「自伝及び中米内戦体験記」10月8日  

「虐殺のモニュメント」

 

実は私はその午後、何を見せられるのか余りよく理解していなかった。山の上の遺跡に行くという説明だったので、グアテマラの古代の遺跡群のひとつだろうと思っていた。民宿のうちの中学生の少年に案内されて、競馬でにぎわうとおりの裏のうねうねと続く山道を3,40分ぐらい歩いたところで、案内人Aさんがここだここだとみんなを止めた。そこに私が想像していたような遺跡は確かにあったが、それほど案内されるような立派なものではなかったし、誰かがテントを張って野営していて、肝心の遺跡をさえぎっていた。

 

その脇に大きな白い十字架が2本たっているところで、案内人が言った。

 

「ここが内戦の始めにこの村の村人が200人虐殺されたところです。」

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え?私ははじめてそのとき彼女がここにみんなを連れてきた理由を知った。遺跡の脇の平らなところにその十字架は立っていた。何の説明書きもないから、その十字架がたった理由はただの旅人にはわからない。おかしいなあと彼女は言った。説明書きがあったはずなのに、それは撤去されていたらしい。

 

1980年代、200人の村人たちがここに連行された。ゲリラに荷担したという理由らしいが、その説明を聞いてもよくわからない。軍は、村人たちがゲリラに接触することを恐れたため、山で働く男たちの弁当の量まで規定を設けたらしい。つまりこの国の原住民の主食であるトルテイージャの枚数である。規定より一枚でも多いとそれはゲリラに供するのだろうと疑われ、有無を言わさず連行されて、次の日には拷問を受けた死体となって、路傍に捨てられるということが日常茶飯事だった時代のことである。理由がどうのと考えることは、あまり意味のあることではないのだ。

 

つまり軍は、スペイン語もわからず、しかも農奴として抑圧を受けている先住民が、ある日蜂起して反乱を起こすことを恐れていた。とにかくなるべく多くの先住民を抹殺したかったに過ぎない。ゲリラに荷担したと称して、軍にそむけばどういうことになるかわからせるため、見せしめのために、家族眷族の前で処刑したのである。死体はこの山の中に埋められた。いまだにこの地を掘り返し、家族の墓地に埋葬することは許されていない。2本の粗末な十字架を立てて、近くの遺跡とともに触れてはいけない場所にしてしまったようである。花をささげた後があったし、何かを焼いた後があった。

 

虐殺の事実の説明を案内人が日本語でしていたとき、案内の中学生の少年がそっと彼女に小声で言った。

 

「学校ではここは虐殺の場所としてではなくて、もろもろの先祖たちの霊とともに、融合して天にある祖先たちを葬ったところだから、特に虐殺体の埋葬地ではないと教えているよ」と。

 

その説明を日本人の一行にした案内人をさえぎって私は言った。

 

「今の政府は虐殺を指揮した政府だから、自分たちに都合悪いことを中学生に教えるわけがない。日本の政府だって、戦争に負けてさえ、学校教育では過去を隠そうとするのだし、アメリカが今世界で行っていることを、学校の生徒たちはおろか、全国民にだって隠しているのを見れば、ここの村の学校教育で生徒が聞いたことを、真実として、観光客に伝える必要はないのではないか。愛子さんが各地で取材したことのほうが真実を伝える力があるのだから、政府が自分たちの所業をごまかすために教えたに違いない中学生の説明に従う必要はないと思うよ。」

 

彼女のご主人はロイター通信のカメラマンとして、内戦時代のグアテマラに4年間暮らし、そして各地で、奥さんとともに実際の証言を取材をしてきた人である。

 

一行は両方の話を聞き、そして、私の考えも聞いてうなずいた。そこには木の十字架以外何もなかった。丘にはきれいな草花が咲き、空気は澄んですがすがしかった。遺跡を研究するためかテントを張って逗留しているらしい外国人のグループは、平和そうに食事を作っていた。200人の虐殺体の墓地だと知ったら、彼らはあんなに平和にこの地でキャンプなどできるだろうかと、考えながら、われわれはもときた道を下りはじめた。

 

「日本人観光客の受難の地」

 

山を下る帰りの足で、2年前日本人観光客が殺された場所に十字架が立っていて名前も刻んであるから、黙祷でもしてこようという話になった。中学生がまたひょこひょこと案内を引き受けた。

 

それは祭りでにぎわう競馬の街の真中にあるらしい。案内の少年は、ちょっと案内人Aを見て、街の真中をとおっていくと賑わいで大変だから回り道していこうかといった。あまり表情がわからなかったけれど、何か心配をしていたらしい。しかしその回り道の入り口を見ると、急勾配の石畳で磨り減っていて滑りそうで怖かった。行きの山道でいいかげん疲れている。私は山道はなれてはいたが、みんなに合わせてのろのろ歩いたため、膝ががくがくしていた。

 

一行の一人が、「いいじゃない、町の賑わいも見ましょうよ」といったので、私たちは成り行きで喧騒の中に突入することとなった。目があったら挨拶をすることとAさんが初めから口が酸っぱくなるほど言いつづけていたから、みんなはぎこちなく誰彼といわず、buenas tardes, buenas tardesと、習いたてのスペイン語で挨拶した。

 

大体日本でも田舎の人は、知っていても知らなくても相手が人間であるならば、挨拶をするものだが、ここはそれに輪をかけて世界の秘境であるばかりでなく、例の問題の場所だったから、みんな緊張していた。私は身辺警戒しながら先頭の少年を見失わないように歩いてはいたが、人通りでごった返していたため、一行はだんだんばらばらになってしまった。

 

酔っ払いがうようよしている。その中を競馬を終えた人が馬ごと突っ込んでくる。馬上の人も酔っている。あたり一面馬糞の匂いが立ち込めている。馬糞と酒と人いきれの中、愛子さんと私は、あたりに少年を含めて一行のメンバーが我々3人しかいないのに気がついた。目立つ服装をするなといわれていたから、みな目立たない服装をしている。こうなると探しようがない。みな大人で、もう帰り道は一直線だから勝手に帰ればいいのだけれど、やっぱりちょっと心配になった。

 

少年がいきなり探してくると言い出して、静止を振り切って人ごみの中に消えていった。まじめな責任感のあるいい子なのだ。まずいよ、と私はAさんにいった。危険な雰囲気の中と承知で、未成年の子を案内させたのだ。何かあったら責任問題だよ。それで彼女も少年の後を追ったため、とうとう、私は一人になってしまった。

 

どうしよう。落ち着こうと思って腕組みをした。この姿勢が私の一番楽な姿勢なのだ。そのとき誰かが私に肘鉄を食らわせた。お!?見ると女性である。それが偶然の出来事ではないのはその女性の激しい表情でわかった。美しいウイピルを着たその女性は、偶然の失敗ではない証拠に挨拶もせず、群衆の中にもぐりこんで遠ざかっていった。肘鉄で腕組みを崩されたところが痛かった。その腕をさすっていると、今度は背中をぐいとやられた。明らかにこれも狙ってやったに違いない。私はまずいなと思ってとおりの脇の物売りの籠をまたいで家の軒下に立った。そこから仲間を目で探そうと思ったのである。

 

ところが私が偶然立った場所が、かの日本人の災難現場だった。トマトやバナナの籠が出ていて、女性がそこに立っている柱を隠すように座っていた。Aさんが少年とともに現れた。少年がその柱に手をかけて、何かいっている。スペイン語でなく、この土地の言葉だからわからない。しかし女性はどうも拒絶しているらしい。少年は日本人たちを招いた。そして、ここのはずだけど、何も残っていないよ、といった。女性は仕方がなさそうに立って、家の中に消えた。女性が座っていた影に、花束がそっと結び付けられていた。

 

おかしい。とAさんが言った。ここには十字架が括り付けられていて、後で仲間の日本人が名前を刻んだはずなのに、それが消されている。あたりの雰囲気から、長居は禁物と思った私たちは、花のくくりつけられた柱に目礼をしてそこを離れた。

 

押し合い、へし合い群集を掻き分けて歩いていると、トラックが蛇行運転している。運転手は酔っ払っているに違いない。ものすごく危ないので、それに気をとられているうちに、また少年がいなくなった。途中で、数人の若者の酔っ払いがわめきながら坂を降りてくるのにであった。ぶつかるのを避けて、私たちは坂の上まで上って、少年を探した。

 

私は昔の職業がら心配だった。あの子を連れ出したのは私たちで、危ないとわかっていながら、2件もこの村の人々が神経を立てている殺人現場に案内させたのだ。私たちは明日この村を去るからいいようなものの、あの子はこの村に住んでいる。馬鹿なことをさせたらあの子に危害が及ぶぞ。心配で仕方なかったので、私たちは坂の上で、暗くなるまで少年を待った。少年はこなかった。私たちは顔を見合わせ、青くなっていた。そこは必ず通らなければならない一本道だと思っていたから少年に何か起きたと思ったのだ。

 

Aさんはひとまず帰って、両親にこのことを告げようといって、民宿までの坂道を一気に上った。しかしやっぱり土地の子供だけあって、彼は別の道から家に帰っていた。先ほど、若い酔っ払いが坂のところで暴走していたのに驚いた私たちは、その坂を彼らを避けて必死に逃れた。だから気がつかなかったのだけれど、当の少年が彼らに襲われたらしいのだ。少年は近道を知っていて、彼らを巻き、逃げ帰ったらしい。ものを言わず緊迫した面持ちで、Aさんは私を見た。

        

「市が立つ日」

 

次の日の予定は、トドスサントスの町に特別な市が立つ日だった。Aさんはかなりその市を楽しみにしていた。彼女はタペストリの専門家で、とりわけグアテマラの織物に魅せられてグアテマラに住んだ人である。だから市の日に、織物の掘り出し物を探そうと思っていた。それからその日は死者の日として、人々はお墓参りに行く日でもあった。そこにも行こうと彼女は考えていた。

 

私はカトリックの暦になぜ諸聖人の日と死者の日があるのかよくわからない。日本では、昔から、諸聖人の日にミサをやって、死者の日にお墓参りするぐらいの区別しかなかった。そして、死者の日というのは、自分の家族の墓参りをする日でもあるので、かなり暗い日だった。少なくとも関係のない人が、ましてや観光客として見物にくるという、そういう感覚はわからなかった。

 

何度も何度も首をひねった挙句、私はAさんに言った。

 

「市はともかくとして、お墓参りを見物するために観光客がお墓に行くというのは問題じゃないの?彼らにとって、死者の日は嘆きの日だし、まして彼らは公に泣くことも許されないで、内戦の中の家族の虐殺に耐えてきた人たちだ。死んだ家族のために泣けるのはこの日しかないのじゃないの?それを観光客が見るということはずいぶん無神経だと思うけど。」

 

そして私は、日本人受難の地の近辺で、観察したこの街の人々の態度のことを、私なりの感じ方で説明した。肘鉄を食わされたこと。町中の人が暴徒になって日本人を襲ったのなら、彼らは加害者としていろいろな思いを持っているだろうこと。十字架も取り外され、名前も消されているということの意味。少年が帰り道で追いかけられて逃げ帰ったことの意味。

 

そうか、とAさんも考えた。彼女には個人的にお参りしてあげたい死者がいたらしい。でも彼女は今は、関係のない日本人観光客を案内している身だ。一人でも行きたいといっていたから、彼女にはそれなりの理由があったのだろう。

 

次の朝、彼女は「お墓には行く」とある人には言ったが、別の人には、「このまま次の地点に移動する」といい、すごく動揺していた。ロランドもどうしていいかわからないほど、右に左に考えを変えた。

 

私はそっとロランドに言った。「この街に留まる事は危険だから予定を変更してすぐに出発するように、あなたから進言してくれないか。」ロランドは私のいうことを理解した。

 

市はこの日はいけなかったけれども、前の日の競馬のとき、隙を見て、彼女と私は通常日用品を売っている市にもぐりこみ、ちょっといい掘り出し物を買い込んでいた。私は赤ん坊を背負うときに包むきれいな房のついた万能の布を買い、彼女もきれいな手織りの幅広い紐を買っていた。しかし彼女の心に何か思うところがあると見えて、お墓参りに後ろ髪引かれながら、ロランドの進言にしたがって、とうとう彼女は決意して、町を離れることにしたのである。

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グアテマラ料理」

 

朝早く、私たちはトドスサントスの村を出た。昨日にぎわっていた、街の真中の道路を突っ切らなければならない。Aさんが、少し神経質になっていた。トドスサントスで合流するといっていた一人の日本人がこないのだ。その人は彼女の友達で、グアテマラやメキシコにもすんだことがあり、さる大学でスペイン語を教えている人物だから、ほっておいても問題はないのだが、約束した場所が場所だけに、Aさんは心配していた。

 

ところが町をでかかったとき、見慣れないタクシーが走ってきた。村の人は隣村との行き来に1時間ぐらい平気で歩く人たちである。タクシーなんかが町を走っているわけがない。これは待っていた日本人だなと思ったとき、そのタクシーは止まって、背の高い日本人の女性が出てきた。こういうのを奇遇というんだろう。先頭を走っていたバスの運転手も気がついて、Aさんが降りて何やら言葉を交わしている。うれしそうだ。

 

でもその日本人は、死者の日を見てから私たちを追いかけるといって、そのまま、今来た方向にタクシーで消えていった。われわれはまたもとのでこぼこの山道をうねうねと戻った。ウエウエテナンゴに戻って、食事をして、次の行程を続けるのだ。

 

途中、小さな村があって、野原の方向を眺めたら、村の人々が墓参りをしていた。愛子さんは突然あそこにいってくると言い出した。なぜそんなに墓参りをしたがっているのか、その心を計り兼ねたが、誰もついていく人がいないのを見た私が少し心配して付き合った。粗末な十字架があちこちにたっている。土葬だから、墓の大きさで大人の墓か子供の墓かわかる。お墓の前で、人々が泣き崩れている。

 

誰のお墓なのかとAさんが聞く。

 

「こちらが私の子供、こちらが私の主人。」

 

目を赤くはらした婦人が、墓に抱き着いて、言う。多くの先住民がこの内戦で犠牲になったことを思い、私は言葉を失った。カメラを見て、彼女は言った。このお墓の写真を撮ってくれ。これは私の主人なのだ。遠慮しいしい私はカメラを向ける。

 

男が近寄ってくる。「観光に来たのか」というから、「いや、今日は祈りにきたよ、観光もしているけど、ここはそんな目的でくるところじゃない。」

 

男は安心して、みんなに、「この人は、私たちの家族のため祈りにきてくれた」といって紹介した。

 

お墓の全景を撮る。一礼して、私はAさんを促した。これも途中から参加した日本人のフォトジャーナリストがいた。その男はやっぱり少し離れて墓参りについてきて写真を撮ってはいたが、「自分は因果な仕事をやっている、自分がこういう場面を撮られたら、怒って殴りかかるだろう」といいながら墓参りの光景を眺めていた。

 

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いろいろは思いが去来した。内戦の時代にこの国に住んでいたから、この国の本当の所有者であるはずの、先住民と思いを共有したいAさんの気持ちと、赤の他人に自分たちの悲しみを見られる村人の気持ちと、二律背反の気持ちを自戒するフォトジャーナリストの気持ちと、内戦の終結とその後の変化を見定めに来ながら、心が癒えていない村人の気持ちに接しては、かなり心がゆれている自分の気持ちと。それらを心の中で、ゆらゆらと思いめぐらしながら、私は深く青い空を眺めていた。オレンジ色の花があたり一面に咲いていたので、かなり年をとっていそうな、大木に焦点を当てながら、その花の写真をとった。

 

途中マヤの神殿跡を見学したが、私は何より歴史や考古学が好きなのに、その時はあまり面白いとも思わず、市場にばかり気を取られていた。それで、その晩とまることになっているシェラというまちの小さな市場に寄って見物しながら楽しんでいるうちに、私が探していた刺繍のように見える赤と白の手織り木綿のズボンをみつけた。日本人向きに手を加えたら、バザーで売れそうだと思って、それを買った。あの空気の中に浸ると、自分だけで楽しみたいという気持ちにはならないから不思議だ。

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夕食はホテルでは料理の種類が少ないのと、ほかの日本人たちはもうグアテマラ料理に辟易してしまっていたので、ホテルを出て別のレストランを探すことにした。みんなはイタリア料理がいいという。私は日本でもあまりケチャップだらけのイタリア料理を好まなかったので、いやいやながら後の方からついていったら、道の途中でタコスの店を見つけた。足が悪いために一番後からついてきたNさんが、これおいしそう、ここにしたい、と叫んだので、私もそれに乗った。前を歩いていたAさんに声をかけて、私達はここで食べるよ、といったら、彼女もついてきた。彼女は案内人だから、最後まで私たちと付き合うわけに行かないから、お皿ひとつを食べて、すぐにみなが選んだイタリアレストランのほうに行った。

 

鳥やトマトやアボカドをはさんで食べるタコスは、すごくおいしかった。その店は軽い食事の店だったので、ビールがなくて残念だったが、Nさんが、せっかくお金かけてグアテマラまで来ていて、イタリア料理なんか食べたくないといいながらタコスを頬張っていたし、私は私で、自分たちが好きなもの食べるのは勝手だけど、自分のうちではめったに口にできない大御馳走の中米料理を、いちいち悪口言って食べないでほしいもんだ等とといって怒っていたため、二人はすごく意気投合して、タコスの皿を3つも注文して平らげた。

 

日本人たちはスープにでも、何にでも入っている香草が、もう、我慢ならなかったのだ。日本では、私はその香草を買いにわざわざ電車に乗って4つもJRの駅を超えてまで、素材を集めて、たまさかのこだわり中米料理を作る人間だから、それをすくっては捨て、すくっては捨て、そのたびにウヘエ気持ち悪いなどといっている人たちと食べるのは、もうこちらもごめんをこうむりたかった。(香草:日本では現在どこにでも売っているパクチーのこと)

 

日本人は食事をだされるたびに、それを捨て、荷物の中から梅干だのインスタント味噌汁だのを出して、それを広げて食べる上に、日本人なら誰でも同じだと思って、私にも押し付けてくる。Aさんの企画したこの旅行の宿泊場所は、彼女の個人的な知り合いが多い。貧しい中の精一杯の歓迎で、あの家族が日ごろ口にすることもない最高の料理を出していることをおよそ見当がつく私は、このこの上ない失礼な行為に、ほとんど逆上していた。Nさんがいなかったら、多分どこかで爆発していただろう。

 

「ある教会を見学」

 

次の朝、行きの行程で泊まったパナハッチェルのホテルに向かったが、途中二つの面白い市場を見学した。

 

モモステナンゴという村の市場はにぎわっていた。野菜を網袋に入れて担ぎこむ男、果物を入れた大きな笊を頭に載せて運ぶ女、何よりもすべての人が昔ながらの民族衣装である。その光景に会うのは楽しい。写真はトドスサントスと違って、気を遣わなくても自由に撮れるというので、カメラを出して歩いたが、こちらは観光であちらは生活を賭けた仕事の最中となると、そう自由に何でも撮っていいとも思えない。人々の間を縫うように歩いたが、なんだか邪魔しているようで、気が引ける。何か買うほうがいいなと思って、昔エルサルバドルで食べたことのあるグラナデイージャという果物を探したが、なかった。

 

ここはウールの産地である。牧畜農家が集まっていて、手つむぎの糸を売っている。その糸はとうもろこしの芯を芯にして紡錘形に巻きつけられている。それがごろごろと5,6個いっしょになって、全部買えばセーター1着編めるという。自分にはこれからいろいろすることがあるから、セーター編む時間のゆとりはないけれど、手紬の糸がこういう形で売られているというのが面白くて眺めていたら、Aさんが買え買えという。

 

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Aさんが隣でわいわい私にけしかける。RECOM(私が所属していたグアテマラの内乱被害者の自立支援組織)はこういうものも紹介して、グアテマラのインデイオの生活を知らせるべきだ。インデイオは何にも文化のない野蛮人だから内戦ばかりやって絶滅の危機にさらされているかわいそうな人々だなんて思わせておいたら、ここの人たちに不名誉だ、なんていう言葉に乗せられて、それを買った。私にもずいぶん変わり者が友達にいるから、案外バザーに出せば買う人がいるかもしれない。と、そんなことを考えた。

 

原住民が民族衣装を着ているとか着ていないとかいうことひとつでも、いろいろな背景があって、観光に来たものとして、珍しがって喜んでもいられない。

 

先住民はマヤの後裔ではあるが、グアテマラは火山国だから、山によって村々が寸断されていて、それぞれの村にそれぞれの民族独特の衣装と言語があり、衣装の織り方や模様を見れば一目で、どこの村の人かわかるようになっている。それに目をつけた政府は、衣装をその村人の刻印のように考えて民族衣装を支配の道具とした。現代の衣装を身に着けられたらどこの誰かわからないから、民族衣装を奨励して、観光客には見世物のごとく使いながら、支配者階級と区別するための道具にしたから、原住民の側もそれを着るもの脱ぐものに複雑な思いを込めて選択を迫られたそうだ。

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観光客に対してやさしい村は内戦の傷が少ない村、民族衣装を着ている村は、誇りを持っている村ともいえるし、内戦の傷の深い村ともいえる。自分たちのアイデンテイテイを深く深く傷つけられてしまったために、そして観光の目玉ともなりたくないために、衣装を脱いだ村人たち。

 

彼らはもう伝統の織物を作らなくなって、市場で自分の衣装や家族の衣装を売っている。これはもう作らないから買っておいたほうがいいよ、と古いものを見つけると、愛子さんがいう。ウイピルは日本に持っていってもどうしようもないからきれいな手織りの帯を買う。帯ではなくて、女性の頭髪を飾る布なのだけれど、どうやって扱うのかわからない。とにかくすごい技術だし、何に使うかは買った人が考えればいい、という考えで買ったのである。20年前グアテマラを訪れたときは、女性はみな、美しい長い髪に見事な髪飾りをつけていたから、私は路上に立って、通り過ぎる人々を見ながら感嘆したものだ。

 

その日も同じホテルに1泊した。トドスサントスでタクシーですれ違った日本人が合流する。次の日はまたアルモロンガとスニルの市場で、古くて上等な布や面白い袋などを買い、ちょっと面白い教会というのを見に行った。Yさんがとても可愛い教会なんだという。一体、その面白いとかかわいいとか誰が決めるんだと聞いたら、あはは、わたしとAさんが決めたの、とそのAさんの友達朗らかに笑う。

 

私は実を言うと教会を見学するということに、嫌気が差していた。観光名物になるということが、グアテマラの原住民たちにとってどういうことかということは、私は原住民側の人間ではないので、いろいろ考えながらも無神経でいられる。しかしカトリック教会を観光の目玉として見学するというとき、私の心は観光を受ける側の人間なのだ。私が子供のころから触れてはいけないほど神聖だった聖櫃の前を、観光客はずかずかと遠慮もせずに歩き回り、信仰を持って祈っている人々の前をくだらない批評をしながら歩き回る日本人の仲間が仲間だけに、私は一緒になりたくなかった。

 

「私は中には入る気ないよ。」とAさんに言って、その教会を外側から見た。なるほど、概観から言っても普通の教会ではなかった。面白いともいえるかもしれない。スペイン風の教会は大体壁が白い。しかしその教会は壁がオレンジ系のまっ黄色である。正面の装飾がまた変わっている。カトリックが伝統的に聖人と決めた人たちと思われる像がたくさん彫り付けてあり、その点はそう特別ではないが、彫像の色がなんともけばけばしい。

 

ははあ、ラテンアメリカでは教会もこういう風になるのかと思いながら眺めていたら、ひとつ面白いことに気がついた。そのカトリックの聖人たちよりも、キリストやマリアの像よりもはるかに上に、向き合ったジャガーの姿が掘り込まれている。ジャガーはマヤの守り神だ。こんな装飾はヨーロッパには一つもない。一見装飾のひとつのように見せかけて、キリストやマリアの上にジャガーを据えたということが、この教会を設計して建てた人の心の中の、征服者の宗教であるキリスト教に対する、ある姿勢を表しているんだろう。それに気づかなければ、ただ可愛いなあで終わってしまうところだが、あいにく私はそういうことにいち早く気がついてしまう。

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私はそのジャガーを指差して、Aさんに言った。この教会を作った人、こっそりジャガーを忍び込ませたみたいね。この教会はマヤの守りとして建てたんだ。自分たちの守り神をこっそりキリストより上に据えているよ。どれどれ、とみんな寄ってきた。今までそれに気がつかなかったという。面白いから写真に収めた。誰も中に入らないからどうしたのかと思ったら、聖像が盗まれる被害が嵩んで、観光客には中は開放しないことになったのだそうだ。私は腕組みしてそのジャガーを見上げた。

 

あのジャガー、しっかりマヤの後裔を守っているだろうか。