「自伝及び中米内戦体験記」10月16日

 

「羽無し天使の物語」(18)

「観光も一応しなきゃいけないらしい」

 

その日、19日、マドレは、人の住んでいるところとしてはラテンアメリカ中で一番の高地だという所に私を連れて行きたいと言い出した。乗用車を借りたのはそのためだったらしい。私は長旅で疲れていた。私のヴェネズエラ旅行の目的が、観光ではなかったし、別に珍しいところに興味は無かった。何でもいいからマドレに会って、マドレがこの同じ地上で生きていることを確認したらそれでよかった。

 

町を彼女と歩いて、私は彼女が只者ではないことをかなり再確認できたので、満足していた。でも彼女はなんだかヴェネズエラのいいところをもっと私に見せたいらしかった。ちょっと私は微笑んだ。マドレも自分の住んでいる世界を自慢したいんだな…。ふふ…。

 

その高地に行く途中、マドレは私をあるレストランに連れて行った。ラテンアメリカだから、もちろんハエだらけだけれど、鄙びた気持ちいいレストランだ。

 

ま、蝿が一匹も生きられないほうが異常なんですよ^^。言わせてもらえば、現代日本の子どもの90%がかかっているアトピー性皮膚炎なんて、蝿が都会に生きていられた時代には、存在しなかった。このことも私は気分で勝手なことをいっているだけだから、因果関係は知りませんけどね。

 

来たこともない土地で、何が出てくるのか分からないから、注文はマドレに任せた。なんだかマドレは常連みたいな顔つきで、このレストランの人に接している。「魚は在るの?じゃ、それ、フライにして。」「ポテトチップもつけてね。」「サラダは在るの?トマト、きゅうり、アボカド…。」「じゃ、それもってきて。トゥルチャ(辞書を引くと鯉だけれど、実際を見るとむしろ虹鱒に近い)とか言う魚のフライにサラダとポテトチップがついている。

 

エルサルバドルでトルテイージャと呼んでいるとうもろこし粉のパンは、ここでは、忘れたけれど別の名前で呼ばれていて、大麦が入っていて、少し肉厚で美味しい。

 

のどが渇いた。飲みものが欲しい。カラカス空港で飲んだグアヤバのジュースが美味しかったなと思って、その話をしたら、マドレが注文してくれた。うまかった。「ああ、旅に出てから始めてまともな食事をした!」といつものように非常識な誉め方をした。

 

誉めるというより実感しか言わない人間なんだけれどね、私は。何しろ今まで、食事が貧弱すぎた。アメリカンエアラインのあの世界最高の貧しさの代表みたいな機内食と比べたら、何だってグルメだよ。

 

高地の名前はパラモというらしい。らしいというのは未確認のまま 案内されて、高地の希薄な空気のために、気分がおかしくなって、めまいで倒れそうになり、逃げ帰ってきたからだ。標高は3900メートル前後というから3776メートルの富士山より高いのに、あまり寒くない。しかし、車を降りたとたんに、空気の異常さをを感じるほどだった。あれ?なんだろう、と思った。くらくらとする。心臓を吐き出しそうな感覚。

 

岩につかまって、立ち止まり、呼吸をととのえる。鼻から深呼吸をして、口からふーーーと出す。何回かそれをやったら、頭のほうに血が戻り、歩けるようになった。上の方に教会のような建物がある。みんなその建物まで登っていく。そこまでなら上れるかな、と思ってふらふらと歩き始めた。途中で再び、もう、これはだめだと感じた。旅行の疲れもあるし、これほどの高地に心臓も脳みそも慣れていない。

 

マドレに会って安心して、やっと少し休めるかなと思っていたら、マドレは観光をさせたがっている。ちょっと恨めしかった。肝心のマドレは車から降りてこない。もうよく知っているところだから自分は車に乗ったままで、私に観光を楽しませてくれようという考えだ。だから私の体の異常に気が付かない。建物の途中のがけの上に、へなへなと腰掛け、頭の中の脳みそがぐるぐる動くのを感じた。

 

おや、耳も聞こえない。そうだ、子供のときから、異常は耳にあったのだ。身体的に平衡感覚が無いから平均台にも上れなかった。方向音痴で行く先が定められない。あはは。そういえば人生行路もそうだったな…。

 

案内してくれた運転手が誠実そうなので、多分約束は守るだろう、マドレに心配かけたくないから私が気分悪くなっちゃったこと言うなよと釘をさして、帰路は眠いふりをして、車の中で伸びて寝ていた。

 

あとで私は高地で伸びちゃった話をマドレにしたら、なぜもっと早く言わなかったか」という。「伸びちゃってからマドレに言ったって仕様がないでしょ」といったら、「自分としてはあなたが自分の家族のところに来たみたいに、気楽な気分でいて欲しかったのだ」と恨めしそうにマドレはいった。

 

スペイン人のこういうの、未だに分からない。その「家族」とうまく行っていたら、もともと私はマドレをこんなに慕ったりしなかった。40年間も「家族」以外の人物を思い続けて、死ぬ前にあってみたいなどと思わなかった。

 

マドレを知らないとしても、どこにいったって、「家族のところに来たみたい」になんかなりたくないよ。「みたい」と言うのは曲者で、みんな自分の経験を中心に考えているんだ。ある友人が言っていたな。「父のように深い愛」とかいうけれど、飲んだくれの父親を持っている人には、その表現はマイナスの表現になる・・・。だろうね。

 

それに、人が住む所としては世界一高い高地で蝿を払いながら虹鱒のフライを食べるなんていうの、「普通の家族」ならやっているの?

 

「羽無し天使の物語」(19)

「モナステリオのミサ」

 

3月20日

 

「枝の主日のミサ」

 

枝の主日とは、キリストの受難の聖週間に入る1日前の日曜のことだ。イスラエルにロバに乗って入場したキリストをイスラエル人が棕櫚の葉をふって「ホザンナ、ホザンナ」と歓呼の声で出迎えたと言う聖書の記述から、定められた日だ。

 

その棕櫚の枝を振って、キリストを歓迎する式典が現代のミサにまで引き継がれている。ヴェネズエラに来てはじめての祝日だから、何か珍しいことがあるかなと期待した。

 

マドレが、明日のミサは何とか言うモナステリオに行くというので、楽しみだった。私はもう忘れていたのだが、私の作品、「大司教暗殺」の写真を私が額付で彼女に送ったそうだ。その写真がそのモナステリオに寄贈されているという。だから、マドレはあの絵を知っている人たちにその作者も知って欲しいという。

 

私が描いたあの絵はヴェネズエラの山の中の、観想修道院の壁に飾られているらしいと聞いて、なんだかうれしかった。私としてはまったく未知のヴェネズエラの奥深い山の中に、私の絵が生きている…。それほど、あの大司教の暗殺はラテンアメリカ中に衝撃を与えたのだ。

 

モナステリオというのは、世間と接することなく、ひたすらに祈りと修行に集中して生活をしている出家者の観想修道院のことだと私は解釈している。教育施設とか、出版業などによる世間との窓を持たない。だからたいていは人里はなれた山の中にあって自給自足の生活をしている。土を耕し、作物を取り、家畜を飼って、黙々と労働にいそしみながら、生きている。

 

そういう世界に小さな写真とは言え、私の絵がある。そう思ったら不思議だった。私がこういう形で、ヴェネズエラとある関わりを持っていたということは予想もしていなかったから。絵を描いたのは私だけれど、その絵に意味を持たせ、私の知らない国の山の中にまで知らせたのは、私ではない。そう。もうあの絵は私から独立して、一人歩きしている。そうではなくてもそう思えばうれしい。

 

マドレはそのモナステリオに行く途中、車を止めて運転手に「あそこに売っているアレを買ってきて」、と頼んだ。「2本よ」、と声をかける。運転手はのこのこ出かけていってある教会の前の路上に店を出している女性に何か声をかけていた。運転手が持ってきたものを見たら、それは奇麗にアレンジした麦の穂の束だった。

 

枝の主日の行列に使うものだから、その麦の意味するものはすぐにわかった。「一粒の麦」として死んだキリストが多くの実を結んだその象徴だ。

 

枝の主日の枝はカトリックの国でもいろいろ趣向が違う。エルサルバドルのも面白かった。ただの枝ではなくて、棕櫚の葉っぱを奇麗にアレンジして花飾りのようにしてあった。ここのはそれに麦の穂を束ねる。いいなあ、と私は感心して白っぽいその麦の穂の束を眺めた。

 

マドレは両方とも私にくれるという。「一つはマドレのでしょ、一つはいただきますけど。」といった私に、彼女は「もう一つはあの音楽の精に上げなさい」、という。「え?!」改めて麦を見た。

 

彼にこの麦?通じるかなぁ、マドレのこう言う気持ち…?う~~ん、通じるんだろうな、なにしろ出会ったこともないのに通じ合っている二人の感性だ。 

 

でも私はその「音楽の精」との出会いと別れの一件をみんな彼女に言ったわけではない。彼女に再会をするきっかけとなった会話、彼が私のエッセイの翻訳を勧めた件しか知らせていない。あの会話から、彼をマドレはカトリック信者だと思っているのだろう。

 

「あのう…彼、信者じゃないですよ」、とおずおずいったら、彼女私を斜めに眺めて、「信者じゃなければ余計その人の発言は意味が深いでしょ」、というのだ。

 

暫く沈黙して、「そうか・・・」と、マドレが何を言いたいか納得してしまった私は、とにかく持っていって、これを見た彼の感性に結果を任せようと思った。

 

華奢で運びづらいものだった。長細くて折れそうだし、植物の種に神経質な税関を通過できるかな…。いや、できるんだな…。なにしろこの旅は私が計画したことじゃない。そういう設定の旅なんだった・・・。

 

朝、修道院の、いや、マドレの「家」のメンバーも、町にある修練院のメンバーも、同じ車に折り重なるようにして乗り込んだ。これがラテンアメリカだ。車に人数制限があるという感覚なんか無い。人数制限どころか多分、車に定期的な車検なんかしたこと無いだろう。エンジンが動きさえすれば運転していいんだ。ガラスが割れていても、バックミラーが取れていても、バンパーが閉まらなくても、まったくの鉄くずになるまでを、ラテンアメリカでは車の寿命だと考えている。

 

私は閉所恐怖症なんだ。こういう詰め込み車に弱い。シスターたちは私に楽をさせようと思って、後ろの荷台の中に詰まっている。すごく陽気なおしゃべりなシスターたちで、荷台の中に折り重なりながら、みんなでキャッキャと談笑している。

 

人間を詰め込んだポンコツ車はなんだかものすごい峻険な山の中に入っていった。

 

右を見ても左を見ても、ちょっと間違えば谷底に落ちそうな道路だ。頭がくらくらする。こんな山に入ると、さすがにあの立派な舗装道路が無くなって、車はうねりながら、がたごと走る。かなり冷や汗をかく。

 

時々、田舎らしい素朴で素敵な教会を見るのだけれど、目的地ではないらしい。山の中のちょっとした窪地の村の一角にこじんまりと立っている田舎の教会の姿はなかなか良い。なけなしの一張羅を着込んで、朴訥ないなかっぺが集まる田舎の教会の雰囲気もすごく好きだから、ちょっと車を留めて見物したいのだが、自分だけが乗っているわけではないので、そうはいかない。

 

私は、大して専門家でもないくせに、おそろいのぴらぴらした衣装つけて、気取った声で聖歌などうたって、一般信徒の間違いをせせら笑ったりする都会の教会の上品な聖歌隊の歌より、純粋にバカみたいに朗らかに歌ういなかっぺたちの歌が好きだ。聖歌は基本的に祈りだからね。祈りはそろっていなきゃいけないとはイエズス様は言わなかったよ。

 

車は獣道みたいなところを、運転手の絶妙な技術でもって、走っていった先に、やっと人の手になるらしい門状のものが見えた。こんなところにつれてこられるとは思わなかった。振り返ると山々は、人を受け入れそうもないほど峻険なたたずまいを見せて、この小さな車を取り囲んでいる。よくきたなあ、こんなところ…。そういう感動もあったけれど、それ以前によくもまあ、こんなところまで修道士達は好んでもぐり込んできて自分達の巣を作ったものだ、という驚きのほうが先行した。

 

車を降りてあたりを眺めた。山の中とはいえ、日差しは暑い。観想修道院の趣とはすこし違う、かなり開けた感じのする建物が見えた。アシジのフランシスコみたいな修道服を着た修道士が出てきて挨拶する。

 

修道院の名前は「Monasterio Nuestra Sen~ora de Andez」という。これ翻訳すると『アンデスの聖母の修道院』。

 

ふふ^^、アンデスなんかにまで聖母が出現しちゃったんだ。なんだかふと頬が緩んだ。スペイン旅行のときも思ったけれど、スペイン人が「聖母」にかける情熱は、他の民族には理解しがたいものがある。そう思ったら、どこにでも「聖母」を出現させちゃうんだから。

 

どこからともなく、「付近の住民」らしい人々も現れ、枝の主日のミサに預かるらしい様子だ。「付近の住民」に括弧をつけたのは、「付近」といっても山を3つくらい越えた先のことをいうのだから、日本で人口のひしめく都心の「付近」を想像してもらっても困るからだ。何しろ、この修道士達は山を3つ以上越えてわざわざここに居を定めたのだから、「付近」が山3つ越えた先というのは「常識」だよね。

 

ただし、「付近」の住民がここを訪れる際の宿泊設備もある。物好きがわざわざ、野越え山越え、ここで祈ったりしにくるのかもしれない。ま、太平洋を越えてくる物好きも一人いるし。

 

「羽無し天使の物語」(20)

「モナステリオのミサ」(2)

 

聖堂を覗いた。とても開放的な広い聖堂で、ドアを四方八方全てあければ、柱しか残らないとまでは行かないが、聖堂の中を風が通るようになっている。「観光客」としてきたのではないから、これから行われるミサに対する敬意から言っても、写真をとってはいけないだろうと思って、頭の中に全てをインプットさせた。

 

その広い聖堂の中のベンチの一つにマドレは重い腰を降ろした。隣に私も席を決める。40年前日本で出会ったマドレといっしょにヴェネズエラのメリダの山脈の中の修道院で枝の主日のミサに預かるなんて、素敵だな。

 

私の心はいつものように、一人の勝手な思いを膨らます。面白いのだ、こう言う人生。どう考えたって、「普通の」人生じゃないよ、こんなの。なんで、おまえ、「普通」なんか求めていたの?

 

聖堂の端のベンチで腕を組んで、私はこっそりにんまりする。

 

マドレは疲れたので座っているというので、枝の行列をするために私は一人で外に出た。10数人かな、「付近の住民」が丸く円を作って集まっている。その一人一人に棕櫚の枝が渡される。初めから人数のことなんか考えていないらしく、最後のほうは、なくなった。

 

お終いかと思っていると、初めにもらった人々が棕櫚から一部ちぎってもらえなかった人に渡している光景が見られる。本当にちぎった枝は葉っぱの一部で、外見が好きな日本人からすると、何だこりゃ!と思える代物だ。形式と厳粛な儀式の好きな日本人ならこう言うことしないな。

 

私は麦の穂を持っている。それでも彼等は「分かち合いの精神」でもって、ちぎった枝のはしくれをくれる。そのむしった葉っぱの変形を見て、気に入った。分かち合いとはこう言うものなんだ。ははは。

 

5つのパンと3匹の魚を4000人の群集で分かち合った山上の垂訓のイエスの「奇蹟」みたいに、外見にこだわらず、とにかくちぎって分け合うんだ。あの奇蹟を「奇蹟」ととらずに、「分かち合いの精神」と解釈したのは、仏教徒の ひろさちや だけど、改めて彼の慧眼に敬意を表する。

 

やがてメインの修道士、司祭たちが現れた。手を出さなければ袖がだらりと裾までたれる白い修道服に真っ赤なストラ(ミサのときに司祭が首から掛ける長い幅広の布)をつけている。多分そのストラは原住民が作った織物だろう。グアテマラのものならみたことがある。鮮やかで美しい。主役の司祭の祭服は真っ赤だった。その色が緑の山の中に良く映える。

 

いいなあ、この光景!一幅の絵として私は全体を見る。緑の山間にと白と赤の修道士。棕櫚の葉っぱを手にしたそれぞれの出席者に、司祭が聖水をかける。その聖水を私は麦の穂で受けた。聖歌をうたい、行列しながら聖堂に入る。

 

(聖水:司祭が祝別した清めの水:ちょっと余計なことを思い出した。カトリックのしきたりを知らないある日本人の学生が、「聖水」ってキリストが顔洗った水か?とバカにしたように聞いたことがあったな・・・^^。「何でもいいから儀式に使うH₂Oだよ」って答えておいた。) 

 

ミサ聖祭が始まった。それぞれの役割を担った司祭が独特のリズムをつけて福音を読み上げる。まるで、ここにくる前、東京の音楽会に聴きに行ったコルボ指揮のマタイ受難曲の内容を実地で聞いているみたいだ。お金とって音楽会で歌っているわけではないから、芸術としての価値は、しらない。

 

むしろそういう形での判断は保留すべきかもしれない。こう言う不思議なミサ聖祭に出席できることに価値の全てがある。

 

キリストの十字架上の死のくだりで、司祭は全員床に身を倒して、黙祷する。一緒に身を倒している信者もある。私は膝をついて黙祷する。静寂が襲う。不思議な厳粛な静寂。

 

ミサが終わって、マドレをはじめ、一緒にきたメンバーは車に乗り込んで、帰る準備を始めた。そうしたら、マドレが、ここで売っているコーヒーを買おうと言い出した。コーヒーは個別に小さな袋に入っているが、マドレに言われた運転手が、キロ単位で買って、麻袋に、たくさんのコーヒーを担いで持ってきた。

 

へえ、何でそんなに買うのですか、と聞いたら、ここの修道士達はコーヒーを栽培して、町で売って収入を得て、それで暮らしているから、こう言う形で協力しているのよ、との答だった。

 

そんならと、私も買おうと思ったら、マドレがまた2つくれた。1つは音楽の精にね、という。いちいち「音楽の精」の分をくれるのだ。一寸苦笑しながら、素直にもらう。その音楽の精、だんなでも恋人でもないんだけどな・・・。マドレ、どう思っちゃっているんだろうな・・・

 

帰路、一緒にきた人たちもさそって、マドレは又私を山の中の不思議なレストランに連れてきた。今度のレストランは、昨日のより大きい。インテリアがいかにもラテンアメリカだ。亀やイグアナや蛇、いずれも爬虫類ばかり、自然の木を利用して、ところどころ木彫を施したものが壁を飾っている。

 

回廊に鉢がたくさん吊ってあって、色とりどりの花が咲いている。蝶が飛び交い、のどかだ。あそこにはハチドリが似合うなあ、とつぶやいたら、マドレが、ハチドリなら家にも来るよ、という。私の頭の中には絵の構図ができ始めていた。

 

シスター達はすごく楽しそうだ。嬉々として色々好きなものを注文する。遠慮する気色はまったく見られない。それは修練女といわれる見習い修道女も同じだ。へえ、上下関係にストレスがないんだ。と私は感心してみていた。

 

私は子羊の焼き肉を頼んだ。どんなものか分からなかったけれど、一人ならこう言うものを食べられる機会はそうざらにこない。面白いものを食べておこうと思った。私は何も言わないのに、マドレはさっさとグアヤバのジュースを頼んでくれた。

 

やれやれ、ヴェネズエラではグアヤバジュースがしこたま飲めるぞ。

 

出てきた肉は子羊じゃなくて親羊のようで、物凄い量だった。骨付きだから、骨を取ったら案外全部食べられるかな、と考えて食べ始める。お野菜が少ないな。お野菜が好きな私は数日前から困っていた。サラダが真中においてあるのを見て、日本人らしくギクシャク遠慮しいしいもらった。

 

修練院のシスター達を途中で降ろして、又運転手とマドレと私の3人のドライブで、「マドレの家」に帰る。あちこちで色々な用事をたしながら、修道院に落ち着いたとき、私はマドレに「マドレのお仕事についていろいろ聞きたいのですが」と言って、時間を割いてもらう約束を取り付けた。どうしても、このマドレの仕事の内容が聞きたい。マドレの仕事に物凄く興味を感じ始めていた。

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モナステリオ

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これ我が家の祭壇の一角:麦の穂は、ここに15年以上保存してある。この一角は私だけの個人祭壇
 

「羽無し天使の物語」(21)

「マドレの人間性って^^」

 

あきれた。マドレの仕事の内容に興味があるから、すこし質問させてくださいといったら、じゃあ、パソコンの部屋に行きましょうというので、ついていった。てっきり、パソコンに保存したデータを見ながら説明してくださるものと思っていた。そうしたら、彼女、パソコンの前にどっかり座ってゲームを始めたのである。

 

私は60歳の時、主人から海外出張間際に20分間インターネットの使い方を教えてもらって、試行錯誤を重ねながら、何とか、必要なものだけは扱えるようになった。遊びではチャットができるくらいである。ゲームという代物はどうしてもできなかった。それを彼女、私のまじめな質問に答えながら、パソコンの画面を面白そうに眺めて、ゲームに興じているのである。

 

81歳の修道女がパソコンゲームねえ…。先入観から逃れられない私には、実に不思議な光景だった。

 

まじめな質問をさておいて、私はこう言うマドレのくったくのない生き方のほうに興味を持ってしまい、最初の思いと裏腹に、一緒にゲームを覗き込んだ。で、まるで縁台で将棋をやっているおっちゃん達の勝負に、はたで眺めながらいちいちちょっかいを出してうるさがられる近所のとっつあんみたいに、余計なおせっかいを始めた。

 

「ア、それまずい!こっちのほうが良かったのに。」「そこ、そこ、そこクリック!ア、失敗!アハハ。じゃ、やりなおしい…」なんていう具合である。

 

「マドレ、いつもこんなことやっていらっしゃるんですか?」「そうよ、暇つぶしに最高だもの。」

 

日本の修道院の雰囲気からは考えられない。考えてみれば、年がら年中、信仰の「形式」に身を固め、信仰に生きている振りをしなくても、するべき仕事をしっかりこなしているなら、後の余暇は、別に娯楽に興じてもいいわけだ。

 

それに引き換え、日本の修道女はのぺーッとした顔でいつも十字を切っていたな・・・。

 

決められた形式を守らないといって日本の修道院では彼女に風あたりが強かった。なんか俗物だと思われていたふしがあるけれど、私はいつも俗物はあの連中だと思っていた。

 

彼女は自分が使命だと感じることをしっかり果たして生きている。だけど、多くの日本人みたいに悲壮じゃないだけ。その日本人好みの「悲壮感」もポーズみたいな節があったな。私は過去、日本の修道院で彼女に出会ったときに感じたことを、反芻しながら、ゲームに興じる彼女の背中を見ていた。

 

失敗してもつまずいても、彼女にあるのは素直な朗らかな信仰だ。信仰に素直で、愛が深く、使命に忠実で行動が迅速、当を得ている。自分に嘘をつかず、人生を楽しみ、他人に異常な抑圧を与えない。誰とも喧嘩もせずに、人に愛され信頼を受けて、かなり自由に生き延びている。見事だなあ、この態度!

 

「あなたの絵、これで検索することできるの?」ゲームに飽きたのか、マドレは唐突にこういった。「ああ、できますよ。マドレ、ヤフーのアドレス持っていらっしゃいますか?」「え、ヤフーって何?」「ええと、あれスペイン語でどう発音するんだろ。ジャオー?まさかね。」私のヤフーのIDを教え、発音がわからないからヤフージャパンのつづりを教えた。

 

マドレは私の絵を検索し始めた。ヤフージャパンがなかなか出て来ない。私は席を替わってパソコンを弄くり始めた。スペイン語表示なので、なかなかうまくいかない。

 

やっと、私はヤフージャパンを出して、私のアドレスを教えた。ブリーフケースに私の絵が公開してある。行き着くまでのスペイン語の説明が面倒だから、 URLを探して、マドレのお気に入りにコピーしておいた。日本語でだってパソコンの扱いマスターしていないのに、スペイン語でPCを操るのは無理である。

 

マドレは私の絵をしげしげ眺めている。「告発」と題した絵である。

 

「この悲しみの表現がすごいのね、抽象よりはこの方が良い。」

 

「それ、初めて賞をとった作品ですよ。」

 

「そうでしょうね。真実をついているから、気取った抽象より人の心をついてくる。私もこれなら賞を上げる。」

 

「アハハ、有難うございます。」私は頭を下げた。

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「告発」(二科会千葉支部展で読売新聞支局長賞 受賞)

 

「この絵は売らないの?」と、しばらく眺めた後、マドレはいう。「だって、それ大きすぎますよ。あの窓2枚くらいの大きさです。」50号の正確な寸法がわからなかったので、私は横にあった窓を指差してそういった。

 

「あんなんじゃ家に飾るには大きすぎるし、主題からして買って飾ろうなんていう人いないでしょ。普通の人はそんな物凄い主題の絵、買ったりしませんよ。買うどころか、こんな主題でばかり絵を描くなんて、頭がいかれているって言う評を受けましたよ。」

 

「ところで、マドレ、マドレの施設についての質問ですが…。」何とか私は初めの主題に戻そうとするが、彼女なかなか乗ってこない。そのうちめんどくさそうに、彼女は引出しを捜し始め、古い薄っぺらい小冊子を引っ張り出した。ここの施設のことなら、これに書いてあるから読みなさい、というのだ。

 

見ると私の老眼には耐えられないほどの細かい文字が並んでいる。そういえば、彼女、ヴェネズエラのありとあらゆる新聞を毎日読んでいるんだった。しかも動く車の中で、どんどん読んでは自分の意見を言っていたな。彼女の視力に改めてびっくりした。私は動く車の中で文字を読んだら吐いてしまう人間だ。

 

「私、こんな文字読めないんですよ。難民やって神経いためてから、物凄く視力が落ちたんです。一時、何も見えなかったんですよ。ほら!」私は分厚い眼鏡をはずして見せた。

 

「これは遠近両用ですけれど、これで文字読んだってくらくらするんです。それに無理です。私、スペイン語習った訳ではないから、まともな記事読んでも意味わからないんです。」

 

何とかして彼女の口から話を引っ張り出そうとした。昔から、都合によって、「スペイン語がわからない」と言うのは私の常套手段なのだ。

 

「ねえ」、マドレは私に真正面に向き直っていった。「あの絵、誰も買わないんなら私がほしい。」「ええっ?」まだ彼女の関心は、母親が死んだ息子を前に絶叫している絵にあった。「何で又あんなおっそろしい絵を!」「だって、これがラテンアメリカの真実だもの。」

 

まじまじと、私はマドレを見た。彼女、私の絵をたった今ヤフーのブリーフケースで見たばかりである。その中からわざわざあんなグロテスクなものを選んで、欲しい、買いたいという彼女を、私は、今まで自分はこの人を良く知らなかったんだなという思いで見た。

 

マドレは優しい優しい女性だった。私がかつて出会った女性の中で、あれほど心広く優しい女性はいなかった。彼女は私にとって、母性の結晶だった。意思の強さは知っていたが、私はこの女性の中に自分がもっているような激しさを、かつて発見したことがなかった。

 

あの絵を私に描かせたのは私の内部にあるくすぶった情念だった。社会に対する目、政治に対する目、そして戦乱の巷で犠牲になる庶民に共感しながら権力者に対して激しく憤る心。虐げられた民衆と共に、怒りを共有し、涙を共有し、絶望を共有し、それらを画面にたたきつけた。

 

私の中のそういう情念が、優しい心豊かな母性の結晶であるマドレの中に存在する、とは今まで思ったことがなかった。

 

「あの絵が欲しいと言った人、マドレが初めてですよ。」

 

間を置いてから私は言った。多分、あの絵を受け入れ、あの絵を評価した人も、二科展の審査員以外はこの人が初めてだ。二科展の審査員はこの絵を絵として審査したのであって、ラテンアメリカの民衆と、その思いを共感したのではなかった。

 

この絵をマドレが評価してくれるのか・・・。そうなのか。私は一人でつぶやいた。ある感動が私を襲い、言葉が出なかった。

 

「羽無し天使の物語」(22)

「マドレの人間性」(2)

 

それから私はやっと立ち直り、マドレに質問を開始した。よりによって「告発」を選んだマドレに対して、私は突然「見る目」が変わってしまったのを感じた。

 

私は、もう、未知の人間とのネットの会話から夢遊病者となって、目くらめっぽうに彼女を訪ねてきた人間ではなかった。その時私は、子供のころのトラウマを引きずった人間ではなく、自分の糞のような人生に苦悩し、自分の人生にもまともに向き会えないばあさんでもなかった。

 

私はその時、社会の矛盾に目を向け、告発し続ける闘争の人として、マドレと向き合う姿勢になっていた。私はマドレと別れてから彼女が自分と共通の地盤の上に立っているらしいことをはっきり理解した。

 

私はいつもこのマドレに対していたように、自分を愛してくれる飼い主にしっぽを振って下から見上げる姿勢でなく、腕組して同格の人間に対するときの、いつもの姿勢に戻っていた。

 

「マドレはいったい、ここの何ですか?」

 

切り込むように私は言った。単刀直入というより、かなり無礼な質問に、彼女小気味よさそうに、斜めの視線を向けて私を見た。

 

目が笑っている。

 

「私が何者かって言う質問?」「はい。実は日本では、マドレはもうお婆さんだから引退して子供達のお母さん代わりになって、お食事のお世話しているって、荻窪の修道院のシスターたちから、聞いてきたのです。」

 

「ええーーーー?私って、料理女なの?」彼女はたまげてそういい、私をまっすぐ見た。

 

「そうですよ。荻窪の古巣ではそういう評価です。」

 

さすがに彼女はあきれてげらげら笑い出した。

 

「私はねえ、ここの施設の共同創立者。ラテンアメリカのどの国も同じだけれど、貧富の差が激しくて、まったく見捨てられた階級の人々に、教育の機会を与えようと始めた事業です。」 

「だって、この国は国際的に、世界第2の石油産出国として豊かな国ということになっていますよ。石油の収入、どこに回っているんですか?」 

「この国はなまじっか石油が出るものだから、豊かな国だと思われていて、世界に実態が知られていないけれど、石油の収入を享受できる人は限られた階級の人々だけ。民衆の大半は路傍に捨てられて、まともな教育は、受ける機会がありませんでした。 

その実態を見た、あるイエズス会の神父様がね、この国の悲惨な状況に心痛めて、もっとも教育の必要な人たちに教育をする施設を作ろうと、スペインの修道女会に応援を求めたのです。」

 

「だって」、と私はまた、さえぎった。「イエズス会こそ、どこの国でもエリート養成の学校ばかり作るじゃありませんか。日本だって、イエズス会の学校なんかに財力のない家庭の子弟は入れませんよ。貧民に助けの手を伸ばしたイエズス会士なんて、私はほとんど見たことがありません。貧民救済はサレジオ会が専門でしょ。エルサルバドルで暗殺された、解放の神学の実行者だった6人の神父さんたちは例外中の例外で、イエズス会はその創立の精神から言って、社会の上層部の教育が目的でしょ。」

 

腹のそこで、私はイエズス会なんか糞食らえ、と思っていたのを、マドレが相手だという気安さが手伝って、本音をぶちまけた。

 

「どこの会にでも変わり者はいるのよ。」当を得たりといわんばかりにマドレはいった。私の指摘を否定しない。否定はしないけれど、変わり者の存在を強調する。そういえば、このマドレ、変わり者ばかり可愛がっていたな。結局マドレもしっかり変わり者だったのだ。納得したように私はひじをついて手にあごを乗せ、マドレをしげしげと見た。

 

変わり者、異端者、型破り、お上にたてつく闘争の人。マドレよ、あなたもそうだったのか。

 

「この広大な土地はどこの所有なんですか?」

 

「イエズス会のものです。ここに私は29年前に来たとき、まったくの森で何もなかったの。私がその変わり者の神父様と一緒に、一番必要とする者のための施設として、少しずつ作っていったのよ。この家の隣にあるのはほとんど、学費なんか払えない子供達の施設。下のほうで見た学校は近所の子供達の小学校から高校までの学校です。それは今、他の修道会が引き受けています。」

 

「学費払えないなら、どうやって食べさせているのですか?」

 

「畑耕して作物作ったり、牛をかって牛乳や乳製品などを自給自足しているの。生産したものを市場で売ったり、工房で作った民芸品などを売ったりしています。」

 

「どんな種類の授業があるのですか。」

 

「ここの高校は普通の高校じゃなくて、ほとんどが職業訓練です。大工、機織、彫刻、機械技術、コンピューター技術、電気、その他、必ず将来自分がつきたい職業に関連するものを取らなければいけません。以前はドイツ人のヴォランテイアが来ていて、楽器作る工房もあったけれど、今はその人帰ってしまったので中断しています。惜しいわね、今もあったら、ヴァイオリン一つ上げたのに。」

 

私は又「音楽の精」に話が戻る危険を感じ、今ある工房を見学したいといってみた。「じゃあ、明日みんな見せてあげましょう」、ということで、彼女は「パソコンゲーム」に戻っていった。

 

「羽無し天使の物語」(23)

「マドレの人間性」(3)

 

3月21日

 

朝は7時くらいに、上の聖堂でミサがある。私は俗物だから、「趣味のいい」聖堂で調度を眺めながらミサに出席するのは楽しみだ。修道女達がそれぞれ分担して福音を読んで黙想する。最後にお互いに今日の問題にかかわる現実的な祈りを交わす。その雰囲気もいい。 

 

私はその中で、一人「趣味のいい」聖堂を鑑賞しながら、40年の思いを新たにする。考えてみれば私はこの人と、東京で一緒にミサに預かったことがない。彼女と私の交流を荻窪の修道院長は好まなかった。だから彼女と交流することに、遠慮と後ろめたさがあって、公に交流することがストレスだった。

 

しかしあの時も、彼女はそういう回りの思惑に対して動じなかった。その中を彼女に助けられて私は生き延びた。愛と信念の実行に彼女は制限を設けなかった。修道院の規則も、形式も、仲間の批判も受け付けなかった。愛が無ければどんなことにも意味がないといったパウロのように、彼女はキリストの唯一の掟である愛を生きた。

 

今、40年ぶりにヴェネズエラという見知らぬ土地で再会した彼女は、社会の最下層の人々に愛されて生きていた。シスター達はみな楽しそうで、お互いにストレスを与え合うような雰囲気はどこにも見当たらなかった。日本から来た、変な人物を胡散臭そうに見る人はいなかった。そして、何よりも感じたのは、私がこのマドレの知りあいだ、友達だということだけで、彼等はもう心を赦していたということだった。

 

夕べ、私が野菜に飢えている事を知ったマドレは、食事の係りのおばさんに言って、大量にサラダを作らせた。「1日分よ」とか言っている。こう言うところが一般人と違うところだ。

 

朝、一度に一日分作らなくたって良いのに。「自分の家にいるみたいにして」いいなら、材料くれれば、その都度、みんなの分作るよ。

 

仕方ないから、私はそのサラダを馬のようにしゃりしゃり食べた。私の好きな味付けができない。でも塩とレモンだけでいい。何かしようとすると誰かが飛んできてしてくれちゃう。スペイン人はサラダに物凄い量のオリーブオイルをかけて食べる。オリーブオイルに野菜を浮かべて食べるといってもいい。あれを避けようと、私は塩とレモンで我慢した。それでも久しぶりのサラダはおいしかった。

 

朝の食事、サラダだけじゃ胃の中が冷たすぎる。卵が台所にゴロゴロあったから、ひとつ所望した。でもフライパンがない。マドレにいったら、マドレは突然、東京で食べた「目玉焼き」を思い出し、「そうだ、そうだ、目玉だ目玉だ」と日本語で言い始めた。卵のあの状態を「目玉」と表現する日本人ならなんでもなく使っている発想が、若かった彼女にはよほど珍しかったらしい。 で、40年も記憶していたんだ。でもその「目玉」は火の加減でうまくはできなかった。

 

その形の変形した「目玉」を見て、マドレがいった。「私数年前に白内障の手術したのよ。」 げ!なんちゅう事を連想しているんだ・・・

 

食事が済んで、朝出かけるため、運転手を待っていると、そこにいろいろな人がマドレに問題を持ち込んでくる。その問題をいちいち即断即答で指示を与えるマドレの様子を見ていると、その頭の回転に驚愕を覚える。

 

ヒョロッとした男が、子供を二人連れてやってくる。生活上の問題らしい。マドレはその男にお金を与える。野菜の肥料のことから、散布する殺虫剤のことから、ペンキ塗り替えの必要な機材のことまで指示を与える。しかも後で市場に行く途中、仕事現場によって、一度指示を与えられた仕事をしている人々が困っているらしい問題を発見しては解決する。

 

「夕べ上まで運んできた牛乳を、手違いで倉庫に入れ忘れ1晩外に放置してしまった、どうしよう、」といってきた若者がいた。若者は自分の失敗をすまなそうに、何をいわれるかとちょっと怯えている。

 

マドレはすぐに指示する。「全部チーズに作り変えなさい。」チーズの分量から出荷先まで指示する。頭の中は計算が出来ているらしい。

 

へーーーー!私は感心してしまった。手違いに腹を立てたりしない。責任を問い、いやみを言ったりしない。すぐにその手違いを利用して、良い結果を導き出す方法を考える。その間 数秒だ。

 

チーズは学生が作っている。型に入れて、それを市場で売ると見える。どん なチーズか食べてみたいなといったら、すぐに、次の朝 食卓に上った。 程よいやわらかさで、程よい塩味で、おいしかった。カマンベールチーズに似ているがもっと硬い歯ごたえだ。持ち上げると、ずしりと思い。直径25センチくらいの丸いチーズだ。

 

それを市場に運ぶ途中、貧しい人に出会うと、彼女はすぐに呼び止めてまるごと惜しげもなく上げている。こんな状態で、収入になるのかな。物理学の法則も無視している。マドレの計算は「この世的な」計算じゃないんだな・・・。

 

マドレのやり方を見ていて、ふと私は、エルサルバドルで体験した、ストライキのときの水のことを思い出した。あの「人に上げれば、必ず水はくる」といったエノクの言葉。あれも物理学の法則を無視した言葉だった。1-1は0ではなくて、1-1は無限大の世界。

 

その話をマドレにし始めたら、結論を聞かないうちに、こともなげに「水は来たんでしょう?」という。

 

げ!つまんねーな・・・

 

日本人なら疑い深く半信半疑で聞いている表情が見られる。結論を言ってもなんとなくせせら笑っている人もいる。「気のせいだよ、そんなことあるもんか」と、腹のそこでいっているらしい表情を私は見逃さない。

 

それなのにマドレ、自分で私が言おうとしていた答を言ってしまった。「まあね」と応えたら、「当然来るのだ、来ない訳がない」という言葉だった。

 

そういう彼女を私はじっと傍らから見つめた。この人も1-1は無限大の世界で生きている。

 

後で、食事の話題に、マドレは私の水の話を仲間にしていた。でも、そのはなし方は、どこでもいつでも起こりうる話題みたいにぺらぺらさらさしている。聞き手のシスター達も、「ほう」としか言わない。逆に私は気が抜けてしまう。

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 「水を求めて」

 

「羽無し天使の物語」(24)

「マドレの人間性」4

 

彼女は毎朝市場に行く。途中でいろいろな人に会う。彼女は札束を手に持っている。彼女はその札束から支払ったり、買い物したり、人に恵んだり、目まぐるしく手を動かしながら、計算をしている。暗算力があるのだ。私が帰路の飛行機の確認の為に教えた旅行社の電話番号もその場で記憶してしまって、メモなしに電話をかける。

 

私は数字を記憶する力がない。昔から歴史上の年号を覚えるのに「いちみさんさんほうじょうし」などという覚え方を習った民族である。だから自分の電話番号さえ、言葉に言い換えて覚える習慣がついていて、数字そのものは覚えない。昔持っていた携帯の電話番号も、なかなか自分で覚えられなくて1193を「今行くぞう」と覚えていた。うまく言葉にならなかったら、もう覚えられない。今はもう、メモを見ても、目が悪くて文字がぶれてしまって、なかなかまともに電話をかけられない状態だから、マドレのこの記憶力に驚愕した。体は杖に頼っているけれど、頭の回転は若者なみである。

 

市場の喧騒の中を車をうねらせて、買い物をする。大体どこのラテンアメリカも同じだが、車道に市場が立っているのだから、商品や人間の間をよたよたと車を移動させる。周り中から市場の人がその車の中のマドレを見つけて群がってきて挨拶する。

 

魚や肉を大量に買うから、みんなにとってお得意さんなのだとマドレは言う。でも、「大量に買うから」でもなさそうだ。半裸の子供にチーズをやったり、買ったばかりのバナナをそのまま房ごとやったり、彼女の行動は「売っている」とも「買っている」とも思えない。

 

「必要な」お金を稼ぐのに、彼女悲壮感がない。「必要な」ものを買うのに、彼女ヒステリックにならない。彼女の売り買いは「分かち合い」なのだ。この彼女の「あり方」に対する感謝が、彼等の顔にみなぎっている。彼女、「商人」じゃない。「会計士」でもない。

 

お金を扱っているけれど、多分彼女、そのお金は、「神様から預かっている」と思っているわい。神様が彼女を使って助けたい人を助けているらしい。それは彼女の意思のように見えて、意思はどっこい神様にあるらしい。

 

昼になって、彼女、又別のレストランに私を連れて行ってくれた。なんか道順を通りすがりの人に聞きながら特別なところを目指していたらしいけれど、見つからなくて、偶然発見した新しいレストランに入った。

 

しかも彼女、このレストラン、「感じが良いな」と見るや、店主を呼んで、褒めちぎり、宣伝してあげるから、名刺をくれとまでいう。

 

私はあのFe y Alegriaのものですよ、といって、自己紹介と、施設の宣伝までしている。マドレはおまけに傍らにいた私まで紹介する。「この人、日本から来たんですよ、私はもう半世紀ほど前に日本に行っていた時からの知り合いで、私に会いに来たの。もう半世紀続いている友情です。」なんだか得意そうだ。

 

マドレ、だんだんだんだん私の訪問がうれしくなってきているのだな。私もそうだけれど、感動というものは、深ければ深いほど、そう簡単にぺらぺら表現できるものではない。心の深いところに感じる喜びは、ひしひしと時間をかけて迫ってきて、別れた後に沸騰したりする。そんなもんだ。

 

そのレストランは家族でやっているようで、メニューにはそれぞれの娘達の得意の料理まで書いてある。見ると、中学生か高校生ぐらいの年齢だ。接待の仕方が若々しくて、時にはぎこちなくて、感じがいい。中学生くらいの子の得意なものは卵焼き、とか、高校生くらいの子の得意なものは魚のフライとか、メニューに書いてある。なんて、可愛いんだろう!

 

こんなレストランも商売可能なのだ。私はそのことにかなりおったまげている。

 

しかしマドレはそれを見て、「将来性あり」と見たようだ。大いに勇気付けてやろうと思ったらしい。食事の提供の仕方から、飾り付けの仕方までなかなか趣味がいい等と褒めちぎる。

 

食事は豪華でなかなかおいしかった。この子はサラダを作りました、この子はメインの魚料理を作りました、と店主が娘達を紹介する。子供達、なかなか立派な態度だ。学校に通っているから、休日しか店を開けないといっているところを見ても、学校教育をおろそかにして商売にかかりきっているわけではない。子供達もそれぞれ挨拶したが、その年齢なりの、ある「知的な」顔をしている。日本の、豊かな家庭に育ったくせに、閑もてあまして、「エンコウ」なんかやっている、心のぶっこわれた中学高校生とはまったく違う表情だ。

 

「Fe y Alegria」 と聞いて、店の主人は威儀を正して言った。

 

「貴女様は Fe y Alegriaのシスターですか。この国に対して、あなた方のなさったことは大きいです。私たちは心から貴女達に感謝しているし、尊敬しています。」目つき、様子から見て本当にそうらしい。

 

Fe y Alegria の運動というのは、ヴェネズエラの最下層の根本の問題に手をつけて支え導いてきたらしい。改めて私は広大な原野に手をつけて、路上生活者や、無学文盲のまま放置されていた民衆に手を差し伸べて社会に送り出したマドレの功績を思った。