「自伝及び中米内戦体験記」10月5日

 「2002年という年」2

 

911テロの後の情勢は、アメリカの一般の学生のみならず、留学生の外国人にも、影響を及ぼしていた。エルサルバドルの内戦体験から学んだ私は、通信の危険性を感じて、アメリカにいる娘には、戦争に関するどんな考えも伝えず、どんな情報も流さなかった。しかししばらくしたら娘のほうから、アメリカに幻滅しているようなメールが届きはじめた。

 

アメリカは民主主義だとか自由だとか言うけれど、アメリカに思想の自由なんかありはしない。アメリカの自由とは、セックスの自由、ゲイになる自由、麻薬付けになる自由、暴力の自由、ホモ同士が結婚する自由くらいなもんだ」と、彼女は激しい口調で訴えてきた。本当にそうなら、それは危険な発言だった。

 

アメリカにいる友人からも、いろいろの情報が伝わってきた。世の中は星条旗だらけで、イスラム系の商店が襲撃を受け、反戦を唱える学生が退学になり、小学生には、アメリカ自身が爆撃したアフガニスタンの「貧しい子供達のために」クリスマス献金が強要されていること、その偽善に、親たちが頭に来ていること、思想・信教の自由は完全になくなったことなどだった。

 

彼女は、その年の9月、自分の将来への計算から、大学を転校した。オハイオ大学でいくら良い成績をとっても、外国人学生用に設けた英語の特設のクラスからは解放してもらえないと彼女は言ってきた。その特設クラスの費用が高く、どんな高得点をとっても自分を解放しないのは、外国人をお金を取るためのカモにしているんだと、彼女は考えた。それで、日本人の留学生たちは、いっせいに逃亡を図ったらしい。

 

彼女は、私が娘の名義で銀行預金したお金は、今、どうでもいい学部のために使わないで、3年になってもっと研究などに必要になってから使いたい、学部は学費4分の1で済む、コミュニティーカレッジというところでやって、3年になったら正規の大学に編入すればいいのだ、と考えた。それを仲間の留学生と一緒に決行しようと、彼女たちは大挙してテキサスに下り、ヒューストンカレッジに移籍してしまった。

 

それを聞いた主人は、あわててヒューストンに住む、エルサルバドル大学時代の仲間に連絡を取って、ホームステイをさせてくれるように手配した。テキサスを彼は知っていた。「あそこは女の子が一人で住んでいられるようなところじゃない。」と、彼は言った。平和日本の良家の子女の集まる学校で育った娘は、アメリカの危険さを知らなかった。奨学金を取れるほどの成績を収めていたのに、英語の特設クラスが解放してくれない、これ以上、高額な特設英語に付き合っていられない。そのことが娘を無茶な、無防備な行動に駆り立てたのだ。

 

オハイオ大学のときは、安心していて娘の住む環境をわざわざ見に行こうとはしなかったが、娘が自分で住み代えた場所が南部テキサスのヒューストンと聞いたとき、私はにわかに心配になり、会いに行こうと決意した。あそこはブッシュの地元なんだ。ブッシュの地元で、娘が最近メールに書いてくるような反米思想なんか口にしたらどうなるか、私はそのことが心配だった。

 

「2002年という年」3

 

私はその年の10月グアテマラ旅行を計画していたので、グアテマラ行きの中継点がヒュ-ストンであることを利用して、娘のところに寄った。行きは時間がなかったので、迎えに来たホームステイ先のエノクの昔の友人に連れられて、食事をしただけだったが、旅行の帰り、少し時間を取って娘の生活を観察する時間があった。

 

帰りのヒューストンは娘の授業時間の関係で、空港に迎えに来たのは娘の留学仲間である日本人の友人だった。彼は娘の学ぶ学校に直接私を連れて行った。図書館で私は娘を待った。オハイオと比べてヒューストンは古くて汚いと、娘が言っていたが、比べる相手を見てないので、図書館を眺めて、思ったほどひどくないと思って、少し安心した。

 

エノクの友人というのは、エルサルバドル内戦時代、イタリアの学会に行ったときに、エノクが私の保護を頼んだフランシスコだ。仲間がすべて難民となって、みんなばらばらになって以来、ほとんど20年ぶりの再開だった。すでに奥さんとは離婚していて、難民として避難した国も分かれていた。子供は3人成長していて、一人だけ一緒に住んでいた。

 

懐かしかった。奥さんと別れてから、再婚もしていないので、家庭という雰囲気はなかったが、なんだか、皆、「独立」して生きているという感じだった。一緒に住んでいる次女は、凄く優秀で、オースティン大学で博士課程にいた。別れた奥さんと顔がそっくりだった。小さいときのことを知っている。そのころは父親に似ていたが、成長した姿はなんとなく、態度、物腰まで母親に似ていた。

 

娘にそれとなく様子を聞いたが、みんなそれぞれ凄くハイテクの鍵を持っていて、出入り勝手にしているから、一緒に食事もしたことがないらしかった。ほとんど顔も合わせないでそれぞれが勝手に食事を作って食べるのだそうだ。まるで日本の家内別居家庭みたいだ、と私は思った。庭に犬がいて、餌だけは与えられているようだったが、完全に見捨てられていた。私がちょっと相手したら寄っては来たが、まるで人間を信用していないような顔が印象的だった。

 

到着した日は、家の冷蔵庫から野菜を出して、娘と食事をし、次ぎの日は、娘の授業の間、大学からちょっと離れたところの博物館にバスで行った。

 

バスは黒人しか乗っていない。乗り合わせた「一人で3人分の座席を占領していた黒人」に声をかけて、博物館の事を聞いたら、怪しい人間に声をかけられたといわんばかりに、凄い発音で、「そんなこと運転手に聞け」という。別に運転手に聞くほどのこともない、声をかけたのは、話がしたかっただけなのだ。なんか、居心地の悪いバスだな、と思った。エルサルバドルのバスは乗り合わせた人が声を掛け合って、直ぐに友人になっちゃうんだ。

 

ここはアメリカの南部だ。差別意識を持っていないつもりでも、居心地が悪いと、場所と其処に住んでいる人間の所為にしたくなる。娘はここで居心地がいいのだろうか、と私は不安を感じていた。

 

午前中は博物館で時を過ごした。待ち合わせの時間にまたバスに乗って学校に行ったら、娘が出てきて、誰か友人を待つのだという。娘に足がないのだ。アメリカみたいな車社会で、運転が出来なければ、誰かに頼む以外にない。送り迎えしてくれる友人が出来たらしいのを私は悟った。

 

迎えに来たのは、背の高い目玉の大きい、黒人の男性だった。彼の車はトラックだ。そのトラックに載せられて、私は娘といろいろ話した。実は娘と出会ってから、彼女の歩く範囲には、ホームステイ先のエルサルバドル人以外は、日本人と黒人しか見当たらなかった。付き合い範囲に白人はいないの?と娘に興味半分聞いてみた。

 

娘が言う。

 

オハイオにいたときは白人ばかりだったし、わずかに学生仲間に、色の白いイスラムの人もいた。でも、あのテロ事件いらい、白人は有色人種に対しておかしくなったし、イスラムの人も差別を受けていてかわいそうだった。白人と話をすると、だんだん引き込まれて、なんだか色がついているのは人間じゃないみたいな気になってくる。IDカードだって日本人と書かないで『colered:色付き』、と書いてある。そのIDカードをチラッと見ただけで、相手の態度が変わるのがわかる。

 

混血で、ほとんど白人に見える人でもちょっとでも有色人種の血を受けていると、差別を受ける。でも、差別意識に関しては、ここに来ている日本人はもっとひどい。日本の若い学生たちは、髪を金髪に染めただけで、白人になった気分でいる。それでほかの有色人種の事を、付き合ってもみないで『ヒスパニックなんか馬鹿だ』などと平気で言っている。

 

アメリカの歴史には問題があるからともかくとして、日本人が白人と一緒になって、歴史的に何も問題を共有していないのに有色人種を馬鹿扱いするのは醜い。黒人でも頭だけ金髪に染める人がいる。あんなのゴリラがチンパンジーになったに過ぎないのに、白人に近づいたつもりでいる。

 

昔日本にいたときはお母さんたちが嫌うほど、髪を染めるのに違和感を感じなかった。でもここでは『髪を染める』ということの意味が、日本で考えたのとまるで違う。民族差別の問題と、コンプレックスが裏表になっていることに、日本では気が付かなかった。ここでは髪を染めた黒人も、金髪の日本人も、まともに付き合える人種じゃない。

 

ここに来てから、『まとも』だと思える黒人の学生と友達になったら、一緒に歩いているだけで、店によっては入れてくれない。入っても相手にされない。銀行でさえも、黒人と一緒にいるだけで、言葉遣いだけは凄く丁寧にニコニコしながら、実際には顔と裏腹で、色だけちらりと見て、お金おろすのも後回しにされる。

 

映画館に入れば、日本でだってそう簡単に見つけられないほどブスの日本人俳優を集めて、第2次世界大戦の映画をやっている。日本人がいかに野蛮で、正義を知らず、文化も低く、顔もみっともないかを強調した作品ばかりだ。黒人やインディアンやヒスパニックの出てくる作品になるともっと凄い。かっこいい白人が野蛮な人種と戦って、征服する、そんな映画ばかりだ。」

 

娘は昔、こんなに毒舌家ではなかった。立川基地の近くで戦後を生き、若いときベトナム反戦運動に参加した私は、なんとなくいつもアメリカに背を向けていたし、国際問題に関しては、アメリカに対してかなり激しい毒舌を吐いていた。それを聞いた彼女はいつも反論し、政治に関しても国際情勢に関しても私の考えを批判していた。

 

それが一体、どうしたというんだろう。日本の受験に失敗して、オハイオに行ったときは、彼女はもう少しアメリカにあこがれていたはずだった。特設英語の問題がなかったら、彼女はオハイオの生活を楽しんでいたはずだった。ところが彼女はオハイオの学期が終わった7月か8月に移動を決め、ヒューストンの学生生活を始めてからは未だ3ヶ月にも経っていなかった。

 

しかし多くを私は語らなかった。運転している黒人の友人をそっと盗み見、この人の生活の中にかなり引き込まれているらしい娘の変化を感じた。自分もこうして、親と離れたんだ・・・。親もどんなに不安だったろう。娘の中に躍動する魂を感じ、同時に不安だった。

 

「あなたは外国人なんだ、アメリカの建国以来の問題に首を突っ込んだら、とんでもないことになるのよ。人種問題からは距離を置きなさいよ。」と其時の私は娘に言うだけにとどめた。

 

「2002年という年」4

 

娘がオハイオからヒューストンに引越しを決めた頃、私は引越しに必要だろうと思って、学費とは別にいくばくかの送金をした。ところが娘がヒューストンのエノクの友人宅に落ち着いた頃から、理由を言わずに、追加の送金を依頼して来た。不審に思わないわけではなかったが、私は娘がぜいたく品を買ったり自分の身を飾ったりすることにお金を使わないことを知っていた。

 

高校の寮暮らしをしていた頃、金遣いの荒い同級生を尻目に、一人質素に生きていた。やせ我慢をしていたのではなくて、彼女は100円で買える鉛筆などの文房具を買わずにブランド物の1万円のペンを買う仲間を批判していて、たまたまプレゼントなどに高級なものをもらっても、「ブランドなんか持っているのがむしろ恥ずかしい」といって使わなかった。

 

ただ私には彼女のお金の使い道に一抹の不安があった。彼女が札幌の代ゼミに入りたいというので、私は10万円を送金した後のことを思い出したのだ。

 

寮は土曜日は帰宅の日になっていて、土曜日の食事は寮では出なかった。遠くて費用がかかりすぎ、ほとんど帰宅の出来ないものは、親戚縁者の家に泊まるか、外食で済ましていた。うちは親戚縁者もいなかったので、彼女はいつも外食で最低の食事をしていたらしい。

 

で、10万円を送金してからまもなく、彼女はお金がないといってきた。予備校の費用は10万円かからず、私は本などを買うのに必要だろうと思って、少し余計に送ったつもりだった。電話でお金が足りないという娘の言葉に不審を感じた私は、送ったお金は何に使ったのだ、と娘に聞いてみた。

 

娘はそのとき答えたのだ。ハリケーンミッチが中米を襲って、被災者に対する募金があったので、自分はエルサルバドルのために、4万円を寄付したのだと。

 

「お母さんだって、エルサルバドルに災害があったと知ったら、そのくらいのことするでしょ?」

 

その言葉を聞いた私は激怒した。「そのお金は私がツメに火をともす思いでためたお金だ。余計なものを送ったのじゃない。自分が労力を使って儲けたものでもないお金を、勝手に別の用途に流用するやつがあるか。高校生が小遣いの中から寄付するといっても限度があろう。募金というものは、小さな力を寄せ合って大きくするものだ。仕事もしていない人間が一人で多額のお金を出すことなど、誰も期待していないはずだ。

 

あなたがあなたの考えで、自分がそのために困るほどの金額を寄付したというなら、その尻拭いを親にさせるな。自分の責任で足りない分を工面せよ。」

 

私は娘にびた一文も送らなかった。そうしたら娘は、それ以後卒業するまで、土曜日を絶食して「責任」を取ったそうだ。彼女はいい加減に、両親が余裕があって学費を送っているのではないことを理解しているはずだと、私は思っていた。理解すべきだと思っていた。

 

私たち親子が難民となって日本に帰ってからは、40過ぎてから就職した夫の給料だけで、生きていられるわけがなかった。だから私たちは、可能なあらゆることをやって、夫婦協力して生きていた。娘の学費を貯金し、自分たちのためになど、何も買わなかった。特にエノクは、自分たちだけが安全圏で生きていられるときに、エルサルバドルの仲間は内戦で苦しんでいることを思い、会社に行くための背広を2着しか持たなかった。其の生き方に私は敬意を表し、切り詰めて切り詰めて生きていた。其のことを娘は理解しているだろうと思っていた。

 

しかも、私が娘の学費のために用意した預金にも限度がある。もともと私は、娘が大学に入ったら自分でアルバイトしながら足りない分は補っていくだろうと考えていた。日本の私立大学の学費なら、2年と持たない金額だった。

 

しかし、いかんせん。娘の金銭感覚は、4歳の頃から変わらなかった。4歳のころ私が教えたことを、彼女は律儀に守っていた。

 

自分の要らないものを「こんなものいらないからあげる」といって友達にものをあげる子供達の会話を聞いた私は、娘を呼んで言ったのだ。「人にあげるものは自分が大切だと思うものをあげなさい。嫌いだから捨てるつもりで人に渡して、それで満足してはいけません。」

 

彼女はそれを聞いて、素直だった。買ってやったばかりの、寝るときも手放さなかった大切な人形を友達に上げてしまった。それほどの素直さを期待していなかった私は、自分が言った言葉を悔いたとき、主人は、娘を抱き上げて、お前は俺の誇りだといったのだ。

 

あの時と変わっていないのか!

 

お小遣いを何も上げていなかったミッションスクールの小学校4年生の頃、娘はつり銭の1円貯金を5000円以上もためて、学校の歳末助け合いに寄付をした。ところがそのお金の半分を、級友たちが学級会で話し合って、マリア像を買ったといって、自分はあんな意味もない石膏像のためにお金を出したのではないといって怒った。彼女がお金を使うとき、そのときも「人助け」のためと決めていた。

 

そして高校生になって、手にした予備校の学費の半分近くを、後先考えずに災害地に寄付した。私はそれを怒ったけれども、それは私の教育の「成果」だと苦笑する意外になかった。彼女は世間の常識に疎い両親の「表向きの」倫理観から一歩も出ずに育ったのだ。

 

娘は紆余曲折の末、国外に去った。アルバイトが出来ない身で、勉学を続けたいと思った娘は、学費がかからない方法をそれなりに考えて、転校した。新しい学校と以前の学校の学費の差も、彼女は知らせてきた。前の学校の単位が認められるから、彼女は後1年コミュニティーカレッジにいれば、専門のほうに、転入できる計算だった。

 

ヒューストンで出会ったときも、彼女は質素だった。食事も家で自炊していた。目新しいものは何もみられなかった。しかし、お金の使い道については、なんだか秘密があるようだった。彼女はお金を「やましいこと」には使わないだろう。それが私が期待する使い方でなくても、私は娘の4歳の頃から変わっていないはずだ。そう、頑強に信じていた。

 

私は60年も生きてきて、まさか自分が娘に言った言葉どおりのことを実行して生きてきたわけではなかった。だけど、どうやって彼女に、いい加減に私の言葉の呪縛から離れろといえただろう。私がかつてそうであった様に、娘は自分の人生の中で失敗しながら生きる方法を学んでいくしかないのだ。

 

誰の人生でも計算どおりにいかない。娘は成長し、やがて自分の世界を作っていく。金銭に関して、明言を避ける娘に、「父親が定年退職寸前にあり、私が娘のために貯蓄した預金の残額はこれしかない」を告げて釘をさしただけで、私は娘を深く追及しなかった。

 

「たゆたう命」1

 

2002年の年の暮れ、娘は一時帰国した。

 

彼女の態度から、なにか重大な秘密を持っているような疑いを私は感じていたが、娘は久しぶりの日本でいろいろ友人に会っているのか、あまり家に落ち着かず、何も具体的な話が出来ぬまま、2003年正月、早々にアメリカに戻っていった。

 

しかしアメリカ帰還後、ホームステイ先のフランシスコから、娘の状況を心配する連絡が入り始めた。娘は日本に一時帰国したときに、アメリカでは公表されていない、イラク戦争関連の報道、劣化ウラン弾によって、被災した子供達の、イラクの惨状を伝えた写真集を、私の戸棚から持っていった。それをアメリカの友人とともに、大量にコピーして、デパートの駐車場にもぐりこんで、一台一台の車に貼り付けて歩いたそうだ。コピーをしたのはフランシスコの家であり、部屋には其の残骸を放置していた。

 

「危険だ。こういう『活動』を続けるなら、自分は君の娘に責任がもてない。」と、彼が言ってきた。「こういう活動をされたら、自分にも火の粉が降りかかる。」そして彼は言った。「彼女を指導している黒人の友達がいる。彼女は操られているだけだと思う。送金をしているようだが、コミュニティーカレッジはそんなに費用がかかるわけがない。巻き上げられているかもしれないから早急に対処せよ。早く手を打たないと、とんでもないことになる。」

 

其の知らせを聞いて、愕然とした。しかしエノクの心は複雑だった。自分たちは生活者の感覚で、政治に対してある特定の考えは持っていた。しかし歴史の知識も何もなく、外国人留学生の身でありながら、いわば敵陣に飛び込んで、人間魚雷のようなまねをしたことはなかった。これじゃまるで自爆テロじゃないか。かつてロメロ大司教の勇気ある反政府行動に感動した私たちだったが、自分たちは勇気があったわけでなく、子供を育てるためという逃げ口上で安全圏に逃げてきたのだ。

 

心では理解したが行動はとめなければならないと思った。しかしエノクは半ば当惑し、半ば寂しそうで、自分の主張をし始めた娘に厳しいこともいえなかった。「フランシスコは変わったな」、娘のことはなにも言わず、彼はポツリとそうつぶやいた。

 

フランシスコは変わった。当然、自分たちだって変わったのだ。弾の飛んでこない安全圏にいながら、私たち夫婦はよく故郷の内戦のことや、世界の地域戦争のことについて、白紙の状態の娘の前で、勝手な意見をいってきた。彼女は両親の影響を受けたのだ。誰かが操っているという言葉は、フランシスコの、我々に対する思いやりだったのだろう。

 

フランシスコは、エルサルバドルの内戦のなかで、かつては勇敢に反政府活動をした男だったが、その彼もアメリカに避難し、過去を隠蔽してアメリカで生きられるようにして生きてきたのだ。しかも其処は南部の最も右傾の大統領の故郷、人種差別の激しい地域だった。彼が家族を守って生き抜くために思想的に転向を余儀なくされたからとて、安全圏に逃げてきた人間の誰が彼を批判できただろう。

 

しかし父親は其のとき、定年前最後の出張の準備をしていた。彼は出発前、娘に電話を入れた。娘が私に換わってくれと言うので、代わったら、彼女は妙な質問をした。

 

「お母さん、お母さんは中絶反対派?それともどうでもいい派?それとも、賛成派?」

 

まったく政治活動に関しては触れなかった。

 

めんくらった。何を言いたいのか、わからない。私は鈍感だった。昔から娘は突拍子もないことを前後の脈絡もなく言い出す癖があったから。いぶかしみながらも私は、ただの一般的な質問だと思って、気を取り直して答えた。

 

「当然、反対だけど・・・。」

 

私の表情を見、其のやり取りを聞いていたエノクが受話器をひったくった。

 

しばらく押し問答が続いた後、彼は受話器を私に渡していった。

「とうとう、心配していたことが起きた。」

 

再び受話器が手渡されたとき、私は娘の動揺した声を聞いた。太平洋を隔てた電話の向こうで、娘は動揺していた。

 

「まだ、点なんだ。卵でさえもないんだ。まだ人間になってないんだ。学校の実験室でいろいろ見たけれど、受精卵の標本が、ビーカーの中にごろごろ保存されている。あんなふうに扱われた卵を見たら、自分はあんなの尊い命だとは思えない。」

 

う・・・。その言葉に私には常識的な、もしくは非常識的な言葉も出なかった。

 

しかし、其の数分後、娘のかの友達、「まともな黒人」自らが電話をしてきた。

 

「自分はあなたの娘を愛している、彼女も自分を愛している、いつでも結婚の意思がある、全ての責任を自分がとる意思がある。」 ところが娘の意思の確認のために娘を電話口に出させようとしたら、彼はそれを阻止して電話を切った。電話の向こうで何が起きているのかわからなかった。色の問題はともかくとして、お互いに好きなら、なぜ娘ははじめに、中絶の事を言い出したのか。あの友人のことを、娘は「自分が知らなかった世界の歴史や、隠された国際問題の事実などを教えてくれた、先生」だといっていた。娘は、彼を尊敬しているように見えた。

 

ところが、はじめ自分から電話をしてきたとき、なぜあんなに動揺し、命に怯え、なぜ中絶の話なんかしたのだ。

 

いろいろな問題が突然、平和な家族の中に押し寄せてきた。しかしエノクはそのとき、定年退職前の最後の出張のため、どんな問題にも対応が出来なかった。何も手を打つすべもなく、とにかく私に渡米して、娘に会い、事情を見てくるように言い置いて、オマーンに行った。

 

命が誕生し始めているらしい。しかもその命は宿した本人の意思に反しているらしかった。「誕生し始めた」その「命」は、私達が知ったとき、確かに未だ意思さえあれば抹殺できるほどの、小さな点に過ぎなかった。

 

不気味な不気味な言葉だった。こんな不気味な言葉を発するほどに、彼女にとって、その命の誕生は不測の事態だったのだ。これは決して愛し合うものの発言ではなかった。

 

私はかつて、「命を抹殺する」ことなど考えたことがなかった。私の中では、「命」をどうこうするということは、「人間」の分野ではなかった。人間が決めた社会の中での「責任」とか、生れた「命」が、ある条件の元ではまともに育つかどうかとか、または育たないはずだということも、「人間」の踏み込む分野ではなかった。其の「命」は理由もなく生じたわけではなく、人間が其の「命」の運命を左右できるとも考えていなかった。

 

私は結婚してから、ひたすら「命」の到来を待っていた。4年目にやっと妊娠したとき、私はすでに39歳になっていた。流産を避けるため、私は3ヶ月以後、ベッドの上で水平状態で過ごした。あの頃、エルサルバドルは内戦で、人の死を日常的に見ていた。宿った「命」を抹殺するなんて、あの悪魔どもがやることだった。

 

私は、彼女にメールを打った。

 

「私はあなたが、その男性を本当に愛し、結婚したいと思っているなら、協力する。結婚しなくても、おなかの命を産んで育てるのなら、それにも協力する。あなたがその命を抹殺したいと思うなら、私もその命に対して共犯者になる。私は自分の意見を押し付けない。」

 

「たゆたう命」2

 

娘はホームステイ先のフランシスコと気まずくなって、日本人留学生仲間のカップルと一緒に、安いアパートに引っ越した。彼女はやっと其処から返事をよこした。

 

「あの家では自分は自由にメールもかけなかった。実は自分はあの男と恋愛関係にあるわけじゃない。不測の事態が起きたのだ。この前の電話も、彼が勝手にかけたのだ。彼が言ったことは私の意思と関係ない。はじめは彼の考え方が面白くて、付き合いながら多くのことを学んだし、黒人問題など、自分が知らなかった世界の現実を教えてくれたのも彼だった。中東戦争の真実も、彼から教わった。面白いから付き合い、始めは信用したのは確かだ。

 

でも、実は最近、銀行からの知らせを受けて、自分の預金が引き出され、マイナスになっていたのを発見した。始め銀行の間違いだと思い、抗議していろいろと調べた結果、誰かが“家族カード”というものを作り、引き出していた。“家族カード”は親カードがなければ出来ない。

 

いくら考えても、自分のカードをもとにそんなものを作れるのは、銀行に一緒に行って貰って、出し入れの方法などを教えてもらったあの男しかいない。そこで問い詰めたら、自分だと白状した。私の意思も確かめずに誰かの“家族”としてカード登録をすることが出来るとは、まったく考えも及ばないことだった。

 

ところが、彼は私のお金を使ったのは自分のためでなく、“貧しい家族”のためで、正しいことのために使ったと主張して、自分がやったことを正当化しようとした。自分は秋に彼にあって以来、いろいろ彼の生い立ちを聞いて、気の毒に思ってお金を貸していたけれど、そのたびに少しづつでも返してくれるので信用していた。

 

さらに追求したら、その“貧しい家族”とは、自分の別の女とその女に産ませた子供のことだった。始め自分は何を言われているのかわからなかった。ところが彼が自分でそのいきさつを語ったところによると、彼と子供の関係と言うものがだんだんつかめてきた。

 

テキサスの州法では、未婚で子供を育てている親権者である男性に、養育費を支給する制度があって、彼は二人の女性に子供を生ませて、その養育費を自分の学費に使い、実際は子供は女性が自分で育てているので、女性から時々養育費を請求さてれる。それで困ったので私の預金を使ったと言う。州法を利用して、子供は自分の学費稼ぎのために生ませているらしかった。こういう事情はいくら正当だと聞かされても、もう自分の理解の範囲を超えている。

 

今は盗まれたお金を取り戻すことしか考えていない。自分は彼の学費を生み出すために、子供を生産して提供する気はない。」

 

その記述は、いくら波乱の生涯を経てきた私でも、理解の範囲を超えていた。

 

彼女は自分に接近してきた親切な人物を信用し、彼からアメリカ建国以来の黒人奴隷の歴史を学び、黒人問題を扱ったビデオを見せられ、ビデオを見ながらおいおいと泣く彼の涙を見、実際に一緒に歩いて、その差別の現場に立ち会った。同情した彼女は請われるままに、彼に学費の工面のためだと信じて、自分の学費を「貸し続けた」のだ。

 

男は考えたのだろう。

 

「日本から、留学してきた女の子は親の仕送りによって生活し、仕事もしないで勉強が出来る身分らしい。しかもその子は世界の貧しい地域で役に立ちたいと、国境なき医師団に入りたいという希望を持って、贅沢をせず、金持ちと交わらず、いつも福祉に目を向けている世間知らずの女の子だ。アフガニスタンイラクの問題を語れば、義憤に燃え、アメリカ建国以来の黒人の立場を語れば、一緒に泣いてくれる、少女だった。

 

アメリカにそんな物語の主人公みたいに純真無垢な子はどこを探したっていない。」

 

彼は30代の黒人で、学生である。両親は離婚し、高校のときから彼に学費を提供する大人などいなかった。彼は生活苦と戦いながら、仕事のため途中何度も大学を休学しながら、何とか卒業にこぎつけるまではとがんばってきたらしい。彼が生活の中から学んだことは、黒人に分の悪い法律の下で、何とかしてその法律を利用して、社会の下積みから這い上がり、生き抜くことだったのだろう。

 

自分が慈しんで育てた一人娘の問題は、身が引き裂かれるほどに苦しかった。しかし起きてしまったことに嘆いても地団太踏んでも仕方がない。あらゆることは、永遠の「今」から出発する以外にない。永遠の「今」を生きぬく事、それが後から後から涌いてくる私の波乱の人生から学んだことなのだ。

 

私たちは、受験に失敗して絶望的になっていた娘の姿をみるに堪えず、最後の手段として、娘を自分たちが決して夢を抱いていたわけでもないアメリカに送り込んだ不見識のほうを、きわめて速やかに理解し、受け入れてしまったために、相手をむやみに恨むことが出来なかった。

 

そうか。結婚という選択肢は、無いのか・・・。シングルマザーの苦労を選ぶか、後の残りは、「こけし道」を選んで南無阿弥陀仏と唱えるか・・・。

 

娘を守りたい。娘の夢を邪魔するものを抹殺したい。その命、どうにかならないものだろうか。日本に戻して、優生保護法の元で、合法的に、何とかできないものだろうか。

 

私はそう考えて、千葉県中の有生保護を掲げる医療機関をネット検索し、片っ端から電話をかけた。そして、何とかなりそうな医療機関を探し出し、URLを送った。

 

優生保護法なんて、思えば勝手な法律だ。女の体の皮1枚を隔てて、中にいるか外にいるかで、「保護」と「犯罪」に分かれる。中で、命を抹殺するのを「保護」と呼び、皮1枚の外に出たのを殺せば「犯罪」となる。命の鼓動が聞こえようが聞こえなかろうが、「見えないもの」は「無いもの」で、「見えるもの」は「ある」から法規制を受ける。

 

その理不尽を百も承知だった。同時に私は、心の矛盾の罪滅ぼしに自分の宗教上の考えを書き送った。それはここに記述したことがある、マグダラのマリアを救ったイエスの出生と処女マリアの解釈であった。

 

子供のとき読んだカトリックの聖人伝には、イエスが救ったこの女性は『痛悔者』として聖人の列に加えられている。しかし聖書のどこにも、彼女が罪を悔い改めたからイエスが彼女を赦したなんていうことはかかれていない。イエスは彼女をリンチしていた群集に向かって、怯えてうずくまっていた彼女をかばっていったのだ。

 

『汝らのうち、罪なき者、まず石もて、この女を打て。』

 

その言葉によって、彼女は当座命を救われたので、西洋画家が描くような、胸をかきむしって罪を悔やむような状況から救ったのではない。その後彼女はイエスを慕ってイエスのいくところについて回っていた。聖書に書いてあるのはそこまでで、彼女は聖人になったとは書いていない。

 

エスはいったい、ただ一人この女性の命を救ったのだろうか。彼はリンチを容認する社会に向かって、『神の前でそれぞれがまったく同じ人間としての自覚を促し、愛というものの意味を知れ』、と言ったのであって、彼女には『戒律を守らなくて良い』といったわけではない。救われたのは女性よりもむしろ、自分だけは罪と無縁のものだと自認する群衆に己の無明の覚醒を促すことによって、本当は無明の群集を救ったのだ。

 

リンチを容認する社会は、とりもなおさず自分の出生を疑う社会であり、自分に苦悩と思索を与えた社会である。その苦悩と思索によって、祈りの中から彼は自分の使命をつかんだだろう。愛とは何か、罪とは何か。神の前で人間は等しく罪びとであり、その覚醒によって、連帯がうまることを愛と言う。

 

エスに与えられた使命は、貧しい厩の飼い葉おけの中で産声をあげ、ヘロデ王から追跡を受け、難民としてエジプトに避難し、シングルマザーの子として戒律厳しい社会の中で、養父のヨゼフに従って大工の修行をした苦悩の人生の中からつかみとっていったのだ。いや、人は無なのだ。無を悟ることによって、連帯し、愛が生じ、愛によってのみ、人は救われる。それが原罪の克服であり、イエスの救いのメッセージだ。

 

人は必ずしも尊い不思議な生まれでなければ、偉大なことを成し遂げられないということは無い。どんな生まれでも、どんな育ちでも、生れる子供の人生を、未来は暗かろうと勝手に決めるのは、人間のすることではないのだ。生れる生命は、生命をつかさどるものの意志に任せておけ。『主よ、み旨のままに。』だけが人間が祈ることを赦される祈りなのだ。

 

「たゆたう命」3

 

そう・・・。私はいろんなことを考えた。エノクもいろんなことを考えた。当事者の娘は一番苦悩したことだろう。人生と言うものは、どんなに真面目に真摯に生き、倫理・道徳・宗教で身を固め、ひたすらに祈り、ひたすらに修行し、不断の努力を惜しまずに勉学に励んでいたとしても、自分の力ではどうにもならないことがおきるのだ。

 

そのことを私は知っていた。そして、人生は決してあつらえられた物差しで計れないことも、今あることが良く見え、または悪く見え、幸福に見え、不幸に見えたとしても、結論は「在りて在るもの」の手の内にあることも、私は重々知っていた。

 

 

私はその3月、自分の仕事が終わると同時に、ヒューストンに飛んだ。娘は自分が私にいったことを決行してはいなかった。決行を促せよ、とエノクは連絡して来た。

 

どちらに転ぶかわからなかった。エノクが私に言ったから、私が娘に言ったから、命がどうにかなるものか。

 

それでも私は重い腰を上げて、支離滅裂な言葉を伝える役目を引き受けた。言うことぐらいならなんだっていえる。私は自分の聖書解釈とは裏腹に、エノクの意見を伝えようと思った。彼女が伝えられた父親の言葉に反応するなら、理不尽な男に対する思いもなく、おなかの命に愛も責任も感じることなく、ただひたすらに疎ましく思うのなら、日本の優生保護法に訴えて、子供をおろすために、日本に連れ帰ろうと考えていた。

 

日本人留学生のカップルと同居していた彼女は、案外元気だったが、新しい命に関しては決定を保留にしていた。私はどんな道でも選べるように、赤ん坊を迎える準備が書いてある雑誌を持っていった。つまり私は、聖書の勝手な解釈と、マタニティ誌と、優生保護法の手引きの矛盾した3点セットで持っていったのだった。それが私の「出来ること」なのだから。

 

ところが彼女は別の道を考え始めていた。

 

「産んで、子供が欲しくても出来ない人に育ててもらう」と彼女は言った。命に対する決定権を彼女は施行することを恐れた。それよりはアメリカには生んで養子に出すという道があり、病院がその手続きまでやってくれるということを彼女は病院の看護婦から聞きだした。

 

「自分は、一度の失敗で、自分の道を断念して手に職もなく、仕方なく、あの男の奴隷になって、彼の学費を稼ぐ道具となり、子供を生みづつける気はない。だからと言って、この命を育てることも殺すことも出来ない。残された道があるなら、自分は最後の望みをかけて、自分の道を続けるために、次善を選ぶ。」

 

そうか、産むのか、産んで育てず、人に育ててもらうのか。ホトトギスみたいなやつだな。これはもう日本人の発想じゃない、と私は思った。日本人なら、育てられない子を産んで人に預けるより、予想される悲しい人生を送らせないようにという一種の心遣いから、命を抹殺するほうを選んだだろう。

 

日本には伝統的に「こけし道」がある。合法的に子を消す道。だから日本は子殺しが常識的な国なのだ。そして水子地蔵などを作って、心の負担を「あちら」に託す。

 

しかし彼女は、キリスト教文化圏の中にいた。それは「人間には命を支配する権利がない」と主張する文化圏だ。人工中絶に反対するブッシュの支配する文化圏だ。彼女は体内に流れる両方のDNAの葛藤から、苦肉の策を考えた。それは子殺しを避けて、托卵するホトトギス道だった。

 

そういう彼女に、私はかなり強力に、優生保護法の適用を勧めてきた。娘がホトトギスなら私は鬼子母神だな・・・。聖書を語りながら子殺しを勧める・・・もう、何がなんだかわからなかった。どうあがいたって、何も私には出来なかったのだ。何をしにアメリカに来たのかも、何を望んで意味のない言葉を口走っているのかも、私はわからなかった。私は娘が私の言葉などを聞かないだろうと、安堵と歯軋りを同時にしながら、感じていたから。

 

盗まれた学費は、相手に請求し続けた挙句、とうとう法律に訴えるべく、彼女は知り合いに応援を頼んで、弁護士を探していた。その方面なら、私には手にあまり、父親の応援がなければ駄目だと思った。そこで6月まで父親を待つように言い置いて、私は手ぶらで日本に戻った。

 

「たゆたう命」 4

 

それでも私は日本から矛盾したメールを送り続けた。あるときは養子に出すくらいならおろせと、あるときは生むなら結婚しろと、養子に出したとて、その子は成長して必ず親を求めて会いに来る、そのときお前はどのように対応するのかと、私は、意味のないげろのような言葉を吐き続けた。これらの言葉がまるで一貫性のないでたらめだということを知っていた。

 

長い沈黙を守っていた後で、あるとき娘はメールをよこした。「今日、私は殺人者になる。今日は私の殺人記念日。これから予約した病院にいく。○月△日×時中絶予約。」

 

メールの言葉遣いの悲痛さに、私の心は震え上がり緊張した。よし、娘よ。私もあなたの共犯者になろう。私は心にそう銘じた。 私は理不尽にも祈った。神を裏切りながら祈った。娘を守ってくれ、神よ、どうかご加護を!

 

日本時間、朝の1時、電話がなった。国際電話だった。娘が泣いて叫んでいた。

 

「お母さん、私はどうしても殺せない。自分は人助けのために医学を選んだのに、自分の子供を殺すのは矛盾している。こんなことしたら、自分の夢だって成功するわけがない。神様はきっと私を試しているんだ。」

 

そういって彼女は号泣した。手術の寸前になって、彼女は病院から逃げ出してきたのだった。

 

「いくら、子供をくれれば盗んだお金を返すとか言っている、どうしようもない父親の子供だって、殺してもいい理由はない。病院に行ったけれど、待合室から逃げてきた。何とかして、養親を探すから、私よりもまともな親を探すから、もう、下ろせなんていわないで。」 

 

「そうか。そう決めたのか。決めたのなら、もう、おろせなんて言わない。ただ、そうと決めたのなら、もう、あの男と会うなよ。盗まれたお金は捨て置け。あの下郎、子供と引き換えに盗んだ金をかえすだと? 糞みたいな男だな、そいつは! そいつに言っておけ、奴隷状態から解放されたいなら、もう少しましなことを考えろって母が言っていたと。子供をあちこちで生産して金づるにすることを考える前に、人身売買のDNAから自己を解放しろといっていたと!」

 

腹立ち紛れに私は吼えた。

 

「もう過去のことを顧みず、たった今から自分だけのことを考えて進め。騙すことは罪だけれど騙されたことは罪ではない。もうこの馬鹿親にも頼るなよ。はじめからあなたのほうが正しいのだ。子供の養親を探すなら、全力を挙げて責任を持って最善の人物を探せよ。」

 

私は娘の道を阻むものを排除したい思いが嵩じて、娘を必要以上に苦しめたことを悟った。

 

思えばいつも彼女のほうが正しかった。私はミッションに通っていた娘が小学4年の夏休み、宗教の宿題のことでシスターから呼び出しを受けたことを思い出した。

 

一日一善を実行して、グラフに書いて提出するという宿題だった。その宿題を娘一人だけ提出していなかった。ご褒美を上げるつもりなので宿題を提出させてください。とシスターは言った。事情を聞いた私は家に帰って、うそでもいいからグラフを書いて提出しなさいと言ったとき、娘は答えたのだ。

 

「イエス様は自分の右手がやったことを左手にも教えるなとおっしゃったと、教えてくれたのはシスターだ。それなのに、良い事しましたって、グラフに書いて、ご褒美もらうの?それが同じシスターの宿題なの?」

 

私はあの時、娘に軍配を上げたのだ。あんなに子供のころから、教えられたことの本質や、教えた人間の矛盾まで見抜いてしまう感性を備えていた娘が、よりにもよって、なんという男に捕まったのだ。

 

 

「どうせ自分で育てられない。でも一度殺そうとしたところを助かった命だ。病院では男の子だと言う事がわかったので、この子はモーゼと名付けることにした。 」

 

モーゼか・・・。名前だけは自分でつけるという、その思いの中に、そして、選んだ名前の重さに、私は一瞬たじろいだ。そのモーゼのために、「どうせ」「どうせ」というならば、その「どうせ」のうちで、最も良い両親が見つかるように協力しようと私は思った。

 

「たゆたう命」 5

 

「十字の光線」

 

エノクは5月、定年退職の日を迎えた。18年間、彼は日本の企業で仕事をした。なれない人間関係の中で、仲間から突き上げられ、不当な言葉をかけられ、彼の初めて覚えた日本語は「僕、土人です。」だった。「土人」と言う、「南蛮人」よりも凄い響きを持つ言葉は、私の年代なら知っている。戦時中、南方に派遣された日本人が、南方の原住民を総称して呼んだことばであり、明治政府がアイヌに科した言葉でもあった。その言葉を教えられて、自己紹介に使うエノクの、その心やいかばかり、ストレスのため、時には禿げを作り、耐えに耐えた18年、彼は2003年5月60歳、定年を迎えた。

 

老後の人生を楽しく平和に過ごそうと、心待ちにしてた我々夫婦は、慈しみ育てた一人娘の遭遇した災難に、身も心も奪われていた。ご苦労様と、夫の苦労をねぎらう心も涌かなかった。

 

彼は定年退職に伴う雑事が終わったら、娘のところにいって、事件を解決し、娘の将来の道をつけるべく旅の準備をし始めた。

 

その中で私は、黙々と絵を描いていた。戦禍の中で死んだ子供を抱いて怒号する狂女の、地獄絵図、あの火炎地獄の Miserere Nobis にも、時折筆を入れ、爆撃の後の建物の残骸などを描いては消し、全部真っ青に塗りつぶした後で、再び赤に塗り戻したりしていた。私はエルサルバドルの戦乱で、多くの狂女を見て来た。あの狂女たちは、自分の分身の命の消滅を,胸かきむしって悲しんでいたのだ。

 

この世には惜しまれる命があり、迎えられる命があり、疎まれる命があり、抹殺される命がある。そのはかない命たちが、私の脳裏に揺らめいた。

 

客観的にみるために、私は時々、まだ作成中の絵を写真にとって、パソコン上で眺めるというようなことを試していた。まだ、デジカメを持っていなかったから、撮影は皆エノクに頼んで、スキャナーで処理してもらっていた。パソコンに取り込んだものを移動させたりすることは出来ても、私にはスキャンの技術がなかったのだ。

 

ところで、あるとき、庭で絵の撮影をし、パソコン上で画像を処理しようとしていたエノクが、けたたましい異常な声を発して私を呼んだ。

 

「見ろ見ろ、これはなんだ。俺は絵を撮影していたんだぞ。俺はこんなもの撮った覚えがないぞ!絵がどこにも映っていないので探していたら、映した覚えもない、こんなものが現れた。」そう叫んで主人はパソコンの画面からほとんど飛び離れて、私に示すのだ。

 

なんだろう、と私は画面を覗き込んだ。其処には確かに、私の絵は映っていなかった。その代わりに映っていたのは、不思議な白い光だった。白い光りが差している。絵を立てかけたはずの壁に絵がなくて、後ろの斜面になった庭の木々の間を通して、画面を十字の形で割るかのように、その光りは揺らめいているのだ。私はその白い光りの十字をじっと眺めた。

 

エノクはその光りにほとんどおののいていた。

 

「なんだろう、この十字架!?」

 

もう、そのとき、エノクは、その光りを、ただの光学のいたずらとは見ずに、はっきり「十字架」と決めてしまっていた。

 

彼は物理学者で、故国の大学で教授をしていたが、難民として日本に来て就職した先は、さる大手企業の開発会社の物理探査部という部署で、専ら物理探査の仕事をしてきた。彼は日ごろから無神論を唱え、幽界や幻の仕業のような、科学に反する出来事を一切信じたことなんかない男だった。

 

そのエノクが、パソコンと言う超現代的機械を操作しながら、出現した白い光の十字架に怯えていた。

 

しばらくしたら、エノクが言った。「あの子は、生きるべき命だな・・・」

 

光学のいたずらを、どう取ろうと、それはそのときの人間の心の状態による。彼はその光学のいたずらを、啓示の一種と受け取った。私はそういうエノクの顔をじっと眺めた。

 

「そうか、この十字の光を、其処につなげたのか・・・。」

 

其処に現れた十字の光りに、あたかも神の啓示を感じたように、彼は赤ん坊の出生に何かの意味を感じたかったのだ。

 

光はその周りの状況によって、どんな光でも意味があるように思える。それは仏教徒が見ればお釈迦さんの身から発する光に見え、キリスト教徒が見ればイエス様の受難の十字架に見える。光りはいつも見る人間の思いを反映する。

 

「それはね!」と私はエノクにささやいた。

 

「それは、私たちの孫、モーゼの十字架よ。モーゼは特別な使命を持って生まれてくるんですよ。」

 

「たゆたう命」6

 

「子殺しの常識的な国」

 

6月、エノクはアメリカに渡った。盗まれたお金は、予想通り返らなかった。弁護士を雇うにも、弁護士代は、盗まれたお金よりも高くつきそうだった。おまけに、アメリカの州法は、アメリカの市民権を持っているものに有利で、盗みであろうと詐欺であろうと、州法はアメリカ市民を守った。主人は男と直接話しをし、子供と引き換えにお金を返すという男の主張を嫌悪して、全てを放棄して切り捨てた。

 

娘はそのとき、国外に出たほうが、養子の縁組の可能性が広がるという情報を得た。そこでそれならと、主人が再び腰を上げた。二人の出身国、エルサルバドルに行こう!

 

そして、同時に、子供を生かすことに決めた娘の、学費を盗まれた後でも尚、医学の夢を実現させることを優先させるなら、たった一つの道が残されていることを、彼は知っていた。

 

彼は娘を故国に送ることを考えた。日本に来る前、故国で彼はエルサルバドル国立大学の物理学教授だった。あの大学には、ある程度の成績を納めている教授の子弟を、優遇する制度があった。学費免除である。

 

そうか・・・。とうとうエルサルバドルか。私は密かに、「ことはここに決まったな!」と感じた。

 

私が8年間あの内戦の中で過ごしたとき、私は彼らの民族性に助けられた。彼らはお互いに助け合い、自分を犠牲にしてでも人を助けることを喜ぶ民族なのだ。あの民族性に阻まれて、娘は決して子供を中絶したり養子に出したりできないだろう。

 

娘の電話を聞いて私は言った。「あはは。エルサルバドルに行くのなら、あなたが子供を養子に出すなんて誰も納得しませんよ。」「そうかなあ。でも自分は、モーゼを養子に出すことにもう決意しているけど。」と彼女は言った。

 

私は20年間音信を絶っていた友のメールアドレスを探した。フランシスコを通じてわかった彼女のアドレスに、私は恐る恐るメールを発信した。

 

彼女は内戦の中で、家族の半分を失った苦労人、あのマルタである。私は、彼女が心ある、しかも他人のプライバシーに立ち入らない人間であることを知っていた。

 

私はマルタに事の次第をかいつまんで説明し、長い間の空白の後、いきなりこういう問題で親戚に頼るのは、ショックが大きすぎて避けたいので、ワンクッション置いてから、時間をかけて娘に自分の人生の決定をさせたいが、預かってくれないかと頼んだ。

 

彼女はすぐに引き受けてくれ、そして、娘はエルサルバドルに飛んだ。娘が4歳まで育った国だったが、娘はまったくスペイン語を記憶していなかった。そういう人間を引き受けてくれるのは、マルタを措いてほかになかった。

 

エルサルバドルに行って暫くしたあるとき、彼女は、メールを書いてきた。

 

「自分はこの国、何が何だかわからない。こんな事情を抱えた赤ん坊の出生を、誰も彼も本気になって、嬉々として待っている。いつだいつだ、生まれるのはいつだと聞いてくる。名前は何だ、用意はできているか、お祝いしたいからぜひ自分も呼んでくれと、知りもしない人が言ってくる。いったいこの国何なのだ。」

 

私はこの書き出しを見ただけで、内心「にやり」と笑った。そういう民族なんだよ、エルサルバドル人は。

 

戦乱の中で、これでもかこれでもかと命を失った国なのだ。どんな事情を持つ赤ん坊だって、尊いかけがえのない命だよ、あの戦乱の中で、家族に一人も死者を出していない人なんか、一人もいないんだから。

 

こどもが出生する前に、現地にいた主人はやっと親戚達に娘の事情を告げた。18年日本の空気を吸った彼は、事情を抱えた娘が親戚達にどのように見られるかをかなり恐れていた。

 

しかし彼らは「あのエルサルバドル人」だった。何だ、ここに来ていたのか、だったらなぜもっと早く言わないんだ。場所ならあるよ、内に住んでいいよ、そうか赤ん坊が生まれるのか、じゃあ、うちの女中を貸してあげよう。マリ(女中の名)は一族の子供ばかり11人育てたから、子育てに慣れているよ。

 

「いったいこの国って何なのだ」、とメールをかいてきた娘が、再びメールをよこした。

 

「いったい日本て何なの?私にはたくさんの日本人の友達がいて、今度のことでいろいろ相談したけれど、全員の意見が中絶することが当たり前という意見だった。100%全員だよ。お母さんも中絶を反対しなかった。それどころか優生保護法だの矛盾した聖書の文句まで送ってきて、何が何だかわからなかった。あれいったい何なの?

 

エルサルバドルでは中絶なんか考えている人なんか一人もいないし、養子に出すといったら、そんなこと言うのなら自分が育ててあげるという人がどんどん出てくる。子供生まれる前にたくさんの親戚や私なんか知りもしない人たちが集まってきて、赤ん坊の生まれる準備をみんなしてくれた。オムツなんか1年分ぐらいあるよ。衣類なんか10人分ぐらい集まったし、いろいろお祝いたくさんくれたので、何も買わなくて済んだ。日本に、こういう出生の赤ん坊を祝ってくれる人、ひとりでもいるの?

 

日本の常識って一体なんなの?日本て子供を殺すことが常識なの?子殺しの常識的な国になんか、私はモーゼは連れて行けない。あの国はこの子を生かすことが正しいなどと誰も言わなかった。子供を殺すことが正しい国で私は子育てができない。 」

 

「娘よ、あなたは正しい。120%正しい。日本は子殺しが常識的で、姨捨も常識的なんだ。ある日本人がね、マザーテレサの仕事に感動して、お手伝いしたいって申し出たときにマザーテレサが言ったそうよ。

 

『あなたは日本に帰って、インドの路上生活者よりも貧しいあなたの国の金持ちを救いなさい』って。

 

娘は自分の故国エルサルバドルにとどまって、自分で子供を育てようと決意した。 出産後、彼女はエルサルバドル国立大学医学部を受験し、月謝免除で入学を許可された。

 

「モーゼ」が出生し、娘が自分で育てることを決意したことを知った私は、知りつつ矛盾発言を繰り返していた人間の締めくくりとして、メールを書いた。

 

「あなたが子供を他人に養子に出すというから、私はモーゼを孫として抱くことが出来ないのだと思っていました。孫として迎えられるのなら、ぜひとも、赤ちゃんの命名に私も参加させて下さい。私はいろいろ調べて、「もうぜ」と読める漢字を作ってみました。モーゼはぜひとも「啓世」にするように。

 

モーゼ一世はイスラエル民族を奴隷から解放した人物です。

 

あなたの子供は主要な大陸の民族の血をすべて受けています。あなたを通して、私からアジア人の血を、お父さんからアメリカ原住民とスペイン人の血を、実の父親からアフリカ人の血を受けています。決して混血を恥じるようなことがないように、その生れにむしろ誇りを持たせてモーゼとして立派に育てなさい。

 

なぜならその子は、単一民族を代表するものではなくて、全世界の民族を代表するものだからです。世界を啓蒙し、世界を奴隷状態から開放する人物となるように、思いを込めて選んだ漢字です。」

 

始めて私は生まれた子供を「孫」と呼んだ。孫よ、わが孫よ、汝は啓世(モーゼ)、世を啓け。

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まさか^^

 

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孫です。

まさか!

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エノクが見た光