naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月14日

「羽無し天使の物語」(9)

「そうだ、ヴェネズエラへ行こう!」

 

2004年の暮れから正月、私は寂しかった。ただ、ものすごく寂しかった。ひたすらに狂おしく、寂しかった。

 

暮れ正月と言う時期、誰にとっても年に一度の家族の集まる期間だという考えがあったから、他人と交流を求めることを遠慮した。寂しいのは自分だけなんだ。自分が寂しいからと言って、寂しくない他人と交流を求めて、ただでさえうまく行かない人間関係を壊すのが怖い。

 

自分は自分を知っていた。寂しがるあまり人にしがみついて、人間関係を壊してしまうことも、傲慢だからでなくて、自信がないから交流を求めないことも、気を遣うあまり、他人の唯一の休暇を邪魔したくないのだということも、私は自分のことだから知っていた。依怙地に見える多くの老人が、そうやって、孤独に死んでいくのだろう。私は日本の社会問題化している孤独死老人と同じ立場にいることを、完全に知っていた。

 

だから寂寥感にさいなまれていたあの暮れ、私は日本にいる、交流可能な自分の兄弟とも、親戚とも、友人とも、周りに考えられる一切の人間関係とも連絡を取らなかった。

 

クリスマスの2週間前、私はふと思いついて、エルサルバドルの家族にプレゼントをみつくろって贈った。1歳になったはずの孫にも、一緒に住んでいる90を過ぎた舅にも、どんな気持ちで生きているかわからない苦難の人生途上の娘にも、そして複雑な気持ちだったがエノクにも、色々考えてプレゼントの荷造りをした。

 

寂しさと言うものは、多分自分がないものを求めるからおきる感情なのだろう。こうあって欲しいとおもう相手が思うとおりに動かないから。だったら、自分が行動を起こせばいい。ベトナム戦争だって、クリスマス休戦があったのだ。なにはともあれ自分が作った家族なのだ。クリスマスにはプレゼントを贈って悪いことはなかろう。ぶつぶつと、自分の行為を解説し、自分に言い聞かせた。

 

しかし、その年、エルサルバドルの家族は、私からのプレゼントを受け取ったという連絡もよこさず、クリスマスの挨拶もよこさなかった。偶然だったかもしれない。暮れも正月も、その年私は家族はおろか、友人からも1通のクリスマスカードも、年賀状も受けなかったのだ。スペイン語訳エッセイを献上した相手であるマドレからでさえ、受け取ったというメールが来なかった。喪中欠礼が偶然重なったとしても、あれはやっぱり偶然とはいえない、私に考えさせるための「ある意味」があったとしか思えない。

 

と言う風に、私は努力して考えた。

 

私はその「ある意味」を悟らなかった。私には、高齢の父と、嫁にいかない娘と、孫に囲まれて、彼としては健全で満足な家族構成の中で、私の存在を忘れて一人で勝手に「幸福に満足している」エノクを思い描き、自分の不幸を思ってなおのこと苦しんだ。原因不明のまま、すべてを自分は失った。同じく原因不明のまま、彼にはすべてが手の中にある。

 

要するに、自分に不幸をもたらした人間の幸福が、うらやましく、恨めしかったのだ。

 

お前がだんなを追い出したんじゃないか。確かにそうだ。お前が孤独を望んだんじゃないか。確かにそうだ。しかし、しかし・・・。私は蛇のごとくのた打ち回り、うめきながら苦しんだ。だからといって、私はこういう人生を自ら選んだわけではなかった。

 

年が明け、私は自分が、今何をすべきかを考えた。

 

「花を祭壇に戻して完成する」と言う「設定」だった物語は、物語を演出した当人が去って、腰砕けに終わっていた。ところが、私はその物語に執着し続けていた。

 

私の手元には、臨時収入だった3ヶ月間の講師の給料が手付かずに残っていた。私はその金額を見て、はたとひざを打って思った。

 

そうだ。これでヴェネズエラに行こう!

 

「羽無し天使の物語」(10)

「旅の準備」

 

「そうだ、ヴェネズエラに行こう!」そう思ったとき、二つの出会いの意味が一つになった。突然の教職の意味も一緒になった。

 

「祭壇の花を祭壇に戻すための旅費が与えられた!」

 

そう思ったら、音楽男も現代教育事情もどうでもよくなった。

 

私はとうとうその気になった。なんでもいいから、マドレの住むヴェネズエラのメリダ行きの、計画を立てた。お金はあるんだ。本当ならなかったはずのお金が、とにかく、気分はどうあれ、手に入ったのだ。だんなの給料でもなく年金でもなく、家族に気兼ねすることなく、使ってもいいお金がここにあるのだ。

 

ところがこの計画が意外にてこずった。

 

私はヴェネズエラのことをまったく知らなかった。ヴェネズエラはラテンアメリカでも産油国として一番豊かなところだから、他の中南米諸国よりは発展していて、交通の便も案外良かろうとたかをくくっていた。まあ、行ったことのないところだから何が起きるか判らないのだけれど、目的が観光ではなくて、一人の人物に会うということにしか焦点を当てていなかったから、全く予備知識も何もない。予備知識を持とうともしなかった。

 

いつも私はそうだな、と、私は案外愉快だった。あの、24歳のスペイン旅行を皮ぎりに、35歳で太平洋を越えて恋人に会いに行ったときも、今回のヴェネズエラ旅行も、「人一人に会いに行く」以外の目的を持っていなかった。

 

しかも私は、ヴェネズエラがいくら産油国で、金持ちでも、観光客を呼び寄せるに足る何かがあるとは、いままで誰からも聴いたことがなかったから、その点は全く無知だった。中南米に関しては、古代文明のあったメキシコ、グアテマラ、ペルーぐらいしか観光名所を知らなかった。あとは、8年暮らした「殺戮の国」エルサルバドルだけだった。

 

地図で見るとヴェネズエラは南米大陸の一番北、カリブ海に面している。メリダという場所は首都のカラカスから飛行時間1時間離れた山の中にある。

 

1:8000000の地図で確かめた。老眼鏡で、しかもその上に虫眼鏡も使ってやっと探し当てた。その地方を囲む山脈の名前がメリダだ。南米というとなんだか未開発の部分がたくさん残っている大陸のように感じて、山脈といっても日本とは規模が違うから、なんだか空恐ろしい。人食い人種なんかもいそうだ。

 

私が40年ぶりの再会を計画している相手は、修道院に住んでいる。その修道院が孤児院を経営していると聞いたから、人口密度もある程度なければならないはずだと思っていたけれど、飛行機の接続の問題で、さんざん苦労して、こりゃかなり辺鄙なところだぞと、不安になった。やっとマイアミ経由で、何とかなりそうな経路で計画が立ったが、どうもアメリカはいま入国管理が厳しくて、うるさいので寄りたくなかったのに、いつか一度通過した切りのマイアミで、行き帰り1泊することになってしまった。

 

カラカスから彼女の住むメリダまでの接続が、アメリカ経由のほうが人間的に可能なのだ。何しろ初め考えたパナマ経由だと、夜中の11時について、おまけにホテルが空港から20キロも離れたところなのに送迎サービスがない。国際空港だからイミグレーションに手間取ったら、12時過ぎにホテル探してうろうろしなければならない。63歳にしてそれは体力的に無理だ。経路を何度か変えているうちに、肝心の飛行機は満員になってしまって、運賃まで高いほうに代えなければならなくなった。

 

なんちゅうところに住んでいるんだと内心思いながら、やっと何とか飛行機を抑え、計画が軌道に乗った。2月から初めて3月5日、予約限度ぎりぎりのところで、決まった。尤も、若いときスペインまで会いにいった時に彼女が住んでいた場所も相当に辺鄙だった。あの、寄宿学校以外見渡す限り原野以外何もないところに彼女は住んでいた。寄宿の生徒たちも、通うことの不可能な場所から親元離れて送られてきていた。あの学校で私は英語を教えたんだ。おかしな体験をしたもんだな。

 

彼女はしっかりした自分の意見をもった人物だけあって、どうも中央のおぼえが悪く、東京以外はずっと辺鄙な田舎に左遷されていた。東京にいたときも、良く、色々地方に出されていた。そこに、いちいち、私は会いに行ったのだ。

 

しかも彼女、数学教師の免許持っているのに、台所の料理係だそうだ。なんだろね、この人選。少なくとも、日本の昔いた修道院では、彼女に関してはそういう情報しかえられなかった。というより、日本の修道院では、ほとんど、彼女のその後の動向が知られていなかったといってもいい。

 

私が行くと決めて連絡をとったとき、中継ぎをやったマドレが、彼女物凄く喜んでいると知らせてきた。そりゃうれしいだろうな。どんな辺鄙な田舎に行っても、日本で40年前世話した人物が喜界が島の俊寛を訪ねるごとく、野越え山超え海越えて、尋ねてくるんだから。仏教じゃあこういうの渇愛とかいって、しつこい愛情表現は評価するどころか、捨てなきゃ悟りの境地に到達できないらしいけれど、私にとってはこの際仏教はどうでもいい。

 

実はこの「仏教」、あの学校の「般若心経」以来、ずっと研究を続けていた。

渇愛だろうが自己愛だろうが、執着だろうが、煩悩だろうが、どうとでも言え。私はとにかく、こうと決めたら行くんだ。野超え山超え海超えて、人間一人尋ねていくんだ。何で、一人の人間を愛しちゃ悪くて、全人類をまとめて愛さなきゃいけないんだか、宗教ってさっぱり判らんよ。彼女、81歳にして、この暮れに乳がんの手術をしたらしいけれど、元気になっちゃって、メールもくれたし、空港まで出迎えてくれるそうだ。彼女だって個人を愛しているんだ。個人に愛されることがうれしいんだ。

 

「個人を愛さず個人に愛されないもんだから、私は人類をみんな愛していますなどといっている宗教家」は、私は大きらい。個人を愛さずだれにも愛されないくせに、何が「人類をまとめて愛する」だよ!

 

そうだ。私は忘れない。23歳のあの時以来、私は彼女を忘れたことがない。彼女がくれた「花」を心に大切に咲かせて来た。その花を「祭壇に戻せ」と音楽男が言った。その言葉が私の心の奥深くに突き刺さった。その言葉は言った本人の意思とは関係なく、私の心の中で膨らんだ。その人物の進言に私は妙に真剣にしたがって、私はあのエッセイをエノク経由でスペイン語に翻訳し、彼女に送った。

 

でもそれが、はたして、あの不思議な人物を通して、私が捕らえた言葉、「祭壇に花を戻す」ということになるのかどうか判らなかった。「花を祭壇に戻す」とはどういうことかと、やっぱり真剣に考えた。それで私は、はたと気付いた。

 

彼女が守りにくれた18センチの十字架を思い出した。私はあの十字架を、マドレの形見として、心の守りとして、どこに行くのも持ち歩き、行く先々の寝室の壁に大切にかけておいた。

 

そうだ、そうだ、あの十字架だ。今回彼女にあの十字架を持っていこう。祭壇に返すものがあるとしたら、これしかない。もう私はあれから40年生きてこられた。この守りの象徴がなくても、生きていけるだろう。

 

その十字架には、修道院にいた経験のあるものにしかわからない、ある特別な意味のある十字架なのだ。修道女になるには、誓願と言う儀式を何度か繰り返し、最後に終生誓願を立てる。従順、貞潔、清貧の誓願と言う。修行の末に、自分はもう意思を固めて、終生修道女として神への奉仕の人生を送ると決めたときに、立てる誓願を終生誓願と言う。

 

終生誓願のときに、渡されるものが、この十字架なのだ。修道女は直属の上司である修練長、院長、管区長、総長に絶対的に服従し、世界に派遣されるときも、この十字架を肌身離さず持っていく。これは「物」には違いないが、「象徴」であり、修道者としての印なのだ。これを他人に渡すなどと言うことは考えられないことだった。 

 

ところで彼女は、この大事な、修道者としての象徴的十字架を、過去、3人の人物に渡した。自分よりも必要だと思った人物に、自分がいつもそばにいて上げられないからと言う意味で、「心のよりどころ」として、はじめ、マリビと言う女の子に渡した。それをマリビが、もう自分は一人で生きていけるといって彼女に返したのを、彼女は、今度はソコロという女の子に渡したのだ。ソコロも十字架が不要になったとき、彼女に返した。そこでマドレが私にその十字架をくれたという経緯がある。

 

苦悩にもだえた20代の頃、私は彼女と別れるときに、この十字架を預かった。以後私は彼女に出会うことがなかったが、十字架は実に40年間私の傍らにあり、私を守った。(と、勝手に考えた。)

 

その十字架は「物」に違いなかった。それが「物」に過ぎないと知っているから、彼女は、「見えない神」を心に持って、見える「十字架」を、「見えるもの」が必要な「彼女に託された子どもたち」に預けたのだ。

 

この十字架を彼女に返そう。今まで、私が考えたこともないことを、私は思いついた。これこそが、あの松川の祭壇から彼女が持ってきて私にくれた花だよ。

 

私はあのネットの中の「羽なし天使」が、私が書いた「花」と言うエッセイを、「祭壇の花として、彼女に返せ、エッセイをスペイン語に翻訳して彼女に献上せよ、それによって、あの物語は完成する」といったとき、私は素直にその言葉に従った。でも私は何か、それでこの物語が終わっていいのかどうか考え直したとき、あの終生誓願の十字架を思い出したのだ。

 

それは、もしかしたら、私は、マドレに会いたい理由を探していたのかもしれないとしても。理由なんかどうでもいい。とにかく彼女に会いに行く。

 

「羽無し天使の物語」(11)

「準備万端整った」

 

3月10日

 

この旅は「全てを大いなる存在に委ねる旅」と私は位置づけた。

 

ところで、この旅が常識的ではないことを証明するが如く、あとからあとから障害が発生した。しかし、私は憑かれたように自分の決意を変えなかった。私は盲目的にあの音楽男の進言を信じて行動していた。自分の心の中からどんなに否定しても拒絶しても彼の言葉がいよいよ増大して、私の心を圧倒した。もう私個人の「思い込み」などというものを通り越していた。

 

いつも、こういう行動を取るときにそうであったように、「自分は何か間違っている」と思い悩んだ。「自分は精神病じゃないか」と思い悩んだ。本を読み、人と相談し、「思い込み」から解放されようとした。しかしどうしても抗えないものがあるのを感じていた。私の心を捕らえて放さない何かがそこにあった。

 

私は面倒くさい人間だった。

 

自覚しているのは自分の盲目と、そして何も考えずに「化け物の意思」に従わなければならないという強迫観念だけだった。

 

その時、ヴェネズエラの首都は、洪水に見舞われていた。そういう情報が入った。洪水だぞ、行ってはいけないよ、とでも言うように、私の空耳には聞こえた。日本に全く伝わらない災害がその時あの国を襲っていたのだ。

 

当時のヴェネズエラはチャべス大統領の国。アメリカが彼を嫌って降ろそうとし、国民投票でその地位を守った気骨のある、しかし乱暴な暴れ者の大統領。どういう人物か知らないが、アメリカに抵抗したら、ベトナムのゴジンジェムのように、暗殺されるだろう。パナマのノリエガのように拘束されどこかに幽閉されるだろう。アフガニスタンやイラクのようにつぶされるだろう。それでも抵抗する暴れ者だ。

 

だから、ヴェネズエラは治安が悪化しているという。しかし、反米大統領の国だ。どうせ治安の悪化を操作している勢力があるだろう。国際空港に治安が保証されないとは、一帯どういう国なのだ。

 

半分常識的な私の分身が、無鉄砲で意味のない行動を押しとどめるように、そういう警告を別の私に訴え続けた。

 

3月12日

 

今日は土曜。出発前の最後の週末だ。これから出発までのスケジュールをどう組み立てようかと考えた。出発前だから明日の日曜は教会に行きたい。でも日曜を半日つぶすと、美容院に行く時間がなくなって、もう山姥のようになった髪の毛のままで行かなければならなくなる。どうしても髪を整えていかなければならない。わずかに残ったウイークデイは銀行でドルを買わなければならないから、使えない。考えた末、仕方ないから土曜の夜、ミサに行った。

 

福音はラザロの復活の話だった。ここにも出てくる、苦しみの後にもたらされるあの存在の栄光の話。私の耳はなんだか、「意味のある苦しみ」の話しに敏感になっている。もうそれしか聞いていないような趣もある。これだ。これだ。苦しみにはすべて意味がある。

 

復活したラザロの物語を聞きながら、私は突然父を思った。父は満州でカトリックに改宗したとき、自分は死者の中から復活したと感じて自分の霊名をラザロとした。父ラザロは常に私の中で生きていた。私はこのラザロの福音に見送られて「復活」を期待して旅に出る。かつて私を「復活」させてくれた人の元へ。

 

3月13日

 

美容院にいった。私が帰国以来21年間、年に数度通っている小金原の美容師のところ。あの涼しい顔をした涼しい男の店だ。彼は私の人生で出会ったかなり重要な脇役である。いてもいなくてもいい。でも出会うと必ず何か心に得るものがあり、学ぶことがあリ、そして心のある部分が癒えるのを感じて帰ることができる。

 

人生の深刻さも知っており、無言の時の理解が身にしみる、ユーモアのセンスの豊かな聞き上手。年齢はわからない。二人の子供が高校生だからそれなりの年齢だろうとしか考えたことがない。私はいつでも年齢なんか無視して人と付き合う。21年間同じ顔をしている。さわやかな男だ。

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この絵、この美容師に進呈した。

 

「ヴェネズエラに行くよ、辺鄙なところらしくて、計画にてこずったわ!」といったら、にやにやしている。

 

「どうせそれも生まれたときから決まっていたことなんだろう、辺鄙な未開の地でもジャングルでもあなたは行くように決まっているよ。あはは。何かが起きても、何も起きなくても、物語になるから面白いや。」と彼は心得たように言う。平気な顔をしている。

 

「まあね。不安でもなんでも私は行くらしいし、そう決まっているらしい。」と私は応えた。

 

話はしやすい。何にも説明しなくてもキャッチボールができる。彼には別にどうという宗教もない。いや、本質的な宗教感覚は、持っている。私は彼に妙な講釈は一切しないし、それらしいことも言わないのに、私を動かしている何かが背後にあることをいつも彼が感じているらしいのが、彼の受け答えからわかるのが不思議なのだ。

 

彼はニヤニヤしながら言う。「まやかしの宗教家というのはたいてい、身を美々しく飾り、殿堂を立て、お金を集めるのが天才なのに、本物って言うのは1000円くらいのシャツを着て、コンビニでおにぎりなんか買って、しがない美容院で頭にクリップつけながら、もそもそ食べるんだねえ。」などといって笑っている。

 

私は1000円以下のTシャツを来て、バス2台も乗り継いで、あまり人気もない「カリスマ」ではない美容師のところにやってきて、そのとき、コンビニ弁当を持ち込んで食べていた。こういうの、「本物」だと彼が言う。そうかね。

 

四方山話を面白おかしく話しているうちに、話が最近私が経験してうんざりしているヤフーPMの見知らぬ男達の話になった。

 

私は美術に興味のある人が友だちになったら良いなと思って、ヤフーIDのプロフィールを公開した。自分の描いた内戦をテーマにした作品を載せてあるし、 IDは "nabukodonozoru"という誰にも意味わからないへんてこなものだ。

 

実はこのID、ヤフーが国際政治問題のカンファレンスという項目を設けていたときに、イスラエルのパレスチナ政策に抗議の意味で名乗ったものだ。今の歴史の表記では「ネブカドネザル」である。「ナブコドノゾル」は、うちにある父の使った明治時代初版の子供用にまとめられた旧約聖書の表記で、こちらのほうの表記になれていた。本来のスペリングを知らないからローマ字でこう書いた。古代イスラエルを滅ぼしたバビロン捕囚のときの古代のバビロン王だ。(Nabucodonosorが正しいらしい)

 

プロフィールには自分の年齢も正直に書いておいたし、自分の絵のテーマは「内戦体験の語り部として中米の苦しみを世に伝えることだ」とも書いてある。その硬派な記述に私は、女だからといって、妙な興味による世の男性からよもやセックスを目的として声をかけられることは無いと考えていた。

 

ところが物凄い。まるで挨拶も糸瓜もなく、とんでもないPMが飛び込んでくる。

 

いきなり「あなたを抱きたい」というのがいる。あほめが!

そうかと思うと、私の主なる意図である絵なんか見もしないで、「年上に興味がある男性48歳です。お付き合いお願いします。今日でも会ってください。」あほめが! 

「貴女とむさぼるような恋をしたい。」あほめが!

「僕ならあなたを幸福にできます。」誰が今、幸福じゃないといった?あほめが!

 

私は知りもしない、顔も見たことない男共にいちいち真面目に腹を立て、「受信拒否」のリストに加えているうちに、リストは20人を越えた。

 

「一体これは何なんだろう」、と私は涼しい顔の男にいった。「自分はあの記述の中で、隙を見せたつもりはなかったのに。」

 

ところが彼は激しく面白がってふんぞり返って笑いながら言った。

 

「男っていうものは誰でも受け入れそうな女より、決して崩れそうもない堅固そうに見える城を自分が始めて崩したんだというところに満足感を覚えるんだよ。誰でも受け入れる女はもう知っているから面白くない。それより、知らない、しかも中身のありそうな女というものが、どういうものかということに興味をかきたてられるものなんだ。

 

だからむしろそんな堅物みたいなことを書かないで、娼婦みたいなことを書いたほうが、誰も寄ってこないよ。男って言うものはどんなに表面をごまかしても、100%下半身で生きているものなんだ。しかも、新しいものに、見たことないものに興味を持っている。大学教授や代議士がセックスで身を滅ぼすのも、あれはまったくただの男だからであって、珍しいことでも特別馬鹿でもないんだよ。」

 

自分はこの話をあきれ返って聞きながら、昔自宅で飼っていたアヒルのつがいのことを思い出した。で、アヒルが1日中メスを追い掛け回して、時々強制的に離してやらなければメスが死んでしまう話をしたら、彼は物凄く慶んで、「男はみんなそのアヒルだよ、機会があればただの動物として行動するのさ。」といって、ぎゃはぎゃは笑っている。

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「そうなのか」と私は自分の人生の中の色々な場面を思い出してまじめに思った。

 

自分はストイックな学校で学び、ストイックな環境で育ち、ストイックな精神で固められて63年生きてきた。考えてみれば昔の教育の考え方で、男女を切り離して育てなければならなかった理由が、なんかよくわかる。育った家庭には4人も男がいたけれど、男はそれしか知らなかったといっても過言ではない。

 

そうか。私は男というものの生態を知らなかった。そう。「知らなかった」ということを始めて知ったのだ。知らなかったから私はあんなに苦しんだのだな、と私は思った。子供の時の体験から夫との関係に至るまで、私が潔癖に苦しんだのは、男性というものをまったく知らなかったからだ。

 

ところで関連して私は考えてしまった。ひょっとすると私は「女というもの」の本質も知らないかもしれない。

 

彼は笑いながらいうのだ。「どんな意味でもあなたは普通じゃないよ。もしかしたら男、女という2種類の人間以外に属する品種かもしれない。」一人しかいない「品種」ってあるのかよ。

 

「普通じゃない」という言葉に私は過去どんなに傷ついただろう。あの中米男と出会って、「何も変えないでそのままでいい」という言葉に感動したのも、世は自分を「そのままの状態」では受け入れなかったからだ。

 

自分は常識の枠にないから誰にも受け入れられないと考えて、苦しんだ。私は常識的になりたかった。常識的な行動を務めてしていても、私は常識を知りながら、常識的ではなかった。世は常識に関する知識は膨大で、実際の行動が常識的ではない私を嘲った。だから、中米男の「そのままでいい」という言葉は福音だったのだ。

 

しかし今日ばかりは、なんか、本当にそうらしい…と私はつくづく納得した。その言葉に傷ついたりせず、常識的な男、女の範疇に入らないらしい自分をすんなり受け入れようという気になった。

 

髪はきれいになり、5歳ぐらい若くなった。「知った」ということでいろいろのことが私の心の中で展開する…と私は思いながら帰ってきた。

 

非常識な旅の準備は着々と整い始めていた。 

 

「羽無し天使の物語」(12)

「ヴェネズエラへ出発」

 

3月15日

 

ヴェネズエラ旅行出発の直前、モーツアルトの、「大ミサ曲ハ短調」のCDを、アマゾン経由で手に入れた。かの音楽男が勧めてくれたポリドール社のものじゃないけれど、フェレンツフリッチャイ指揮、マリアシュターダーのものだった。

 

今日1日これを聞いてから出発しよう、と思った。出発前の1日を祈りのためにとっておいたのだ。それは旅立ちにふさわしい曲だった。

 

無知と手違いで、同じ表題のカラヤン指揮のも来たけれど、もったいないからこれも返却しないで、所有することにしたので、聞き比べる事が出来た。何故だか2枚がまるで違う。マリアシュターダーのせいだな。彼女の独唱が光っていた。やっぱり、専門家に推薦されたほうが、凄い!

 

アレルヤは、すばらしかった。教会でも何の気なしに歌っていたこのアレルヤがモーツアルトのものだと、初めて知った。それほどの無知加減。

 

考えてみたら、孤独もよいものだ。自由な時間に音楽を聞き、自由な時間に休めばいい。そして、40年の歳月を隔てて、一人の人物に「好きだから」、「会いたいから」会いにいけるという環境も、孤独ならではの宝ではないだろうか。民族の壁もなく、住んでいる地域の隔たりもなく、40年も愛が持続するということそれ自体が、至福そのものじゃないか。こう言うのを幸福といわずに他に何が幸福なんだろう。

 

この旅行は、私の過去の最大の「羽無し天使」であったマドレに「有難う」っていうだけのための旅行らしい。それをいうために私は海を渡る。それだけでいいわ!面倒な理屈や儀式なんかいらない。ことここまで着たら、そう純情な63歳女は考えた。 

 

3月17日

 

「ダラスに向けて出発」

 

飛行機に乗った。早く行ったのに、座席を選択する事もできなくて、両隣が誰かわからない真中の席になった。私は閉所恐怖症で、両隣にデブが座ったらアウトなのだ。しかし怖れているとその通りになるもので、全く不運なことにデブで陽気なテキサス男が、一つ置いた席にいて、たまたまやってきた黒人の女の子を待ちかねたように、ベラベラ話し始めた。陽気で声が高い上に、げらげら笑う。飛行機の中はすべて他人だと言うことを考えていないらしく、他人の迷惑お構いなしだ。これが15時間続くぞと思うと、神経が立って、いらいらし始めた。

 

右隣は中学生くらいの男の子で、どうも話し声からは、中国人の子らしい。礼儀正しい。通路を隔てて向こう側にいる家族と時々話している。スチュワーデスは私をその一家の一人かと思って、その一家に書類などを渡すとき、書類は一家に一枚でいいからとかいって、私を無視している。そのスチュワーデス、日本人の癖に、飲み物の注文をとるときも、私には英語で聞く。私はまったく英語民族の顔なんかしていないのに、その中国人らしい一家のメンバーだと完全に決めている。なんだか幸先が悪かった。

 

あたりに日本人の影が全く見えない。話し相手が無いので、とうとうたまりかねてイヤホンをつけたら、がんがん、音質の最低なクラシック音楽が鳴り出した。

 

こう言う音楽でも美しいと思って聞けるやつもいるんだな、と馬鹿にしながら、その最低の音質の音楽を聞いた。私は苦笑しながら、それでも、デブの話し声を避ける役には立つので、聞いていた。あの音質じゃ、デブの笑い声を避けるための意味しかないよ。現代の旅はなんてつまらないのだろう。グアテマラ旅行のときに思ったことを再び思った。

 

で、アメリカンエアラインは、コンティネンタルと比べてどうだろうと少し楽しみにしていた機内食、そのまずさに驚いた。まさにカルチャーショック。こんなものを食べてアメリカ人は私の5倍ぐらいでぶでぶ太っているんだ。肉も野菜もすべて使いながら、こんなまずい料理しかできないんだ。しかも侵略や戦争や政治的からくりで、世界の半分を飢えさせながら、自国の民は一家に4台も車を持って、無制限に太りながらダイエットにお金をかけ、それが文明だと思っている国。バカみたい。

 

:ξ(`▽´)ξ: クックックク

 

再び3月17日(眠って起きたけれど時差のため、まだ17日だ^^)

 

「ダラスからマイアミへ」

 

ダラスの空港のイミグレーションで、蜿蜒長蛇の列に耐えて、やっと自分の番がきて辿り着いたら、黒人の女性の係官の言葉を聞き損なってちょっと戸惑っただけで、「お前は書類がなってないから、もう一度並びなおせ」といわれた。冗談じゃない、そんなことしたら乗り継ぎの飛行機に間に合わない、無視してその場で書類を直し、後ろに並べという言葉を聞こえなかった振りをした。

 

でぶ黒女は、ヒステリックに怒ったが、それも聞こえない振りをして、強引に列の中にいた。しかたなく女は両手の指紋押捺とか顔写真とかをとり、「アメリカにきた目的はなんだ」とか、「アメリカ通過してヴェネズエラに行く目的はなんだ」とか、「何で、おめーは日本人なのに、こんな名前なんだ」とか、「何故一人旅か」とかいう、どうでもいい個人情報に至るまでしつこく聞く。

 

ふん!名前が日本的じゃなくて一人旅ならみんなゲリラかい。なぜ一人旅だからってそんなことまで聞く権利あるのかい!

 

うるさいから、「ヴェネズエラの修道院にシスターに会いに行くのだ」といったら信用を勝ち取れるかと思って言ってみたら、「そうか、お前もシスターの一種か」と胡散臭そうに眺める。いやな奴!

 

散々いやな思いをして、時間が無くなった。こんなに時間がなくなったら乗り継ぎができないぞ!ものすごくあせって、大急ぎで手荷物を引き取るところにきた。乗り継ぎなのに自動的に次の飛行機に運んでくれないので、手荷物を自分で引き取って、乗り継ぎの国内線のところまで持っていかなければならない。

 

慌ててどたばた動き回っているうちに、パスポート以下すべての書類を紛失したのに気がついた。いつも書類を手から離すまいと思っていたのが、あわててどたばたしているうち手から滑り落ちて一寸の隙に消えたのだ。青くなった。係官にいろいろ煩わせて、結局自分の荷物の下にあったのを見つけたけれど、時間はいよいよ無くなり、マイアミに向かう飛行機の出発の10分前に飛行場の端にある国内線に飛び込むため、重い手荷物を引きずって、まっしぐらに走った。走りながら出会う人に、マイアミ行きはどこだ、どこだと聞きながら、教えてくれた人に、走りながら、ありがとうと、叫びのこして遠ざかる。ひょっとして私って、英語がすごくできるのかも…。

 

まあ、24歳のときのソ連旅行でも、真っ青になったとたんに日ごろできもしないフランス語が口をついてでてきたことがあったな^^。

 

さて、マイアミ行きの飛行機 は、ヒスパニックでぎっしり。色々な言語が入り混じる。国内線は何語使っても通じるらしい。座席はまた真ん中だったから、またデブに挟まれたらいやだなと思ったけれど、その座席のそばで待っていた人が、友人と一緒に座りたいから席を交換してくれというので、席を交換。ましな席になった。私はデブの存在を否定しているのではない。ただでさえ狭い飛行機の中で、はさまれると呼吸困難を起こすんだ。(いや、やっぱり、否定しているかも^^)

 

でも今度はその席には枕も毛布も無いのに気が付いた。スチュワーデスに言ってももってきてくれない。機内食は国内線でもまずかった。殆ど食べられずに、眠りこける。

 

マイアミに下りた。今日はマイアミに一泊する予定。アメリカと言う国はラテンアメリカとの国境線に近づくほど、ものすごい場末的な状態になる。マイアミの空港は、これが文明の頂点にいると自負しているアメリカと言う国の国際空港かと思われるほどに、乱雑で設備が壊れたり、雨漏りしたりしている上に、浮浪者みたいな人々がごろ寝している。その間を縫って、私は荷物を引きずって出口を探す。ホテル行きのシャトルバスがあるはずだ。出口を出てから、バスを探したが、見当たらない。

 

又適当にぶつかった人に聞いて、やっと階が違うということを確かめ、バスが見付かる階に上って、やっとそのバスを捕まえた。コンフォート・インに行くのかと聞くから、そうだよ、と答える。荷を乗せ、ホテルに向かう。雨が降っている。景色がどうしようもなく惨めだ。ここはアメリカの人種差別の標本的な町だな。通行人も、町の様子も、すでにラテンアメリカだ。

 

お腹がすいた。1日殆ど食べていない。旅行前の1週間、冷蔵庫の中身をなくすため、何も新しく買わないで、あるものだけを食べ続けた。だから適当な変なものしか食べていないから、まずい機内食も食べられるだろうと思っていた。ところがどうして、まずくてまずくて食べられなかった。慣れていたコンチネンタル以上のまずさで我慢できず、食べなかった。

 

ホテルについてから、レストランもどうせまずいだろうと思い、とうとう、手荷物の中にお土産に持ってきた、日本の柿の種とスルメを食べ始めた。コーヒーだけはセットすればいいようにできている。明日の朝はいよいよヴェネズエラ入りするので、朝は早い。朝食もホテル代の中に入っているが、朝は5時に出るので 6時からの朝食も食べられない。柿の種とスルメとコーヒーという変な食事でも、お腹に入れなきゃもたない。

 

ホテルのお風呂だけはすばらしかった。家にいたときもお風呂だけは毎日入っていた。どんなに疲れていても眠くても、お風呂でリラックスすれば、乾いた生活でも耐えられる人間だ。ゆったりと、四肢を湯船に広げて頭を風呂の縁に乗せながら、ああ、今日も何とか生ききったな、と思う。このきつい一人旅が始まって、初めからかなりもたもたした。英語もだいぶ忘れた。税関との対応もなれていたはずなのに、くだらない質問ばかりする係官にいらいらして頭にきた。

 

でも、そうした全てを何とかこなしていけるのは、「あの言葉」を信じきっていたからだ。何故私は「あの言葉」にこれほどこだわるのだろう。湯船に浸かってつくづく思う。とうとう始まったんだな。とうとう私は、あの若いときと同じように夢物語を実行し始めちまったんだ。

 

変な人生!いやいや、おめーだ、変なのは。

 

「羽無し天使の物語」(13)

「あーだこーだといいながら」 

 

3月18日朝 

「カラカスの空港にて」

 

いつも思うが、国境越えは大変だ。アメリカを出る手続きに手間取り、ヴェネズエラ入国の手続きに又手間取った。いらいらする心をおさえ、困難がおきるたび、「この旅には意味がある。だから、この旅は成功するに決まっている。」とひたすら念じて、困難を切り抜けた。そのくせ「成功」とは何をさすのか、自分でわかっているわけではなかった。

 

ヴェネズエラに入ったとたんに、其処は懐かしい無秩序の国、ラテンアメリカだった。

 

「ここでは、合理性、時間の整合性、ルールや秩序を考えてはいけないんだ。」と唱えながら歩いた。とにかくラテンアメリカと言うところはルールが守られることを期待できるところじゃない。ルールが守られることを期待できない国に行き来する人間を、アメリカと言う国は、はなっからバカにしている。私はどっちにも落ち着き場所を得られなくて、いらだつ人間だ。

 

カラカスに着いた。石油で儲けた国という先入観の強い私は、この国の国際空港の無秩序に驚く。私の頭にはもう30年も前、シルクロードを旅したときの、アフガニスタンとイラン、イラクの国境を越えたときの思い出が翳める。「イランはさすが石油産出国!」と叫ぶほど、アフガニスタンとの国力の違いを思わせた。無秩序の世界のアフガニスタンから、石油で儲けた国の、整備された国境線から眺める景色があまりにも違っていた。

 

私はヴェネズエラと言う国に、アメリカから来た。先進国中の先進国、アメリカから来た。しかし、雨漏りのために手荷物が水浸しになり、浮浪者がごろごろするマイアミ空港からこの国に来て見ても、マイアミに輪をかけて貧しい国というイメージが先行して、なんとなく悲哀と感じた。これから行こうとしているマドレの住む修道院はどんな荒れたところだろうと、かつて、中央の覚えの悪かった彼女の生涯を思って、不安になった。ここは、石油産出国と言う噂に反して、私の知っている貧しい他のラテンアメリカの国々とどこも変わらなかった。

 

飛行機の発着の場所が分かれていない、鉄道の駅みたいに乗降客が右往左往する、案内の表記もない無秩序な乱雑なごたごたした光景。自国民旅行者と外国人旅行者を分けないため、2つしかない窓口に、イミグレーションのための長蛇の列。

 

これじゃ、メリダに乗り継ぎに間に合わないぞ、又乗り継ぎのことを不安に思って、係官を捕まえてはしつこく、きいた。 

「この後メリダに行くのだけれど、乗り継ぎに間に合うように、手続きできるのでしょうか。」

 

私は日本に戻って、すっかり感覚が日本人になっていた。3分の遅れを取り戻すために電車を暴走させて数百人の乗客の死傷者をだしても、「時間が神様」という信念に固執する国、日本の国民になりきっていた。

 

しかしここはもうラテンアメリカの世界だ。「へえ、あんたスペイン語がうまいネエ。」「乗り継ぎ?できるかどうか私だって知らないよ。すべて神様の胸のうちさ。」という答えが係官から返ってくる。係官だろうが役人だろうが、知らないものは知らない、すべて世の中神様任せで済まされるんだ。のんき、とかいい加減とか、思い通りにならないからといって、騒げばなんとかなる世界じゃない。

 

彼等は決して、いらつく私をからかって、そういっているわけではない。メリダに行きたければいつか行けるのだ。時間は死ぬまであるのだから。

 

そりゃそうだよね^^。

 

ここはみんなスペイン語だ。つまらないから前後の人に話しかけたら、おや、なんだスペイン語できるのかと、親しげに話しを始めるラテンアメリカ人の懐かしい雰囲気 を、みなたたえている。そうこうするうちに、イミグレーションの列はだんだんちぢまってきて、やっと手続きを済ませ開放された。荷物を何とか引きずって、さて、これから国内線を探して乗り換えなきゃ、と思って外に出ようとしたら、荷物もちや、タクシーの運ちゃんが群がってきた。

 

これが有名な雲助か…。日本を出る前、夫の友達の、日本に住むヴェネズエラ人から、電話で散々注意を受けた。タクシーはきちんと空港の指定のタクシーに乗らないと、強盗にあって、身包みはがされるぞ、空港のタクシーが一番怖いぞ、金持ち目当てだから、日本人の旅行者と見たら、狙われて着いてきて、どこかに引きずり込まれておしまいだぞ…。

 

そこで、そばにいた制服の男に尋 ねた。「国内線はどこですか?メリダに乗り継ぎなんです。」「あっちだ、あっちだ、まっすぐだ。」男はあいまいに手を上げてはるかかなたの何も見えない方向を指差す。どうせその程度の返事しか期待しなかったけど、とりあえず納得して「あっち」に向かって歩き出そうとした。

 

そこに雲着くほどの大男が立っていて、どうも、私に呼びかけているらしい。なんだか、表情が、私の方向に向いている。

 

「エルマナ・モンテマジョール 」とか、「セニョーラ デ エスコバル...」と聞こえた。おや!?私の名前を呼んでいる声のようだ。ちょっと耳を疑ったが、周りを見た。男と目が合い、しっかり私の目を捉えた。

 

「え!?」

 

その大男はマドレの遣いだった。短身のもう一人の男と一緒だ。二人の身長は20センチほどの違いがある。まるでドンキホーテと、サンチョパンサだ。この二人にカラカスの空港で私を出迎えて、国内線に案内せよと、マドレが指示してくれたのだ。

 

わあ!助かった。それがわかって、ここからは、私は40年前のマドレの気遣いを感じ始めた。もうここはマドレの心の世界なのだ。私の心は、今までの緊張がほぐれて、いきなりがくっと弱くなった。この二人に頼ってしまおう。

 

長身の男が言った。「エルマナはメリダの空港で待っているよ。」そうか。その言葉を聞いて安堵した。

 

(註:マドレという呼び方は40年前の出会いのころの呼び方だが、その後修道会は、革新の嵐の中で改められて、現在はエルマナ=英語のシスターに当たるーと呼ぶ。修道会内の階級制の排除のためである。)

 

「日本人が少ないのですか?私のことすぐにわかりましたね」といったら、彼はこういって笑った。「エルマナが言っていたよ。63歳の若いご婦人を出迎えてくださいって。だから見てすぐにわかったよ。」

 

旅で疲れているから化けたって年齢どおりの顔に見えるだろうと思っていたが、外国人の間では、日本人は全体的に年齢よりも若く見られる。ここでもやっぱり私は化けものに見えたのだ。

 

かなり歩いて、国内線の空港に着いた。これじゃ「あっち」だけの方向指示じゃわからない。二人来てくれてよかった。

 

暑い。私がこの旅が始まったときからいらいらし続けたように、また遅れるのじゃないかと心配していると、彼らはラテンアメリカ人らしく、「大丈夫だ大丈夫だ、時間はいくらでもあるんだ。おちつけよ」と言って、私をなだめる。

 

そうだった。ここはラテンアメリカだった。時間に正確な日本じゃない。時計なんか無くても、どうでもいい世界だ。時間は死ぬまであるんだという考えで生きていても良い世界だった。世界中の人々にとって、「時間は死ぬまであるんだ」と言うのは、絶対的真理だよ^^。

 

何だか安堵して、同時に自分の神経につかれきって国内線のカウンターにたどり着いた。しかし荷物は国際線と重量制限が違って、11キロばかり減らさなければならなかった。仕方ないから飛行機に持ち込む荷の中に重い本を移し代える。

 

手続きが済んで、時間が少しあったので、長身の男が「何か食べるか」という。日本人は初対面だと、こう言う場合遠慮して何も注文しないけれど、私はもう、マドレの世界にいた。それで、「のどが渇いた。食べるより何か飲みたい」といったら、「コーラでも飲むか」というから、「もしできたら、フレッシュな果物ジュースがいい」といってみた。ラテンアメリカの果物ジュースはものすごくおいしいのだ。

 

それでうまく、グアヤバのジュースにありつけた。家を出てからはじめて口に入れる「おいしいもの」。感激。これがラテンアメリカの味なんだ。ついでにもう 1杯お代わり。ずうずうしくなんかない。そういう注文をされるほうが、彼等は「信頼関係」があると見て喜ぶのだ。

 

日本人の好きな「遠慮」の意味するものは彼等にとって、「信頼関係がない状態」なのだ。私はいつも日本での人間関係では、この「遠慮」と「嘘」と「素直」と「正直」の間で、その兼ね合いがわからなくて、びくびくおびえていた。まったくおびえなくて良い関係は私の人生の中で、このマドレとしか形成できなかった。日本人は今でも怖い。自分のほうの礼儀なんかなくても、他人には、常識を真理と心得て、マナーを要求するわが民族。

 

帰路は短身の男がこの空港で待っていてくれるという。もう、すべてお膳立てができていた。ここでドルに代えるのは、もったいないからと、20000ボリバル(15ドルくらいだそうだ)ばかりくれるので、ありがたくもらった。マドレの手先らしく、よく気がつき、親切だ。先ほど荷物から出して入れ替えたものを入れるために袋を買った。ろくなものが無くて、101匹わんちゃんのついたどうしようもないビニール袋だったけれど。

 

それで二人と別れてサンタバルバラ航空という飛行機を待ったが、今度は、その飛行機が来ない。再び待合室でいらいらし、周りの人に聞きまくった。みんな何も慌てずにぽややーーんとしている。飛行機が遅れるのなんか常識なのだ。

 

こちらは分からない土地で、分からないことが起きると、不安でたまらない。何故ことが決められたように動かないのかと不思議でたまらない。だいたい、物事が思い通りになるほうがおかしいのに、私はまだそれを悟らなかった。

 

そのうち1時間も遅れて、その飛行機が到着した。ほっとして、のこのこ滑走路を歩いておんぼろ飛行機の階段を登る。座席はどこでもいいらしい。乗るとき、機内持ち込み用の荷物が大きすぎるといって、取り上げられた。でもそれは、飛行機の横っ腹に詰め込んでいるのを確かめて、ラテンアメリカ的にひたすら態度を改めつつ、我慢して我慢して、機内に落ち着く。