naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月27日

「にわかホスピス」8

「終油の秘蹟・・・説明不可能」

 

母は私が教会に頼んだ神父さんのことでも人を選んだ。

 

所属教会の主任司祭は、三郎兄さんの同級生で、一家の出身吉祥寺教会の出身であるために、母の死の床の秘蹟のために、わざわざ私が頼んだ藤丘神父さんが、来てくれたときのことである。

 

私はあまり足しげく教会に入り浸るタイプの人間ではなかったし、所属教会の人間関係がうまく行ってなかった為、実は、私は其の神父さんの人物をよく知らず、出自だけを聞いて親しみを感じて頼んだだけだった。

 

ところが、母は其の神父さんが気に入らなかった。ちょっときざな人で、外国人がよくやるような大げさな身振り手振りを使って、話をする。話をするのに、目を大きくしたり小さくしたりしながら、「Oh!」とか、「I see」 とかいう。彼は縦から見ても横から見ても、まるで日本人で、外国生活だってしたことがない。外国人とも住んでいない。ただ日本が米国の傘下に入っただけで、人間てこうなるんだ。

 

そういうの、まあ、よくいるんだけど、死ぬ前なんだ。相手に合わせて我慢なんかしなくてもいい。元気な時だって、この手の、未知の外国をまねて外国かぶれになる日本人を、軽薄で実が無いと母は嫌っていた。母の様子を見て、まずいな、と思った。

 

神父さんが帰ってから、母が言った。「あんな立派な堅物のお母様の息子さんが、ああいう風に育つんだと思うと、情けない。」

 

傍から見ているだけなら、笑えるんだけど、この際仕方が無かった。彼のあの態度は、滑稽だけど、余裕の無いときは確かに「神経」にこたえることを、私もよく知っていたから。(私も本当は、見ているだけで反吐を催したし。。。^^)

 

だからといって、母が亡くなった後も、所属教会なら付き合わなければならない身としては、親切に来てくれている神父さんを傷つけるわけには行かない。私は藤丘神父さんが教会にいないときを見計らって、助任司祭の神父さんに電話で頼んだ。

 

「母の寝言を聞いていると、母は生まれ故郷の北海道の原野を走っているらしいのです。神父様、北海道の話の相手をしに来てくださいませんか。」

 

助任神父さんは東京の出身なのだけど、どういうわけか母の出身地、北海道に詳しかった。実はその神父さん、一家ともカトリックで、被昇天の日に産まれたとかで、本名を「マリア」をもじって「マリオ」と名づけられた。そのためそのことが記憶にこびりついて、姓を忘れてしまって、マリオ神父さんと呼んでいた。

 

(註:被昇天:イエスの母マリアが天に上げられた日とカトリック教会が定める祝日、8月15日)

 

死ぬ前に思う故郷というものが、どういうものか、私は内戦の中米の暮らしで、散々死にさらされていたから知っている。

 

実際、母の寝言は母の人生の総体を語っていた。

 

「イッちゃぁん、イッちゃぁん!山のおやじだぁ!まってぇ!まってぇ!」と母は叫ぶ。母は夢の中で子供なんだ。「イッちゃん」は幼友達で、よく山に一緒に遊びに行った仲間だ。「石黒イッちゃん」というらしい。

 

母とイッちゃんがあるとき一緒に山に入ったら、山の中で、熊の子にあった。熊の子の傍には親がいて、親は子を守るために凶暴になっている、と子供達はいつも聞いていた。イッちゃんは、熊の子を見て、もう、一目散に逃げ出した。「たけちゃん(母)」はいきなり走り出したイッちゃんと、熊の子の後ろに親の影を見て、一足遅れて駆け出した。

 

イッちゃんは雲を霞と消えてしまい、たけちゃんは死に物狂いで、はいていた草履もぬぎ飛ばし、草や木の枝で手も顔も傷だらけになって、走った。息せき切って駆け込んだ家には誰もいなかった。実母が死に、兄弟が親戚中に養子にやられて、母は一人父親の傍に残されたから。

 

うなされているようなので、私は母に声をかけた。「あぁぁぁ、山の親父だぁ」と母が言って目を覚ました。「熊はもう来ませんよ。ここは家の中だから。」と私が言ったら、母は不思議そうに私を見て、納得したように「そぉ・・・」と、答えた。

 

私は静かに小声で歌を歌う。

 

「春風吹けば、深山は笑い、

霙や雪は、夢の野の霞。

百鳥千鳥、こよこよこよと、

暮るるも知らで、さえずるものを、

吾らが友も柳の下で、

遊びて歌え、歌いて遊べ。」

 

歌詞が正しいかどうか知らない。母がよく口ずさんでいた、明治時代の小学校の唱歌だ。其の歌の出だしが、まるで北海道の自然を歌っているようだったので、私はこれが文部省唱歌とはしらず、北海道の歌だと思っていた。

 

「ヌタクカムシュぺの峰高く・・・」で始まる歌を、母はよく口ずさんだ。ところが、其の歌は出だしまでしか歌わない。この出だしの後で、必ず母は憤慨しだすのだ。

 

「誰があの山に大雪山などと言う名前をつけたのだ。あの山はアイヌの山で、絶対断固としてヌタクカムシュぺなんだ。子供のころは学校の地図にだってヌタクカムシュぺと載っていたんだ。大雪山なんて、雪が降ったらどの山にでもつけられる、意味も面白みも無い、個性も無い名前をどうして採用するんだ。」

 

こう、ひとしきりいきまくと、母は口をつぐんでしまうのが常だった。だからうちでは、北海道のあの山を絶対断固として「ヌタクカムシュぺ」と呼ぶのが家訓だった。

 

マリオ神父さんはきてくれた。彼にはあらかじめ、「大雪山大雪山と言わないようにお願いしますよ。あれは誰が何を言おうと『ヌタクカムシュぺ』なんだから」、と釘を指しておいた。マリオ神父さんは、よろず「変なの」を理解する人で、大雪山をきちんと我が家の家訓どおり「ヌタクカムシュペ」呼んでくれた。

 

「にわかホスピス」9

「それぞれがそれぞれの役割を演じた」

 

まだ母が起き上がれるお彼岸のころ、五郎兄さんが、手製のおはぎを作って持ってくると言う連絡をくれた。「最後のおはぎ」みたいで、なんだかやるせなかったが、母は其の知らせを聞いて喜んだ。「おはぎがくる、おはぎがくる」と、子供のように、五郎兄さんのおはぎを待った。

 

ところがお昼にと思って待っているのに、お昼には現れなかった。まっても待っても来ないので、薬の時間を考えて、食事を先にさせなければならない。しかし、母は「おはぎが来るおはぎが来る」と言って、しまいには「ああ、たべたぁぁぁぃ」と言いながら泣き出した。兄に電話をしたら、電話口に姪が出てきてもう朝の7時に車で出たと言うことだった。休日なんだ、車なんかで来ないで、電車で来てくれればいいのに、と思ったが待つより仕方ない。

 

待ちくたびれて、母はとうとうあきらめた。そして言った。「どうせ待っているものは来ないんだ。もってくるなんて言ってうそをついたんだ。」

 

其の言葉の其の思いを私は其のとき、イヤと言うほど理解した。わがままでも何でもいい。子供のように駄々をこねる、母の其の言葉は、私の胸を刺した。たかがおはぎの問題ではなかった。其れは彼女の人生の問題だった。

 

彼女にとって、「待っているものは来ない」人生だった。早くあきらめなければ自分が惨めになるから、母はすぐにあきらめて、自分の期待を軽くしたのだ。

 

夢を見、期待し、そして最後にあきらめざるをえない人生だった。幼くして実母を失い、兄弟と別れ、頼りの実父が再婚してからは、再婚相手の折檻に耐えて16歳で家出した。夢を持って上京し、奉公しながら夜学に通い、関東大震災で被災し、壊滅した東京で、後戻りは聞かず、寄る辺ない身で、真実孤独を味わった。どこでであったのか知らないが、父と出会って結婚して家庭の幸福を夢に見た。

 

満州に渡り、5人の子供を儲け、早めに引き上げてきたのはよかったが、資産をなして東京で始めた夢のような生活は戦災と人災によって崩れてしまった。家を失い、子供を3人失い、夫を失って、残りの子供を育てるために、石にかじりついて生きてきた。何か自分のために楽しいことをしたいなんて思わなかった。わずかな希望、わずかな期待は何時も裏切られてきた。

 

母は其のおはぎが「最期のおはぎ」だと言うことを知っていた。だから薬を飲まないで、泣き声をあげてまで、おはぎを待ったのだ。「渋滞なんですよ。夜におはぎを食べましょうね」、そういって慰めたが、母はもう、おはぎをあきらめてしまった。

 

母の病状は一進一退を繰り返した。あるとき三郎兄さんが尋ねてきた。この人は母が入院して以来、一家の動向に決定権を持つ「事実上の長男」として、手が付けられないほど「自覚」しすぎていた。

 

私が教室で忙しいときに彼は母の部屋にいた。ところが、彼が母に言い聞かせていた話を聞いて、私はいくらなんでも驚愕した。

 

母に葬式の段取りの話をしているのである。

 

私が入っていくと、兄は私にいった。「真夜中から明け方にかけてが一番危ないからな。人が死ぬのは夜中から明け方なんだ。今頃はまだ死なないから、瑠璃子、今のうちに寝ておけよ。」そういいおいて、彼は帰ってしまった。もう!バカを通り越していた。

 

母はそれからというもの、夜中に怖がって寝なくなった。母は怖がりなのだ。病院に放置されたくなかったのも、一人で死ぬのが怖いからだったのだ。私は兄を恨んだ。介護する身にもなって見ろ。もう非常識な物言いは、いい加減にしてほしかった。

 

いくら非常識な一家だって、私が選ぶ非常識は超常識なんだ。「この人のためにはこれが良い、人が何を言おうとこうする以外にない」そう思って行動し、そう思って言葉を選んでいるのに、興奮し、緊張しきったこの「にわか長男」は、自分の葬儀委員長としての役割を、どのように合理的にこなすか、以外に考えがない。

 

自分で元気になろうと体操まで始めた母に、「あなたはもうすぐ死ぬんだから、そんなことしたって無駄だ」といい、もうすぐ死ぬからといって、死ぬ本人に葬式の段取りを説明し、死ぬ時間まで教えていって、そして自分は弘前に帰ってしまった。私たち夫婦が国際結婚だからと言って、二言目には非常識だとか言うくせに、自分の言動は非常識を通り越して、もう、人間じゃないよ、あいつ。

 

そういう時、東北に出張に出ていたエノクが帰ってきた。彼は、早速母にところに来て、「お土産」といって、なんだか包みを差し出した。もう、母は地方の民芸品を楽しむような状態ではなくなっていた。なんだろうと思って、私が開けた。其れはどうも山の中で自分で摘んできたらしい、何かの実だった。

 

「何ですか?これ」と私が言ったら、主人は言った。「山葡萄だよ。お母さんが北海道の野原で、子供のとき、山葡萄をとって食べた話をしてくれた。八幡平の山の中にたくさんあったので、土地の人に聞いて採ってきた。」

 

そうだ。母はよく北海道の山で山葡萄やスカンポを摘んで食べた話をしていた。主人は開発会社で、よく温泉地の地質調査のために、かなりの僻地に出張する。よく見つけたなあ、と思って母に言った。

 

「ほら、山葡萄ですよ。子供のころよく野山でとって食べたと、おっしゃっていた、エノクが見つけて持ってきてくれましたよ。」

 

母は驚いて其の箱を覗いた。懐かしそうで、うれしそうだった。

 

ところが、母のうれしそうな顔は長く続かなかった。「こんなに採ってきてしまって、熊や鹿の食べ物がなくなる・・・」というのだ。

 

主人に其れを伝えたら、主人はニコニコして言った。「大丈夫、熊や鹿の分は残してきましたよ。これは熊や鹿が、お母様にってくれたんです。」

 

「おお!!」こういう機転は、彼が得意とするところだった。母は安心して、「熊と鹿がくれた」お土産を食べた。

 

皆が自分の役割を演じているに過ぎなかったが、人々の対応でむしゃくしゃすることが多かった時、「外国人で非常識の」エノクの言葉が、すごく崇高に見えた。

 

「にわかホスピス」10

「姉が帰るまで」

 

10月も半ばを過ぎるころ、母はもう一人では起き上がれなくなった。おなかが異常に膨らんできて、我慢強い母が痛みを訴えるようになった。武蔵境の日赤が、宣告した3ヶ月は近づいていた。往診に来た旭先生は、延命治療をすれば、後3ヶ月ぐらいは持たせられるが、そうでなければ数日の命だと私に言った。私が選択を迫られていた。母が延命治療を嫌がっているのを私は知っていた。

 

「体中の穴という穴に、管を差し込んで息だけさせられたって、つらいだけだ、あんな惨めな目には合わせないでほしい」と、母は常日頃から言っていた。そんな惨めな思いに合わせないため、私が「にわかホスピス」をやっているんだった。

 

家族に決定権をゆだねる必要は無いと思ったが、まず決定する前にアメリカにいる姉を呼ばなければならないと、私は考えた。とにかく姉に連絡を取って母の死に目には会わせてあげよう。

 

結論がでるまでは、必要だからと、旭先生は酸素ボンベを担ぎこんだ。扱い方を教わり、私が操作した。酸素ボンベは使い切ると、私はエノクと一緒に、夜中でも旭先生のところに空の酸素ボンベを担ぎ込んで、代えてもらった。

 

母はいやそうだった。しかしもう一人では身動きができない。されるがままに私を見つめる目の訴えることを、私は理解した。

 

あるとき母は片手を動かして、「もういい」と言って、自分で鼻の中から酸素に通じる管を外した。「もう、いい。もう、思い残すことは無いから」

 

私は母にお願いした。「アメリカから明美姉さんが帰ってきますよ。どうか其れまでは生きてください。」

 

母は疑い深そうに私を見て言った。「本当にチンは帰ってくるの? あの子のことだから、私が死んだってどうでもいいんじゃないの?」「いえ、今チンは飛行機の中です」と私は答えた。

 

兄嫁が手配したので、アメリカの姉はもう飛行機に乗っているはずだった。

 

それから私は、あれからどこかに消えてしまった次郎兄さんを探した。母が家族全員に看取られたいと願っていることを知っていたし、このまま死に目にも会えない状態だったら、次郎兄さんも寝覚めが悪かろう。和解していってほしい、と私は思った。

 

母は外を眺めて、しきりに季節のことを気にする。「チューリップが咲くまで生きられるだろうか」と母が言う。生きようと思えば生きられますよ、と私はいい、母をだまそうと考えた。まだ10月だったけれど、早めに季節を動かそう。

 

私は娘に言い含めて、クリスマスの飾りを出した。「クリスマスが来ますよ、ここでお祝いしましょうね。」

 

母の病室の足元のところに、私たちはクリスマスツリーを飾った。母が見えるところの壁には星や天使を飾りつけ、明滅する光をつけた。

 

其の年は町の並木のかえでの葉がすごくきれいに色づいていた。其れをたくさん拾ってきて、母に見せたら、其れもツリーに飾って、というので、赤や黄色に色づいた葉をツリーに飾った。

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「立派ねえ」とツリーを眺めて母が言った。娘が生まれてから、毎年飾りを作ったり、買い足したりした自慢のツリーだった。昔、子供だったころ、どんなに貧しくてもクリスマスの飾りだけは、かなり派手に飾っていた。覚えている飾りを、私はまねて手作りの飾りを飾った。其れを手にとって、母の顔に近づけて見せた。母は懐かしそうに、其れを眺め、「ちかちかした電気をつけて」と、甘えるように言った。

 

母の体はむくんできた。肝臓の機能が低下したのだ。痛みのために、あまり食べ物も受け付けず、おなかが大きく膨らんだ。とうとうモルヒネを投与した。

 

母は幻覚を見始めた。部屋の隅を指して、「ねずみがいる、ねずみがいる、ああ、こっちにくる」という。あらかじめ、看護婦さんから、モルヒネを投与したら、幻覚を見ると言うことを聞いていたから、私は穏やかに相手した。「武蔵境からねずみまでお見舞いに来たんですね。」

 

四郎兄さんの兄嫁が来て、時々世話をしてくれた。でも彼女はきわめてまじめな人だった。母が自分の大きなおなかを指して、「私、妊娠しているのね、生まれたら、柚子ってなづけてね」と言った時、「ご自分を何歳だとお思いですか?」などと厳しく言うのである。其れを制して私は言った。

 

妹が生まれたら、柚子にしますよ。可愛がって育てましょうね。」姉はあきれて私を見、付き合っていられないというように、顔を背けた。

 

「にわかホスピス」11

「母が正気に戻ったとき」

 

それでも母は時々、正気に戻った。正気に戻るときは、まるで深い眠りから覚めたような、すがすがしい表情をしていた。其れを見て、旭先生が、お正月まで持ちそうだとまで言っていた。

 

ある日、母が正気になって、私を呼んだ。「あなたにお願いがある」と母が言う。「何でしょう」といったら、指をさして自分が持ち込んだ荷物をあけてほしいといった。中には見るからに古い冊子や書き物が出てきた。父の絵に関わる書き物らしい。

 

「多分、あなたしかやってくれる人はいないから」、と母は言った。父が死んでから、まったく余裕のない中で、いつかは必ず果たそうと思っていた仕事だと、母は言った。

 

「お父様の画集を作ってちょうだい。」母は哀願するように訴えた。「今まで四郎ちゃんたちに幾らお父様の画集を作っておいてほしいといって提案しても、乗り気になってくれなかった。その気でやってくれそうなのは、あなただけだ。」

 

パソコンが一般化されていない時代だった。自費出版なんかよほどの余裕がないとできない相談だった。よりにも選って、私はまったく経済的には余裕がない人間だということを、母は一番知っているはずだった。其の私にあなただけだ、と頼む其の表情をみたら、有無をいえる状況ではなかった。

 

其のときの母の表情は、長いこと懸案だったこの仕事を、自分の死後やってくれそうなのは、お前しかないと感じていた、ほとんど最後の頼みのように見えた。「そりゃ、そうだ。」と、私は自ら思った。貧乏でも何でも、やろうと思ったら始めてしまう無鉄砲さを持っているのは、私だけだ。

 

「もし皆が協力してくれればできるだろう・・・。」と、それでも私は考えた。賛成してくれ、協力してくれそうな親族を思い浮かべた。あの人もだめ、この人もだめ、と言うほとんど「確信」みたいなものが心をよぎった。試案の果てに思いついたのが、四郎兄さんの兄嫁だった。彼女は芸術を見極めるセンスと、何より、まじめで純粋な心がある。彼女が動けば、四郎兄さんも動く。

 

いい返事をしたい。大きなことではまったく信頼されたことのない私にとって、自分が信頼されたことはうれしかった。画集の編集に携わる自信もあった。しかし私は実の兄弟との関係が、誰ともうまくいっていず、信用もされなかったし、発言力はまるでなかった。資金に関しては私は誰も動かせない、と思った。母は自分のたくわえを使えばいいと言ったが、それに手をつけたら、兄弟間に争いが起きることを、私は懸念した。

 

母が大事に保管してきた書類を見た。それは父の名が載っている戦前戦後の絵画関係の雑誌と、父が死ぬ前に日展審査員として下りた辞令などの書類だった。母がいつか言っていた。父は其の辞令を床の上で見て、喜んでいたが、ただの一度も、審査員の仕事はできずに死んだ、と。其の母の思いを知っていた。

 

父を敬愛し、父のために生きてきた。私たちは母の子供より前に父の遺児だった。父の関わるものを母は愛した。其の思いの最後の結晶が、画集の編纂だと言うことを私はよく理解できた。私は運を天に任せ、母の最期の願いを引き受けた。

 

それから母は、遠慮しながら、私にもうひとつお願いがあるといって頼んだ。「次郎ちゃんのこと、お願い・・・」

 

あの兄のことを誰でもいいから頼もうとしている、母の必死で、悲しいまなざしを私は捉えた。「ああ。それだけは無理だ」と私は心の中で考えた。「次郎兄さんはね、ご自分でご自分の人生を、ああいう方向に持っていくので、私の手にはおえませんよ。」と、私は言った。母は宙に目を浮かせてつぶやいた。

 

「そう・・・。だめなの。あの子だけは私がどんなにお祈りしても助けられなかった。あの子だけはだめなのか・・・。ああ、あの子だけはだめなのか・・・。あの子は私が死んだら、路頭に迷うのか・・・。」泣く元気もなく、涙をためた、其の表情を見た。

 

其の表情を見ていたら、私は、母親としての最後の必死の思いが、心にひしひしと伝わってきて、やりきれなかった。この母、言葉や態度だけ見ていると、心配している当人の人生を、自ら玩んでめちゃくちゃにしてしまったかに見えたが、あの次郎兄さんのことを、もしかしたら一番本気になって心配していたんだ。

 

人間は皆不完全だ。何とか本人のためと考えて行動したつもりでも、自ら自分の限界に突き当たってしまうのだ。其のことが其のとき、私の心を突き刺した。それで私は思い余って言った。

 

「母様が次郎兄さんのために祈り続けた其のお祈りを、私が引き受けていきましょう。お約束できるのはそれだけです。私たちは難民で、エノクが日本で仕事し始めたのが40代になってからです。国籍もまだとっていないから、仕事は毎年契約更新でつないでいて、不安定です。だから次郎兄さんがどうなっても、経済的にはまったく援助する力がありません。」

 

母はつらそうな表情で私を見た。どんなに心を込めてものを言っても、できないことは約束しない私の、親子の共通のDNAを、母は認めざるを得なかった。後で四郎兄さんの兄嫁にこの話しをしたら、「お母様、四郎さんにも同じこと頼んでいらしたけれど、経済的な援助はうちできっと引き受けるでしょう。でもあなたって、一番難しいこと引き受けたのよ。わかっているの?」と、言われてしまった。

 

そうか・・・。一番難しいことを引き受けてしまったのか・・・。憮然として、私は宙を見た。

 

「にわかホスピス」12

「シスターが来た」

 

あらかじめ頼んでおいた、私の同級生のシスター蛙が、本当に時々来てくれた。もう、其の頃は、初め、兄弟の目くらましのために集めた、「ホスピスの形を整えるため」などと言う考えは持っていなかった。母の死の覚悟に対するあまりに厳粛な思いが、そうした人を食ったような考えを吹き飛ばしていた。

 

シスターは時々、ホステイアを持って来てくれた。昔は女性は、シスターでもホステイアを運ぶことは許されなかった。彼女は、小さな容器に何枚かホステイアを入れてもってきて、「毎朝あなたが差し上げて、」という。あらま、そこまでできるのか。よかった。誰が何を言おうと、これは今死に臨んでいるカトリック信者にとって、一番大切なものだ。これを毎朝あげられたら、母の心は平安になる。と私は思った。そういうわけで、私は教会から誰が来なくても、毎日、母に聖体拝領をさせた。

 

実は、後でこのことを知った所属教会の神父さんが、仰天してしまった。本当はいけなかったらしい・・・。私はこの手の「規則」と言うものが必要なのは、それが守れるほど日常生活が平常を保っているときだけと思っている。だから、人の死を前にして切羽詰っているときは、死の床にある人のためだけを考えればいいと思っていた。私の友人は、そういう私の心情を察して、あえて、あのような行動にでたらしい。いい人だ。こういう人が好きだ。

 

ある夕方、シスター蛙が来たとき、ちょうど私は仕事をしていたので、彼女は静かに母の相手をしてくれていた。もともとどたばたした人じゃない。自分の存在を異常なほど他人に披露してやまない人じゃない。

 

仕事が終わって、来てみると、母は泣いていた。どうも感激しているらしいと見て取った、私は、後で帰りに彼女を見送りにでて、どんな話をしてくれたのか、聞いてみた。しかし、彼女はただ、傍にいただけらしい。ほっとしたことに、「其れらしき」お説教をしたわけではなかった。ただ一緒にいて、すずめが来ているのを話題にしていただけだという。そうしたら母が「あなた様が傍にいてくださると、心が平和になります」といって泣き出したのだという。

 

余計なことをいわずに、なんでもいいから傍にいる。聖歌も歌わず、神様がどうのなんて言う話をしない。窓の外に見える景色について、すずめがたくさん来てますね、などといっている。だって何しろあの雀、武蔵境から来たんだから。そういうのが、母が求めていたことだったのだ。

 

良い友人を持ったな、と私は其のとき思った。

 

「にわかホスピス」13

「夢の中の空襲の夜」

 

「空襲だ、空襲だ! チンとグー(姉と筆者の幼名)を守らなければ!はやく、はやく!防空壕に入って!」母が夢の中で叫んでいた。母は1944年をさ迷っていた。母の夢うつつの中の声をきいて、私の脳裏に、あの武蔵境の実家の庭の一角を掘りぬいた防空壕の景色が浮かんできた。

 

夜の世界だった。サーチライトが空に光った。防空壕の入り口で、母が飛んできた黒い物体を避けた一瞬がひらめいた。

 

私は母が夢の中で、時にはつぶやき、時には叫ぶ其の声を聞きながら、自分が今まで見失っていたものを、まるで記録された映像のように感じた。子供のとき、私が鬼のようにおびえていたあの母が、姉と私を空襲から守ろうとしている、其の映像が、異様に客観的な記録映画のように、明瞭に、完全な姿で、私の目に映った。ほう・・・。

 

母が私を守っている。母の幻影の中の記録映画を見ながら私は感動していた。

 

私は母にとって、いないほうがいいはずの子供だったと、私は長いこと信じていた。私の思考力も信仰も、むしろ其の幼児体験が出発点だった。母に抱かれた記憶はまったくの一度もなかった。母の夢は、ちょうど其の時代の映像を映していた。戦乱の中を、母は幼児だった私を守ろうとして、髪振り乱して駆け回っていた。真っ暗な夜の闇の中で、黒い人影が右往左往していた。母はもたもたする私を叱り飛ばしながら、子供達を先に防空壕に押し込んで、まだ動き回っていた。

 

其の映画の中には、あの父の絵の中に残る西洋の庭園を模したような庭の面影はなく、垣根も木々も薪として切り倒され、庭はサツマイモのつるに覆われていた。防空壕の「横穴」と皆が言っていたくぼみに、私は知り合いの人がくれた西洋人形を抱いて身を寄せていた。真っ暗だった。口を利くものはいなかった。母の夢は、母の側から語った戦争のころの、幼児の私の状況を映していた。

 

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父の描いた戦争前の庭

 

母は私を守っていた。母は私を必死で戦乱の中で守っていたのだ。そんなこと、知らなかった・・・。そんなこと母が88で、私の介護を受けて、無力をさらして横たわるまで、知らなかった・・・。

 

「にわかホスピス」14

「武士の誇り」

 

あるとき、母の傍にいたら、母が誰に言うこともなく、天井を見上げてつくづく考えていたことを声に出したように、ぽつりと言った。

 

「私が生きてこれたのは、自分が武士の娘だという誇りを持っていたからだった・・・」

 

まるで、「どう考えてもそれしかない」というような言葉だった。私はこの言葉が、母の心の深いところから、真剣に出てきた言葉であるにもかかわらず、なんだかひどく不審を感じた。

 

私は昭和の御世に生まれ(御世!母の武士道じゃないけれど、気をつけていないと、ふと出てきてしまう言葉だ・・・)、「武士の誇り」と言う感覚を持たなかった。武士は時代劇の中で、やたらに人殺しばかりしている集団で、毎年時期になると放映される「忠臣蔵」みたいな、武士の標本的な物語にも、いつも斜に構えてみていて、「武士の本分」に大して心を動かされたことはなかった。

 

其の「誇り」が、生きるための支柱という意味なら、私には其れはカトリックの信仰以外になかった。私は骨の髄まで、カトリック信者だった。そして其れは、幼少にして父を失った私が、「武士の誇り」を拝んでいる、当の母から受け継いだものだった。

 

母の信仰表現に関するしつけは厳しかった。家はまるで修道院のように、朝は祈りによって目覚め、食前食後の祈りから、就寝時の祈りまで、すべて家族がそろって声を合わせて行った。日曜の教会に休むなど、罪そのものだった。私の罪悪感、私の信仰、私のキリストの生き様に関する解釈は、すべて、母のあの厳しいしつけの中から生まれ、身についたのだ。

 

そういう家庭生活の秩序を作った母の、「生きてきた支柱となった精神」が、「武士道」であると言う、臨終の床の言葉は、私にはほとんどショックだった。あれほどものすごいカトリックの信仰に基づいたしつけをしておいて、それ何だよと、変な違和感を感じたのである。

 

母がキリスト教と出遭ったのは、いったい何歳のときだったのか、私は知らない。父に出会うよりも前から教会を知っていたと、時々母が語っていたので、おぼろげに記憶にある。母の実父が、何の因果か、多分、文明開化時代の興味半分からだったか、教会に連れて行ってくれたことがあると言うことと、16歳で家出して東京に出てきてから、ミッションスクールの名門校である、東洋英和という学校とかかわりを持ったことがあるということを知っている。母もポツリポツリと語ったので、断片的な記憶で、正確なことはわからない。

 

しかし母は父がカトリックの信仰を持ち始めたときに、キリスト教にはまんざら初心者でもなかったので、入りやすかった、といっていた。しかし、彼女がキリスト教に、本当に出会ったのは、少なくとも、結婚してから、つまり、自分を支える信念というものが、すでに形成されてからであろうことは疑いない。

 

しかし、よく考えてみると、それで私には合点が行ったと思えることもあった。

 

母から離れて、聖書のどこを読んだって、イエスは弱いものの味方であって、人間の弱さを罪として追求してやまない人間ではない。イエスの愛は、自己の弱さを見つめ受け入れ、そして同じ弱さをもつ人間に対する連帯に目覚めることから出発する。

 

人を裁いては切り捨て、自己までも裁いて切腹することまでをも潔しとした武力集団の武士道の精神とは相反する精神だ。

 

罪の女として、群集からリンチにあって殺されかけていた女性をかばって、イエスが言った言葉、「汝らのうち、罪なき者、まず石もてこの女を打て」によって、救われたのは、表面的な解釈をすれば、其の女性の命だと言うことになっている。

 

しかし、イエスが回心をうながしたのは、むしろ、自分を省みず、他人の罪のみ追及し、自分に人を裁く権利があるかのように思っていた、群集だった。結果的に女性は救われたとしても、他人を裁いて自らの手を汚すことから免れたのは、自分に他人を裁く権利があるのかと、立ち止まって考えさせられた群集だった。

 

石を投げるものは一人もいなかった。握っていた石を投げなかった、投げないと言う判断をした群衆の一人一人が、イエスの言葉を受け入れたとき、彼らはイエスの救いを受け入れたのではなかったか。

 

武士道精神に、これと似たものはない。

 

母は生涯自分にも他人にも厳しい人だった。母のキリスト教の捕らえ方は、まさに、母を支えた武士道を支柱とした捉え方だったのだ。明治のキリスト教を受け入れた著名な日本の文化人達がほとんどすべてそうであるように、彼らの信仰は日本の支柱であった武士道精神との折衷だったのだ。

 

「にわかホスピス」15

「チン姉さんと、次郎兄さんの介護」

 

「本当にチンは来るの?本当に来るの?」と母が言った。母は姉の到来を待っていた。もう、母は成長した姉が嫌ったあの幼名しか思い出さなかった。「もうすぐ来ます、もうすぐ来ます」と私は言い続けた。そうでないと、母は酸素ボンベの管を抜いて、苦痛から逃れようとするのだ。姉は、もう「飛行機に乗った」はずだった。

 

次郎兄さんも行方不明だった。四郎兄さんの兄嫁は方々に連絡を取って探していた。しかし、あの、母が武蔵境の日赤病院に担ぎ込まれる日以来、私達は次郎兄さんにあっていなかった。彼は、母を載せた救急車の後ろを、バイクで追いかけてきた。手には、母に遺書を迫って用意した書類を持っていた。

 

その次郎兄さんと、病院の入り口で押し問答の末別れて以来、私達はみんな次郎兄さんに会うのを避けていた。

 

ほかの兄たちは、男だからか、次郎兄さんはもう母に会わないほうが双方のためだと思っていた。しかし母は次郎兄さんのことを、誰より心配していることを、私は知っていた。

 

「あの子はそんなに馬鹿じゃない」と母が時々次郎兄さんを思ってつぶやいた。母の思いは常に、一番世話が焼ける次郎兄さんの上にあった。会わせてあげなければいけない、とそれを知っている私は思った。会ったって、二人とももう、何もできないだろう。

 

しかし、母が死ぬ前の喧嘩別れはよくない。私は、生まれたときにすでに14歳だったあの兄のことは、ほとんど人間として話し合ったこともなく、理解していなかったが、兄が傷ついていることも知っていた。

 

私は9人兄妹の末っ子で、3人早世しているから、6人で育った。母は自分が死を迎える床にあって、遠く40年前、夫の死を見送ったときのことを思い浮かべていた。貧しかった、だけれども、父を見送る家族は、修道院生活をしていた三郎兄さん以外は全員、父の周りに座っていた。ぼろぼろの畳の上に、皆ひざを並べて座って、祈っていた。あのように、見送られたい、と母は思って、病院を拒絶したんだ。息子たちがどんな息子たちであろうと、母にとっては自分の分身なのだ。

 

なんとしてでも探してほしいと、兄嫁に頼んだ。彼女は、親戚の中で私が最後に頼れるもっとも聡明な女性だった。彼女なら、母の気持ちもわかってなんとしてでも探してくれる、と信じていた。実の兄たちがとんでもなく非常識なことをしているときも、彼女は何時も、決して自分は表に立つことなく、夫である四郎兄さんを操縦して、何とか、世間体を保てる程度の方向修正をしてきたことを、私は知っていた。

 

結果はどたばたとやってきた。明美姉さんは、不機嫌そうにやってきた。

 

「なぜ母様をきちんとした病院に入れないの?私は医療に無知なあなたが母様を引き取るなんて、反対です。」といいながら。

 

彼女は精神科医と結婚して以来、自分も医者であると錯覚しているような言動を取って来た。彼女は母を見て、診察まがいのことし、医者が出す薬の種類を批判し、自分はこの病気のことを知っているといい、旭先生が来るのを待って、抗議しようと考えた。

 

私が母を介護するにいたった事情をかいつまんで話すと、彼女は言った。「病人のわがままを聞くことが、病人を幸福にするわけではない、きちんとした病院に入れ、医者に任せて付き添いは冷静にしているほうが、病人は生きながらえるんもだ。」

 

死期がわかっている病人にとって、自分の意思も望みも絶たれた世界で、ただただ「生き延びること」が幸福だとは、母も私も思わなかった。姉に会わせるためにだけ、私は母の意思に反して、酸素ボンベを切らさなかった。

 

しかし、母が姉を見たとき、驚いたことに、母は突然、しゃんとして、ベッドに座った。表情までも、元気だったときを思わせるような変化を見せた。それまで、すでに母は起き上がれもせず、ベッドメーキングをするのに、隣に用意した長いすの上に、私が全力を集中させて母を一気に運んだのだ。介護用のオムツをつけていたし、入浴は、来てくれる看護婦さんと協力してさせなければならなかった。母は腑抜けのように、されるがままになっていた。

 

其の母が、姉を見て、ベッドの上に座ったのだ。しかも、母は姉と普段のような調子で話し始めた。

 

人間てすごい!心にかけていた人が来ただけで、人は命を永らえることができるかと思われるほど、母の「回復」は目覚しかった。それは一時的なことだったのだけれど、母は駆けつけた二人の子供と正気の姿で応対した。

 

「にわかホスピス」16

「チン姉さんと次郎兄さんの介護」2

 

母の正気は、二日しか続かなかった。二人が来て、三日目には、母は元の姿に戻った。痛みを訴え、苦しむ母を見て、私が旭先生を呼んだとき、何時もの治療を施した。母は、何時ものように幻覚を見、何時ものように16歳まで生まれ育った北海道の風景の中をさ迷った。

 

姉は其の母の姿を見て、怒り出した。

 

「一体何を飲ませたのだ。一体この医者はどういう治療をしているのだ。どうしてまともな病院に入れないのだ。」そういい続け、旭先生の訪問診療を決めた私をなじった。

 

次郎兄さんは、大きなキャンピングカーを運転してぶつぶつ怒りながらやってきた。キャンピングカーで移動する次郎兄さんを、四郎兄さんの兄嫁がどうやって見つけたのか、私は知らなかったが、とにかく、これで、6人が勢ぞろいした。

 

次郎兄さんは、庭をいっぱいに占領する大きさのキャンピングカーの中で寝泊りした。

実は彼が到着したのが夜の1時ごろで、家の中は人であふれていた。私は疲れていたから、兄のために、寝る場所を用意することができなかった。で、キャンピングカーで来ているのなら、中が整理できていないから、今晩はとりあえずそっちで寝てくださいと、私が言ったのだ。

 

以後彼はふてくされて、決して、中に入らなかった。私にとってはものすごく強そうに見えた次郎兄さんは、実はきわめて繊細な男だということを、私は其のときは考えもしなかったし、兄を思いやる心のゆとりは、私にはなかった。

 

しかし次郎兄さんは、彼なりに母を介護しようと思ってきたらしい。

 

彼は其の頃、浄水器の訪問販売に手を染めていた。母が入院する前、彼は其の浄水器を兄弟中に売りつけようとしたが、兄たちは彼の仕事を胡散臭がって、話を聞かなかった。で、彼は「外人なら騙されるかもしれない」と考えたのか、主人のいるときを見計らって、私の家に来て、水道の水の検査というものをやって見せた。それで、まるでどぶ水のように変色する水を見せて、主人に23万円の浄水器を買うことを納得させた。だから、彼の浄水器を買ったのは、実に兄弟の中で私だけだった。

 

そういうわけで、私の家には、彼の浄水器があった。彼は自分が売った浄水器が自慢で、其の浄水器を通した水は、まるで命の水のごとくあらゆる病気に効果を発揮すると、本気で信じていた。そして、かれも姉と同じように、私のやり方を疑った。自分の水を信用しないで、医者の言うことを妄信するといって、彼は母を自分流儀に「治療」し始めた。暇さえあれば彼は、其の浄水器経由の水を、母に飲ませた。母は素直に従った。(なお、其の浄水器そのものは、別の機関で水質検査をしたので、偽物ではない。念のため。)

 

旭先生は二人のために、いちいち、説明をしてくれた。彼は、私を信用しない兄たちが母を見舞いに来たとき、今までも同じ説明をしてくれたのだ。彼は実に5回、私の一族の数だけ、同じことを言うために、わざわざ家まで来てくれた。

 

「患者は心臓を長年病んでいたために、どこにどんな変化があっても、心臓のことしか考えませんでした。だから、何時も内科に行かずに循環器科の医者を係りつけの医者としていました。そのために、癌の症状に気がつかず、異変があったときは、すでに末期がんになっていて、高齢のために手術は死を早めるだけで、手術をしてもしなくても、長くて3ヶ月の命と診断されました。

 

それを知った患者本人が、病院においておかれるより、家族の下で死にたいと望んだので、患者が一番信頼して選んだ人の下で、天寿を全うするほうが、患者にとって幸福だと、日赤のほうで判断したのです。私はこの地域を担当する心療内科の医者でもあり、老人のためのデイケアの施設も持っているので、こうしてお世話しております。」

 

「にわかホスピス終了」

 

11月になった。「予定通り」母の寿命が宣告された月である。

 

兄たちも母の孫たちも、数人は常時来ていた。母にとって、毎日こんなににぎやかだったことは、息子たちが巣立ってから、初めてだったろう。気分がいいときは、母もまともに談話に入ることもあり、そういう時はうれしそうだった。

 

10月末に飾ったクリスマスツリーはいつもチカチカ光っていた。クリスマスはもうすぐだという私の芝居を、母が本気にしていたかどうかは知らない。何を考えていたのか、光の明滅を母は黙ってじっと見ていることが多かった。

 

食事は流動食ばかりになり、食べさせられる時の表情はつらそうだった。旭先生が一度、「もう、この状態だけがずっと続くだけなので、本人も家族も望むなら、自然にしてあげたほうがいい」と言ったのだけれど、姉が猛烈に反対した。

 

「だから、私はあなたに介護させるのは反対なのだ。」姉はなおもがみがみ言い続けた時、母は明滅するクリスマスツリーの光を見ながら、苦しい息遣いで言った。

 

「グーちゃんは一所懸命世話してくれているから、私はこれで満足だから・・・グーちゃんを責めないで・・・」

 

実際母の頭は、ものを言わなくても物を言っても、かなりはっきりしていたらしい。五郎兄さんの兄嫁が、・・・この人はとても「雰囲気」を出すのが好きな人なのだ・・・「皆で一緒に聖歌を歌ってあげましょうよ」といって、自分で音頭をとってうたい始めたことがあった。彼女は、母のために、日赤から、桜町病院のホスピスに母を移すのに、一躍買った人だった。元気で善意にあふれる人なのだが、母とは馬が合わなかった。

 

母は私を呼んで言った。「耳元でああ朗らかに歌われたら、つらいから、あの人は来ないようにして頂戴。」

 

いくら母のわがままをすべて聞こうと決意した私でも、この言葉には弱った。私には兄嫁の善意も、母の困惑もわかるのだ。この言葉を丸裸で、そのまま兄嫁に言うわけにいかない。どうしようかと、私は思案した。いろいろな人がいるんだ。いろいろな人がそれぞれ自分のやり方で、母を愛しているんだ。小声で母の子供の頃の歌を歌うのも、朗らかに高らかに聖歌を熱唱するのも、もうここまで来ては、たいした変わりはないのだ。

 

仕方なくて、私は五郎兄さんに言った。「どうもねえ、悪いけれど、母様にはなるべく、死ぬんだ、死ぬんだと言うことを雰囲気として感じさせるのはまずいですよ。素直な人じゃないから、聖歌も鼻歌のほうが自然に聴けるでしょう。」五郎兄さんは母を知っているから、意味することを感づいた。

 

「母がクリアして行ったハードル」

 

そういう「喧騒」の中にも、時々母が私とだけ二人になるときがあった。そんな時母は心のそこから、母の人生そのものを語る言葉を漏らすのだ。

 

母がポツリと言った。「とうとう私は人殺しにならずに死ねる。信仰があったから私は救われた。」

 

私は母をじっと見つめた。母は平和な顔をして、クリスマスツリーの明滅を見ていた。

 

其の言葉に私は、母との「出会い」を通して、自分の身の回りに起きたさまざまな場面を思い浮かべた。幼年時代のこと、次郎兄さんのこと、三郎兄さんのこと、それから、自分が帰国したときに母が言った言葉。「あなたって、なんて強いんだろう。小さいときから、私が何をしても死ななかった・・・」あの時は、心に余裕がなかったから、あの言葉が、ものすごい言葉に聞こえた。この人、私が死ぬのを期待していたんだろうか、と疑った。非情な母だと、私は感じ、傷ついた。

 

しかし、今、この言葉を心から安堵してつぶやく母の表情を見て、母は自分との戦いに勝ったのだな、と思った。

 

母は自分に課せられた人生の苦役を、乗り越えた。彼女だけの十字架を、母は担ぎおおせた、彼女は殺意を感じるたびに、自分の深奥にある闇を見つめながら、祈ったのだろう。ともすれば、其の殺意を、実行に移してしまいそうな自分と、何度戦ったことだろう。母はとうとう辿り着いた。「最小限、殺人を犯さないで、あの世に行ける」、そういう母の自分に課したハードルを越えて、母は人生の終局に辿り着いた。

 

「もうすぐですよ」と私は自然の成り行きで母に言った。「もう、大丈夫、安心してくださいね。皆待ってますよ。お父様も、太郎兄さんも、明美お姉様も、櫻子お姉さまも、みんな、母様を待っていますよ。」常識的な言葉ではなかった。

 

でも母のこの世における苦しみを知り、苦しみから解放されて天国に行くことを信じ、そして先に逝った家族と再会することを、平和な気持ちで迎えようとしている母に、「まだこの世にいてくれ」というとしたら、それはあまりに残酷な言葉だったろう。「もうすぐ」という言葉は「死」を意味したかもしれないが、信仰によって、苦悩を乗り越えてきた母にとって、「希望」であり、「再生」であり「永遠の平安」の獲得だったのだ。

 

11月17日、家族は全員、集まってきた。次郎兄さんが、母の傍らに付き添って、彼の「水」を母に飲ませていた。私たちは母の寝室の隣の部屋で、時々、介護の交代をしながら、談笑していた。夜になって、孫たちが数名、帰宅したあと、兄たちも床についた。私は次郎兄さんに介護を任せていて、オムツを交換していなかったことに気がついて、ひとりで、母の世話を始めた。母は眠っていた。スースーと寝息が聞こえた。

 

母は静かに眠っていたが、体がしめっていることに気がついた私は、これは大変だと思って、布団をどけて、母を両腕でかかえ、乾いた所に移動させた。其のとき母の寝息は私の腕の中で、スーーと音がするように消えて行った。

 

え!耳を傍に寄せ、息をしていない母の顔を見た。静かにゆすっても、もう反応がなかった。母は私の両腕の中で、静かに逝った。母のむくろを抱え、私は母の顔をしばらく眺めた。

 

母はこの世の苦悩から解き放たれ、平安のうちに、眠っていた。母の表情は、そのまま祈りのようだった。そう、母が祈っていた。「主よ、我が魂を御手に委ね奉る。」

 

私はふと思い出した。あのマドレの言葉、「私があなたの母になる。あなたはあなたの母の母になれ。」「ああ、マドレ」と私は天を仰いでつぶやいた。「私はとうとうあなたとの約束、成就しました。」

 

 

「お通夜」

 

旭先生が臨終を宣言して帰ってから、私は唯放心して、母の傍らに座っていた。

 

次郎兄さんが病室の入り口にもたれて、旭先生に、「先生の視点から見て、母が今日死ぬのはあらかじめわかっていたことですか?」などと、聞いていたのを、ぼんやりと思い浮かべていた。自分の親が死んだばかりで、なんちゅうことを質問するんだ、と思いながら、旭先生を見たら、さすがに彼は口ごもり、言葉を濁していた。

 

三郎兄さんが、旭先生が帰ってすぐ、私の耳元で、これから執り行う儀式の段取りを説明はじめ、反応を示さない私に、かんしゃく起こして怒鳴りつけていたが、彼が執り行うらしい、彼の儀式を私は理解しなかった。それが私のふてぶてしさだと彼は思ったらしく、増す増す彼は怒鳴り散らした。何も主張していないのに、何がふてぶてしさだ。

 

私は静かに祈りたかったのに、一瞬のときも彼は私にくれようとしなかった。喪主を自任するこの兄は、執り行う葬式のことばかり気にしていた。何しろ死ぬ本人と葬式の段取りを協議した男だ。この儀式の段取りキチガイめが、やっぱり儀式のことで大騒ぎしているんだ。勝手にしやがれ、アホンダラ!

 

姉は私に、母の体を清めて、化粧をしてあげようと言い出した。姉も女性だ。仲の悪い姉だけれど、こういう場合男とはやっぱり違うのか。むくろになった母を姉が揺り動かしながら、母の耳元で「母様、母様」と呼んでいた姿が目に浮かんだ。旭先生を待たずに母の鼻から酸素吸入の管を取り外そうとした私を、かっと怒って叱り飛ばした、姉の気持ちを思い出した。

 

そうだ、母からいわれていたことがある。母は自分が死んだら、着せてほしいといって、自分で衣装を縫っておいたのだ。そうだ、それをしなければ・・・。われにかえって、私は姉と一緒に、母の体を清め、そして、母が残した衣装箱を開けた。一番上に、「わが死出の衣装」と書いた紙があり、藤色のロングのドレスと、下着から装身具、靴にいたるまで、そろえてあった。

 

「わが死出の衣装」という言葉を書いた母の直筆を見て、私の心はずきりとした。

 

母は生前と同様、美しくなった。母の戸籍名は「タケ」だったが、父と出会って、父が名づけた「藤緒」という名を、母は私が知る限り生涯名乗っていた。其の名の通り、母が作った藤色のドレスは優雅だった。母はおしゃれだった。今も手製の衣装を着飾り、平和な顔つきで、寝ていた。其の母を、私たちは、クリスマスツリーの前に横たえた。ツリーは一晩中明滅させて置いた。

 

三郎兄さんが其の姿を見て言った。「母様の手に十字架持たせようか。」彼は何しろあくまで形にこだわっている。

 

「いや、」と私はさえぎった。

 

「母様は十字架大嫌いなんです。あんな残酷なものイヤだといって、教会を象った家庭祭壇の中に収まった、十字架を何時も扉で締め切って、見えないようにして、マリア様だけを外に出していました。」やっとこの兄に私は口を利いて、母の枕元にあったロザリオを、三郎兄さんに渡した。彼は母の手にロザリオを握らせた。

 

せかせかと兄は葬儀屋を呼んだ。其の話し合いを傍らに立ってみていた。葬儀屋は何段階かの葬儀のセットを紹介し、価格を示した。兄は、ひどく乱暴に、「何でもいいから一番安いのでやってください」というのを聞いて、姉が驚いて口を出そうとした。兄はものを言おうとした姉を一喝してだまらせ、他に言葉もあろうに、「一番安いのでお願いします」と言った。契約は成立し、葬儀屋は帰った。不満そうに、物をいいたげな姉の気持ちを、私は始めて思いやった。しかし、私もものを言わなかった。

 

私たちは嫁に行った末の二人の娘たちなんだ。こと儀式の事になったら、口を出すすべがない。自分たちが自分たちの思いを自分たちの心で表現する以外にない。母は黒一色の葬式が嫌いなんだ。生前自分の葬式は華やかにしてほしいと、言っていた。

 

「皆私の葬式には喪服なんか来てはいけない、私は寿命で行くんだから、悲しい顔なんかしてはいけない。花を飾るんならピンクにしてね。」

 

「誰が反対しようとも、この家から葬式を出すんなら、母の言う通りするとも!」と私は決心していた。

 

知らせを聞いた友人のシスターたちが、すごく控えめに来てくれて、すごく控えめに帰って行った。其のひとりがそっと私に言った。

 

「驚いた。きれいなお顔で寝ていらっしゃる。死に際の顔であんなきれいな顔、仲間にだってそうたくさんはいないわよ。」「はい・・・」聞こえないような声で答えた私は彼女に感謝を込めて目礼した。

 

親戚たちが続々とやってきた。誰も黒の衣装を着ていなかった。へえ、それでいいの?と聞いたら、五郎兄さんの兄嫁が言った。

 

「お母様の厳命なの。自分の葬式には、黒を着てはいけない。ピンクのフリルで参列しろとおっしゃったから。」「そお!」思わず私は笑った。

 

教会の神父さんを呼び、お通屋の準備をしていたら、英語教室を休むために母の通夜の知らせをしたためか、子供たちのお母さんたちが、続々と現れた。私はうかつに、まったくそういうことになるとは思っていなかったため、心の準備も、接待の準備もしていなかった。むしろ私はそういう「常識」をまったく知らないところで、母の看病に専念していたから。

 

兄の一人が、表情をしかめて言った。「母様は、葬儀を身内だけでやれっていったんだ。他人を呼ぶための用意なんかまったくしていないじゃないか。どうするつもりなんだ。」それでも私は「どうする」ことが常識なのか知らなかった。

 

神父さんも、意外そうな顔をしていた。「ほんの3,4人だと思って、ご聖体も3,4人で分け合うため大きいの1つしかもってきていない・・・」彼は当惑して、そうつぶやいた。兄弟だけで6人、其の連れ合いを入れても12人、子供を入れれば出席している子供だけでも11人いるから23人。神父さん入れると24人。1つのご聖体を24等分するのは無理だ。

 

「しょうがねーな」元神父だった儀式挙行係の三郎兄さんが、神経が苛立っているときの癖で、両手をひざの間で激しくこすり始めた。「どーしようもねーな」と言う兄を見て、私は彼の癖を思い出した。

 

で、そのときふと家にご聖体があるのを思い出した。

 

「ああ、あそこに、ご聖体、2,3枚ありますよ。」介護中に、シスター蛙が私に預けていったご聖体があるのを思い出したのだ。神父さんが来ないとき、私が母に手ずからそれを口に入れていた。

 

二人ともじろりと私を見た。明らかに、不審な目である。

 

この「ご聖体」というカトリック教会の伝統的なご本尊は、これを運ぶ神父さんが、どんなへんてこな人間性を持っていても、たとえどんないかがわしい教皇が教会のトップに立っていても、イエス様そのものであり、それを拝領することによってイエス様と一体になるという信仰によって2000年間守られてきた、信者を結びつける唯一の尊いご本尊なのだ。

 

この「ご聖体」の信仰があったから、教皇がいかがわしくても神父さんが怪しい人間性を持って社会を揺るがせても、カトリック教会は2000年間歴史の表舞台から消えなかった。

 

カトリックが一致しているのは、何も、あのどうでもいいきんきらきんの祭服を着て、黄金の、魔法使いが持つような杖を持って、とんがった帽子をかぶって全世界に教書を送る、教皇中心のヒエラルヒーが強固だったからではない。信者を2000年間結び付けてきたのは、このご聖体信仰があったからなのだ。これは秘儀だから部外者は理解できない。なんでも解剖すれば解明できると思っている解剖学者に馬鹿なことを言われたくないから、説明したくもない。できると思うなら、解剖学者は信仰心というものが宿っているかもしれない魂でも解剖してみれば良い。

 

で、どこのどんな民族の宗教でも女性は不浄の存在とされてきた宗教界で、カトリックも例外ではなかったから、このご本尊が女性によって運ばれ、または教会でもない個人の家に置かれることなんて、ありえないことだった。其の伝統に生きていた二人の神父さんと神父さん風の男の私の言葉に対する反応は、こういう背景からでてきたことである。

 

ばかめ、パンは増えるのだ。5つのパンと5匹の魚は、増えて5000人の群集のおなかを満たしたのだぞ。私は「熱に浮かされていた」からそう思った。

 

ああだ、こうだといいながら、お通やのミサは始まった。壁はクリスマスの星だらけで、クリスマスツリーはピカピカし、其の前にはイエス降誕をかたどった「厩」と呼ばれる置物が置かれ、其の上にはイエス降誕のときに3人の東方の博士を導いたといわれる大きな流れ星が、やっぱり明滅していた。クリスマスのかなり大げさなセットの前に花に囲まれた優雅な藤色のマキシを着た母が横たわり、とりあえず小さな祭壇をすえた。家族は皆華やかな服装で、まるで、これからダンスパーティーでも始まりそうな中で、喪服を着た私の生徒のお母さんたちが、続々やってきた。社宅の6畳間だから会場は人であふれ、庭に立っている人もいたほどだった。

 

葬儀進行係はこれもいらいらしながら立ったり座ったり、かなり言動が怪しかった。

 

この異様な雰囲気の中を、なんだかおどおどしながら神父さんはミサを始めた。まるで何に心の焦点をあてて良いかわからないように、ぎこちない手つきで、頼みもしないのに、列席者に言い訳をしいしい、「こんなに人数が集まるとは思っていなかったものですから」、を繰り返した。

 

まあ、メンバーから言ったって、普通じゃないんだから、通やだって普通じゃありえない。ミサは同じ順序で行われるものだから、特別言うべきことはないのだけど、喪服を着た列席者から見たら、当の家族がクリスマスパーティーをやっているみたいな服装で、司式者がおどおどしていて、どう理解していいかわからなかっただろう。おまけに、ミサが終わって、参列者が立ち上がったとき、次郎兄さんがふらふら出てきて、まったく挨拶をせず、「これで終わりましたので、皆さんはお帰りください」といって、列席者も神父さんも追い出したのだ。

 

「常識」を少し知っている兄嫁が呆然としている中を、次郎兄さんは近くのコンビニに買出しに行き、食料を抱えて帰ってきた。

 

それで言った言葉は、「さあ、宴会だ、皆で食べよう!」

 

親戚は皆、どやどやと机を囲み、次郎兄さんが仕入れてきた食物を、がつがつ食べ始め、げらげら笑いながら騒ぎ始めた。葬式の後は、会食をするものだということを知らなかった私は、ひとりこの雰囲気に違和感を感じ、其のうち、同席に耐えられなくなってきた。母がなくなってから、ゆっくり祈りもせず、泣き声もあげず、いらいらした兄の采配で儀式を執り行う間、凍結していた感情がにわかに噴出してきたのだ。

 

私はひとり、荷物を詰め込んでいた部屋に逃げ込み、畳に崩れて泣き出した。はじめは、誰にも聞こえないように声を潜め、ジャンパーをかぶって泣いていたのだが、抑えられなくなった感情のために、押し殺した声がだんだん嗚咽になり、怒号になり、兄たちの笑い声を聞きながら、身をもだえて吼えるがごとく、窓を振動させて泣き叫んだ。張り詰めていた神経の糸が完全に切れた。

 

グララオー、グララオー、グララオー、グララオー!!

 

つぎの朝、母の遺体を兄たちが棺の中に詰め込んだ。母の持ち物を入れ、花を入れ、娘が小さな折り紙で作った動物を入れた。車が来た。それは私がかつてどんな葬式でも見たことのない、「一番安いセット」用の外側からはまったくそれとはわからない、白っぽい普通のバンだった。

 

「あれは警察なんかが死体を運ぶ、無縁仏のための車じゃないか」と姉が、ぼそりと言うのを聞いた。其の車に棺を運び込み、告別式の会場に向けて走り出した。会場は、母が住んでいた地域の東京武蔵野市の、家族の所属の教会だった。

 

「告別式」

 

母の棺は、教会の祭壇の前に置かれていた。母は棺の中で花に埋もれて眠っていた。其の夜、教会の中の静寂の中で、母を見届けて私は帰った。

 

告別式のために、次の日私たちは吉祥寺教会に集結した。ところが告別式のことでも、兄弟の考えはばらばらで、どんなことも一致しなかった。会場がかつては家族全員の所属の教会だったから、勝手知ったる他人の家で、皆勝手なことをしていた。あちこちぶらぶら歩き回って、出会った人に話しかけたり、ふらふらして、接待しようとする人がいなかった。私もどうしてよいかわからず、なんだか変だなあと思いながら、時が経つのを待っていた。

 

告別式は対外的な儀式だから、いくらなんでもクリスマスツリーにピンクのフリルという服装を主張する気はなかったので、喪服を着たが、喪主を自任する三郎兄さんは、わざわざ真っ赤なネクタイに替えてまで、喪服なんて意味ないと言って、へらへらしていた。まずいよ、と一応兄弟が忠告したが、彼は聞かなかった。

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本当は、喪主は誰だかわからなかった。順位から言っても次郎兄さんがするべきだったが、彼が参列者にまともな挨拶をするとは思えなかったので、非常事態用に五郎兄さんがそっと、挨拶を用意していた。葬儀屋は何しろ「一番安いセット」なので、棺の移動以外はまったく何もしなかった。

 

主人が会社の休暇をとるのに、理由を言わないわけに行かないから、理由をいったために、会社から数人の人たちが手伝いに来てくれた。しかし、誰も、告別式をどういう手順で行うのか知らない非常識人の集まりだったので、何を手伝ってもらうべきか分からず、ただ右往左往していた。家族唯一の常識人だった四郎兄さんの兄嫁が、遠慮しながら、机を出した。机が何のために必要なのか、私にはわからなかった。お香典を受け取ったり、記帳したりするためらしかった。それに気がついた誰かが、あわてて芳名帳を買ってきた。

 

冷静で、何をするべきかを分かっている義姉を入り口に残して私は教会に入った。私の母校のシスターが遠慮がちに後ろのほうに座っているのが見えた。会場にはたくさんの知人が出席していた。もう記憶の奥におぼろげに残っているに過ぎなかった、かつての教会のメンバーや、実家の近隣の人の顔も見えた。

 

あれは確か、私が中学生の頃、母が自宅に集めて、神父さんを呼んで教理を学ぶ集会所を提供したときの友人達だ、とおぼろげに思い出した。それらの懐かしい人々を見た時、多くの人々が母の死を悼んでくれているのを知って、私はうれしかった。母は問題の多い人だったから、私は誰かが出席してくれるのを期待していなかった。

 

ミサの最後に、遺族が棺の横に並んで参列者に挨拶する段になった。兄弟の順位で並んでいた。先頭にいた次郎兄さんに挨拶するように、誰かが合図した。しかし彼は、何かものを言おうとして口を開けたとたんに、おいおいと、泣き出して、収拾がつかなくなり、驚いたことに、横にいた三郎兄さんも泣き出した。それをみた五郎兄さんは、「非常事態用の挨拶」を兄弟代表でやってのけた。それやこれやでおたおたした挙句、告別式は終わった。終始私はまるで夢遊病者のようだった。

 

出棺。次郎兄さんが目を泣き腫らして、母の遺影を抱いた。その後を私たちはぞろぞろとついていって、「一番安いセット」のワゴンに棺を載せて、火葬場に向かった。火葬場での最後の別れ。火葬が終わって、遺骨をひろい、其の足で、お骨を入れたまだ暖かいつぼを持って、私たちは墓地に向かった。四郎兄さんの兄嫁が、そっと私に言った。「こんなことってあるんですか。49日までお骨は家に置いておくんじゃないのですか。」

 

しかし、誰にも、其のお骨を49日、家に置いておこうとする発想を持っている者はなかった。49日って何だろう、私の頭はその程度の展開しかできなかった。昔子供のとき、父の葬儀は土葬だった。掘った深い穴に、棺が下ろされた後、花を投げ入れ、家族が土をシャベルで入れた。そんな記憶しか私にはなかった。

 

終わったな、と私は思った。三々五々、皆帰途に着いた。

 

兄たちは其のときすでに、別のもっと面倒な問題の処理をにらんでいた。母の家は、生前から兄弟間の係争の的になり始めていたのだ。母の葬儀を執り行うときも、葬儀のやり方や喪主をめぐって、雲行きが怪しくなっており、私は一人逃げ腰になっていた。

 

私の心は、母の遺言を実現する方法を考えることで、いっぱいになっていたのだ。次のステップに踏み出そう。万難を排して父の画集を作ろう、とすでに私は決意していた。