんか要らないのです。後で利用価値があるかどうかじゃなくて、今母様が何を望んでいるかだけを考えるから、私が引き受けたのです。母様が大事にしているものなら、ごみも全部持ってきてください。」

 

私のものすごく強烈な言葉に、兄たちは、仕方なく、私の「理不尽で、無駄な計画」に同意した。五郎兄さんが、荷造りをして、主だった父の絵と、母が趣味として集め、壁一面に飾っていた、民芸品の土鈴と、母が作った衣装と、ベッド、その他の身の回りのものと、私がいつかプレゼントした簡易トイレとを運んできた。

 

それから私は昔の古巣の、母校の修道院に電話した。兄たちの眼から見た「外見上のホスピスの体裁」を整えるため、だれかに協力してもらおうと思ったのだ。「蛙」というあだ名で通っている、私の同級生が、高校の校長になっていた。

 

「私の家で余命3ヶ月の母を引き受けた。シスターの存在がほしい、たまにで良いから、来てくださらないか・・・」「よし来た」、とばかり、彼女は同意してくれ、其れを聞いた、先々代の校長の、例の昔の喧嘩相手、シスター廣戸が、修道院の、最近亡くなったシスターが使っていたものだといって車椅子を送ってくれた。

 

桜町病院の看護婦さんが、松戸市の医療センターに連絡を取ってくれ、「いざというとき」のために、やはり、ホスピスとして新規オープンした、元国立がんセンターを紹介してくれた。兄たちと一緒にそこに行き、「いざというときのために」名前を登録しておいた。私は其の「いざという時」を自分が見ようとしていたのだけれど、其れは言わなかった。

 

それから、老人介護のための、「看取り施設」とでもいえそうな、病院を探した。当時住んでいた小金原の社宅の隣に、個人の開業医があり、私たちはいつも、その町医者を利用していたので、話しに行った。

 

ところで隣の其の女医さんが、言ったのだ。

 

「あらあ。なんだ。3ヶ月の命なら、1、2、3・・・もう11月には死ぬんじゃない。もう11月なんてすぐよ。あっという間に死んじゃうから、良いわよ。うちで見てあげる。」

 

こいつは、外見上も人間の中身もホスピスには向いていない・・・と私は思った。冗談じゃない。人の親を何だと思っているんだ。

 

私の表情を見たのか、何を思ったのか、突然彼女は「親切に」ほかの選択肢を教えてくれた。「ここから歩いてでもいけるところに、老人ばかり見ているところがあるわよ。旭心療内科というのだけど、そこならデイケア施設もあるし、老人介護が専門だから、年中無休で訪問介護もしてくれるわよ。うちなんかより、そっちのほうが専門だから、いいかもしれない。」

 

桜町病院の看護婦さんに、其の話をしたら、早速調べてくれた。私は電話をし、其の心療内科の旭先生に会いに行った。ものごとは、あきれるほど、よい方向に動いて行った。旭先生は、父の出身地、愛媛県の出であり、当地の名門校であるカトリックの私立高校を出ていたために、カトリック信者の死に立ち会うのに、其の方面の心と知識があった。

 

次に私は松戸教会の神父さんに連絡を取った。当時赴任していた主任司祭は、私の一族の出身教会である吉祥寺教会の出身で、しかも三郎兄さんとは同級生で、家族同士知っていた仲だった。助任司祭は、母の出身地である札幌を知っていた。

 

何でもいい、どこかにつながりがあるということが、この際必要なことなんだ。すくなくとも、見ず知らずの若いシスターの歌声なんか聞いているより、母が望むことなんだ。私が兄たちの眼をくらますために仕組んだ、外見上のホスピスの体裁が、あれよあれよという間に、整ってしまった。

 

母が愛した父の絵を飾り、天井近くの余白に、土鈴を並べ、当時、ブルーチップといって、集めると、いろいろな品物に変えられるサービスを利用して、母の衣装掛けを買った。母が見える位置に其れをおいて、母が作った色とりどりの衣装を納め、用意万端整えて、母を待つ段取りができた。

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上は現在我が家で引き取った母のコレクションの土鈴。 これを病室の天井に並べた。

 

「にわかホスピス(3)」

 

「いくらなんだって、快気祝いとは!」

 

桜町病院の看護婦さんは、約束どおり、母を救急車で私の家まで送ってきた。五郎兄さんの家族が、同乗してきた。母が桜町病院を辞するとき、門のところで病院に向かって、深々とお辞儀したそうだ。

 

「この世でお世話になった最後の施設に対する、母の心からの礼のように見え、心に感動を覚えた」と、其れを見た兄嫁が伝えてきた。

 

私たちが住んでいた、松戸市小金原の3LDKの社宅に、母が引っ越してきてからまもなく、一族が集結した。

 

「お祝いしましょう」と四郎兄さんの兄嫁が言った。怪訝な顔をして、私が彼女を見ると、「こういう場合、快気祝いをするもんですよ。」という。

 

私は非常識な家に育ち、かなり非常識な人生行程を経てきて、日本の常識と言うものには疎かった。で、こと常識に関しては、常識家の四郎兄さん夫婦を頼りにしている。しかし今回だけはへんてこな気分だった。

 

元気になろうと、病院の中で朝の体操まで始めた母に、「あなたは3ヶ月の命です、そんなことはすべて無駄なことです」と、ほとんど人殺しのような発言をした後で、「何が快気祝いだよ!」と思った。「しかも、入れられたホスピスとは、死を迎えるための見送り施設だぞ!」

 

「奇麗事しか言わないに決まっている」私を外して、兄達が桜町病院に母を連れて行ったのが、ただ、財産の決着をつけるためだけだったらしいと、私は疑っていた。

 

そう。私はそれが奇麗事かどうか知らないけれど、最後の最後まで「次郎ちゃんが生きられるように」と願っていた母の思いを叶えてあげたい、安心させてあげたい思いをもっていた。そしてその思いは、奇麗事に見えても仕方ないほど、財産に関する物事は、無情な決着をつけなければ、後にも先にもいけない状況にあったと言う事は確かなことであった。

 

しかし、「信者としての死の準備のために最適な施設だから、桜町の実験ホスピスに」、というのは名目上のことで、すべての決着がついたら、後はお好きなようにと、私の家に引き取ることに同意した兄たちの本心を、そのときの私はかなり冷淡にかんぐっていた。

 

母の好きな鮨を取り、其の「快気祝い」をやった。みんなが持ち寄りで、いろいろな食物を持ってきた。祝う部屋は応接間兼私たち夫婦の寝室にしていた玄関横の6畳で、私はそこに、もともとおいた応接間セットと、臨時に移した英語教室用の机を持ち込んでいたから、かなり狭かった。

 

其の狭さが結集した一族がかえって、親密に感じさせた。母が喜びそうな、スペイン製のテーブルクロスをかけ、鮨と兄嫁たちの手製の食物を置き、母を囲んで、「快気祝い」をした。みんなが、「おめでとうございます」と挨拶した。

 

一応、其のうそみたいな「快気祝い」にも、「おめでとうございます」とかいうんだ・・・。

 

常識ってこういうものかと、絶対にすべてを理解しているはずの母の顔を、なんかやりきれない思いで、私は見た。

 

母は、どうでもいいから息子たちが「集まる」ことを喜んでいた。息子たちが巣立ってから、ほとんど孤高といえそうな孤独を守って、イベント訪問しかしてもらえなかった母が、やっと迎えた「死」という最大のイベントに、みんなが集まってきたことを、母は喜んでいた。其の最大のイベントを、力の限り、演出してやろうと私は思った。

 

「すずめが引っ越してきた」

 

ホスピスができた。神父さんも用意したし、シスターも用意した。「いざという時のための」受け入れ施設も用意したし、回診してくれるお医者さんも用意した。簡易トイレも、車椅子もあるし、部屋は母が愛した父の絵が、所狭しと飾ってあるし、天井の近くには、母の趣味の土鈴も並べ、母が東北旅行の土産に買ったお気に入りの大きな張子の赤べこも飾った。衣装かけには母の作った色とりどりの洋服を並べた。母が其の上で死にたいと望んだ、例の「汚い」ベッドも運び込み、母の家の雰囲気を再現した。

 

それらのことはすべて「無駄な」ことのように思われたが、人を一人看取るのに、「合理的な」ことなど考えなくてよいと、私は思った。

 

其れを確認した兄たちは、満足して去って行った。去る前に私は抜け目なく、兄嫁たちにいった。

 

「これから私が母様を世話しますけれど、母様は必ず、みんなに私の悪口を言うはずです。私もお二人の悪口を散々聞かされているので、こういうものだと思って世話をしますので、どうか、其のつもりで、動揺なさらず、お任せください。」

 

思い当たるところのある、二人の「できすぎた」兄嫁たちは、きわめて完全に納得し、帰って行った。

 

母は私が適当に並べて飾った土鈴を眺め、並べる位置が気に入らないと、「其れを真ん中に、あれは右に」と言って、指示した。

 

母が仕立てた洋服は、組み立て式の透明なビニールの覆いがある、衣装ケースに飾った。母はそれを見て喜んだが、つった衣装の位置をまた気にして、「配色を考えて並べて頂戴」と言って、「ピンクの隣はグレーがいい」とか、「緑と青を一緒にするな」とか、やっぱり自分の色のセンスに合うように指示した。

 

布団を覆うシーツも、白はイヤだ、色物がいいというから、近所の蒲団やで花模様のついたシーツを買ってきたら、「まあ、こんなきれいなシーツ、見たことない」といって喜んだ。母はすごく無邪気だった。

 

あらゆるわがままを聞くのだ、と私は自分に言い聞かせ、この仕事を引き受けたのだ。其のことが、なんだか得意だった。

 

母を看取る気になった私は、帰国以来調子の悪かった体が、いきなりしゃんとして、なかったはずの力まで沸いてきた。朝起きて、主人と子供を見送ると、私は母の相手をした。

 

母は初めのころは、寝たきりではなくて、気分のいいときは、起き上がって、窓の外を眺めたりしていた。何十年続けてきたかわからない、ラジオ英会話まで聞き始めた。天国では英語しか通じないと思っているわけではない。この人は、自分で決めたことはやめないのだ。

 

夕方4時ぐらいから、夜の8時ぐらいまで、土日を除いて、私は英語教室を続けた。

 

時々来てくれる旭心療内科の看護婦さんが、「介護だけしていると、心理的にばてるから、仕事は絶対に続けなさいよ」と、私に言ってくれたが、そういわれるまでもなく、私も母のDNAを受けて、決めたことはやめないのだ。

 

英語が終わったある夜、母のところにいったら、母が言っていた。「すずめがね、みんな引っ越してきたのかしら。たくさん集まって、ひとしきり鳴いているのよ。じゅくじゅくじゅくじゅくじゅくじゅくって。ある時間になると、其れがぴたっとやんで、いなくなる。あれは武蔵境のすずめかしら。」

 

「ああ、そうですよ。」と私は言った。「あの家に母様がいなくなってしまったから、きっとお見舞いに来たんでしょう。」

 

すずめだけでなく、母が愛したヒヨドリもつぐみも、尾長も、四十雀も、みんな集まってきているように、私には見えた。息子たちが巣立って、長い年月、母を慰めた小鳥たちが、母の病を知って、みんなここに結集してきたんだ。可愛い優しい小鳥たち。あの小鳥たちは、武蔵境の庭の小鳥たちなんだ、と母が決め、私は納得した。

 

「にわかホスピス(5)」

「家族の中で」

 

そうして私は昔別れた母の姿を家庭の中で見ることになった。母は満足していた。私が英語教室をやっているときに、母は取り入れた洗濯物をせっせとたたんだり、役に立とうとしているらしかった。そういう母はいつもの家庭の中の母だった。

 

晴れて気持ちがいい日には、私は母を車椅子に載せて、散歩に連れ出そうと思った。隣の家におばあさんがいて、其のおばあさんもポリープとかの手術をしたばかりだったが、回復は順調で、庭に出て、花の写真を撮ったりしていた。其の話をすると、母は「自分も、何とか回復できるかなあ」と少し希望を持った。

 

それで、車椅子に乗ってもらおうとするのに、「何とか自分で歩いてみる」といって、母はすたすたと、歩きだした。私より早い。私は車椅子を引きずって、母の後を追った。

 

しかし、やはり無理だった。角を曲がるとき、めまいを起こしたらしい。後ろを振り返り、だめだ、と言うように私を見た。私は車椅子を転がして追いつき、乗るように促した。強い人だ。

 

小金原は小金牧といって、徳川時代、水戸公の放牧場だった。駅の近くにはまだ古い町並みが残っていたが、私達が住んでいた所は新開地で、道幅も広く、並木がきれいだった。すぐ前の団地も、木々が多く、丸裸のコンクリートの建物ではなかった。一戸建ての家々の庭も、かなり広く、初秋の草花が咲き乱れていた。

 

母は散歩しながら、そうした花を眺め、身を起こして背伸びをするように木々を眺め、小鳥を見つけて声をかけたりして楽しみながら、きれいな町だと言って喜んだ。

 

教室の子供たちの保護者が時々来るので、玄関に張り紙をした。

 

「病人がいますので、お静かにお願いします。」

 

それだけで、万事心得てくれた保護者たちのおかげで、子供たちも静かに来てくれた。誰かが自分の家で取れたらしい大根を、玄関にそっと置いてくれたりした。

 

当時生徒は50人以上いた。かなり忙しくて、食事の時間にあわせて飲む薬のために、母のためにだけ食事を作り、そそくさと配膳して、夕食の相手もできなかった。しかし、家族とはいいもので、時には、小学4年だった娘が帰っておばあさまの相手をし、エノクが帰って、母の相手になってくれた。

 

テレビは母の部屋においてあったが、日本のニュースは凄惨過ぎると言って、自分でつけようとはしなかった。子が親を殺し、親が子を殺す時代が始まっていた。

 

母が其のうち、変わってきた。朝主人が出勤するとき、服を着替えて玄関まで威儀を正して出てきて、「いってらっしゃいませ。」と挨拶した。

 

そういう挨拶を、私はかつて家庭の中で知らなかった。記憶にある限り、画家だった父は、出勤ということをしなかった。多くの場合は家で寝ていた。主婦が、出勤する一家の主に、「行ってらっしゃいませ」といって、玄関で手をつく場面は、テレビで見る古典的な映画の中だけだった。

 

母が私に言った。

 

「エノクさんは毎晩帰ったら、いの一番に私のところに顔を出して、『ただいま帰りました』って言うのよ。まさか、そうしてくれることを期待していなかった。ここで一番えらいのは、エノクさんなのに、私を立ててくれる。チオちゃんも、必ず私のところにやってきて、ひとしきりおしゃべりしていく。あなたがそうしなさいって言ったの?」

 

まさか、私は母を引き取って、看取ることに協力してくれただけで、ありがたがっていたエノクに、そんなこと頼むわけはなかった。それにエノクがそうするのは、「挨拶」のためでも、「母を立てる」ためでもなく、そういう「心」の人だったのだ。

 

彼は、母が一人でホスピスで死を迎えることに、兄弟合意して決めたことを知ったとき、母をひどく気の毒がっていた。

 

「自分が子供のころ、家には病気の祖父がいて、子供たちがみんなで、祖父をお風呂に入れたり、食事の世話をしていたんだ、老人を家族から離して、一人で病院に取り残して、死を迎えさせるなんて、残酷だ」

 

と、彼は本当に、気の毒そうに言っていた。彼は私が教室をやっていることで忙しいと思ってか、母のために、付き合いを切り上げて会社から飛んで帰ってきていたのだ。

 

10歳の娘は祖母が家にいることがうれしくて仕様がなかった。帰ってくれば私は教室をやっていて、夕食も一人でしなければならず、時には、家族3人分を自分で用意しなければならなかった。だから、娘は、母が来てうれしかった。帰って来ると母のところに行って、学校で起きたこと、友達のことなど、多分私には話さなかったことを、いろいろ話していたのだ。

 

二人とも、ごく当たり前のこととして、てらいもなく自然に母に接していたに過ぎない。「自分を立ててくれる」と私に報告した母の顔は、平和だった。母は今、家族を得たのだ。死の直前になって、やっと平和な家族を得たのだ。

 

母があんなに毛嫌いしていたエノクにたいし、出勤のときに、病気を押して着替えてまで、玄関に出て、「いってらっしゃいませ」と挨拶するとは、口癖のように武士の子孫を誇りにして、「どこの馬の骨かわからない野蛮人」を受け入れなかった母にして、最大の回答だったのだ。母は最後に心から私の主人を受け入れた。その心の表現だったのだ。

 

「にわかホスピス」6

「太郎兄さん」

 

それからエノクは東北地方に出張に行き、少しさびしくなった。

 

兄たちが時たまここに来て、おしゃべりをしていくのだが、母はそういう兄たちに、甘えていた。予想通り、「瑠璃子が教室ばかりやって、私はほったらかされて寂しいの」とか、「食べ物が少ない」とか、私には言ったこともないことを訴えて、兄を捕まえて放さない。

 

慣れてきた所為で、だんだんいつもの母になってきた。まあ、いい。母を引き取ればこんなもんだろうと、はじめから覚悟していた。「いつもの母として」見送ろうと思って引き取ったのだ。

 

私もだんだん、母が家にいることに慣れてきた。炊事洗濯、掃除から、母のトイレの介護まで一手に引き受けるようになると、うじうじしていられない。奇麗事はともかくとして、ときには非情に、きびきびと家庭の仕事をこなさなければならない。

 

あるとき私は後片付けをせずにぐずぐずしている娘に、がみがみと怒っていた。其のとき、寝ていた母が私を呼んだ。

 

行って見ると、母は布団から顔を出して、声を抑えてほとんどかすれ声で私に言った。

 

「子供が一緒にいる間はね、人生のうちのホンの一瞬なのよ。子供には優しくしてあげなさいよ。後で後悔するから。子供が巣立った後は永遠に近い孤独が待っているだけだから。」

 

「え!?」思わず私は言った。

 

「私は子供に片付けなさいといっているだけです。無理難題を言っているわけでは在りませんよ。この程度のことで、そんなことおっしゃるなら、なぜ母様は私がまだ3歳にも満たないときから、ずっと折檻なさったのですか!」

 

つい、言ってしまった。いじめるつもりは無かった。娘をしかりつけていたとはいえ、傍からみてはらはらされるほどには、きつく言っていたわけではなかった。それなのに、あまりに心外だったので、とっさに出てきた言葉だった。

 

母は其のとき言った。

 

「あれはねえ。あなたがおなかの中にいたとき、太郎兄さんが死んだことから私が長いこと立ち直れなかったからよ。神学校から聖母病院に運ばれて、手術後容態が急変したというのに、私はあなたがおなかにいたから会いにもいけなかった。今だったらなんでもない盲腸の手術が失敗して、死ぬと言うのに、傍にもいてやれなかった。看取ったお父様は、思い出すのいやだといって、お兄さんの様子を何も教えてくれなかった。

 

結婚して初めて生まれた子だ。弟妹を統率して、一家の長男として、本当に立派な子だった。心から信頼して頼りにしていた子だった。学校でも、教会でも、誰も褒めない人がいないほどの立派な子だった。その子が、私が立ち会えない状態で、一人で死んでいった。あなたがおなかにいたから。

 

私はあれから、3年間、人に隠れて泣いたんだ。

 

17年間育てた、あの子を思えば、生まれたばかりで、性格も何もわからない、何も思い出もない、心の交流も何もしていない、見ず知らずの赤ん坊に、愛情なんかわかなかった。ただただ疎ましくて、見るのもつらかった。」

 

そういって、母はさめざめと泣いた。愛する長男の死を49年間、人前で泣けなかった母が、自分の死を直前にして初めて泣いた。声を出して泣いた。

 

1941年4月10日、私の生まれる2週間前、一家の長男、太郎兄さんが亡くなった。だから私はこの兄のことを実際には何も知らない。時々語られるこの兄の人物像を、ほんのり心に浮かべることができるだけで、かつてこの家に家族として存在した歴史のみしか知らないのだ。

 

太郎兄さんは、旧制暁星中学を卒業後、司祭志願をして、神学校に入った。見習いだか体験だか、よく知らないけれども、函館のトラピスト修道院にも一時身を寄せたことがあるらしい。

 

この兄の存在は、家庭にあった祭壇上の小さな写真としてしか、私は知ることができなかったが、私の知る限り、其れは家庭の中で大きな存在だった。私が会ったことがないとはいえ、確かに確実にあの家に存在しつづけた。

 

家には「お兄さんの箪笥」という、神聖不可侵の箪笥があって、母が時々覗いていた。多分、思い出の品々が収められていたのだろう。其の箪笥には、私など、触ってもいけなかった。

 

祭壇に飾ってあった太郎兄さんの写真は、十字架を背景にした青年で、坊主頭で学生服を着ていた。彼の顔は、先入観の所為なのか、ある独特な神聖な雰囲気をたたえていた。それは子供の私には犯しがたい、まるで聖人の画像だった。

 

私は、多分20歳を過ぎていたと思うが、かつて一人の老神父に会ったことがある。その神父は私の苗字を知ってふと顔をあげ、太郎君の妹かと聞いた。はいと答えた。

 

老神父は懐かしげに私を見て、「彼は立派な青年だった、惜しい青年をなくした」と言った。其れは、通り一遍の儀礼的な挨拶でないことが伺えるほど、深い眼をしていた。亡くなって20有余年、この老神父の記憶に残る17歳の立派な青年とは、なんだか凄い人物だったのだな、と其のとき、思った。

 

その神父さんだけではない。年恰好から言ってもどうも、その兄と同年だったかもしれないある神父さんからも同じような感慨の言葉を聞いたことがある。

 

やっぱり遠くを見るような表情で、「ああ、あなたが太郎君の妹さんか」と言っただけだったけれども、其の表情だけで、ただならぬ思いを浮かべているらしいことが、仄見えた。其の神父さんの表情を見て、やっぱりそのときも私は亡くなった兄の年齢を数えた。その神父さんが記憶し続けているその年数を数えた。

 

私が学生時代、函館のトラピスト修道院に、母の知り合いの神父さんを尋ねたことがある。その時、畑を耕していたある修道士が、なんだか散々新入会員の悪口を言った後、私の素性を聞いて、やっぱり「あの目」でこういった。

 

「そうか。あの青年はちがう。彼は初めから立派だった。」

 

悪口しか言わない其の修道士の口から出た言葉だったから、印象に残っていた。

 

私は母の死後、彼女が生涯使っていたカトリック教会の祈祷書の中から太郎兄さんの自筆の手紙と、古い新聞の切抜きを発見した。自筆の手紙は、太郎兄さんが両親に向けて、神学校に進む許可を願う手紙だった。

 

そういえば、母が語ったことがある。「男の子って、淡白だ。神学校に行くことを許可したら、後も見ずに、さっさと行ってしまった。」

 

其の古い手紙を読んだとき、私は兄の3倍弱を生きていた。17歳の一途な少年の信仰が、心に響いてくるような手紙だった。

 

新聞の切り抜きは、兄の死を悼む当時のカトリック新聞の記事であった。写真入でその死を報じる記事は、ちょっと首を傾げさせる雰囲気を持っていた。兄は1924年の生まれだから、死亡当事、17歳の少年である。カトリック新聞が、たとえ小さな社会の新聞とはいえ、まだ教会の中でそれほど活躍していた重要人物でもない、たかが17歳の青年の死を、なぜ写真入で報じたか、疑問を感じた。

 

太郎兄さんは死後49年間、いつも同じ姿で17歳の青年として母の心に存在しつづけた。残りの子供が6人かかっても、其の存在感に対抗できないほどに、大きな存在として、母の心を占めていた。

 

人間は17年で、そんなに立派になるものか、私は17歳のときどうだったろう、と思った。

 

多感な思春期の中学時代は、私はすぐに逆上して家族に石を投げつけたりする、家内インティファーダになっていた。高校に入って暴力は納まったものの、変人の誉れ高く、もうすでに私が変人と言う概念は確立していた。それが私の17歳だった。

 

17歳で死んだなら、私の変人としての記憶を49年間も持ちつづけてくれる人がいたかどうかさえ怪しいものだと私は思っている。多分兄は私が60年かけても到達できない完成した人生を17年間で生きおおせてしまったのだろう。

 

死の床にある88歳の母に、つい口から出た私の発言から、再びあの太郎兄さんを思い出させてしまった。

 

おかげで私は自分がこの家族の中で、母にとってどういう位置にあったのか、そして、この母が、私と入れ違いに天国に行った太郎兄さんの死を、どんな思いで乗り越えてきたか、母の49年ぶりの涙を見て悟った。

 

かつて幼少ころ、私は母のために苦しんだ。40を過ぎて内戦の国から帰国するときも、母が怖くて帰国に対して拒絶反応を起こしていた。母が自分の運命と、自分の弱さと戦いながら生きていることも、あの時は頭の隅にさえ置かなかった。

 

もういい・・・。あなたは88年間も自分の人生を苦しんだ。88年も戦った。もういいからご放念ください。

 

母の中に内在する神様に向かって合掌するように、私は心に唱えた。

 

「あなたの命も、太郎兄さんの命も、私の命も、下さったのは神様だ。与えられた人生の中で、神様の愛というものがどんなものかを、それぞれが知るために。」

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(写真は、母が祈祷書と呼ばれるカトリックの祈りの本に入れていた、兄の訃報を告げる新聞記事。)

 

「にわかホスピス」7

「二人の看護婦さん」

 

なんて表現したらいいのか、母はどんな状態になっても、自分を失わなかった。人は其れを「わがまま」と表現するだろう。傍から見ればそう表現されそうな状態を、私は案外「小気味よい」思いで見ていた。

 

旭診療所が時々訪問看護に、看護婦を送ってきた。はじめ来た人は、母は気に入ったらしい。其の看護婦さんは、来たはじめにそっと私にたずねた。「お母様をなんとお呼びしましょうか?」

 

そうだった、と私は思った。母が病院を嫌いな理由のひとつは、看護婦さんがなれなれしく「おばあちゃん」と呼ぶということだった。孫たちは皆、母を「おばあさま」と呼んでいたし、そもそも他人に「おばあちゃん」と呼ばれる筋合いは無いと、母はいっていた。「孫でないとしたら、其の呼び方は、年齢がいっていることを表す、失礼な言葉だ」と、誇り高い母は、テレビの取材などで、老人に対して取材する人が呼びかける其の言葉を聴くたびに、一人で頭に来て、チャンネルを回していたのを思い出した。

 

自分の思い込みですぐに対応せず、「なんとお呼びしましょうか」と聞いてくれた看護婦さんの、まだ患者に会う前のこの対応に、私は感謝した。この人は、本当に病人の気持ちに合わせようとしている。と私は思った。「母は、おばあちゃんと呼ばれるのが嫌いなので、どうか苗字で三好さんと呼んでやってください。」といったら、看護婦さんは心得て、はじめから「三好さん」と呼び、対応も言葉遣いも丁寧だった。声もかなり低音に、ささやくように話しかける。簡単には人を受け入れない母が、この看護婦さんは10分で受け入れた。

 

其のことが、後になって交代で来た別の看護婦さんの対応の仕方で、さらに明白だった。その人は、はじめから、其れしか呼びかけの言葉など無いかのように、母を「ばあちゃん」と呼んではばからなかった。声がかん高く、病人でなくても気に障るかなと思われる声だった。

 

しかも、彼女は病人の目の上に薬を持っていって、ぶらぶらさせて見せながら、「苦くないよぉ、甘いよぉ」と言うのだ。

 

注射のときは、さらに声高に、「痛くないよぉ。なんでもないみたいに終わっちゃうよぉ。」と叫ぶ。今は私は多くの人とお付き合いするために、実家の言葉遣いをやめてしまって、これも国際性の一種かと思って相手に合わせた言葉遣いをしているが、かつて私はこういう言葉遣いを他人に対して、したことが無かった。

 

困ったな、と私は感じたが、案の定、母は、この人にして母としては当然の反応をした。まず返事をしない。顔を見ない。薬を示されても絶対に口をあけず、注射に対しては私のほうを向いて、「痛くない注射など、ありません。」とささやいた。

 

思い通りの正直な反応に、半ばくすくす笑ってしまったが、これでは介護そのものができなくなる。そこで看護婦さんを別の部屋に呼んで、私はお願いした。

 

「今までの看護婦さんにもお願いしましたが、母を、おばあちゃんではなくて、三好さんとお呼びいただけませんか。別の呼び方をされることを、母が嫌いますから。母は気難しいですが、もう最期なので、わがままをさせてやってください。母は意識がはっきりしているのです。

 

それから、自分が正直だから、いい加減な言葉であやされるのを嫌います。苦いものは苦い、痛いものは痛いと言わないと、この人はうそつきだと思って、信用しないのです。

 

信用しなくなると、お付き合いを拒絶します。生涯、そうだったから、死ぬ前も同じです。どうか、些細なことですが、薬や注射に関しては、本当のことをおっしゃるか、または何もおっしゃらないでください。」

 

私もやっぱり変なんだろうなあ、と今の私は思う。私でなければ、こう思うだろう。

 

死ぬんだから、ものが言えないのだから、元気な者の思い通りにするべきだ。お医者さんや看護婦さんに従順でいるよりほかの道はないのだ。死にそうな患者には、自分の意思や希望等を言う選択肢が無いのだ。

 

と考えるのが常識かもしれない。

 

でも、其れがイヤで、一人で死んでもいいから、病院だけはイヤだと言った母を、私は母が納得するやり方で看取ってあげようと思って、ここに連れてきたのだ。私が非常識で、母の思いを伝えないことが常識なら、私の役割はないはずだ。だから私は、丁寧にではあったが、母の代弁を勤めた。

 

ところで其の看護婦さんは抵抗した。そして決して自分のやり方を変えようとはしなかった。まあ、看護婦さんも使命感をもってしている仕事だ。こうと思ったら変えないだろう。

 

しかし、その結果、体が弱っていても、意識がはっきりしていた母は決して、其の看護婦さんを受け入れようとせず、看護婦さんが帰った後、彼女のおいていった薬を、私があげようとしても受け入れようとはしなかった。

 

「私が死ぬからと言って、どうでもいいような態度で接しないでね。」と母はいった。

 

もとよりそう思って引き受けたんだ。私は、とうとう、旭先生に直訴した。旭先生は患者のわがままにすぐに対応した。以後、母が受け入れた初めの看護婦さんを、最後の日まで送ってくれた。