「自伝及び中米内戦体験記」10月1日

「絵描きになった物語」(16)

「父の画集、ついに出版」

 

「告発」が受賞した1999年、東京都立美術館で開催される、二科会の東京展に「大司教暗殺」が、千葉県美術展に「ツツヒル族の老女」が入選を果たした。松戸市展でも別の30号が「努力賞」を受賞していた。

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大司教暗殺」

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教室は専らデッサンなどの修行をする場として利用し、実際に出品する絵は、孤独に黙々と家で描き続けた。教室で描いた絵は一つもないし、出品前に、主催者側の先生に指導料を支払ってまで指導を仰ぐという手続きを踏んだ絵は一つもない。私の絵は何々派の絵ではなくて、下手だろうが、芸術として認められる手続きを踏んでいなかろうが、穴倉にこもって一人で描いた自分の絵だった。

 

しかしそれを信じる美術関係者は一人もいなかった。「信じる」って、別に私はそういういきさつを自ら宣伝したわけではない。美術関係者には誰にも知らせず、わずかに喜んでもらえそうな友人たちにだけ知らせたのだが、受賞すれば授賞式に行かなければならず、難関として知られる二科展に初入選とあっては、同じ地域の美術関係者にも知れ、噂は噂を呼ぶものらしい。

 

しかも私の絵は、どの教室でも未知の絵だった。誰も私が描いている所を見ていない、怪しい絵だった。だから自分の知らない何処かで、何かあったのだと、みんなが勝手に詮索し始めた。特に私が二科展にかかわるきっかけとなったO先生の門下で、入選も受賞もしたことがない人々にとっては、これは異常事態だった。

 

展覧会で出会うたび、人が、ずけずけと私に直接言いに来た。「あの受賞のために、あなたはO先生に何十万円支払ったでしょ?」

 

こういう質問に私ははじめはムキになって答えていた。「私はO先生に、松戸の駅の前でであって声をかけられただけで、それ以上個人的に知りもしないし、絵を習った覚えもないし、金銭を授受するいわれもない。」

 

そんなはずないと、人は疑った。「世話になった先生には、日本人なら、お礼するのが当然よ。それも出来ないなんて常識がないわ。」とからんでくる。初めてのことだったから、私は驚愕し、とんでもないものをもらってしまったのだろうかと、悩んだ。

 

それに輪をかけて、別のルートを経て、妙な噂が耳に入る。「女流先生は二科のO先生とは犬猿の仲だから、あの先生の門下では入選する人も受賞する人もいないのに、受賞するなんておかしい。あなた、O先生と特別ななんか関係があるの?」

 

「あなた、光風会先生のところに戻ったでしょ。あっちにもこっちにも、よく顔を売っているのね。其処までして受賞にこぎつけたのね。」

 

ここまで来ると、私にも、それが単なるやっかみによるいやがらせに過ぎないということがわかってきて、煩いからひたすら沈黙し、何も否定せず、何も肯定しなかった。いちいち他人の動向を嗅ぎまわっているほうが異常だと思ったから。

 

結果、私は二科のO先生と光風会先生とを二股かけているふしだらな女で、女流先生は芸大の大学院まで出ているから「画歴」に箔をつけたくて付き合っている、ということになってしまった。女流先生自身に学歴があって「箔」が付いていても、付き合っただけで私のほうにも「箔」がつくというのは、やくざの論理だ。

 

父の画集を出版する予定の2000年は迫っていた。140万円を手にし、後10万円で費用の全額が出来るという状況に成って、私はその時点でゴーサインを出していた。本は出版されれば1冊12000円という値なのだ。9人に買ってもらえば、10万は補える。そんな計算までして150万を何とか自分で集められるつもりだった。

 

画集は何回か私が目を通して構成を重ね、さて、思案に暮れてしまったのは、本の著者の名前だった。兄弟全員の名前で出したかったが、降りた3人はそれを拒否するだろう。出資者は二人だから、二人の名前で良かったのだが、私の名前を出せば、姉が文句を言うだろう。あれやこれやと考えた。

 

もう一人の出資者の四郎兄さんは、ずっと韓国に出張中で、実質的には私が全てをやったのだけど、彼は兄弟の間で最も軋轢の少ない、無難な人物だった。私は、画集が兄弟に喜ばれることを期待した。

 

悩む私にエノクが言った。「とにかく、画集を出版できればいいのだ。著作権に問題があるなら引っ込んでいる方がいいよ。著作者の名前なんかどうだって、仕事をしたのは誰かということは、遺言をしたお母さんが知っている。」

 

エノクのこの言葉に救いを感じた私は、画集の著者と著作権をすべて四郎兄さんに譲った。

 

紆余曲折を経て、2000年2月父の誕生日に生誕100年記念として、画集出版にこぎつけた。

 

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「三好俊一画集」表紙

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あるページ

 

「画集の完成で考えた」

 

できた画集を見ていたら、昔のことが頭の中を駆け巡った。

 

破れた窓には板が張ってあった。畳はぼろぼろに毛羽立って、でこぼこしていた。父は膝を立てて寝ていた。その膝がからりと落ちた。まるで枯れ木が倒れるようだ、と9歳の私は感じた。6月2日6時2分、父死す。という電報を、修道院にいた三郎兄さんに、母は送った。

 

夫の面影を胸に抱いて、母は生きた。夫の画集をいつか世に出して名を残そうと夢に見た。それから40年、思いを果たせなかった母は、死の間際、画集を頼むと、最も経済力のない私に言い残していった。私は画集はおろか、どんな本でも出版するに必要な知識も経済力もまったく持たなかった。それなのに私は、盲目めっぽう、遺言を守ろうとした。何度も何度も壁にぶつかり、壁にぶつかるたびに、どこからともなく、助け手が現れた。なんていうことだろう!と私は心に思った。

 

できないはずのことが出来た!

 

私は旧約聖書の記述を時々思い浮かべた。信仰のない人々にとっては荒唐無稽の記述にみちたあの本を。たぶん聖書は、こういうことの積み重ねから生れた本なのだろう、出来ないこと、ありえないことを託されて、盲目めっぽう行動に移した人物が、後から後から降りかかる災難を自力とは思われない力で克服して行ったのを、「奇跡」と呼んで記述したのが、あのような壮大な民族の歴史になったのだろう。

 

自分は「画家」ではなかった。内戦の国に行き、其処で得た経験のものすごさに圧倒されて考えた。どんな方法でもいいから「語り部」になりたい。そんなこと主体的には誰も望んでいなかった。それでも私は何かに突き動かされていると感じていた。

 

あの時代、あの国で、いくらカメラを持っていたとしても、内戦事情を伝える写真など撮れなかった。それは死を意味したから。スケッチすることだって危険だった。路上の死体に興味を示すことだって危険だったのだ。私は自分の記憶力をつかさどる脳みそのなかに、あの光景を覚えこませた。日本に帰って他に手段を持たなかった私は、記憶を呼び起こして絵を描いた。

 

その絵を売ろうとはまったく思っていなかった。自分の絵の前で見知らぬ人が立ち止まってくれれば、満足だった。それで十分私は自分の思いを表現しえたと満足した。

 

父の画集編纂をいまわの際に母から任された。私はその費用の捻出に困っていたときに、私の自作の絵を買ってくれる人が現れた。画家でもない人間の素人の絵だと知りながら。しかも画集編纂の費用を私がなんとか捻出しようと思っていることなど誰も知らなかった。お互いに知らない人が3人で必要な金額をきっちり集めてくれた。あの3人はただの人じゃない。そう思えてくるほど、それはまるで画集のために計算された金額だった。

 

まるで内戦の巷をリュックを背負って買い物に行ったことも、語り部になりたいという使命感に突き動かされて絵を描き始めたことも、その絵が人の目に留まったことも、全てこのためだったとでも言うかのように、物事はうまく出来すぎていた。画集は私が「偶然に」絵描きにならなかったら出来なかったのだ。 

         

「絵描きになった物語」17 

二科会千葉支部同人となる」

 

父の画集が出来た2000年の初夏、二科会千葉支部展は45回記念展を開催した。実は私は、画家仲間と交流がなかったため、そういうことを知らなかった。こういう「記念展」には、「中央」から大先生が招かれる。出品者は腕の見せ所とばかり、ひときわ熱心に絵を描くものらしい。

 

「有力な」先生は、「いろいろな」意味で訪問を受ける回数も増え、「いろいろな」意味で忙しいものらしい。出品者は当然、それを頭において、「行動」するものらしい。私が「知らなかった」のはそのことを含めて「知らなかった」のだ。

 

私の絵は「有力な」先生の目に留まる絵ではなくて、「もし入選させてくれるなら」会場の何処かで、美術なんかわからなくていいから、題材の背景にあるものを誰かが目に留めてくれることを期待する絵だった。はじめから、優れた芸術を生み出すなどということを念頭に入れていなかった。私にはその「優れた芸術」を生み出す才能なんか考慮になかった。

 

ちょうどその前後に、遺産にかかわる裁判が結審して、兄弟は母の家を売り、5人で分割してある金額を得ていた。すでにバブルは崩壊し、5等分した金額はバブルの頃の半分になっていたが、それは中古の家なら買えるほどの金額だった。主人は定年を間近に控え、社宅から出なければならないと思った私たちは、同じ常磐線沿線の駅の北側に、適当な中古の住宅を見つけて引越した。

 

今までよりもスペースがあったので、私は初めて100号に挑戦し、「難民荒野を行く」という題で絵を描いた。私たちも難民だったが、別に集団脱走したわけではないから、実際難民が退避している状況を見たわけではない。故郷に残れずに逃げ出す人々の苦労話は聞いていたし、報道カメラマンの写真集にも接していたが、その悲惨さは、「美」を対象とする絵の題材になるほどロマンチックなものではないことは承知していた。それでも私は世界中の難民に対する思いを込めて絵を描いた。

 

出品した「難民荒野を行く」というその絵の題の副題に私は詩を書いた。

 

  父祖の言葉を話し、父祖の歌を歌い

  父祖の神々を祭り、大地を愛し、大地を寿ぐ

  武器を持たぬがゆえに、未開といわれ、

  父祖の地を追われ、野に屍をさらす

  アメリカ大陸とすべての地球上の

  生きる権利を奪われた難民にこの絵を捧ぐ

 

それが「二科会千葉支部45回記念賞」を得、同時に、「同人推挙」を受けた。同人推挙を受けるという意味は、以後、審査なしで、無条件に絵を展示できる権利を得たということである。私は名実ともに、「絵描き」になったのだ。

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授賞式に出ると、私だけ、2回も壇上に上がって、表彰状を受けるという結果になった。

 

目立った。

 

1度の展覧会で、何であの人は2回も壇上に登って賞をもらうんだ。人はいろいろと噂をした。ある人が私のそばに来て、「悔しい。あなたに負けた」とつぶやいた。見知らぬ人だった。当惑して私は言った。「負けたって、はじめから勝負していたわけではないでしょうに・・・」

 

彼女は私と「同期」なのだそうだ。仲間を持たない私の「同期」ってなんだろうと思って聞いてみた。去年私が「読売新聞支局長賞」を受賞したときに、その上の賞に当たる賞を受賞した人だったらしい。何しろどうでもいいことに私は記憶力が働かない。少し段階の下の賞をもらった私が、自分を差し置いて、今年は凄い賞をもらい、おまけに一足先に同人になった、ということは由々しきことだったのだ。

 

私の知ったことかいな。勝手にあっちが呉れるんだもの。

 

授賞式があり、祝賀会があり、挨拶があり、そういう社会的な常識を全てひととおり済ませて、私は一人で家に帰った。疲労していた。これで或る道程が終わったのだな、と私は思った。懸案の父の画集が出来、私は「語り部絵描き」となった。

 

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「慟哭」と「misererenobis」

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misererenobis

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慟哭