「自伝及び中米内戦体験記」10月13日

「羽なし天使の物語」(1)

「ネットの中の音楽男」

 

一人になった。かつて娘を送り出し、今夫を送り出した成田空港からの帰路、自分はまったく一人になったことを感じた。

 

孫の父親からメールを受けた12月からの9ヶ月、一滴も流したことのない涙があふれるのを止められなかった。たががはずれた。緊張する必要も、張り詰める必要もなくなった。思想をもてあそぶ必要も突っ張る必要もなくなった。教育する必要も教育される必要もなくなった。

 

家にたどり着き、入るなり膝を突き、声を上げて嗚咽した。窓がびりびりと振動するほどの声を上げて、泣いた。何にも考えていなかった。不幸でも幸福でもなかった。自分は今、誰も愛していないな、と思った。なんだかわけのわからない子供時代からの「いつもの」渦の中に自分は戻ってきた。

 

ひとりの生活が始まった。一人の生活でも住む家があった。家族の匂い、家族の影の感じられるものをすべて整理し、感じようとする心に歯止めをかけた。

 

心よ、お前は感じてはならぬ。

 

2階の一番大きな部屋に絵の道具の一切を置いた。これからは、ひたすら絵描きに徹しよう。100号の火炎地獄は、まだ完成していなかった。精魂込めて、こいつを完成させよう、改めて絵を眺めてそう思った。

 

のどが渇くから水を飲み、お腹空くからものを食べた。暗くなったら戸締りし、眠くなったら寝て、眼が覚めたら起き上がる。することがないから絵を描いた。それはものすごく自然で規則的な生活だった。

 

こういうのを晴耕雨読というんだろう。ごみを出したり、残った唯一の家族の鶏たちに餌をやったり、落ち葉の掃除をしたり、自分の体が覚えている日常生活の決まりごとを、すべてこなした。そうやって、一人で生きていくための手順を体に覚えこませ、私は一人であることに納得していった。

 

バッハのミサ曲をかけねばならぬ。モーツアルトのレクイエムを聴かねばならぬ。それは私がかつて一人でいた時に体にしみこんだ条件だった。私はクラシックが好きだったが、実家にいたときに家にあった物はそれぞれの持ち主が独立のときに持っていったから、自分のものとしてはその2枚のレコードしかもっていなかった。学生時代から聞き慣わしていた思い出の曲だから、それだけ持っていたのだ。

 

長いこと、主婦をやっていた間、音楽を聞かなかった。それをむしょうに聞きたくなった。教室にしている玄関脇の部屋には、LP盤が聞けるプレーヤーがあった。バッハとモーツアルトを聞くために、私は階下に下りていった。庭にハンモックをつるし、蓑虫状態でバッハとモーツアルトを聞いた。

 

ああ、これが「自分の」世界だったな。蓑虫状態で、音楽に身をゆだねて青い空を眺めたら、自分が本来の自分の世界に戻ったのを感じた。不便でも無駄でも、何とか自分の世界を作っていた時代があった。あの実家の物置で。

 

娘の部屋からラジカセを持ち出し、画室兼居間の隅に置いた。娘が私の部屋からこっそり移したCDを見つけた。PP&Mだ。クラシックではないけれど、これも私の若い時代の象徴的音楽だ。ベトナム反戦運動時代の思い出だったから。いったいなぜ、一人になるとPP&Mに戻るんだ。知らない。知らないけれど自然にそうなった。学生のころ、クラシック以外では、私はPP&Mとクレージーキャッツしか知らなかった。

 

黙って画室にいることが多くなった。徹底的に音がない世界だった。CDがもっと欲しいな、と思った。今まで、家族がいたとき、衣類以外に自分だけのものなど買ったことがなかった。買ったことがないことに不満を感じなかった。別に今だって感じない。あの国で、自分より不満を感じてもいいはずの人生をあまりにもたくさん見てきた。家もあれば仕事も有る、3度の食事が食べられる、それらのすべてを持たなくても、朗らか生きていた人々を見てきたら、生きるための基本的なものがそろっている自分は不満なんて感じていられなかった。

 

しかし、私は始めて、自分は与えられた人生の楽しみ方を知らないんだな、とその時思った。楽しみ方の手始めにCDを買おう。駅の近くにSATY(現在のイオン)があって、CDを売っているコーナーがあったので覗いたら、「モーツアルト療法」とか言うコーナーがあった。

 

なんだよ、あれ・・・。なんだか買いたくなかった。別に私は病気じゃないし、気違いでもない。「モーツアルト療法」って、モーツアルトで気違いを治すみたいで気分が悪かった。モーツアルトも心外だろうな。

 

あるときネットの中をのぞいていた。かたかたクリックしていたら音楽ばかり専門のサイトを見つけた。私は引き寄せられるように、ネットの中のクラシックの部屋に入っていった。いろいろあったが、チャットの話題が専門的過ぎて、無知の自分が入れないから嫌気がさした。好きだとはいえ、専門的知識を持っているわけではない。音楽を聴きたいだけだった。

 

いろいろ見ていくと、モーツアルトとバッハの専門みたいな部屋があった。私はほとんどモーツアルトとバッハしか知らない。それ以外私の耳が聞いて懐かしいのはグレゴリアン聖歌だけだ。こういうのはクラシックファンとは言わないらしいけれど、どの道私は偏った人間なのだ。その部屋で、モーツアルトとバッハばかり、毎晩毎晩聴いていた。

 

そのうち、その部屋の主とチャットで交流を始め、個人的に言葉を交わすようにもなった。相当音楽に造詣の深い男らしいが、私の無知をあざ笑ったりしなかった。

 

自分は人間関係が怖い。現実だってネットだって怖いものは怖い。あざ笑わないという理由だけで、私はその音楽男の部屋に「通った」。知識がないから「ない」といったら、淡々と教えてくれたから。

 

チャットの部屋は夜だったから、自分でも自由なときに聴けるCDが欲しかった。どうせ買うなら、「モーツアルト療法」ではなくて、知識豊かなこの音楽男の意見を聞こう。優れた演奏家とか指揮者の名前を教えてもらい、音楽男に勧められるがままに、モーツアルトとバッハを買い集めた。はじめは店まで行って、そのうちネットのアマゾンと言うサイトを見つけて買いあさった。私は音楽漬けで絵を描くという生活を生きる身の上となった。こういうのを人は「優雅」と言うんだろう。

 

あるときその音楽男が私のブログを覗いて、エッセイを読んだ。そのエッセイはメルマガ用に改訂する前の初版ともいうべきエッセイだったから、生まれたときから成人するまでの、まったく年代順どおりの代物だった。彼は、私が23歳のときにスペイン人のマドレに出会い、それを契機に私が人生上の変化を体験した「花」と題した話を読んで声をかけてきた。

 

「このマドレは、まだご健在なの?」

 

「さぁ?あれから私が彼女に会いにスペイン旅行をして、その後修道院に入って、修道院を出てからは、消息を絶っている。」

 

「ご健在ならば、ぜひとも、このエッセイを読んでもらうべきだよ。」

 

「ふ~~ん。でもそんなこと考えたことないなぁ。それに読ませる方法がないんだ。彼女は実は日本の修道院で、私との関係で冷遇を受けてスペインに送還されたから、今、日本にある修道院に問い合わせるのもねぇ。」

 

「今、ご健在なら、何歳になるの?」

 

「それも知らない。あれから40年たっているから、日本で私と出遭った時が30代でも、もう70代、40代なら80代だ。」

 

「それだったら、尚のこと、なくなる前に、このエッセイを読んでもらうべきだよ。」

 

ネットのこちらで私は笑った。

 

「今はね、『べき』なんていうことは私には何もないよ。勝手に自分の気持ちを書いたのだ。何も彼女に読んで貰う事なんかはじめから想定していない。私にとっては、意味深い思い出でも、彼女にとって私は、数千人もいる教え子の一人に過ぎない。彼女はいつも派遣された赴任地で、出会った人に同じような助けの手を差し伸べて暮らしているはずだ。彼女の教え子なら世界中にいるから、それがいちいち彼女の思い出を書いて、見せるということは彼女は期待もしていないし、念頭にも置いていないはずよ。

 

彼女の行動は自分の意思による行動以前に、神様の手足としての行動だ。兎に角、彼女との出会いは私を生かした。そういうことが私の人生にあったよ、と言うのが私のエッセイを読む不特定多数の人々へのメッセージさ。

 

不特定多数の人々が、何かを感じ、もしかしたら何かを学んでくれれば、私のエッセイの目的は完成でしょ。ここに彼女がのこのこ出てきたら、かえって変だよ。」

 

音楽男が言った。

 

「そうじゃない。彼女は祭壇の花を持ってきてあなたにあげたのだ。それによってあなたは生きた。祭壇の花を祭壇に戻して始めて、この物語は完成するのじゃないのかな。」

 

凄い味のあることをいう男だ・・・と私は思った。

 

「祭壇の花を祭壇に戻せ」か・・・。その言葉に私の心は動いた。心のうちを気取られないように振舞っていても本当は打ちひしがれていた私の心に、その言葉はまさに啓示の様に働いた。

 

「祭壇の花を祭壇に戻せ」と言うこの言葉の意味を、その時正確につかんでいたのではない。しかしこの意味の深そうな言葉は、この「音楽男の言葉」ではないぞ、と私はその時感じたのだ。

 

私の心は、その時から、音楽男の放ったその妖しい言葉にからめとられていった。

 

「羽なし天使の物語」(2)

「音楽男の進言」 

 

この表題に掲げた「羽なし天使」とは妙な言葉だ。私の造語だから辞書には載っていない。この言葉は、私が子どものときに作った言葉で、自分の人生の中で、にっちもさっちもいかず途方にくれていたときに現れては消えていった、つかの間の出会いの人々のことなのだ。

 

それはやさしい一瞥と共に、励ましの声をかけてくれた友人のお母さんであったり、迷子になっているときに「一人で危ないから都電に乗っていきなさい」と言ってお金をくれて助けてくれた名も知らぬ通りすがりのおじさんであったり、お腹が空いていることを知って、そっと物陰に呼んで、「失敗してしまったパンだけど」といいながらお釜いっぱいのイーストパンをくれた給食のおばさんであった。

 

孤独だった子どもにとって、今思えばどうでもいいかもしれないそれらの人々のかけてくれたささやかな言葉たちは、記憶をつかさどる脳の中枢に焼き付けられて、意味も思いも増大し、ほとんど信仰に近い思いをもって、生きてゆくよすがになったのだった。そうやって私は幻影の中に生きた。幻影の中で私は何度も何度も自分に向けてかけられた言葉を繰り返しながら、生きた。

 

彼らはいつも砂漠で倒れている状態の私の前に忽然と現れ、私を助け起こして水をくれ、私が一人で歩けるようになるまで傍らにいて私を見守ってくれたように私は感じた。しかし私がどんなに彼らの存在をありがたく思い、彼らの言葉に救いを感じ、彼らを自分の傍に引き止めて、彼らと共にいたいと思っても、その不思議な人々は、初めに忽然と現れたと同じように、あるとき忽然と消えるのだった。

 

かの不思議な人々は、私の元に留まったためしがなかった。ある人はまるで幻のように私の前からいつの間にか姿を消し、ある人は死んでしまい、ある人は遠く国外の私の手の届かぬところに行ってしまった。だからだろう。一人取り残された私が、その人を思うとき、いつも、私のところに「送られてきた」のは「人」ではなかったのではないかという思いにかられたのだ。

 

だから私は彼らのことを「羽なし天使」と呼んでいた。「人」の形で現れながら、私の人生の、きわめて適切なときに現れ、一人で歩けるようになると、忽然と消える「あの世界から」「送られてきた使者」、天使のように感じたから。

 

ときには私は彼らが忽然と消えるのを予感して後を追うのだが、彼らはいつも私の手の届かないところに行ってしまった後、「ああ、自分はもう一人で歩けるはずなのだ」と感じ、むしろそのように、その時の自分を納得させたのだった。

 

一方、目の前で人生を演じる「消えない人間たち」は、まったく私と同じように、私の周りにうんざりするほど存在し続け、おどろおどろしい人生をおどろおどろしく演じ、笑ったり怒ったり、傷つけたり傷つけられたりしながら、地に這いつくばって生きていたのに、消えていった人たちは美しい思い出と決して忘れられぬ、私の人生を変えるような、強烈な「言葉」を残していった。私はその「言葉」たちに生かされてきた。

 

彼らもただの人間で、自分の生活をのた打ち回りながら生きており、私を助けているなどと言う意識もなく、大いなる存在によって言葉を託されたなどと言う考えもなく、ただその場その場で思うことを話していたに過ぎないだろうと考えられたのは、大人になってからだった。

 

「羽無し天使に出会った」その時の私の耳は、彼らとの出逢いから「意味ある言葉」しか聞き取らなかった。

 

私がかの「音楽男」にネットの中で出会ったのは、まさに私が「砂漠の中で行き倒れになっていた」時、家族の崩壊の危機にさらされたていたときだった。私は別に「助け」を求めていたという意識はなかった。闇雲にクラシックが聞きたくなり、音楽の中に身をゆだねることを、私の心が必要としただけだった。

 

私は別に人間としての彼を知らなかったし、彼は私を知らなかった。そういうときに彼が、公開した私のエッセイを読んで吐く言葉は、自分のその時に適切にかけられた「意味ある」言葉のように感じたのは、そういう過去の幻の記憶があるからだった。

 

私はとうとう本気になって、私の最大の「羽なし天使」だった例のマドレが健在か、健在ならどこにいるのかを捜索し始めた。そしてついに,彼女がヴェネズエラの「孤児院」で活躍中であるということを突き止めた。おまけに私は彼女のメールアドレスを手に入れたのである。

 

噂によると、彼女はすでに80代になっていた。80代でコンピューターを操るのか・・・!どうでもいいことに私は感嘆し、早速メールを打ってみた。

 

自分が40年前にマドレからいただいた「花」をずっと心に抱いて暮らしてきたことを、そのことを最近操作を覚えたパソコンで日本語だけどエッセイに書いたことを、それを読んだ人がいて、マドレにぜひとも読んでもらいなさいと勧められたことを書いた。

 

返事が来た。

 

おお!太平洋の向こうから、40年ぶりの応答だった。しかも彼女は書いてきた。

 

「私があなたに上げたあの花があなたの心に咲き続け、今も誰かを感動させていることを知ってうれしく思う。」

 

まるで詩のような文面だった。マドレは明らかに、私のエッセイなどを読む前に、私が書き送った「花」の意味したことを、ほとんどすべて察していた。私はこの結果に驚いて、エッセイの献上に本気になった。

 

さて、どうしよう。自分で書いた数年前のエッセイを改めて読み返した。わからなかった。これが赤の他人を感動させる力があったのか・・・。

 

実は私がエッセイを書くたびに、未知の人からの反応があったことはあったのだ。しかしその反応は、嘲笑だったり、何を言われたってどうしようもない過去に対するご意見だったり、その時その時の私の行動に対する過ちの指摘だったり、ピントの外れたうんざりするような同情の言葉だったり、なるべくなら聞かないほうがいいような反応の数々だった。

 

何度私はエッセイの途中で意見を書き込むことを禁止したことだろう。自分が他人の人生のすべてをつかさどっているみたいに思っている教訓癖の人間どもが!唾棄する思いで、私は躍起となってその無意味な教訓どもを削除した。もう取り戻しの効かない他人の過去に教訓をたれたって仕様がないだろ!

 

かの音楽男は、私のエッセイに「意見」を言ったわけではなかった。「是非ともこれを訳してあのマドレに見ていただくべきだよ。」と、彼は言ったのだ。その言葉の意味することの重さに、私がたじろぐほど、それは強烈な言葉を発する本人の感性からでた言葉だった。

 

「祭壇から持ってきた花だ、祭壇に戻すのが筋だろう。花を祭壇に戻すことで、あなたのエッセイは完結する。」

 

彼は詩を語ったのかもしれない。しかし私はその時も、幼女のときと同じように、彼に詩を語らせた者の大いなる存在を感じてしまったのだ。

 

「羽無し天使の物語」(3)

「30年ぶりの教壇」

 

話は前後するが、私がネットで音楽男とであったころ、意外な出来事が降って涌いた。

 

家族がいなくなったら、ただでさえ人付きの悪い私に、電話がなるようなことは期待の外にあったのだが、あるときその電話が鳴った。

 

30年前の教師時代の飲み仲間だった。私が魔に憑かれて苦しんでいたときに山小屋を提供した耀子だった。私は彼女と帰国後1度あった記憶があっただけで、その後は年賀状のやり取り仲間の域を出ない相手かなと思っていたから、電話に少し戸惑った。

 

しかも、彼女はほとんど前起きなく、昨日出あったみたいに当たり前な言葉つきで、言うのだ。

 

「知り合いの教師から、ある高校の国語の教師が急病で、臨時講師を求めている、あまりに急でしかも短期間だから、代わりの教師の探しようがない、誰か知っている人で引き受けてくれる人がいないかって緊急連絡が入ったの。だからあなたのこと、すでに推薦しちゃったから、引き受けてね」と言うことだった。

 

「教壇を去ってから『少し』(30年だぞ!)時間がたっているけれど、あなたなら、問題なく大丈夫だって、もう言っちゃったから、やってね!」

 

前置きどころか、近況の挨拶もなく、私の側の都合を尋ねるでもなく、その時すでに、彼女の中で、私がその病気の教師のスペアになることがきまっちゃっていたのだ。その時、当然彼女は私の家庭の状況など知らなかった。私が、もう自分はこの世界で何かの役に立つこともない、隠居婆だと思い始めていることも、もちろん知らなかった。彼女の中では、かつて30年前、教員室で自分と机を並べて活躍していた頃の変人女教師がそのままつながっていたのである。

 

だから、私はこれは凄い!と思った。私は混乱の真っ只中にいて、立ち直ろうとか将来の展望を持とうとか、前向きの「何か」を考える心のゆとりさえなかったときなのだ。このままで行ったら本当に心因性の病気になるかもしれない状況だった、まさにその時の、「お前は教壇に戻るのだ!」という知らせだった。知らせどころか、こりゃ、まさに託宣だよ!

 

面食らったがうれしかった。めくらめっぽうに飛びついた。自分は死ぬ前に、かつて天職だと思っていた仕事に戻れるのだ。これが天の配剤でなくてなんだろう。

 

推薦してくれた友人はまったくの無宗教の徒である。私は彼女と、ただの一度も宗教についても信念についても語ったことがない。戯言を言いながら自棄酒を飲み交わす飲み友達だったのだ。あまり思い出されたくない私の最低だった時代のことを知っている。私は彼女が私を、ただの馬鹿だと思っているものと思っていた。「教師として」評価しているなどとは、考えたこともなかった。

 

「涼しい顔の男」

 

私は、突然美容院に行った。昔住んでいた駅向こうの懇意の美容師の店だ。別に「カリスマ美容師」じゃないけれど、面白い男だから、引っ越した後も、バスを2路線使っても、其処に行くことにしていた。余計なことを言わないし、話は聞いてくれるし、ユーモアのセンスがある。ハンサムじゃないけれど、いつも涼しい顔をしていて、こちらがまったく話をしなければ、うるさい事を聞かないで、沈黙に付き合っている。だから私はたまに、必要なとき、頭の美容を任せにこの男に会いに行った。

 

あんなことがあって、こんなことになったよ、と近況を話したら、じゃあ、夫婦とも元の古巣に戻ったんだ、と納得して面白がっている。「久しぶりの高校生相手だから、高校生に受ける髪形にしてね」と言ったら、「オウ!」と言って引き受けて頭を料理している。

 

兎に角私は教壇に戻るのに、人生くたびれきって、吹き溜まりからきました、なんていう状態に見られたくなかった。教壇に戻るならそれなりの身支度が必要だ。30年前の私を覚えていて推薦してくれた飲み友達の顔をつぶさないようにするにも、私は教壇ルックにこだわった。

 

内戦体験以来長いこと、私は衣類など裸を隠すものとしてしか意識していなかったから1000円以上の余所行きなんか持っていない。別にそれで不都合を感じなかった。本は高くても買ったけれど、余所行きと言うのは、帰国まもなく友人たちがくれた素敵な古着を、娘が学校時代に保護者会に行くときに間に合わせていたものしかなくて、それがもうサイズが合わなくなっていた。

 

1000円以上の余所行きを買うために、駅前のSATYに行った。明るい色のズボン(現代語ではスラックスと言うらしい)とそろいのチョッキ(ヴェストね^^)を買った。4000円もする。頭の手入れも入れると、かれこれ15000円使った。鏡を見た。上等、上等。何しろ1000円の4倍だぞ。

 

15000円の身支度で私は、その学校に出向いた。自分がよく利用している千代田線で1本の、家からは1時間以内でいけるところだった。で、私は面通しに行ったその日、金曜日に採用が決まって、次の週の月曜から出勤と言うことになった。さっさとその日に引継ぎまでしてしまって、なんだか先生方の表情を盗み見たら、「ああ、よかった」と言うような安堵の色が見えた。

 

私立とはいえ、普通の高校なのに、採用に当たって私の教員免許証さえ確認せず、教科書その他、閻魔帳などの教員の3種の神器はすでに用意されていた。

 

いくらなんでも、と思って、私が後から教員免許証はもって行ったが、受け取った教頭が私の教員免許証を見て、「なんだ、こんなもん、持っていたの?!」と言う顔だったので、あの学校、よほどの混乱状態だったのだ。

 

「羽なし天使の物語」(4)

 

実は、私がこの突然の教壇復帰の「事件」には、もうひとつの「偶然」の物語が働いていた。

 

私が自分のエッセイのことで、不思議なことを進言してきた、かの「音楽男」は、この高校がある同じ通りの斜め向かいに住んでいるということを発見したのだ。そのため、なにか余計にこの男とのネット上の出会いに意味があり、しかも、教壇復帰もその関連で考えてしまうほどの「不思議な偶然」のように思えたのだ。

 

私は勢い、この教職復帰を神の啓示のごとく心に迎え、新しい展開へのよい機会が訪れてくると確信した。

 

「エッセイの翻訳」をマドレに寄贈せよと、かの音楽男は言った。

 

そうはいっても自分のこの長いエッセイを、かのマドレに読んでいただくには、日本語のままではどうしようもない。彼女は英語を知っているわけではないし、私はスペイン語会話が出来るとはいえ、自分のスペイン語は学校で正規に習ったスペイン語でなく、現地で覚えたスペイン語なのだ。無学文盲の子供が自国語の「日常会話ができる」と言うのと同じ程度で、文学的に読むに耐える文章なんか作れなかった。

 

あのマドレは、私が詩文が好きなことを知って、よく私に自作のスペイン語の詩をくれたものだ。彼女はノーベル文学賞受賞者を親族に持つ、教養豊かな貴族の末裔だった。そういう相手に、私がエルサルバドルのメルカードのおばさんたちとの値下げ交渉から学んだ耳学問に過ぎないスペイン語で、自分が日本語としては読むに耐えるだろうと自負する、心をこめて書いたエッセイを、書いて見せたくはなかった。

 

学問がある大人が読むに耐えるスペイン語に訳すのには、最も手っ取り早い方法が考えられた。それは、まず私が英語に訳してから、スペイン語訳の方はエルサルバドルに去ったエノクの協力を頼むことだった。彼は詩を解するし、お国ではかなりの教養人で、まともな文章が書ける男だった。

 

今の状況で、そんなこと、エノクが引き受けるか・・・。

 

エッセイを進呈する方法は、「それしかないけど、実はこうなんだ。」私は今の家庭の状況を音楽男に話した。ところが音楽男は言うのだ。

 

「じゃあ、このエッセイの内容はご主人は知らないの?」

 

「アア、知るわけない。」と、私は答えた。

 

「彼は私がネットの世界で、他人と交流があることさえ知らない。彼は昔出張のとき、PCの扱いを怖がってしり込みする私に、メールだけでも連絡しあえるように、家をでる前の20分間、私にパソコンの扱いを教えたきりだ。私がその後、一人で試行錯誤を繰り返し、主人の情報を全部消してしまったりしては怒られて、主人が私専用のメールの窓と保存棚を作って行った。

 

その後機械音痴の私が、ネットで出会った仲間の助けで独学でホームページを作ってエッセイなどを発表していることさえ知らないし、それ以前も暗くなるから自分の過去のことは話したことがない。そもそも、お互いに結婚以前のことは、いいっこなしと言うのが、婚約の時の二人の間の取り決めだったのだ。」

 

「そうか、」と音楽男はいった。

 

「自分は男で、家庭を持っている。だから言うのだけれど、この内容は夫として知る権利があると思うよ。こういう状況の下に生きてきた女性と一緒になったということの意味を、彼は知るべきだよ。今の状況と、彼があなたの真実を『知らない』と言うことと関係があると思うよ。」

 

「う~~~ん。」と私はうなった。

 

いまさらこんな話、知らせるほうが、未練たらしくてみっともない、と私の自尊心は抵抗した。まして、私の過去など、エノクに義務も責任も意味もない世界のことなのだ。私はその自尊心を気取られたくないから、ただ、沈黙した。その沈黙の意味をネットの向こうで、相手が感じているのだろう。彼は私を深追いしなかった。

 

時が経った。

 

あるとき、音楽男は私がエルサルバドルに渡ってからの記録、「水を求めて」を読んだ。

 

「これは凄い!」と彼が言った。

「ふん!今はそれも過去のことだ」と私は言った。

 

「いや、このときはこのときで物語りは完結している。今はどういう状況があったって、これほどの意味ある出会いを不問にすることは出来ない。」

 

「この記録はご主人は読んだのか?」とその時も私に彼は聞いた。

 

「まさか!」ネットのこちら側で、私は赤面した。

 

エノクとの出会いは私にとって、かなり異常事態だったのだ。私の人生の最大の異常事態だったのだ。彼と出会う以前に、エルサルバドルと言う国の存在さえ知らなかっただけでなく、かの国から日本の東京と言う大都会に留学に来たどうでもいい男が、東京の片隅の高校で教壇に立っていた私と出会う機会が出来、堅物だった私がその男と恋に落ち、家族眷族の大反対を退けて、野超え山超え太平洋を超えて、その国の内戦に立ち会うなんていうことは、異常事態でなくてなんだろう。

 

行ってからあの国で見たものは、昭和20年代の日本のごとき荒廃した街の様子だった。言葉も不自由で、日常生活も満足に出来ず、町に出ればジロジロ見られ、友もなくおかしな状況を影にもつ結婚生活で、あの国に生きることに耐えられたのは、私の情念がエノクにしか向いていなかったからであり、身の回りに起きた出来事に対するエノクの対処の仕方に私がいちいち驚嘆したのは、私が彼を神のごとく崇めていたからだった。

 

エッセイに書いた事実は確かに感動的な事実ではあったが、いくらなんでも自分はそれが自分以外の人にとっても感動的だとは、思ってはいなかった。心の背景に宗教を持っていない他人が読んだら、失笑を買うだけの代物だということは、それまでのわずかなネット経験でわかっていた。

 

だからそれはただ私の心の中の密かな思いであり、ネットの中ならともかく、目の前に生きている人間に言って聞かせるような代物ではなかった。そして、この物語を書いたのは、私がまだ、エノクに対しての情念が燃え盛っているときだった。

 

ましてや、あの過去の自分の激しい感情の故に、感じ、受け止めた物語など、当のエノクになんか照れくさくて読ませられるわけがない。自分はこんな物語、相手の見えない世界だから発表できるんで、相手が見えて、しかも当事者になんて、冗談じゃない。いやだよ、いやだいやだいやだ。

 

私はパソコンの前で、大騒ぎをした。

 

音楽男は黙った。そして私がマドレに出会うまでの出来事を英訳するように、英語からスペイン語訳ならソフトがあるし、英訳のほうなら自分も手伝うことが出来るから、といってきた。

 

「う~~~ん。そうきたか。」

 

私の夫と面識もなければ特別の感情もなく、利害も何も共有しない音楽男が、私が今直面している問題に関して、ある方向から関わろうとしている。しかも、パ二ック状態で抵抗する私を、言葉で「説得」するのをやめ、英訳までなら協力するということで、なんとしてでも自分の心に起きたことを進展させるという方向に転じたのだ。

 

音楽男はその時、私を動かすことに、いかにも本気になっていた。彼が確実に遣わされた「羽なし天使」であることを、私はその時確信した。

 

「羽無し天使の物語」(5)

「般若心経との出会い」

 

私は20数年前帰国後、自宅で英語の学習塾を開いた。数年後には学習塾に常時50人ばかりの生徒が来ていた。小中高すべてを教えていたから、学生には慣れていた。おまけに私は英語以外にも、ついでだからできるものはすべて教えたので、大学の受験生の推薦入学に必要なレポートの指導までしていたから、論説文に接する機会もあった。

 

エルサルバドルの内戦を生きながら、日本語を忘れまいとして、厳選して持っていった蔵書500冊を私は繰り返し繰り返し読み続けていたから、高校教科書に載っている抜粋の文を見れば、そのすべてが思い浮かぶほどの知識の蓄積はあったのだ。

 

だから、高校国語の教壇から30年離れていたとは言っても、教科書を見さえすれば、何を教えればいいかすぐにわかるつもりだった。だから、現代文に関しては、内容的にほとんど予習の必要もないと、考えた。もらってきた教科書にさらりと目を通した。漱石がある。鴎外がある。魯迅もある。自分が知らないエッセイも、あったことはあったが、大方は昔教えていたころの内容とたいして変わっていない。

 

古文はちょっと厄介だった。エルサルバドル時代、記紀神話の研究を続けたとはいえ、自分の考えを現代文で書き綴るのが多かったから、古文を教えるには予習しなければならない。教科書はちょうど万葉、古今にあたっていた。

 

しかし、かつて教壇に立っていた頃、自分で作った資料をそのまま保存していたので、あれを使って何とかしよう、と思った。先に予備知識としての資料を提供している間に、本文そのものは勉強して記憶を取り戻せばいいだろう。

 

私はパソコンを駆使して昔の手書きの黄色くなった資料を基に万葉、古今の理解に必要な時代背景などのプリントを作った。古代天皇と主要な豪族の系図も作った。かつて自分が記紀神話風土記などから作成したもので、当時同僚からも学術論文級だとまで言われたほどの、多分誰も作った事がない系図である。

 

出来た資料のプリントを眺め、これでよし!と、満足した。時代背景をまず講義しよう。その間、本文を研究しよう。その時すでに私の形相は30年前に戻っていた。

 

ところで、初出勤の日、国語科の教師が数人集まってきて、連絡会議と言うものをやった。しかし、彼らは私が、アア、これならなれていると思って予習もしなかった漱石と鴎外を割愛し、期末テストに範囲として必ず全クラスの必須履修条件として終わらせるように要求したのは、魯迅と、自分が読んで、知らないなあと思ったエッセイ、日本が朝鮮半島を支配していたころ朝鮮で育った日本女性の「懺悔の記録」だった。

 

え!・・・。

 

しかも、万葉、古今、新古今では、山上憶良と三夕の歌だけ。ひょっとして、万葉から天皇の歌は全部割愛?採用がきまった金曜から、初出勤の月曜の間の寝食を惜しんで3日間を費やして作った万葉古今の時代背景のプリントは、役に立たない!

 

しかも全校生徒が必ず学習しなければならないものとして渡されたプリントは、日本帝国主義の大陸支配の近代史の、それはそれは細部にわたった年表であり、それは明らかに「国語の教材」の範囲を逸脱していた。自分はかつて、そんなことを国語の時間に扱ったことがなかった。

 

彼らは明治大正文学を、日本から見たら外国人である魯迅を学ぶことで済ませ、漱石、鴎外などの日本の代表者を割愛して、いきなり戦後に飛んだ。

 

それは国語が扱うべき「文学」を逸脱して、植民地朝鮮育ちの女性の、自分はその歴史に加担していない者の、日本を代表するかのような懺悔の記録だった。

 

「国語科会議」から、ほとんどすべての「雰囲気」を理解してしまった私は、教科書に「蟹工船」と「女工哀史」が入っていたら、きっと、日本代表の文学として、それを教えるんだろうな・・・と、腹の中で考えた。

 

自分はかつて、教師だった頃、どんなに雑談をしてもその思想的内容のいかんにかかわらず、必ず教科書を網羅して、すべて終わらせていた。

 

それをまぁ、高校生としては、常識として触れておかなければならない、漱石と鴎外を除外して、大日本帝国の大陸侵略の歴史の懺悔か?

 

実はその学校は仏教系の学校だと聞いていたので、以前から少し興味を持っていた仏教を少しでも知ることができるかなと思って、ある期待をしていた。

 

しかし、国語科の連絡会議で教師たちの発言を聞く限り、教師の大多数は、仏教とは程遠く、宗教をアヘン視する系統のマンバーが占めているぞ、と感じたのだ。私はその「打ち合わせ」に、一瞬にして学校の方向をつかんでしまったと感じた。ここの学校の「思想」の中心は、少なくとも仏教ではない。

 

国語科会議が終わってから、職員室に戻って、私は、後ろの座席にいる社会科の先生という人物に尋ねた。「日本史は高校で、どこまでいってますか?」探りを入れたのだ。答えは明治維新どまりだということだった。

 

明治以降の近現代史は教えないのか、と聞いてみた。そうしたら、彼はあっけらかんとして答えた。「近現代史は、国際的に問題が複雑なので、むしろ忙しいのを理由に避けているのが現状です。学校現場では、どこの学校も、忙しいのを理由に、近現代史には触れませんよ。其処を避けているのは、本当は文部省の下心です。」

 

ははあ・・・。確か、自分も高校時代、幕末までしか習わなかった。後は近現代史にでてきた登場人物と年号の暗記だけだったな・・・。まさか、あれはGHQ のさしがねか?それを聞いた以上に理解し、納得した私は、畳み掛けて聞いてみた。どうも、何でも答えそうな先生だと感じたのだ。

 

「国語科会議で、教えるべき内容の打ち合わせがあったのですけれど、なんだか凄く偏っているようにお見受けしました。社会科で教えるべき内容に踏み込んでいると思いますが、これは学校の方針ですか、それとも、国語科の先生方の傾向ですか?」

 

「ああ、学校の方針ではなくて、先生方の傾向です。国語科教師は、政党的にもそっちの系統に占められていますから。」

 

わあああ!政党的に「そっちの系統!?」

 

思想とは静かに浸透するもので、漱石や鴎外を削除してまで、日帝懺悔を叩き込むというのは、ある特別な集団の、「静かではない」ある意図がなくては出来ないことだ。これは多分、学校の建学の精神の仏教とはせめぎあっているだろう。それは「学校の表向きの方針」を別の意図で別の方向に持っていこうとする集団の「かくれた方針」以外の何物でもない。

 

私はつい、昔の癖を出した。時間は十分ある。彼らが要求する項目を終わらせて、漱石も鴎外も教えちゃおう。これから卒業して社会に出て行く日本国民に、侵略戦争の懺悔の記録だけを手向けるなどと言うことがあってなるものか。

 

とにもかくにも授業をしなければならない。高3の教室に入った。かったるそうな高校生がかったるそうに立ち上がり、礼のかわりに、合掌をした。それは私の意表をついた。

 

「仏教系で、合掌をしながら、帝国主義侵略の懺悔ね!」

 

そういえば漱石も鴎外も「帝国」大学出身で、国費留学生だったっけ。私も合掌をし、言わないと変だから「おはようございます」といったが誰も答えない。みんな、新しい臨時教師を上目遣いで見ている。しかし、国語の授業は静かに問題なく進めることが出来た。

 

高2の教室に行った。今度はだいぶ勝手が違った。私が入っても誰も気にしていないようだ。例の「合掌」の挨拶はてんでんばらばらで、ほとんどの子供がおしゃべりもやめないし、席に着かない。席にいても、教壇に背を向けて机の上に座っていたり、女の子は鏡を出してメイクをしている。弁当を食べているもの、ジュースを飲んでいるもの、キャッチボールのように、物を投げ合って、きゃっきゃと騒いでいるもの、教科書なんか当然出さないし、どんなに声を張り上げても、私の声は聞こえない。だいたい聞こうとするものがいない。

 

私が声をかけても、ちらと私を見て、自分の「作業」を続けている。ままよ、授業を始めちゃえ、そうしたら誰かが付いてくるだろう。そう思って、教科書を開き、足を机に上げている坊主頭の生徒に言った。「足を下ろして、教科書を読みなさい。」彼は私を見て、足を机の上に上げたまま腕組みしていった。「教科書読みたければ、オメーが読めばいいじゃないか。」

 

こりゃ、なんだ、と私は当惑した。

 

30年前の高校の教室で、私はこのような状況に出会ったことがなかった。私はむしろ、騒ぐ子供たちを矯めて従わせることの出来る教師だった。無理もない、と始めは思った。突然自分たちの担任の先生が病気で倒れ、カタカナ姓のばあさんが国語を教えるといわれても、受け入れがたいんだろう。

 

私はいろいろ考えた。考えた末、学校が挨拶の形式にしている、あの「合掌」に注目した。あの姿勢は確かに確実に、心を相手にした挨拶の姿勢として、建学の精神のほうに目を向けている、多分少数の仏教徒達がある意思を持って、生徒に強制している挨拶の形式だ。校長も僧籍にあり、数人の教師も僧籍にある。

 

しかし私はカトリックの土壌に育ち、仏教を知らなかった。しかし、たとえ一時的とはいえ、仏教を旨とする学校の教壇に立つからには、あの「合掌」の意味を知らねばならぬ。あの合掌の意味から入れば、カタカナ姓の老講師でも生徒は納得するだろうし、私はこの学校の一員として受け入れられるはずだ。と、そう思った。

 

教員室で私の後ろに座っていた社会科の教師はお坊さんだということを後に知って、私は再び声をかけた。

 

「この学校は仏教系の学校と聞きましたが、私には知識がありません。生徒たちが挨拶にしている合掌の意味を教えてください。」

 

実は私はある答えを期待していた。「合掌」は合掌する相手の心に対して敬意を表している・・・というような。

 

それは宗教を超えた挨拶として、かなり意味が深いのじゃないか。

 

彼は答えた。「特に意味はありません。挨拶のときに手がぶらぶらしているから、前で組めば挨拶の姿勢として形が付くのでね。」

 

拍子抜けした私は、そこで、学校を案内してくれたときに、校長が見せた金ぴかのご本尊の意味を聞いた。

 

彼は答えた。「講話があるんですよ。で、生徒たちの目のやり場として、ご本尊を前においておけば、あちこち見ないでまとめられるでしょう。目の焦点としておいているんです。」ある意味、これは面白かった。彼が、ご本尊の像そのものに意味があると言わなかったところに。私の精神として、この答えは大いに納得できた。しかし、かすかに、私は、「これは別の集団の方針に気兼ねしている発言でもあるな」と考えた。

 

其処で私は尋ねた。「この学校の精神の仏教と言うのは、生徒たちにどのような形で伝えられているのですか。または伝えられていないのですか。」

 

彼は答えた。「週に1度、般若心経の授業があります。」

 

私は般若心経の解説書を借り受け、家に帰って、むさぼり読んだ。わけのわからない生徒との交流をしたい一心だった。私には少なくとも、「せめぎあっている」かもしれない一方の「漱石鴎外割愛派」とは一線を画したかった。

 

「羽無し天使の物語」(6)

「般若心経との出会い」(2)

 

般若心経は1度読んだきりでは理解できなかった。理解できないから、図書館に行って解説書を読んだ。それでもわからないから、本屋に行って、仏教書を買い込んだ。本を6冊買い、それも足りなくて図書館で本を借りた。23冊の本を読破した。しかし、私には本当に意味することがわからなかった。そして、23冊の仏教書は、自分にとって魅力があったけれども、短期間の間に生徒との交流に役立てるほどには、私の理解力は付いていかなかった。

 

私は多分、いつもの私だった。物事のきわめて現実的な問題に、きわめて非現実的な解決法を探っていた。

 

ある火曜日、学校に行く前、朝からなんだか頭痛がしていた。学校についてからも元気が出なかった。力がない。腰が弱っている。危ないと思った。何しろ火曜は休むひまなく5時間も授業がぶっ続けにある。しかも最後の2時間は高3の演習で、そのクラスはほとんど進路が決まっているため、演習なんかする必要がある子は4人しかいない。

 

2時間目、例の2年の古典のクラスにいった。挨拶はない。誰も席に付かない。例のたこ入道みたいな男の子が机に足乗せて、今度は授業中に飲食している。教室の隅から反対の隅まで大声で言葉を投げ合っている。教室の通路で、キャッチボールしている。

 

このクラスを持たされた先生がうつ病になって、何度も学校を休職するため、私が採用されたのだ。うつ病になる理由がわかってしまう。4月から9月まで4人も先生が代わったそうだ。異常事態の中に、私は迎えられたのだな・・・

 

クラスも半ばすぎたところでやっと一瞬静かになった。漢文の授業だ。まじめな子も数人いて、すらすら読める。少しずつ読ませていた。で、あの足上げて飲食している子に、さしてみた。そうしたら、「こんなもの俺は読む必要ないんだ、先生が読んでいればいいじゃないか。好きなんだろ?おめーが」とのたもう。

 

そのとき私の腰が抜けた。あれ?と思った。自分の体が異常をきたしている。なんとも対応もできず、私はほとんど終業ベルが鳴るのを待って、教員室に戻った。

 

教員室にどやどやと別の集団が入ってきた。私は立ち上がれない。凄い頭痛がする。激しい吐き気がする。我慢した。それから、体になんか力がないのを感じて、机に突っ伏して眠ったら、時を忘れ、5時間目の始業のベルに起こされた。もう、驚いて突然立ち上がる。用意したものを引っつかんで教室に急いだ。

 

しかし、子供たちは来ていない。たった一人のまじめ人間が入ってきたので、その子相手に二人で合掌の挨拶して、演習の問題集の次のところをやるように指示した。

 

その真面目な一人以外の演習の子達を何とかするために、私は策を練ってきた。私は策をこねて、一つのプリントを用意していたのだ。用意したプリント、それは私の内戦体験記の中の1節、「水を求めて」を高校生向きにアレンジしなおしたものだった。これは苦肉の策、最後の手段だった。自分を見せて、自分に興味を起こさせることによって、人間関係の糸口を作ろう。般若心経に失敗しても、私はまだ目が覚めなかった。

 

私は彼らにいったのだ。「これは私が書いたエッセイだけど、演習をやる必要もない人で、このクラスが我慢できないほどつまらないと思っているなら、一寸聴いてほしい。私はあなた方の過去をまったく知らないので、学期末の採点を前にして、点の付け様もないし、演習のクラスでも今みたいに何もしようとしなければ、あなた方を知るための資料がまったくない。

 

これは演習とは無関係の私の過去の体験談だが、一応興味あってもなくてもこの文を読んで、自由に思うことを書いてほしい。書いたものには、兎に角落第点にはしない。」

 

そういったら、始めにやってきた「まじめ人間」以外はみんな乗ってきた。みんなの興味をエッセイのほうにむけている間に、「まじめ人間」だけは一人で個別指導ができる、と思った。一人なら何とかなる。他の子がエッセイ読んで静かにしていてくれれば、一人だけなら問題なく指導できる。と私は思った。

 

驚いたことに、いつも休んでいて、睡眠とるためにだけ来ている子が目を覚ました。プリント3枚にわたるあのエッセイを何とか読んだのである。

 

彼の感想は「すっげー」の一言だった。しかもいつも眠っている彼の目は、その後2時間開いていた。20名ぐらいの子が感想も書いた。なかなか感性のある面白いことを書いた子もいる。新潟地震と結び付けて書いた子もいる。うれしかったことは、みんなの感想が同じではなかったことだ。通り一遍の事を書かなかった。

 

そして私は途中から、感じる胃の激痛を我慢し、ベルと同時にトイレに駆け込んだ。そして恐ろしく体力の消耗を感じ、なんだか痩せて出てきた。6時間目はそれでもいつもの授業がまともにできた。4人以外は席についてくれた。そして、その席に着かなかった4人は「せんせー、スペイン語教えてよー」と甘えてきた。

 

なんでもいい。とにかくこの日はこなした。医者に直行しよう。そう思って、電車に乗ったら、混んでいた。大げさな姿で場所をとっているおばさんの間に割り込んで座らせてもらい、家にたどり着いたらその足で、医者にいった。

 

熱もあった。風邪の菌による急性胃腸炎だそうだ。今日1日絶食で、白湯か、ポカリスエットしか飲んじゃいけないという。ポカリスエットなんて知らない。白湯ばかり飲んでいる。「白湯」という言葉はいかにも健康によさそうな清々しい響きを持っている。その日は幼稚園勤務だったが、休んだ。水曜日は幼稚園勤務のため、学校ははじめからの契約で休ませてもらっている。その日一日白湯と薬で、お腹はすかないが、めまいがする。

 

でも薬と白湯を飲みながら思った。これからずっとこれで生きられたら、どんなに楽だろう。何もしなくて済む。ごみも出ない。

 

次の日、なんとなく、成果があった。登校中の子が挨拶する。廊下であった子が挨拶する。数人の子が、授業が終わった後、追いかけてきて質問に来る。私がエッセイを読ませた3年のクラスの子だった。

 

作戦、うまく行ったな、と私は感じた。出会ったことがない先生だから、もし、語らせてくれるなら、自己紹介を兼ねて、外国の話などしてもいい、しかし彼らは何しろ教師の話など聞かないのだ。だから、私はエッセイを読ませた。それが体験談を話したのと同じ効果を呼んだらしい。

 

しかし、高2の古典は、いつまでもてこずった。いくらなんでも古典でエッセイなど読ませられない。授業は完全に拒絶にあっていた。

 

あまりのことにあるとき、私は彼らに提案した。

 

「今までに4人も先生が代わったのなら、授業に身が入らないのも当然だろう。しかし、期末考査はどうせ来るんだし、授業をこなさなかったら、点はあなた方の問題として響く。授業を進めるに当たって、私に何を望むのかを話し合おう。なんでも希望を言ってくれれば、あなた方が望むように、私のほうも努力してやり方を代えてみるから。」

 

私は昔教壇に立っていたころより、30年も年を取り、30年も妥協の人生を学んでいた。相手がどうあろうと、権威や脅しで、相手を従わせようとは思わなかった。

 

「羽無し天使の物語」(7)

「唐突だけど教職解雇」

 

30年ぶりの教壇復帰には、いろいろなことがあった。30年続けていたら、あるいは、現代の生徒と昔の生徒との変化にそれほどの衝撃を受けず、やり過ごせたのかもしれない。しかし、30年の空白のあと戻った教壇から見た光景は言語に絶するものがあった。

 

私は30年前の夢の続きを見ていた。現実は私の存在を赦さないほどに変化していた。そこはもう、私にとって「昔住んでいた」世界でもなく、昔取った杵柄は、すでに通用しなくなっていた。自分としては、この短期間の間にいろいろな試行錯誤はしてみたが、試行錯誤を受け入れる受け皿がなかった。

 

私は自分がもう現代についていけないことを悟らざるを得なかった。

 

私は契約期間の終了する3ヶ月を残して12月始め、唐突に解雇された。理由などいくら分析しても始まらない。結果は結果で、動かすことが出来ない。とにかく学校は私が不要になったのだ。

 

天与のもの、奇跡、などと言うものは、起きなかったということを悟らざるを得なかった。あるのは雇う側の都合による雇用と、都合による解雇だけである。私はそのときはそう思った。

 

心は平静ではなかった。自分のその時の状態が、あまりに非日常的な出来事の連続だったから、自分はうっかり現実を見ずに、夢を見た。この仕事はまったく自分の計画の中になかった、「天与」の仕事なのだと。ここで自分が生きるように、最後の力を振り絞って、何か役に立つ仕事ができるように、天から与えられた最後のためしなのではないかと。

 

だったら、もう自己保身なんか考えないで、やみ雲にこの仕事をやってもいいじゃないかと、自分はこの仕事にかけた。しかし、私はあの学校の掲げる仏教にはかなり積極的に接近を試みたが、教職員の大勢を占める思想には見向きもしなかった。

 

そう、私はあの時、自分の宿命的性格のために、自分のつらい現実を勝手な方向にもって行ってしまったのだ。

 

「家族との別離は与えられたものだ。自由になって、ある仕事を完成させるために。その完成しなければならない仕事とはなんだか未だわからない。でも確かにこの孤独は、何かのために利用しなければならない性質のものだ。」

 

私はこういう、巫女が泡吹いて託宣を口走るような言葉を、ネットの中のあの「羽なし天使」との会話から、考えざるを得ない精神状態になっていた。それはもう一つの偶然から、不幸にも確信してしまった勘違いだった。その羽なし天使と私が呼んだ生き物は、私が図らずも奉職した学校の同じ通りに住んでいた。まるで何も関係のない彼が私を呼び寄せでもしたように。

 

だから私は考えた。これは普通のことではない。ここに私の使命があるのだ。かくもかように生々しい現実を生きていた、崩壊学級と無神論者の教職員を相手にして。

 

学校に行けばいろいろなことが回りに起きる。昔の教職時代の感触を取り戻すようなときもある。見過ごしたり通り過ぎたりできない性格が頭をもたげるときもある。しかし体力が衰えていることは明らかだった。昔のように猛々しく持ち上がる出来事に対応できない無力の自分を感じてもいた。反抗し、抵抗する生徒に怒鳴り返し、腕づくでも従わせる若い活力を、私はすでにもっていなかった。

 

しかし私はあの学校で自分らしく生きた。もう、反故にしてもいいかもしれない信念だったが、通用しない過去の信念にこだわって生きた。そして、それが多分問題だったのだ。

 

受け持たされたクラスは6クラスあった。高2の古典2クラス、高3の現代国語2クラス、高3の演習2クラスだった。このうち演習の1クラスは必須ではなくて、人数も10人に満たなかった。しかし、必須ではないから、集まりが悪かった。時には一人しか来なかった。

 

高2の古典の1クラスと、最後までうまくいかなかった。其処で私は問題のクラスは少し時間をかけることにして、12月いっぱいで授業が終わる高3の現代国語に気持ちを集中させた。これから社会に送り出す彼らに、私はあの学校の国語教師がもくろんでいるような偏った思想のみを植え付けたくなかった。たった二ヶ月なのに、私はむなしく、そんなことを考えた。

 

私は彼らに、「契約履行」をするために、国語科の会議できまった範囲を、出来るだけ客観的に自己流の解釈をせず、しっかり教えた。そして、私が思ったとおり、時間が余った。余った時間で、私は、「試験範囲ではないけれど、常識なので」、と断って、教科書に載っていた漱石と鴎外を教えた。漱石の苦悩は、敗戦後喜んで騙されて欧米化した戦後の日本人にだって通じる苦悩なのだ。漱石の授業に彼らは黙って付いてきた。高3の生徒とは、完全とは行かなかったが、できるすべてをやったなと言う満足感があった。

 

高2の問題のクラスに関してはほぼお手上げだった。だからとうとう私は担任に助けを求めた。クラスで起きた出来事を、私は事実だけ話した。しかし、担任は当惑したような表情をしただけで、結局何もしなかった。むしろ、臨時講師に過ぎない人間に引っ掻き回されたくないらしかった。

 

高2の古典の内容に関しては、冬休みの間にかなりの準備をしようと考えていた。大体の準備はできていたが、準備したのは、生徒を見る前だったので、不要なことも多かった。

 

その高2のクラスから、期末試験がまじかになって、テストの問題を教えてくれと、個人的に来る子が数人出てきた。少し当惑して子どもたちを見ていたら、その子たちが、「先生の声は小さすぎて、教室ではなにも聞こえない。先生は騒ぐ生徒を黙らせることもせず、ただ黒板に書いている。あれじゃ、何もわからない。テストの問題がわかれば自分でするからいい。」というのだ。

 

もともと、私が声を限りに叫んで黙らせようとしても、騒ぐ子どもたちを席に付かせることも出来なかった。私は本当にあれ以上の「大声」が出なかったのだ。

 

私はかつて、これほど黒板を使ったことはなかった。項目だけを書き、その説明は口頭ですれば生徒は書いた。この学校ではそれが出来なかった。聞く生徒がいなかった。あるとき私は、今までの先生はどうしていたのかと、最前列の子に聞いたら、先生は一時間中黒板に書いていたといい、今までどおりにそうしてもらわないと困ると答えた。私はそんな授業ってあるのかと抵抗したけれど、生徒の騒ぎを抑えることが出来ない現実がある限り、それで行くしかない、と考えた末の板書だった。

 

そうか、それが「先生の無能」に見えたのか。騒ぐ生徒を静かにさせることが出来ないのは、なるほど「無能」かもしれない。

 

私はあの時、自分が出していた声以上の大声を出すことが出来なかった。私の声帯は限界を超えていたのだ。「人間の声には限界がある。あれほど静止しても黙らないのに、私の声のせいにするのはおかしいぞ」と、生徒に言った。むなしい抵抗だった。

 

生徒は教頭に直訴した。あの臨時教師は無能である。騒ぐ生徒を放置して、ただ黒板に書きなぐっていればいいと思っている。教頭は生徒の直訴に軍配を上げた。生徒の「人権」を「教育」そのものよりも、何よりも重んずる学校だったから。

 

私は敗北して教壇を去った。 

 

「羽無し天使の物語」(8)

「出会いの終焉とその意味」

 

色々なことを考えた。考える材料が、どんどん涌いてくるから仕方がない。あの1年は、私はいかにも動揺し、自分の意思に無関係に起きる出来事に振り回されて過ごした。自分には自分の周りに次々に起きてくる出来事の意味が分からなかった。

 

私は老後の人生をエノクと二人で楽しく過ごそうと思っていた。それができると思っていた。不意に別れがやってきて、その夢が消え去った。その別れに自分の意思が働いたのか、あるいは、自分に責任があったのかわからない。今でもわからないのだからその時だってわからなかった。

 

だから私は苦し紛れに、全部天の配剤のせいにした。信仰なんていう代物じゃない。それが自分の精神衛生を守る唯一の逃げ道だっただけだ。

 

私だってその逃げ道に行く前に、もっと理性的な方法を試みた。私は絵を描き、エッセイをかいて気を紛らそうとした。虚脱感を埋めるために音楽チャットに入り浸った。そこで私は図らずも、チャット仲間のちょっとした提案で、かつてやっていたバイオリンを再開しようという示唆を受け、始めた。

 

昔やったことがある、娘にも習わせたことがある、でもはじめの挫折は高校の時の肺結核で、復帰する余裕もなく、才能もなくて長続きしなかった。楽器だけはいつもどこにでも持って歩き、時々出しては撫でていた。何度か絵の題材にもした。

 

一度も二度も放棄したものだったが、ためしにやってみると、手の感触が戻ってきて、少しできるのは楽しかった。出来た、出来たと音楽男に報告し、そうかそうかと言われると、励みになって、先に進めた。

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そこに降って涌いたかのように、教職の仕事が舞い込んだ。自分は自分の水に戻った魚のごとく喜んだ。一所懸命仕事をした。人一倍、予習に時間を当て、生徒一人一人の記録を付け、パソコンを駆使して資料を作成した。

 

それがある時、唐突に、解雇された。私の衝撃は大きかった。ただ単純に今までの生活に戻ったに過ぎないとは、その時どうしても思えなかった。

 

 

しかも時を同じくして、少しの言葉のいきちがいから、かの「羽なし天使・音楽男」は、現れては消えるはずの、私が勝手に作った定義どおり、ネットの中から消えていった。私はもともと、自分に関してはうんざりするほど、人間関係音痴を自認していた。だから私はその時も、自分の側にしか理由がないだろうと考えた。だからでたらめに苦しかった。人の所為に出来るものなら、人の悪口を言っていれば気が楽だったのに、自分はそれができなかった。

 

ネットの中の人間関係と言うものはあぶくのようなもので、出会いにどれほどの意味を感じようとも、所詮見えない世界のうたかたのごときものである。そして相手は私が何を感じようと、どんな物語を作ろうと、「羽なし天使」ではなくて、現実を抱えた私と変わらぬ人間なのだ。その事実を、夢にしがみつかなければ生きていけなかった私は凝視しなかった。だから、いきおい消えるあぶくに執着していた。

 

しかし、あぶくは確かに手ごたえのある何かを置いていった。教職解雇と音楽男との交流の終焉がまったく同時に来たということで、私は再び、この二つの出来事の「意味」を考えた。なぜなら、音楽男との出会いと、30年ぶりの教壇復帰は、理解できないほど「偶然」であり、その終焉も偶然時を同じくして、到底「必然」とは考えられなかったから。

 

私の周りに起きる不可解な出来事には、必ず「意味」があるという、これまで自分で自分を誘導してきた癖が、このとき再び鎌首をもたげたのだ。

 

その2件の出会いと出会いの終焉を吹っ切るように、私は自分が過去に書いたエッセイを翻訳し続けた。あたかも私はそこに「意味」を求めるように、2件の出会いをきっかけに始めたこの翻訳だけは仕上げようと、私は歯を食いしばって続行した。それは、一度取り掛かったら、自分の手の中にある間は、徹底的に追求してしまおうと言う、昔ながらの自分の性格に支えられていた。

 

翻訳はなんとしてもクリスマスまでにマドレに送ろう、私は自分にそういう義務を課していた。

 

他人にとって意味があろうとなかろうと、または、それを言い出した本人が、さっさと手を引いてしまおうと、とにかく出会って40年も経ってから、過去の最大の「羽なし天使」と連絡を取る気にさせられ、そして連絡が本当に取れた事実は大きい、と感じた。

 

機械音痴を自認していた私が、パソコンを駆使してインターネットと言う手段を獲得したのだ。今、自分がどういう状態にあろうと、それは恐ろしいくらいの意味を持つことだった。そして何よりも、激しいストレスのうちにあり、意味があろうとなかろうと、何か具体的な行動を起こしていなければ、自分の身が持たない状態であった。

 

教職解雇の宣言を受けた12月の初め、私は死に物狂いで幼年時代から「花」に至るまでのエッセイの翻訳を敢行し、数ヶ月音信を絶っていたエノクに一文を添えて送った。

 

「かつて私が世話になったマドレがヴェネズエラにいる。もう、高齢で80を過ぎている。自分がネット上の発表した彼女にかかわるエッセイを、ある人物が読んで、これを翻訳してマドレに送ることを提案したので、ためしに英語で書いた。自分はこれを美しいスペイン語に訳したいが、手に余る。クリスマスまで送りたいので、スペイン語訳をしてはくれまいか。」

 

数日後、彼は返事をくれた。短いが彼のその文面には、ある感動が漂っているのが感じられた。あたかも、それは彼の心に、今までとは違う何かの火がともったような、文面だった。彼は確実に、私の「花」と「水を求めて」を読んだのだ。彼はスペイン語訳を引き受けた。

 

「そうか・・・」と、私はつぶやいた。

 

「言葉」は確かに私に伝えられ、その「言葉」によって私が動いた。そしてその「言葉」はある役割を果たしつつあった。「言葉」を伝えた生身の人間は、何処かで自分の人生を生きているだろう。彼は、ある大いなる者によって、「言葉」を伝える役割を担わされ、役割を終えた後、「大いなる者」は彼を解雇したのだ。

 

エノクのメールをを受けて私は、彼にヴェネズエラのマドレのメールアドレスを送った。

 

「私がネイティヴの貴方のスペイン語をチェックしたってしようがない。訳したら、そのまま彼女に送って欲しい。彼女にはすでに予告してあるから、待っていてくれているはずだ。」

 

後はエノクが自分の役割を果たすだろう。

 

2004年の暮れ、私は孤独に耐えて、ただひたすらに時を待った。