「自伝及び中米内戦体験記」10月3日

 「家族離散」(3)

 

「初めての個展」(1)

 

さて。一人になった。エルサルバドルの大震災のニュースはその後おいおい知らされてきて、首都は壊滅状態で、エノクの家族も被災し、首都を離れた親戚の元に身を寄せていることがわかった。弟の一家が義父の面倒を見ていた。エノクは出張に出て、何も出来なかったが、物資に不足はしていないらしかった。

 

一人になった私は個展をやろうと考えた。

 

中米内戦を扱った絵がたくさんある。それは、個展をやって一堂に集めたら壮観だと思った。しかし、会場が問題だった。内戦関係の絵は小さくても30号、大きくて100号だ。発表していない100号の連作の絵が一組あって、先年賞をもらった「難民荒野を行く」も100号だから、100号の絵が3点ある。それに、9月の二科展や千葉県展に向けて、数点の絵を描き溜めていた。50号が10点ばかり、人の死のにおいのする内戦の絵ばかりだ。これを全部展示するには、相当広い会場が必要なのだ。

 

しかも、個展をするなら、これだけでは駄目だ。入場料取るわけじゃなし、手ごろな値段の小さな絵を買ってもらうためにたくさん描かないと、儲けを災害援助のために寄付すると一言で言っても、募金箱を置いただけではたかが知れている。

 

ところで人の死ばかりを描いてきた語り部画家には、芸術作品としての「形」がないのだ。売れる絵なんて、意識して描いたことがない。どうしよう、と私は思案した。

 

二科展初入選の年の暮れ、二科会千葉支部の恒例になっている「サムホール展」が東京京橋の画廊で開催された。サムホールはthumb-hole、小型のキャンバスのサイズである。約22センチ×15センチのサイズばかりの絵を、売るために展示する。そこでだいたいの目安として、メンバーの絵の値段も決まるのだ。初回は号1万程度、サムホールで2万程度だ。受賞者の絵は5千程度の違いがある。いい加減な値付けだが、画歴によって、値が上がる。

 

何がなんだかわからないけれど、私はこれも経験とばかりに、参加しようと思った。自称内戦語り部画家にとって、そんな小さな絵、何を描いたらいいかわからなかった。身の回りのものを描いてもどうも特徴が出なくて面白くない。やっぱり中米のものがいい。そう思った私は、かつて、エルサルバドルで子供を育てていたときに、子供に中米の動植物図鑑を作ってやろうと考え、描き溜めていたスケッチがあるのを思い出した。

 

そうだ!あれを使ってやろう、と思った私は、日本では見られない、中米の鳥たちを、いろいろな角度から、何枚か描いた。庭に良く来ていたハチドリ。タラポ、あるいはトロヴォスと呼ばれる、尾が矢羽のようになった美しい鳥。尾長のように飛ぶ黄色と黒のチルトータ。ミソサザイの一種で庭のバナナの花をつついていた鳥。みんな懐かしい鳥たちだった。

 

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ハチドリ

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トロヴォス

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チルトータ

(記録がなくて、あまり掲載できないけど)

 

どれを出品したらいいかわからなかった私は、描いた絵を数点もって、誰かに選んでもらおうと思った。一人1点しか出せない。しかしこの際、みんな持っていって、友人たちに見せちゃおうと思った私は、数人の友人と会う約束をしておいて、あらかじめ打ち合わせていたところで、見せた。そうしたら、展示する前に、1枚を残して売れてしまったのである。

 

ところで、作品の展示の仕方にも、いろいろあるらしい。私の絵は真っ赤な中に日本にいない極彩色の鳥をあしらった絵で、人寄せに目立つと考えられたのか、例の「私がなんか怪しい関係を持っているという噂の」二科展の審査員O先生が、入り口に飾ってくれた。それって名誉なことらしいのだ。やっぱり怪しいらしい。

 

ただ、その展覧会で売れたりすると、何割か会に収めなければならない。がめついことを言うようだが、初入選の人の絵は安いから、支出の方が多い。会に何割か収めると、額縁などの材料費はおろか、交通費さえ出ない。あの時、未だ父の画集の決算が出来ていなかったので、足りない分を何とかここでこっそり売った絵の代金で出そうと思った。そこで、売れた絵のことは黙っていて、残った絵を1点だけ出して知らん顔をしていた。

 

ところがその名誉ある場所に展示された1枚も買い手がついたのを知った私は、初めての出品で売れたりしたら、また例のやっかみにあって騒がれるのを恐れた。私は、それをこっそり買い手に手渡して、同じ題材の絵と摩り替えておいた。で、私がいないとき、それも売れた。私はその最後の1枚だけが売れた振りをして規約通り何割かを、会に支払った。

 

あれだ、あれだ、と私は思った。中米の動植物なら良く売れる。

 

で、その日から、会場のことも考えないで、せっせと動植物図鑑用のスケッチを、油絵に起こしていった。娘のためにスケッチを始めてから10数年がたって、たまげた形で役に立った。鳥と植物とアルマジロ、あまり見ない絵が30数枚出来あがった。

 

出来上がってから会場のことを考え始めた。あのサムホール展の会場は、あまりに狭すぎて、小さな絵だけしか展示できない。目玉は内戦の絵を一同に展示して、小さな絵は志ある方についでに見てもらい、出来るなら、災害援助のために買っていただくという形にしたかった。チャリティーといったって、意味のないことにお金をかける人はいない。是が非でも「中米内戦」を目玉に、人様に来ていただこう。

 

そう考えていたとき、二科の先輩から、「銀座に友人が新しく画廊を始めるのだけど、宣伝がてらに個展をやってくれる人がないか探している」という情報が入った。どこだどこだ、私はその会場のひろさを確認しに銀座まで行った。広い!100号3点でもOKだ。値段を聞いたら、オープン記念に友人なら半額で6日間、16万だそうだ。つまり、この機を逃したら32万ということになる。渡りに船とばかりに飛びついた。

 

そのときは未だ、私はパソコンの扱いに不慣れで、招待状やら、ポスターのため、かなりの経費をかけた。チャリティーとはいえ、1枚も売れなかったら悲惨だぞ、と悲観的な私は心配し、RECOMに連動を頼んで、一緒に民芸品も売るコーナーを設けた。

 

「個展:中米内戦」と題して、銀座のギャラリー「風」で、初めての個展を開催したのは、その年の7月だった。年齢60歳。仕組んだわけでもなかったが、まるで還暦記念のような展覧会だった。

 

「初めての個展」2

 

個展を開催する2年前、二科展に初入選した「大司教暗殺」という絵が、ある限られた界隈では、有名になっていた。「カトリック新聞」という日本のカトリック教会の機関誌が、誌上で私を紹介したのである。

 

大司教の暗殺のあった時代背景について語るのは弱い。自宅にに取材に来た記者を前に、大司教の死を語りながら、私は流れる涙をとめることが出来なかった。大司教の暗殺から13年が経過していてもなお、私の心は大司教の壮絶な死に接したときの衝撃を忘れなかったのである。

 

その後、私は「大司教暗殺」の絵をキャビネ大の写真にとって額に収め、エルサルバドル大司教区、ロメロ大司教の暗殺後に大司教の座に着いた人物に、送ったため、後になってから知ったことだが、絵のみが作者不明のまま、エルサルバドルで、シャツの柄になるほど有名になっていた。

 

私の語り部画家としての出発点は、かの大司教の生き様をこの目で見、彼の命をかけた使命感の貫徹に圧倒されたことだったといってもいい。私はカトリックの家庭に生まれて、子供のときから、キリスト イエスの教えの内容というものを教えられてきた。しかし、教えられた教えは日本においては「建前」でしかなかった。あの内戦の国でロメロ大司教に出会うまで、本当にその教えどおりに生きた信者に出会ったことなどなかったのだ。

 

個展は、内戦の中に生きて死んだ人々への鎮魂の思いを込めて、この絵を中心に陳列した。

 

絵の脇の壁には、当時のエルサルバドルの状況をつぶさに書き記した紙を張った。未だ使いこなせていないパソコンを駆使して、個展の1日前に用意したのだ。資料は特に何も持っていなかった。たった一つ持っていたのは、大司教暗殺を伝えるエルサルバドルの古い新聞だったが、実は読むと体が震えるので、記念に持っているだけで読んだことはない。何も見なくても記憶は明確で、あの町で踏みしめた土の色も、人々が倒れるときに舞い上がる埃も、「アガチャテ、アガチャテ(伏せ!)」と叫ぶ人々の叫び声も、鳴り響く銃声も、鮮やかに体中の細胞の中に息づいていた。何よりも私は、心の中の絶叫を忘れてはいなかった。私は壁に絶叫を書き殴った。

 

私が招待状を送った人々の中に、かつて共同通信に務めていた、そのときはたぶん引退してある雑誌社の記者として働いていた人物がいた。子供のときの教会時代の知り合いだったけど、私は彼のそういう身分を知っていたわけではなかった。個展が始まる直前、私はその人物から、個展に取材に来るという連絡を受けた。

 

インタビューの後、彼は私が壁に書いた絶叫を音読してそのままテープに取り、絵を写真に収めていった。その記事が、「あけぼの」という雑誌の10月号に「ルポルタージュ・日本の境界例」と題して載ったのだ。

 

一方、「心のともし火」という、一部の地方で放映されている宗教の番組があって、私は其処からも依頼を受け、個展の絵を紹介しながらインタビューに答える番組に、引っ張り出された。それが編集され、「エルサルバドルの体験から」と題して、地方のテレビに放映されたらしい。残念ながら関東地方では見られなかったが、ある限られた地方でその番組を見た人が私に知らせてきた。

 

個展「中米内戦」は限られた世界で、ある一定の反響を呼んで終わった。私が始めに目論んだ以上の結果だった。

 

小中高大学時代の友人や、教師時代の仲間や教え子が来てくれて、自分の目論見だった個展の「目的」も達成した。友人たちはRECOMの民芸品売り場に座って販売を助けてくれたし、募金も手伝ってくれた。そしてなによりも絵が23枚も売れたのだ。

 

初めての個展で、新人の絵が売れることなど、ほとんどない。だから、これは自分の実力じゃない、と私は思った。チャリティーのための浄財と私は解釈し、売り上げの全てをエルサルバドルの災害援助に使うことに決めたのである。どんな形の成功にせよ、私は一国の悲しみを題材に、自分の手柄になどしたくなかった。

 

個展が終わってから、私はRECOMの友人の紹介で、神戸に住むエルサルバドル人の彫刻家とであった。彼はエルサルバドルにいたとき、学生として、海外協力隊の隊員から彫刻の指導を受け、日本人と結婚して、やはり内戦時代に日本に来ていた。神戸に住んだから、阪神淡路大震災を体験し、実際に救援にも当たった人物で、エルサルバドルの大震災の報を聞いて、祖国救援に立ち上がったのである。

 

彼の救援活動は、かなり本格的だった。彫刻家としての知名度を活かし、幅広く救援物資や資金を集めて、故国の被災地と日本の間を往復した。私は彼に個展の収益を全て預けた。彼は現地のスタッフやJICAと協力して、仮設住宅を建設し、崩れた小学校を再興し、町を再建するのに貢献した。

 

「私の仕事は終わった」と、私はある満足感を持って2001年の秋を迎えた。

 

「ネットギャラリー」

 

エノクは時々家に帰り、そしてまた出て行った。暇に任せて私はパソコンを弄繰り回し、何度かエノクの資料を消しては怒られ、何度かパソコンを壊し、だんだんと、このおもちゃの魅力に取り付かれていった。家族とは、寡黙にメールの送受信のみで交流するようになった。

 

初心者がパソコンを弄繰り回していると問題が多いので、エノクは自分が留守の間、私がパソコンの中の自分の資料に手がつけられないように、私用のアドレスを作り、私の遊べる空間を分けていった。

 

私はあるとき、ふと「チャット」と書いたところをクリックした。画面の上を文字が流れ、読んでいくと、まるで、それは声のないもの同士の「会話」のようだった。数人が会話をしているようにみえた。ロボット同士の会話を見るように、私は珍しい言葉の動きを追った。

 

なんだか怒っているものがいた。入ってきたものは名乗れ、挨拶しろといっている。誰にいっているのかわからなかった。いらいらしているような言葉の主は、挨拶は基本的礼儀だろ、と叫んでいる。誰が挨拶しないで怒られているのだろうと思った。

 

横に妙な項目が並んでいて、それも時々消えたり、新しいのが載ったりしていた。ところが、会話の流れの中に、お互いにおかしな名前で呼び合っているのに気がついた。その妙な項目はお互いに区別するため自称のあだ名らしかった。良く眺めているうちに、その中に、私のアドレスが載っているのに気がついた。そして、ちょっといたずらに、とりあえず、「こんにちわ」と打って見た。その文字が、会話の中に飛び込んできた。「お!私の言葉が動いている!」

 

それからだんだん、無礼をしかられているのは自分だということに気がついた。私はたどたどしく、言い訳の言葉を打ち込んだ。そうやって私はパソコンのキーを打っているうちに、チャットというものを覚えたのだ。ハンドルネームというものも面白がって、いろいろ考えては、好きな名前で、チャットルームと呼ばれる会話のグループの中に入っていった。なんだか、自分もロボットたちの仲間入りをしたかのようだった。

 

相手の性別も年齢も知らなかった。それでも案外、暇つぶしの遊びとしては、ひどく現代的でドライで、面白いと感じた。

 

そのうち段々相手の姿がおぼろげに想像できる様になった。現実の会話のように、相手の性格も、自分との共通点も、興味も捉えられるようになった。喧嘩もしたし、特定の相手に親しい気持ちも涌いてきた。パソコンの扱いに困ったときに、チャットの相手から教えてもらったり、一人暮らしの寂しさが少し癒されるのも感じた。

 

そのうち、チャットの部屋の作り方や、手持ちの写真を載せて仲間と共有する方法も学んだ。中にはコミュニティーというものを作って、知り合った仲間同士、日記のような、エッセイのような、さまざまな文章を保存しておく場所も覗いてみた。

 

なれてきたら、他人のチャット部屋にあき足らず、自分でチャットの部屋を作ることを覚えた。私の「ハンドルネーム」は「手負い虎」と固定するようにもなった。母のクリスチャンネーム「テオドラ」を戯れに漢字表記したものだったが、おかげで私はそれ以来、ネットの中では「虎さん」と呼ばれるようになった。

 

チャット部屋は一時的に私が「使命」と考えた、語り部として内戦を題材として描いた絵を、ネットを通じて発表できる手軽な手段が出来たと考えた。個展のように、会場費が要らない。部屋を開放しておきさえすれば、世界中のネットの利用者がその気があれば自由に覗ける。文章を書けば読んでもらえる。出版する必要もないから、収入にはならないが、移動もせず書斎から一歩も出ず、世の中に自分の思いを発信できる。

 

私は当時見つけたMSNのサイトで、「虎のギャラリー」と言う名のチャットの部屋を作った。絵を自動的に変えていくような高度な方法を知らなかったから、部屋に入ってくる未知の人々を相手に、片や手動で次々絵を見せて、片やチャットで筆談をするという芸当をやった。相手の顔は見えなかったが、私は確実に、自分の絵とその目的を伝えていった。

 

未知の人々は、絵を見て勝手な意見を言った。賛辞を浴びせる人もいたし、揶揄する人もいた。芸術とは美を追求するもので、人が死んだ絵なんかに、どこに美があるのだ、と食い下がってくる人もいた。お前の目的が純粋なら、賞なんか辞退するべきだという意見のために2時間も食いついてくる人もいた。私はチャットの世界というものの軽さを理解せず、いつも真剣に受け答えしていた。本気で喜び、本気で怒った。散々傷ついたし、人を散々傷つけた。

 

絵を見ながら、ある意味、まじめな批評をしてくれる人の中に、衝撃を受けて私が半年も絵がかけなくなったほどの言葉を投げかけた人があった。

 

それは、「他国の苦悩や悲惨さを、自己顕示欲の手段とし、金儲けさえするのか。お前は戦争商人じゃないか。」という言葉だった。

 

重い重い言葉だった。芸術論争ではない、純、不純の問題でもない。絵筆は動かなくなった。なぜなら、その言葉の中に、真実があったから。