naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月4日

9・11テロ」

疑問 

自分の語り部画家の使命は終わったと考えていた9月、テレビはいっせいにニューヨークのテロの事件を報道した。何度も何度も繰り返されるその実況報道の映像を見ていた私は、ふと、妙なことに気がついた。「偶然の事件」の「実況放送」ってなんなのだ?!

 

映像はあらゆる角度から、飛行機が飛んでくるところからビルが破壊されるところまで、つぶさに、まるで、はじめからカメラが其処で事件のおきるのを待っていたかのごとく、映し出されていた。事前にその場所で、四方八方に報道陣はカメラを用意していたかのようだった。

 

一方、ホワイトハウスを狙った飛行機は直前に撃ち落され、その映像は一切報道されなかった。其処は立ち入り禁止区域にさえなり、死ぬ直前の旅客の英雄的な行動ばかりが証拠も示されず、「こうだったはずだ」というコメントの元に、大げさに報道された。一方、ニューヨークのほうは何度も何度もあらゆる方角から報道が繰り返され、ほとんど観光名所みたいになって、その取り扱いの違いは顕著だった。

 

エルサルバドルグアテマラも、内戦を指揮し、反政府系の民衆に対する大量虐殺を敢行し、暗殺者を送った政府の「殺人部隊」を指導したものは、アメリカから送り込まれたCIAの特殊部隊だということは、噂ではあるけれども、ラテンアメリカでは常識だった。其処に、自作自演の芝居があり、あらゆるぬれ衣を反対勢力に負わせるというやり方も、それは内戦の国では常識だった。

 

911テロのニューヨークの画面を見たときに、私の脳裏には、この「常識」が浮かんだのだ。私は報道を信じなかった。内戦の国にいたとき、私の周りで、新聞やテレビの報道を信じているものはいなかった。反政府勢力の電波は妨害されていたし、妨害することの意味を庶民は知っていた。

 

これはどうせアメリカの画策だと思った。これはアメリカという大国の隣の国で内戦を体験したものの「勘」であって、もちろん何の証拠もなかった。しかし、私はあの映像が「世界中にいっせいに」発信されたとき、次に起きるのは、アメリカの主導による中東戦争だと思った。アメリカはあのテロ事件を大げさに報道することによって、中東に介入するための正当性を主張するだろう。その「正当性の主張」が先にあって、仕組まれた「偶然の憎むべき事件」ではなかったのか。

 

アメリカは予測どおり、アフガニスタン侵攻を始めた。アメリカの国民の90%は敵に対する憎しみにおいて一致したと報道された。10%の戦争に反対する声はかき消された。(ただし私はこの「報道された」パーセンテージを信用しない。)

 

ネットの中で、ある平和運動の意見交換のグループを見つけた私は其処に参加した。多くの情報が踊り狂い、多くの意見が交わされた。しかし「平和」を叫ぶ人々の間にも「陣営」があった。背中にはやはり、何処かの大国の影が見え隠れした。チャットの部屋に入ると、日本語の達者なアメリカ人が雄弁に、自国の正当性を叫んでいた。イスラムさえいなければ、世界は平和なのだ、と若いアメリカ人は声高に言ってはばからなかった。

 

かつて私は学生時代、ベトナム反戦運動がおきた時、日本の学生たちは町に練りだしてデモをやった。小田実率いるべ平連の亜流である「ベトナム反戦市民の声」という運動に参加した私は、怖さにがたがた震えながらデモに付いて行った。ベトナム反戦のうねりは荒海の波のように激しかった。しかし、911関連で、日本にはほとんど反戦デモの報道がなかった。

 

正義とか平和とか、人類普遍の問題に見える事柄でも、煽る組織がなければ人はだれも動かない。

 

悪魔のごとき人間として報道されたオサマビンラディンは、あったことも見たこともなくても、人は煽られてあれは悪魔だと信じこむ。私は暗い心の中で、報道の真実を疑う。少なくとも彼は自分の富を自分と自分の子孫の繁栄のために使わなかった。十字軍ブッシュは自分の富をほんの少しでも貧者に分けたことがあるのか・・・。「キリスト教陣営」の旗印にしている十字架にかかった男は、一度でも武器を持って人を支配したことがあったのか・・・。

 

平和運動のMLだから、どこかに反戦デモを呼びかける声はないかと探した。其処に、私の行動範囲で1時間で行ける場所に、ある仏教寺院主催の平和行進があるのを発見し、誰にも言わず、一人で参加した。寺院の入り口で、行進参加の意思を伝え、私は行列の中にもぐりこんだ。

 

私は一人で、一枚の自作の絵を持って、行列に参加し、何も言わず歩いた。それは「命の歌」と題した少年の絵だった。聖歌も讃美歌も歌わず、経文も唱えず、絵だけ持って黙々と行進した。

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宗教者らしい集団が大勢加わっていた。一部ではシスターらしい集団が賛美歌を歌い、一部では僧侶たちが南無妙法蓮華経を唱え、太鼓を打ち、練り歩いた。祈り以外に、反戦平和をがなりたてる声はなかった。

 

面白い。と無言であの絵を持って歩いているだけの私は思った。

 

12月、アメリカはアフガニスタンを制圧した。私には、あのニューヨークのテロと、「国」として攻撃を受けたアフガニスタンがどういう関係があるか、知らなかった。アフガニスタンは「国」として、ニューヨークを攻撃したのか?アメリカはアフガニスタンという「国」に宣戦布告したわけではなかった。テロの首謀者がオサマビンラディンと想定され、彼がアフガニスタンにいるはずだということだけで、一国が一国を滅ぼしたのだ。

 

アフガニスタンアフガニスタンだから、誰がいようといなかろうと、アメリカは強引に侵攻して行ったとしか思われなかった。アメリカの小学生は、アメリカはアフガニスタンに攻撃を受けたから、アメリカはアフガニスタンを「報復として」やっつけるのだと、教えられていた。

 

「理由」とか「意味」とか「正義」とか、そんなものは胡散臭いものだった。「何でもいいから」アメリカは中東を支配したいだけなのだ、そのために、どんなに多くの命が踏みにじられようと、そんなことはたいした問題ではないのだ。アメリカの兵士にさえ死傷者がなければ、戦争は「正しく」「正義」の戦争だった。相手方の一般庶民の死なんて、「数」も記録されず、もちろん発表もされなかった。

 

死に行く無辜の民が、エルサルバドルの内戦の人々と重なった。死んだ子を抱く母親の狂乱を思った。あの死者の数も、誰もどこにも「公表」しない。内戦終結後、サンサルバドル市外に2000体以上の白骨体が発見された時だって、わずか朝日新聞1誌のみが、社会面に2行で報じただけだった。中米に内戦があったということだって、私の個展に集まった友人たちは、知らなかった。

 

「これって、植民地解放戦争?もう200年も前のことでしょ?」

「神話時代の話?」と、見に来てくれた友人たちは私に尋ねた。

 

私は一人、白いキャンバスを見つめた。ネットの中の未知の男の一言で、長い間、筆を取れなかった。しかし、あの超宗派の平和行進に参加して、大国のエゴによって爆撃で死んでいく無辜の民を思い、自分はやっぱり絵を描こうと思った。

 

MLの中も議論は不毛だった。何を言ったって仕方ない。くだらない宗教論争が多かった。私がカトリック信者だと知った人々は、戦争はすべてキリスト教徒が起こし、あたかもキリストの教えの中に戦争を正当化する教えがあるかのように、私に向かって攻撃の手を緩めなかった。冗談じゃない。私がアフガン戦争を起こしたわけじゃあるまいし、こんな連中、相手にしていられない。

 

アフガニスタン侵攻」なら、いかなる宗教も弾圧した共産主義国ソ連が長年やってきたことであることを、誰も論じはしなかった。あのエルサルバドルの内戦で、民衆の側について論戦の末、暗殺されたのは、丸腰で説教台に立っていたカトリック大司教だった。カトリック教会は徹底的に弾圧され、ロメロ殺害の後、民衆を守ったイエズス会の6人の司祭が虐殺されて、武器を持たずに抵抗した民衆は指導者を完全に失ったのだ。あそこに宗教戦争なんかなかった。弾圧するほうも抵抗するほうも、キリスト教徒の一種だった。

 

その歴史は隠蔽され、あのアホブッシュが上ずった声で、アフガニスタン侵攻軍にすぎない米軍を「十字軍」と名乗ったことが、声高に喧伝された。誰が神の名において、お前にアフガニスタンを攻撃せよといったのだ!?

 

人ははじめに思ったことを信じて行動を取るのだ。議論は私に与えられた使命ではない。私には他人に自分の主張を認めてもらうほどの言葉の力を持っていなかった。

 

私に出来るのは絵しかない。ものを語る絵を描こう。くだらない議論を黙らせる絵を描こう。何を描くか、空を睨んで考えた。私の脳裏にはすでに下絵が出来かかっていた。

 

「2002年という年」1

 

私はしばし、100号の白い画面と向き合った。画面の中に人が浮いて見えた。瓦礫の中に、人がうずくまり、時々体を震わせていた。

 

私の絵筆は赤い絵の具を抉り取った。100号の白い画面は真っ赤になった。それは火炎地獄のようだった。火炎地獄のど真ん中に、女性が一人、死んだ子供を抱えて身を震わせて泣いていた。声は声にもならず、人間のようなものの塊が、火炎の中で燃えていた。

 

それは戦争の中の「どこにでもある」情景だった。その、「どこにでもある」「常識的な」情景を映して、私の筆は白い画面を、燃える血の色で染めていった。背景と呼ばれるものを描かなかった。子供が路上で死ぬ。路上で死ぬのが「常識」の世界を、私はある特定の景色の中では捉えられなかった。

 

私が100号と格闘している間に、2002年が明けた。

 

2001年という年は、エルサルバドル大震災があり、娘がアメリカに留学し、チャリティー個展をやってエルサルバドル義捐金を送り、ネットの世界にデビューして、喧嘩したり友人を作ったりしながら、怪しい世界に私が徘徊しはじめた年だった。家族との交流さえネットを介し、世界は広がったのか、または目に見える世界は消えてしまったのか、幽界を歩いているような気分で過ごした変動の1年だった。

 

娘は新しい生活に満足しているようだった。日本人留学生とも親しくなり、英語にもなれて、講義にまともについていくようになったのか、honorable studentとかいう者になったという知らせを受けた。彼女は近い将来奨学金を獲得を睨んでいた。父親の定年退職が迫り、自分名義の学費に限界があることを知っていた。だから彼女は成績を気にかけていた。

 

ホームステイ先の教授とはあまりうまく行かなかったらしいが、多くの友人を得て、2002年はともかく個人的には希望を持って「平和に」迎えた年らしかった。私はそんな彼女の努力を見て、ひとまず安心していた。

 

私の火炎地獄も何とかまとまった。私はその絵に「miserere nobis」と題して、その年の6月、二科会千葉支部展に出した。両親が満州で洗礼を受けた関係で、子供のときからラテン語の祈りに親しんでいた。だから、miserere nobisという言葉は、私にはごく当たり前の言葉だった。爆撃で理不尽な死を遂げる人々を描いて、私には祈りの言葉しか出てこなかった。それが miserere nobis・・・主よ我らを哀れみたまえ、だった。理解されないことは知っていた。

 

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(二科千葉支部展にだして酷評を受けた当時の絵)

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(一応入選はしたけれど、酷評が集中した展示会。隣の絵は、『慟哭』)

 

反戦絵画のつもりだったから、ネットの中で出来た平和のMLにも呼びかけ、数人の人が見に来てくれた。

 

しかし、それは二科会の多くの先生から酷評を得た。

 

「赤は楽しい色なんだ。悲しみの表現に、赤はふさわしくない。戦争を描くのなら、もっと壊滅した町を背景に描け」

 

「こんな単純な筆遣いで、真っ赤な画面に、真っ赤な人物なんていうのは、外国なら奇抜さが受けても、日本では受け入れられない」

 

「これを芸術だといって押し付けられても、どう判断していいかわからない。要するに技術不足なんだよ。意味が伝わらない」

 

「赤はまずいよ、悲しみを赤で表現されても通じないよ。青とか灰色とか、もっといろいろ自然の色を使ったらどうなの。」

 

「この絵は甘い絵だ。」

 

それらは皆、「親切な批評」だった。

 

ネットのなかの未知の男性に、私が使命と考えた語り部としてのあり方を批評されてからというもの、ほとんど絵筆をもてないまでに、私の絵画活動は低迷していた。低迷した中で、勇気を奮い起こして描いた、あの「miserere nobis」が酷評を受けたことで、すっかり自信を失った私は、東京の二科展でもその年入選を逃した。

 

強烈な赤で強烈な悲しみを訴えようという意図は、誰にも通じなかった。好意を持ってくれる友人は「あなたは悲しみを描きながら、色が綺麗なので、救われる」と言って慰めてくれた。内戦の悲惨さを訴えようとする絵が日本人にとっては「救われちゃう絵」なんだ。憮然として私は慰めに対してお礼を言った。

 

なにはともあれ圧倒的な人々が、あの絵を失敗だと考えていることを、私は理解した。結局あの絵には他人を感動させる力がないのだ。色が「綺麗」だから死が美化されてしまうのだ。色が「綺麗」だから、死を甘く捕らえていると感じられたのだ。

 

私は何時までも赤にこだわり続けた。なぜだか知らないけれども、二科展の先生方の言う事を聞いて、色を変えることが出来なかった。しかし、あの題材から「綺麗」で「甘い」絵だという感じを受けた見る側の感性を放置することも出来なかった。

 

私は「miserere nobis」を自宅に引き取ってから、しばらく眺めていた。ふと私は思いついて、「虎のギャラリー」の自分のプロフィールの写真に手をつけずに、「綺麗な救いの色の赤」のまま「miserere nobis」を載せて、一切の質問に答えなかった。圧倒的に大勢のネット人口の反応を見たかったのだ。

 

気分を変えて私は50号の絵に着手した。千葉県展は、サイズが50号と規定があったからだった。東京二科展の入選を逃して、戦火が世界に広がりそうな大事な年に、自分の思いを訴える絵を発表できないままにしておけなかったからせめて、千葉県展には入選したかった。私は特定の内戦体験の語り部画家から世界に対して言葉を発する社会派画家になりつつあった。

 

着手した題材は、戦禍を後にあてどもなく避難する子供の難民の後姿だった。特定地域の問題という意識を避けて中米の衣装を務めて避けた。火炎地獄は傍らに立てかけてあったから、時々ちらちらと赤い人間の塊を眺めた。

 

手がけ始めた絵は、二科展の先生方の言葉に押されて、疑問を抱きながらも灰色の画面から始めた。灰色を塗りながら、何で悲しみは灰色なんだかさっぱりわからなかった。墨絵で描けというなら、まだわかる。しかし、だったら、墨絵はみんな悲しみの表現かい。一人でぶつぶつと文句を言った。

 

しかし、私の筆はまるで自分の逡巡とは関係ないかのように、赤の絵の具のチューブをひねり出して、いつの間にか子供の難民の画面は赤く燃えていた。