「自伝及び中米内戦体験記」9月30日

「絵描きになった物語」(11)

「自分の題材を求めて」

 

その年私が松戸市展に出品した絵は、初めから最後まで、自分の絵として完成した。光風会先生の教室にいたら、先生に「上を目指せ」といわれて、つまり今年は去年の「奨励賞」の上の賞をもらうように計画されていたはずだったけれど、教室が変わって、受賞はしなかった。

 

女流先生の教室は、かなり大々的なグループ展を毎年行っていて、その年私も参加した。彼女の指導による「静物」だったが、私は彼女が言う構図の配置がうまく出来なくて、どうも自分の納得のいく絵が出来ない。

 

私はここでも苦しんだ。

 

ばらばらの対象を組み合わせて画面いっぱいに構図を考えて配置し、芸術的な画面を作る・・・。この作業が出来ないのだ。というより、私はそういう「芸術」に手ごたえを感じなかった。

 

練習として描くのはいいけれど、牛骨なんか描いたってそれが果たして自分の主題でありうるか、と考えると疑問で疑問で仕様がなかった。そんなもの意味もなければ自分の存在の歴史と関係ない。自分の存在の歴史と関係ないものは「自己表現」たりえない。

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これが唯一、内戦無関係の絵

 

それで私は光風会先生の教室で、自分の考えで描きかけた絵を描き続けようと思った。頭に薪を載せて運ぶ、グアテマラの貧しい農村の女性のごく一般的な姿だった。

 

私の8年の中米生活の中で、脳裏に刻んでいる映像は、「洗ったこともないのだけれど、元は美しい手織りの衣装を身につけながら、裸足で行商をするグアテマラの女性たちの姿」だった。

 

心を込めて私は一人の女性の姿を描いたのだけれど、私が描いた上に、光風会先生が、ほとんど始めの形をとどめないくらいに塗りこみ、イエローオーカーの濃淡で、ほとんど影しかわからなくなっていた。それがどんなに「芸術的に」優れていても、そのことは私の中米に対する思いを激しく傷つけた。

 

しかし、その影だけの作品は、私の目にだって、一つの作品としてほとんど完成と見てもいいような高度な芸術作品になっているのは理解できた。だから私はその上に、長いこと手を入れられなかった。

 

腕組みをして、何度も何度もその絵の前でうめいた。光風会先生はすでにその道をなした画家なのだ。彼が手を入れたことに、私は不満だったにもかかわらず、それは完成した一流画伯の絵だった。それを自分の手でつぶしてしまうのが、なんとも惜しかった。このままとっておくか、またはこの上に自分で描いて、彼を乗り越えるか、そのとき、まだそれを悩んでいたのである。

 

私はあるとき、その絵の写真を撮り、その完成した描き方を記録として残す決意をした。それから私は、儀式でも執り行うような気持ちで、筆を執り、エイ!とばかりに自分の筆を入れた。「自分の絵」を描くのだ。身を切るような思いで、光風会先生の絵をつぶした。「自分の絵、自分の絵」といいながら、私は光風会先生を塗りつぶした。

 

次の年、私はその絵を「薪を売る少女」と題して松戸の市展に出した。それが「佳作」という賞を受けた。自分だけの力で、初めて取った賞だった。それは、あの努力賞よりも奨励賞よりも、自分にとっては価値があった。授賞式に行ったら、光風会先生に会った。

 

「見たよ。あの絵、完成させたね。よく出来ているよ。自分の題材見つけたね。」と、彼は言い、意味ありげに、にこと笑って去って行った。

 

「お!彼、認めたな!」と私はその時思った。

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そうか、自分はやっぱり「内戦の中米」を描こう。私はそのとき自分の納得できる題材を発見したように思った。私はそれから一人で中米を描きまくった。教室では先生の指導で静物を組み立てて構図の練習をし、展覧会には人物を出した。

 

その年の冬、女流先生のグループ展があった。既発表のものでもよく、2点出せる。私はあの「薪を売る少女」と対になるような絵を描いて一緒に出そうと思った。

 

グアテマラの内戦で、若い男が老婆を背負って避難する姿をいつかテレビで見たことがある。私はその若者の背中に負われた片足の老婆の毅然とした顔が脳裏から離れなかった。

 

「あれを描こう」と私は思った。主人にモデルになってもらって記憶を頼りにキャンバスに向かい、描き始めた。衣装はいくらでも手元にある資料で確認できる。後はおばあさんだ。モデルになってくれるようなおばあさんがいない。母は死んでしまったし、身の回りにおばあさんはいない。

 

ただ一人、当時住んでいた家の隣に一人の暇そうなおばあさんが住んでいた。私はそのおばあさんの写真をとらせてもらって、彼女の肖像画を描き、老婆の表情を描く練習をした。

 

後は細部が問題だった。首や手足のしわが見たかった。電車に乗って、乗り合わせたおばあさんを盗み見、そっとスケッチした。肖像画は当のおばあさんに上げてしまったが、30号の絵が描きあがった。その絵を「逃避行」と題し、「薪を売る少女」と対にしてグループ展に出した。

 

その「逃避行」がその後の私の絵画の道を決めたのである。

 

「絵描きになった物語」(12)

 

展覧会には、松戸の界隈の芸術関係者が見に来たし、私が招いた友人知人も来てくれた。私は満足だった。何しろ自分の力で描いた絵を、誰にも妙な疑惑を起こさせずに見せられる。下手だってかまわない。絵を始めて数年で、そんな凄い作品が出来るわけがない。描いたものは、確実に、自分の人生に多大な影響を与えた、あの内戦体験を、語り部として伝える絵なのだ。

 

かつて私は物書きになりたかった。それは中学時代からの夢だった。人間関係が下手で友人を持たなかった私は、小学校低学年から、日記を書くことを覚え、思春期、学生時代を通して、私は孤独に自分の文章の世界にのめりこんでいた。しかし、生活に追われていた私は、生活のためにやりたい勉強まで選択できず、授業中でも、アルバイトの最中でも、電車の中でも、文章を作成していた。

 

長じて国際結婚をして国外に飛び出してからは、ただひたすら「日本語を忘れないため」にだけ、文字を書いた。しかし、その発表の手段を知らなかった。

 

私が「趣味」として絵筆を執ったとき、私はまだ、絵が文の代わりになることを知らなかった。ところが、私が始めて「自分を表現」したこの2枚の絵の前に、見知らぬ人が立ち止まるのを発見した。文はいくら個人的に書いても発表の場がない限り、他人を立ち止まらせられない。しかもいろいろな関門を通過しないと、文が人の目に触れるということがない。

 

かつて私が帰国した当時、立て続けに4回ばかり、新聞に投書して4回とも採用されたことがある。あれも、14歳のときからしがみついていた物書きの仕事に、なんとかしてきっかけをつかみたいという執念だったが、投書等には、永続性がなかった。

 

ところで、展覧会の会場から出て、駅の前を歩いていたら、私を名指しで呼び止める人がいた。相手は私を知っているようだが、私は相手が誰だか知らない。「はい」と怪訝な顔で答えた。前置きなしで彼が言う。「あんたの絵、二科展に出さないか」

 

二科展の先生らしかった。で、私も面倒なことを言わないで、答えた。「出させてくださるなら出しますよ」相手が何者かを知らずにそう言ったのである。

 

それが、松戸界隈では案外有名な二科展の審査員だった。多分、私のあの2作をみてくれたんだろう。少しうれしかった。絵は、たかが地方の小さなグループ展でさえ、出せば、人が立ち止まる。絵は文字よりも手っ取り早く、見知らぬ他人をひきつけることを、そのとき初めて知ったのだ。

 

それに輪をかけて、私が驚愕したことが起きた。

 

私の知り合いに、友人とも先輩とも、先生とも同僚とも、なんとも表現の仕様のない人物がいる。友人みたいな口の利き方で私に親しく声をかけてくるので友人と呼んでもいい。彼女は、戦前の、ある駐米大使を父にもつため、アメリカ育ちで、日本語が怪しい。「国際的人間」なものだから、私よりかなり年長なのに、苗字でなく名前を呼び捨てで呼んでくれという。

 

卒業した大学の教授ではあったが、直接教えを受けたことはない。姉妹校の出身者だから先輩ともいえる。実は、彼女はあの修道院に私を誘い込み、後に自ら還俗した、あの「ハカセ」だった。

 

で、とにかく、その「変なの」が、私の絵を見て、「これ、売る気はないの?」と言うのだ。当惑した。絵を売るなんて考えたこともない。どのようにして売るのかも知らない。まさか、目方で売るんではないだろう。「買う人がいれば売ってもいいけれど、まさか、買う人は無いでしょう」と言ったら、彼女、自分が買うと言うのだ。

 

「だって、絵の値段なんて知らないし、どうやって値段を決めるかわからないなぁ」と言ったら、彼女は言うのである。

 

「ジャ、決めた!50万円でどお?」

 

「!!」

 

難民としてやってきた当時の夫の給料は10万円である。私が家で教室を持って稼いでいた月収はその当時10万に満たない。まだ素人でどこからも評価を受けていなかった絵描きの描いた30号の絵の代金50万円と言うのは、棚からおちた牡丹餅としか思われない。

 

絶句してしまった私に彼女は言う。

 

「この絵にはそれだけの価値がある。私はこの絵を寄付したい所があるんだ。」「へえ、どこですか」と、気を取り直した私がとりあえず聞いたら、彼女はぺらりと答えた。

 

「ニューヨークの国連本部よ。」

 

ひょっ!

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 「逃避行」1

 

 

 「絵描きになった物語」(13)

 

「逃避行」はその後、チリの国際美術展に展示するため、地球の裏側まで行ってから、50万円と引き換えに自分の手から離れた。出来合い額縁を嫌って、私は明治堂という額縁の老舗に頼んで、絵と合わせながら、世界でたった一つの額縁を作り、ハカセの書斎に届けた。

 

その年、家に来た主人の留学時代の友人で、さる会社の社長をやっている人物が、主人を訪ねて家に来た。主人が私の絵を得意そうに見せて回ったのだが、そのときその社長氏は私の絵の一つを選んで、買ってくれると言う。

 

それは「逃避行」と同じサイズの、やはり自力で賞をもらったもので、光風会先生の教室から離れてはいたものの、かなり彼の画風の傾向の強い作品だった。「ソロラの女」という題名で、私が主人とともに、エルサルバドルに暮らしていた初期の頃、グアテマラ旅行をして印象に残った女性の姿を描いたものだった。

 

「この人、その後生きていけたのかな」などと思いながら、心にグアテマラの内戦の中で死んでいった美しい衣装のマヤの人々を供養する思いで描いたのだ。

 

あの頃私は内戦の現地の人々の写真を撮る事に苦痛を感じて、遠慮しいしいかなり遠くから、たった1枚写真を撮ったのだが、遠景だけに、中米随一の市場の光景を全て収めてあった。その頃の写真の技術で、どんなに大きくとっても、一人一人の人物まではわからない、漠然とした写真だった。しかし私は、その1枚の写真から、多くの題材を記憶に頼って描いた。「ソロラの女」は、その第1号だった。

 

その作品は、たとえ松戸の市展で、たいした価値ある賞を得たわけではなかったとしても、自分の心にとって大事な絵だった。父の絵の修復をやってくれている横浜画廊の店長に見せたら、うなるほど褒めてくれた作品で、ちょっと手離すのが惜しかった。でも、主人の友人の社長氏は、私が個展などに出して、売りたがっているわけでもないのに、「いい絵だ」といって、気に入ってくれたらしい。そのことがうれしかった。

 

値段はいくらだと聞くので、同じ号数のもので50万で買ってくださった人がいました、といったら、50万で買ってくれた。

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「ソロラの女」

 

予期せぬことで、100万円が手に入った。始めて絵が売れたとき、ある思いが頭にもたげていた。自分の絵が評価を受けたという喜びに浮かれていたのではなく、そのとき私は切実にお金が欲しかったのだ。

 

私が「兄弟と共同で」始めたつもりの父の画集編纂の計画は経済的な事情で、その時座礁していた。絵の修復の代金は、全て母の預金から出すということに、管理していた兄が一族の了承を得て出していた。

 

母の預金は画集編纂の費用として十分あったし、絵の修復だけでなくても出版費用は当然其処から出るものと思っていた。

 

絵の修復がすべて終わった時点で、横浜画廊の菅原さんは、三好企画という出版社を紹介してくれた。それから私とその企画会社と二人三脚で、画集の編纂に必要な作業が始まった。

 

資料のすべてを私は母から預かっていた。戦前戦後の父が活躍した頃の絵画の雑誌には、父のエッセイや失われた絵が掲載されていた。出品した展覧会の記録や、受賞の記録、個展の記録、同時代の画家たちの評論、日展委員となったときの辞令、全ての記録をまとめて一覧表にし、最後に父の出生時からの個人的な年表を作成した。

 

パソコンなんか、操ることを知らなかった時代、このときも私は、かつて国会図書館に勤めていた高校時代の友人国領さんに協力を頼んだ。彼女はどうすれば欠落した記録を探すことが出来るのかを教えてくれたし、抹消された父の戸籍謄本にいたるまで、もう地名変更で消えてしまった村の名前や、出身小学校の記録の捜査まで協力してくれた。

 

実際、私が9歳の頃、赤貧洗うがごとき時代に死んでいった父の足跡など、私はまったく知らなかった。その足跡を追跡するのに協力してくれる親戚縁者もいなかった。私はその国会図書館勤務経験者の友人に全面的に頼り、全てが「まともな画集編纂」に必要な資料が整った。

 

しかし、画集編纂というのは、パソコンという便利なものがなかった時代、私費出版であっても、兄弟6人の人数分を雑誌みたいな紙に束ねて作るのではない。出版社に頼む限り、画集として、一般に販売可能な物を作るのだ。三好企画は最低の冊数として、500冊、300万という金額を示してきた。

 

父の遺族一同は、貧乏の中を、苦しみながら育ってきた。ここにきて、衣食住に直結しないものに、300万をかけるということは、まったく考えられないことだった。父の画集編纂という仕事は、死んでしまった両親の思いだけを残す、そのほかの社会的意味も経済価値もない「たかが個人の画集」だったのだ。

 

金額を示されたと同時に、5人のうちの3人が降りて行った。画集の編纂のために、他人の無償の協力を求めてまでその資料の整理に時間をかけ、原稿を作り、準備万端整えて、さて、はじめようと思った私は、ここに来て、挫折してしまうかに見えた。

 

一族の中で私の仕事を最後まで賛成し協力してくれたのは、ここでも四郎兄さんの兄嫁ただ一人だった。彼女は、300万を二人で出そうと言い出した。

 

150万なんて、私一人で作れるわけがない、と私は思った。私は難民として帰国してから、安月給の主人の気持ちを思って、自分が教室で稼いだお金を娘の学費のために貯蓄していたが、その貯蓄は主人の稼ぎから積み立てている振りをしていた。自分の稼ぎは、ただ日常的なものを買う足しとして使っているに過ぎないと思わせていたため、私はお金を使うのに、主人の許可を仰いでいた。

 

兄弟たちは社長だの副社長だの、国立大学の学部長だの、著名な精神科医の嫁さんだのになっていて、みんな一戸建ての家を持って、それなりの、暮らしをしていた。

 

その上、母の遺産の家屋敷は、売れば一人5000万は入るはずの、バブル時代の宝だった。

 

画集の作成費は、母の残した預金から出すことになっていて、その預金も兄弟共有だからといって、遺言の画集編纂に使うことに、誰も傷つかないはずだった。

 

しかし、300万という金額に激怒したのは三郎兄さんだった。彼は次郎兄さんが裁判に訴えて自分のものにしようとしている兄弟の共有名義の財産のことで、心はいっぱいだった。彼にとって、母の遺言の画集編纂など、どうでもいいことだった。彼は画集というものを、展覧会などで販売する簡単なパンフレットのように考えていたから、せいぜい4,5万で出来ると思っていたらしい。

 

300万を使うというなら、自分は一切協力をしないし、できても一冊も買わない、とまでいい、計画書の明細はおろか、私が苦心して用意した原稿も見ようとしなかった。

 

その頃は、あと何年かで2000年になる時で、父がうまれてから100年、死んでから50年という節目を迎える時期だった。私は、どう転ぶかわからない裁判の結果などを待たず、どうしても節目の年に画集を出版したかった。しかし、次郎兄さん一人がまさに敵に回って係争を起こし、残りの兄弟が結束しなければならなかった事情があって、三郎兄さんが降りたことで、他の兄弟も降りて行った。

 

さて、どこからも、画集の費用が出ない。これまでまるで赤の他人の無償の協力を得ながら編纂の仕事をやってきた私としては、自分が投げ出すわけに行かなかった。「これだから、母は、他の誰にも頼まず、私に頼んだのだな・・・。」そう思わずにおられなかった。

 

後50万・・・。と私は2枚の絵が売れて100万が入ったとき、光明が指して来たのを感じて思った。画集のことも自分の絵を売りに出すつもりだとも、誰にも何も言わなかったのに、2枚の絵が売れて100万を手にしたのだ。自分が立ち往生して困っていたこのとき、転がり込んできた100万が、「偶然」とは思えなかった。天に向かって、私はうなった。「ありがとう。あと一息です。」

 

「絵描きになった物語」(14)

「もうひとつの絵」

 

話は少しさかのぼる。光風会先生の個人教授を辞めて、女流先生の油絵の教室に入門する前、しばらくの間、新聞を見たり、電車の広告を眺めたりしながら、油絵の練習が出来るところを探していたときがあった。

 

そのとき私は示現会と言う日展系の名の知れた画壇が夏期講習として1週間の講座を設けるという広告を目にして申し込んだ。そのときも未だ私は、何処かにもぐりこまなければ、まともに絵がかけないと思い込んでいた。講習は面白かったし、久しぶりの絵筆に私はかなり喜んでいた。ところが、講習が終わって、批評会というものに出たのだけれど、芸術家先生たちの、あまりにえげつない批評に私はおったまげた。

 

あらかじめ指導の先生から、ある程度の批評は受けていて、これで合格といわれた作品ばかりである。講習会を主催した責任者の一人が、「先生方の批評に反発しないで、ただうなずいていればいいんだよ」などと、はじめから駄目押しは受けていたものの、批評の言葉遣いが、あまりに、下品なのだ。下手だとか、ここをこうすればいいとかいう前向きな批評ではない。

 

「このくらい描けるからって、もう自分は芸術家だと思っているんだろう。その根性がけしからん。正確に物をかけないんなら、自分で素っ裸になって股を鏡に映してデッサンの練習しろ。」などと、一人の女性が言われているのを聞いて、そういう下衆な批評の言葉を投げ続けている男をそっと盗み見たら、言葉だけでなく、あまりに卑猥な顔つきをしていた。

 

あいつを「先生」と呼ぶのかよ。リストを見ると、日展の委員までしている大先生なのだ。絵でも何でもいい。ある社会的地位に上ると、人間はこうなってしまうのかと、考えたら気分悪くなって、私は自分の絵の批評を聞かずにさっさと帰ってきた。

 

「名の知れた教室」は真っ平だ。私はもう、自分ひとりで自分が描きたい絵を描こうと思い、それにしても発表して見に来てくれる人が必要だと考えて、今度は新聞広告で、絵の公募展を探した。でかいところは入選しないだろう。絵の内容よりも、情実や師弟関係で入選するような、大きな画壇では、私みたいな人間の絵は通用しない。とにかく、小さくてもあまり知られなくてもいいから、友人関係以外の誰かが大勢見に来てくれるようなところに、いきなり応募してみよう、そういう風に考えた。

 

そんなときに、女流先生の教室に入り、ほとんど初めから相手を頼ろうなんて思わずに絵を描いていたのである。女流先生に不服はなかった。先生のグループ展にも出品するのはやぶさかではなかったし、だからといって「先生のグループ展向き」に絵を描いたりする気もなかった。

 

あるとき私は町を散歩していたら、偶然光風会先生が犬を散歩させているのに出会った。彼は以前犬を飼っていて、それが交通事故で半身不随になったため、保健所に頼んで安楽死させたということがあってから、犬を飼っていなかった。

 

「おや、新しい犬ですね」と私は思わず挨拶なしでそう声をかけた。

 

しばらく犬をめぐって話をしていたら、彼が隣町にある読売会館の招きで、生涯教育の一環としてデッサン教室を指導しているという話が出た。

 

しかも、「モデルさんがすごくいいよ。これからの題材はモデルさんが手持ちのピエロの衣装を着けるって言っている。あまりどこにでもある題材じゃないよ。興味あったらいらっしゃい」というのだ。いってみよう、と私は、今までのいきさつを忘れて、思った。

 

ただの社交辞令でも、なんでもいい。どんな題材でも練習が出来るところがあれば利用しなきゃ損だ。

 

私は彼の絵に対する感性を知っていた。彼の感性は、そのとき自分がとりあえず通っていた「高学歴の女流画家」の感性よりも「本能的」だった。

 

しかも集まる人々は彼との特別な結びつきでなく、市の広報を見て集まる不特定多数の人々だ。気を遣わなくてすむ。と、思った。ものも言わずに絵だけ描いている、そういう人間もいるだろう。

 

グループは25人。たいした挨拶もなく、絵にかかった。なるほど、ピエロの姿は面白かった。片足をもう一方の膝に置いて、バイオリンを持ったモデルが座っている。こんな題材で描ける所はどこにもないだろう。デッサンを何枚か描いていたら、光風会先生が、「それ油絵で描きなさい」というので、それからキャンバスを持ち込んだ。先生がそういうのだから、誰も恐れることはない、30号のキャンバスを持ち込み、油絵を描いた。

 

ところで、ここに問題がおきた。先生は私の背中にべったりくっついていて、他の誰の絵も見ないのである。別に私が色目を使っておびき寄せたのではない。むしろ教室に集まる別のばあさんたちが、絵ではなくて、色目で先生をひきつけようとしている。

 

気持ちの悪い声を出して、80歳くらいのばあさんが、「せんせーー、あたしのもみてえ、あたしの側にちっともきてくれないんだもーーん」とかいって私の背中に張り付いていた先生を、文字通り、腕をつかんで引っ張りに来る。

 

内心私は感じるところがあった。「危ないぞ。」

 

それから私は場所を取るときに、なるべく壁に近いところに陣取って、背中に先生が来ないように仕組んだつもりだった。両脇に荷物を置いて、バリケードを張った。

 

しかし先生は私の絵を見るために、バリケードを乗り越えてくるのだ。彼は絵を見るときにいつも彼がする様に、自分の腕を立てたり横にしたりして、絵のゆがみを確かめながら、ためつすがめつ私の絵を見ていた。そして時々、「ひじから下に線を引いてごらん」とか言うのだ。そのとおりすると、画面の中の人物のゆがみが直ぐにわかり、自分で修正ができる。彼は手を加えて指導されるのを嫌がった私のために、言葉で指導をしてくれたのだ。

 

しかし、色目のばあさんたちは、それが凄く気に入らなかった。「先生はあなたばかりにくっついている。なぜかしらぁん、おかしいわねぇ」と、意味ありげに「あの」独特の笑顔で言いに来る。私は色目ばあさんのあらぬ疑いと復讐を恐れて、教室内で絵を完成させることを躊躇した。押し寄せてくる人間関係のしがらみを恐れたのである。私は人間が怖かった。うっかり、この絵をみんなの出す展覧会になんか出して、賞でも取ったら、とんでもないことになるぞ、と思ったのだ。

 

私はピエロを家に持ち帰り、完成させていなかった顔の部分を、自分の顔を鏡で見ながら描いた。ところがその絵を昔住んでいた小さな家の寝室の枕元において描いていたら、主人が通るたびに「気持ちが悪い」「気持ちが悪い」というのである。

 

しかたない、私は顔の上に、モデルのメイクを思い出しながら、メイクした。しかし輪郭は私なのだ。自分をピエロと呼ぶことに、なんだかいい感じがして、その絵に「自画像」と題して、誰も知らない公募展にそっと出した。それを知っているのは、私が招待した、教室とは関係のない数人の友人だけだった。

 

私が招待した一人の友人が、ピエロをとても気に入ってくれて、「売る気はないの?」と聞いてきた。「買ってくれるの?」といったら、「欲しいんだ」というのだ。学生時代の友人だったから、値段がつけにくかった。そこで私は値段は好きなようにつけてね、といったら、40万円くれた。

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「ピエロ」(自画像)

 

それからずいぶんたってから、光風会先生の教室で裸婦を描いていた。先生がいろいろの人の間を縫って、また私のところに来た。他のメンバーの絵の前ではまったく何も言わなかった先生が、私の絵の前ではいろいろ言葉をかけてきた。

 

やれやれと思って、先生が今黙って立っていたところの絵を見ると、15号の画面の上に10センチくらいの人形らしいものが描いてあって、その絵を描いた爺さんは筆をとめて、後はただぼんやり裸婦を眺めている。そっとその爺さんを盗み見、私は急に納得した。

 

帰りの電車の中で先生に会った。「あなたは凄く熱心に絵を描いている。何しに来ているのかわからない人がたくさんいて、参っちゃうよ。」と、先生は言った。「何しに来ているかはっきりわかるじゃありませんか」と私はにやにやして言った。「女性は先生が目的だし、男性は裸婦を『見る』のが目的なんでしょ。」

 

「絵描きになった物語」(15)

「告発」

 

「自画像」を入選させてくれたその展覧会には2回ほど出品したのだけど、受賞はしなかった。受賞をしている絵を見ても、たいしたことないので、ま、ここは未知の人が見てくれると言うことだけがとりえかなと考えていた。

 

ところで、2回目の展覧会の後で、その会の会長さんが私に近づいてきて、こう言った。「あなたはすばらしい絵を描くから、内の会の会員になってくれない?」「え?」と私は当惑して答えた。「だって、会員になるには、受賞を何回かしなければならないでしょう。私は未だ素人ですから、資格がないと思いますけれど・・・」

 

そうしたら、その会長さんは言うのである。「来年、賞を上げるから、会員になってね。」変なことを言うやつだ、と私は思った。「来年の絵」を見もしないで、何で賞を決めるんだ・・・。私はここでもうんざりして、会員どころか、もう絵を出すまいと考えた。賞って一体なんなのだ・・・?

 

それから私はわき目も振らず、機会を全て捉えて絵の修行に励んだ。あるとき私は新宿の世界堂と言う大きな画材のデパートで、男性の裸形の石膏像を見つけた。5万円もする。自分には高すぎた。私が考えている題材を描くには男性のデッサンが欠かせない。しかし、ほとんどの絵画教室では女性の裸婦のモデルは来るが、男性の裸形はほとんど描く機会がないのだ。指導者の大半が男性の所為もあるが、たぶん男性のモデルのなり手がいないのだろう。

 

先生は女性だったし、人体をマスターするには両方必要だと言うことを知っていたから、1回だけ男子の裸形を描かせてもらった事がある。しかし,ポーズに注文が出来ないから、なんだか現実ではありえないきざなポーズで描かなければならず、しかも1度だけだった。

 

私が描こうとしていた題材は、何しろ内戦なのだ。実は男性の死体が必要だった。女性のモデルなら、立像もあるし寝姿もある。寝姿があれば死体のモデルになりうる。

 

其処で私は一計を案じた。先生に教室用にあの石膏像を買わせようと思った。

 

「男性のいい石膏像がありますよ。良くある石膏の古代ローマの神話上の人物ではなくて、ただの普通の男子の裸形ですよ。モデルが少ないから、あれ教室に備えたらいかがでしょう。」

 

女流先生は直ぐに乗ってきた。それで先生の教室に男子の裸形が備えられることになった。しめしめ。

 

その男子の裸形が届いたときから、私はまるで自分のためのものであるかのごとく、前から後ろから、時には上向きに倒したり、うつぶせにしたりして、男子の体の描写の研究をした。

 

そうやって完成したのが、「告発」だった。内戦の中で虐殺されたわが子を前に絶叫する母親の姿である。あの時代に、あの国のどこの壁にでも書かれていた軍隊を告発する落書きとともに、私はそのものすごい題材を描いた。

 

しかし私は先生に石膏のデッサンは見せたが、その絵そのものはひた隠しにしていて、発表前には誰にもその絵を見せなかった。何言われても、その絵は描くつもりだったし、そのくせ余計なことを聞けばたちまち落ち込んで絵筆を取れなくなるほど精神の打撃を受けることを知っていたからだった。

 

「とにかくこの絵は発表するぞ。あの内戦を生きて生き残った者の使命として、私はこれを発表するぞ。」と私は相手もいないのに意気込んで突っ張っていた。

 

私はそれを松戸の市展には出さなかった。自分の生活圏で、これ以上、余計な批判を受けたくなかった。あの、賞を取るとか取らないとか、賞を取ったら、先生となんか関係あるだろうとか、そういうくだらないことを言う人々の目になんか触れなくても良い。この絵は不特定多数の、未知の人の足を止める力があるかどうかさえ試すことが出来ればいい。

 

そう思って、私は「告発」を、例の二科の先生に誘われて出すことを約束した、二科会千葉支部展に運んだ。入選するかどうかきわどいところだ。社会問題を扱う絵なんて、絵じゃないと言う芸術家は多い。芸術とは、描いている自分自身にさえわけがわからなくても、自己表現らしい形式にかなっていればいいんだ。

 

だからあの報道カメラマンの視点みたいな描き方をしている私の絵が、芸術家先生たちの意にかなうことはないだろうなぁ、と、私は考えてもいたのだった。

 

数日たって、私は二科会から通知を受け取った。「告発」に対して、「読売新聞支局長賞」を授与すると言う通知だった。

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「告発」

 

私は試行錯誤で絵を描き始めた、本当に駆け出しの素人だったから、支部とはいえ、二科会みたいな大きな画壇で、二科会関係の誰の指導も受けず、師弟関係もなく、初めて出品した絵が、受賞すると言うことは衝撃だった。私はそれまでも、賞と言うものの胡散臭さにうんざりしていたし、無関係の人間がひょいと取れるようなものではないと言うことを知っていた。その通知を見てしばらくはぼうっとし、あきれかえり、それから天にものぼる心地になった。

 

とったぞ、とったぞ、凄い受賞だぞ!

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報告できるのは、自分の家族だけだった。文句なく、余計なことを言わず、単純に一緒に喜んでくれるのは自分の夫と娘だけだった。