「自伝及び中米内戦体験記」10月19日

「ロメロ大司教25回忌」(6)

「エルサルバドルにて」(3)

「これが現実」3月25日

 

この日は聖金曜。つまりキリストが十字架上でなくなった日だ。こんな日に、人口の90%が「建前上」カトリックの国で、店が開いているわけない。エノクも娘もこの国に生きていて、何故そういうことがわからないんだろう。頭に来た。

 

昔私は内戦の中を8年間この国に住んでいたんだ。そのときのエノクはこんなじゃなかった。子育てのことも、買い物のことも、病院のことも、私のビザの更新の事も、生活の全てにわたって協力し、子育てにいたっては私が独断で何かを決めると、自分も親なのだ、なぜ相談もなく事を決める、といって怒ったものだ。

 

あのころ、私は女中なんか雇っていなかった。炊事、洗濯、料理、裁縫、全部一人で私がやったのだ。4日間店が全て閉まる休暇に、何も買い置きしておかないなんていうまぬけな事をやったことがなかった。

 

何か様子がおかしい。私は箍のはずれたようなこの親子の腑抜けになったような姿を見て、言いようもない不安に襲われた。

 

私が「啓世」と言う漢字を贈り、スペイン語で「モイセス」と呼ばれる孫は、1歳5ヶ月になるのに、まだ歩けなかった。這いずり回るか、つかまりだちをし、引出しを開けては、いろいろなものを引っ張り出して遊んでいた。成長は遅いけれども、その動作を見て、正常の範囲だろうと思っていた。

 

ところで、私は娘がさせていた孫のオムツを見てあきれ返った。前年孫がまだ半年にもなっていないころ、現代式に改良された、すこし分厚い幅15センチくらいのオムツを私は日本から持ってきた。歩き始める年齢の孫に、そのオムツの上から2重にも3重にも別の布を重ね、その上にもう一つの布でくるんで、まるで座布団を二つ折りにしたようなものを股に挟んで、をの上にオムツカヴァーまでさせて、その上に長ズボンをはかせている。

 

これじゃまるで歩けないようにさせているようなもんだ。

 

私が去年上げたものは、現代式に改良された1枚の布で、私の子育ての時代に使ったような、2枚の布をたたんで使うような面倒を省いたものだ。赤ん坊は歩き始めるようになったら、なるべくオムツは細く歩きやすいようにしなければならないのに、そんなものを股にはさまれたら、歩けるわけがない。

 

私が注意をしたら、娘はびっくりして言った。「マリがこうしなさいと言うから、そういうもんだと思ったんだもん。マリはお父さんの一族の子供ばかり14人も育てて、子育てのベテランだといわれていたから、自分は子育て知らないから、マリの言うことが正しいのだと思ったんだもん。」

 

まあ、そうだろう。私は一人しか子育てをしたことがなくて、しかもその時女中なんか雇っていなかった。娘みたいに学生ではなかったから、子育てに集中できた。ましてや、待ちに待って39歳で生まれた子供だから、同じように考えるのは間違いかもしれない。

 

しかしねえ、この常夏の国で短いころころとした太い足で歩くことがおぼつかない赤ん坊に、座布団股はさまれたらどうなるか、想像できないかね?老人用のアテントだって、もっと薄いよ、もう!

 

「それがわかんなければ、自分で座布団3枚股に挟んで歩いて見ればいい。ばかめが!」

頭にきて文句を言った。

 

常夏の国のエルサルバドルの子育ては、日本よりももっと簡易なオムツのさせ方で、股にあたる部分は歩きやすく細くなるように絞ってあったのを覚えているから、14人も子供を育てたエルサルバドル人のマリがあかん坊の股に座布団をあてがうのが正しいと考えたというのはおかしいと思った。

 

おおかたマリはオムツを何度も替えるのがめんどうで、ちょうど私が持ってきたオムツの厚みが気に入って、もっと厚くしようと思ったんだろう。

 

「これでは歩けるわけがない。いくらなんでも、これは子供の成長を阻止しているようなものだ、世話する大人の都合より、子供の成長を優先させなさい」そう言って私は、娘にエルサルバドル式のオムツの作り方を教えた。娘は、そういうことをお母さんから教えてもらいたかったんだ、とぼそぼそつぶやきながら、子供に簡易な方法で、すぐぬれるオムツを何度も替えながら、面倒を見ていた。

 

夫も娘も聖週間の休暇で、時間があった。それなのに冷蔵庫は空っぽで、スープにできる野菜の端くれもない。仕方ないから、15時間の飛行の後で時差で倒れそうなのに、私が腰を上げざるを得なかった。3人で開いている店を探して1時間も歩いたところに、やっとこさ大きなスーパーが一つ開いているのを見つけ、そこで何とか食料を買いこんで、家に帰った。

 

それやこれやで、雑事にかまけていたから、私は、肝心なロメロ大司教の25回忌のことをすっかり忘れていた。

 

「ロメロ大司教25回忌」(7)

「エルサルバドルにて」(4)「これも現実」

 

どういうわけだか、私の昔の日記には、ロメロ大司教が暗殺されたのは3月23日となっていて、私はずっとそう信じてきたのだけれど、買い物から家に帰ってテレビを見たら、命日は24日だという事で、世界各地で、記念のミサが行われている様子を映していた。

 

それをテレビで見たときは、もう25日になっていた。世界各地でミサが行われているのに、エルサルバドルで何もやらないなんていうはずがない。これはおかしい!

 

私はにわかに心配になった。私がわざわざヴェネズエラからエルサルバドルに来た理由は、大司教の式典に参加したかったからだった。あらかじめ、メールして、友人のマルタに問い合わせ、式典は4月2日だと言う情報を得ていた。

 

それで私は今年は命日が聖週間にあたっているから、式典を復活祭以後に伸ばしたのだと思い、24日に式典があるなどとは夢にも思わず、ヴェネズエラからやってきた。25日聖金曜日は、どこか教会を探してのんきにミサに預かろうと考えていた。

 

テレビを見て心配になった私は、正確な情報を得る為には、スペイン語に自信がなかったから、エノクに頼んでマルタにもう一度問い合わせてもらった。

 

ところがである。マルタによると、もうメインの式典は終わっていた。私は夫から電話を引っ手繰って挨拶もそこそこに尋ねた。

 

「ああ、昨日式典なら終わったよ。昨日が命日だから昨日がメインだったのよ。」とマルタはこともなげに応えた。「ただ、ロメロの式典は1ヶ月も続くから、又いろいろなところであることはあるよ。」彼女、全く、大した事でもないと言う風に久しぶりに声を聞いた私に社交辞令の数々を言い、間違った情報を私に伝えたことを意に介していなかった。

 

私は電話を切って、夫と娘に吼えた。

 

「自分はこんな国にあなた達に会いに来たんじゃない。2ヶ月も前から来ることを知らせ、やりくりしながらやってきたのに、まったく何も用意もせず、その日の食事まで私に買い物させる、そんな家族のところに、誰が太平洋を越えてまで来るものか!破局に近い家族の状況の中で自分を抑えてクリスマスにプレゼントを贈っても、受け取ったということさえ知らせてこない、そんな下郎共に誰が会いに来るもんか!

 

あなた達は自分の国の民衆の為にあれほどの働きをして命までささげたロメロ大司教の25周年記念がどういう意味を持つのかわからないのか!1月ごろから問い合わせているのに式典の存在を調べもせず、何も教えてくれないから、私はヴェネズエラから来る直前にマルタに聞いたんだ。

 

当のマルタだって、日時をいい加減に知らせてくるとは、一体あなたたちはなんなのだ!外国人の私が、エルサルバドルの使徒であるあの人の壮絶な死にこれだけ衝撃を受け、これだけ長いこと心に納め、そのために語り部となり、そのために苦しみながら、涙を流しながら絵を描き続け、そのために時間を割いて、お金を使ってさんざん大変な思いをしてきたんだぞ。関係のない世界中で大司教の追悼をやっているのに、当のエルサルバドル人のあなたたちは心がないのか!」

 

腹立ちまぎれに出る言葉を吐いてしまったら、力が尽きた。頭を抱え、机に突っ伏した。怒っても怒鳴っても、もう取り返しがつかなかった。

 

テレビの報道によれば、スペインでも他のラテンアメリカ諸国でも、カナダでも、オーストラリアでも、暗殺にかかわったアメリカでさえ、大司教の暗殺の古い記録を流し、彼の声を再現し、集まった群衆と共に、ミサを上げて彼の偉業を偲んだでいた。

 

その報道に、私は再びむくむくと起き上がり、わめいた。

 

「地元のエルサルバドルの国民は一体何をしているのだ!あなたたちはあの人を忘れたのか!」と叫び、机をたたき、怒りに震えてエノクに迫った。私はかつて、どんな苦しいときも、この人に向かって、これほど激しく怒りをあらわにしたことがなかった。

 

私は自分がこの国に来て、この国で体験した内戦の中の数々の物語を、まさに信仰のうちに捉えてきた。私はただのルポライターでもなく、傍観者でもなかった。自分のこの深い思いを、自分の家族がまったく理解していないのが情けなかった。夫の女性問題などと言うクソみたいな問題とは、本来次元の違う問題だったのだ。

 

始めて私の怒りの形相を見てたまげたエノクは、PCを起動させ、電話も掛け捲り、まだ間に合う式典を探し始めた。当のマルタにも電話をかけなおし、4月2日と初めに伝えた情報は、なんだったのか、もう全てが手遅れなのか、聞き出した。

 

彼女、雰囲気を察したらしい。いろいろ調べて、今度は確実にわかるだろう問い合わせ先を知らせてきた。

 

何とか参加できる4つの式典が残っていた。

 

聖土曜から日曜の早朝の復活祭にかけて、サンサルバドル デル ムンド という広場で野外ミサがあると言う。

 

また、夫の友人がかかわっている小さな式典が、ロメロ大司教が暗殺された聖堂、さる修道会が経営する癌病院付属の聖堂で、催される。

 

もう一つは本当に4月2日で、これは再び同じ広場から、夜中の大行進がある。

 

3日にはロメロ大司教の暗殺から6年後に、6人のイエズス会士が暗殺されたカトリック大学で、記念の催し物がある。

 

「ロメロ大司教25回忌」(8)

「エルサルバドルにて」(5)「これが現実」

 

まだ何かが残っていることに、少し安心した私は娘を案内させて近くにある教会に行った。聖金曜のミサが何時にあるかを調べる為だった。10分ぐらい歩いたところに案外奇麗な教会があって、人々が集まっていた。おや、もう、始まるのかな?と思って、入り口に掲げられていた掲示板を覗いた。1時間後に始まるらしかった。良かった、明るいうちにミサにいける、と思って、私達はいったん帰ることにした。

 

ところが、たった10分足らずの道のりで、私の体に異変が起きた。突然ものすごい腹痛が起きたのだ。さっき25周年式典のことで怒ったからかな、と初めは思った。ところがそうではなかった。私は下痢の予兆を感じて、走り出した。ここに来てから二日と経っていないのに、私はエルサルバドルの細菌達に襲われてしまったのだ。

 

娘達が借りているアパートは台所もトイレもシャワーも、下水道がつまっていて、悪臭が漂っていた。内戦時代私達は8年の間に7回も引っ越したけれど、こんなところには一回も住んだことがない、と私は思った。一体、何がこの家族に起きたのだ。

 

家に駆け込み、ようやく襲われた細菌の結果を外に出した私は、よろよろする体で、今度は洗濯しなきゃと思って、洗濯場に行って驚いた。そこには、うずたかく赤ん坊の汚れたオムツが積んであったのだ。女中のマリが休暇を取っている間、誰も洗濯しないらしい。

 

エルサルバドルも、内戦終結後、少しは人権が見直されて、女中の休暇も「権利」となった。しかし教育を受ける機会がなかった階級は文盲のまま、就ける仕事は労働力の提供しかない。ほんの少し権利が保障され、給料が上がったからといって、女中を扱う人々の意識も変わらない。

 

簡単に雇える女中がいるから、いまだにこの国は洗濯機が普及していない。娘も、その「文化圏」の住民として、同じことをやっていた。

 

汚物の積み重ねられた水場の周辺は、小蝿が涌いてぶんぶん周りを飛んでいる。臭気が漂い、鼻を突く。

 

洗濯場と言うのは、台所に隣接した水場だ。ピラと呼ばれる溜め池があり、ピラの脇には必ずコンクリートの平たい空間があって、洗濯はそのコンクリートの上でごしごし手洗いする。其処にうずたかく汚物にまみれた赤ん坊のものが積まれているので、其処が臭気源になっている。

 

どうなっているのだ、このうちは!私は再び怒りを爆発させた。

 

「あなたは女中に休暇を与えたら、その間自分で家事をしないのか!」、と私は娘に詰問した。

 

「女中がいないから子どもの食べ物がなくても買い物にも行かず、休暇が終わるまで、食べないのか!女中がいないから洗濯もしない、掃除もしない、それがこの国の意識だとしても、あなたは日本で高等教育を受けたじゃないか。そのあなたが、こういう国に来たからといって、なぜ、人権意識を捨て去り、生活環境の整備さえ怠り、自分を低レベルの状態に落とすのだ!?あなたは、無学の女中ができることもできないのか!」

 

娘は抗弁した。「その仕事をしてもらうためにマリにお金を出して雇っているのに、自分がその仕事をやるのはおかしい。」

 

それを聞いて、私の神経はますます逆立った。

 

「あなたはマリに休暇を与えたといったな?確かにいったな?女中に対する休暇は内戦後、法律によって保障されているのだ。保障された休暇を与えておいて、その間の仕事をためて、休暇を終えて帰ってくる」マリにいつもの数倍の仕事をやらせるのなら、数倍の特別手当を出すのだろうね。保障の意味は、有給休暇であって、その間の仕事をさせるのなら、時間外手当てが当然支給されなければならないのだ。

 

それを考えた上で、台所の横に細菌を培養しているんだろうね。この状態は女中の仕事かどうかの前に、あなたの教養と衛生感覚と子育てに対する神経の問題だ。いったい、私がここに来て二日と経たないうちに食中りを起こしたことを、あなたはなんと考える!?」

 

私は女中と言う階級の女性に対するこの国の人々の平均的な扱いを知っていた。自分たちが指一本動かさなくてすむように、わずかなお金を出して1日10時間もフルに働かせ、与えられた残り物を、台所で立って食べていた雇い主たちのことを知っていた。

 

娘の言っている事が,この国の平均的な考え方からでていることも知っていた。さらに、私には女中をあごで使いながら、昼夜マージャンをして遊ぶ日本人の奥さんたちの思い出もあった。私は娘の女中扱いを見たときに、他人を使うことに無神経な、それらの人々をはっきり思い出したのだ。

 

ところで、あの8年間、エノクは、決して女中をそのようには扱わなかった。彼はそういう階級の人々を「同胞」と呼び、一般より多くの給料を払い、食事も家族の一員として同席させていた。

 

そして私は、内戦時代、私が洗濯機を買いたいと相談を持ちかけたある日本人から、「洗濯機1台よりも女中を雇うほうが安上がりで、女中は残飯整理をしながら一日中働き、洗濯機より多くの仕事をする」といわれたことに、夫の同胞のために深く心が傷つき、空き巣に入られるまで女中を雇わず、あの時代、街に出かけて「人件費より高い」洗濯機を買ったのだった。

 

その両親の精神を、娘が何も受け継いでない、そればかりでなく、当の精神の具現者であった父親が傍にいながら、女中を何でもできる機械のように扱っていることに心底腹が立った。

 

この家族、狂っている・・・。

 

長旅で疲労し、人間関係で疲労し、さらに食あたりと怒りでふらふらしながら、私は洗濯を始めた。私が娘の母親だからではなくて、あまりにも帰ってくるマリが気の毒だったから。 

 

「ロメロ大司教25回忌」(9)

「エルサルバドルにて」(6)「内戦の後の平和」

 

聖土曜の夕方、セントロと呼ばれる、昔の町の中心街を歩いた。

 

2年前、出産を控えた娘がここに来た頃、娘を一時預かってもらったマルタの家族から、整備された美しいところばかり、娘は案内されたらしい。それで、「エルサルバドルはお母さんが言っていたような状況がまったくなくなって、豊かになった」、といってきた。

 

しかし、彼女は一人で歩くようになってから、豊かになったのは表向きだけだということがわかってきた。言葉がわかるようになり、一人歩きができるようになって、彼女は「見せられなかった世界」に足を踏み込んだのだ。

 

セントロ(中央)は昔、文字通り首都の中央だった。その頃はまだ修復中で、コンクリートの地肌が見えたカテドラルがあり、かの大司教の説教があるとき、教会は満員だった。軍隊がカテドラルをとり囲み、危険極まりない地域だったが、市場がにぎわい、貧しいけれども活気のある町だった。

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修復されたカテドラル:内戦時代軍隊が占領していた。

 

今は、内戦が終わってカテドラルは完成して立派に姿を変え、町は平穏を取り戻したかに見えたが、路上に張り付いたような物乞いの姿や、精力の失せた男たちの、物に寄りかかって、目だけ動かしている姿が、物悲しかった。

 

今は町の中心街は新しくできた「メトロセントロ」に移り、旧市街のセントロは、路上生活者の掃き溜めとなっていた。裕福な人々は、ここを避けて、足を踏み込むこともなく、JICAの職員は、危険だという理由で、この旧市街には立ち入り禁止だという。JICAは一体何のために、この国に職員を送り込んできているのか、ただのポーズとしてなのか、ここは世界から見捨てられた人々の、貧民窟になってしまったようだ。

 

雑然と市場が立ち並び、売り子の声がこだまし、歩くのも大変なほど、店と商品と、赤ん坊や幼児を連れた売り子の生活の場と、道路が区別なく、ごちゃごちゃしている。

 

ここの物はみんな安いし、交渉でもって買うのだから、値段や流動的だ。しかしドル経済になってから割高になった。

 

しわしわの真っ黒の腕を伸ばし、老婆が差し出すアボカドを4個1ドルで買った。ドル経済になったことで、ラテン文化圏から、経済的には、アメリカ文化圏に移行し、人はそれを「平和」と呼ぶ。路上で生まれ、路上で育ち、路上で一生を暮らす人々に、文字も教育も文化もなく、路上で一生を終わる人生に、なんの平和やある。

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「内戦の後の平和」

 

私は路上に這いつくばい、道行く人に食べ物を求めて差し出す老婆の細い腕を、脳裏に刻んだ。絵を描こう、やっぱり絵を描こう。「内戦の後の平和」とは、一体この国の底辺の人々に何をもたらしたのか、絵を描き続けよう。

 

「ロメロ大司教25回忌」(10)

 

「エルサルバドルにて」(7) 「野外ミサ」

 

夜、暗くなった頃、サンサルバドル デル ムンドの広場に、人々は集まった。まだ人が集まっていない頃、私はこれから行われる行事の中身を把握しようと、楽屋裏にまで足を伸ばした。広場には、金色に輝く、小さなロメロ大司教の像が立っていた。大司教は銅像になったんだな、と私の心は、かすかにうずいた。

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彩色を施した大きな十字架があって、真ん中にロメロ大司教の顔が描かれていた。私はこの方が暗殺されたとき、お腹の中にいた娘と共に、この場に立っている。25年、いろいろなことがあった。今、娘は数奇の運命を経て、この国に戻り、薬学生となって、子供を一人育てている。感無量。行列の準備らしい。乗って練り歩くのか、大きな車が横断幕を張って用意されている。人が群がっている。

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あちこち見て回って、肝心のミサの広場に遅く着いたので、前にいけず、前でやっているミサの様子はマイクの声のみでしか聞こえず、十重二十重の人垣が邪魔して、その様子は見ることはできなかった。多分神父さんが数人で司式したのだろう。

 

しばらく経ったら、説教が始まった。ロメロ大司教追悼のミサの説教らしく、それは力強い説教だった。

 

「マスコミを信じるな、報道を信じるな。世界の権力者主導のテレビのニュースを信じるな、戦争は平和をもたらすというが、平和は権力者の生活の安定のためだけでしかない。我々に隣に住んでいる、実際に苦しんでいる人々の姿を見よ、彼らの生活のどこに平和があるのか」と叫んでいた。

 

25年前、この国は戦乱の中にあった。ロメロ大司教は、あの戦乱の中で、アメリカが後押しする自国の正規軍を批判し、軍隊に拉致されて子どもを失った村の人々の悲しみを代弁し、抵抗する村民の虐殺の嵐の中で、護衛もなく武器も持たず、一人説教台で戦った。そして25年前の3月、一粒の麦として果てた。

 

「私が死んでも、私はエルサルバドルの民衆の中に蘇る」と絶叫した彼の言葉が、録音によって流された。彼はその言葉どおり、エルサルバドルの民衆の記憶の中に生き続けている。

 

国際的な催しらしく、関係諸国からの代表者からの記念品が奉納され、その目録が読まれた。その時、期待していなかった日本からの代表らしい、日本語の放送が流れた。うれしかった。日本も、ここに参加してくれていたのか・・・。

 

しかし、日本から奉納された記念品は、その通訳者によると、「夕べ折った千羽鶴」だった。文化の違う国で、「千羽鶴」は理解されないのはともかくとして、「昨日折った」はないだろう。私は闇の中で、少し「赤面」した。

 

あの「大司教暗殺」をここに寄贈しよう、と、私はその時思った。

 

寒かった。私に同伴した夫が怒り出し、帰ろう帰ろうという。聖体拝領前だった。私は、自分は残るから一人で帰ってくれ、聖体拝領が一番ミサの中心なんだ、これは聖土曜の深夜ミサ、つまり復活祭のミサに相当し、これに参加しないなら、ロメロ追悼の意味がない、といって抵抗した。

 

これは主催者側にとっても、私にとっても、二つの復活祭だった。キリストの復活と、ロメロ大司教の復活、民衆の中に生き続けるロメロの復活祭だったのだ。

 

頭に来て怒る夫を尻目に、何とか聖体拝領までがんばり、羽織るものをとりに行くだけと言う約束で、いったん家に帰った。

 

真っ暗になってから、行進が始まる頃私たちは会場に戻った。ロメロ大司教の顔と彩色を施した十字架を先頭に、人々は動き始めていた。私は行列の中に飛び込んだ。まだ怒っていた夫は列から離れて遠いところから私を「守って」いたらしい。

 

道中ずっと、懐かしい大司教の演説の録音が流されていた。その声を聞いて、私は涙が流れるのを抑えられなかった。

 

行進が街灯もない闇の中を、大司教の葬られたセントロのカテドラルに向けて練り歩いていたとき、突然あたりから、路上に寝ていた路上生活者が立ち上がって、「ロメロ、バンザーイ」と叫んだ。その声を聞いた時、街道の両脇に沈んでいた灰色のごみの山がむくむくと動き、それが立ち上がって、「我等のロメロ、バンザーイ」と唱和した。

 

ロメロ大司教が、世界に見捨てられた路上生活者の、本当に生きるべき彼の住みかなる、「小さき人々」の心の中に生きていたのだ。

 

「夜のセントロ」

 

セントロに到着した。私はセントロの真夜中をそれまで見たことがなかった。内戦時代は当然、昼間だって危険なのに夜などとんでもないと言う意識から、私はセントロの「現実」を知らなかったのだ。

 

昼間見たセントロは市が立って、雑然としていた。売り子が叫び、乞食が物を乞い、それはおおよそ、想像可能な光景だった。しかし夜、私は商人が自分のねぐらに引き上げたあと、なにもないセントロを想像していた。

 

ところがそうではなかった。彼らに引き上げるべき「ねぐら」などなかったのである。市場はそのまま個人個人の店の商品の上に、彼らが覆いをかけたまま残っていて、その周りに丸くこしらえた空間で、数人の子どもも含めた家族が眠っていた。シートもなく衣類を広げて何とかその中に納まるような姿勢で、体をこごめて、あちらにもこちらにも、彼らが眠っていたのだ。

 

そうか、路上生活者が、ここに集まって、市を開き、ここを生活の場として生きていたのか・・・。後に聞いたところによると、彼らの売り物は、みんな盗品だという。盗品だろうがなんだろうが、彼らはそれでしか生きていけない、見捨てられた人々なのだ。

 

 

「ロメロ大司教25回忌」(11)

「エルサルバドルにて」(8)「暗殺の聖堂」

 

もう一つロメロゆかりの聖堂で、行事があるという情報があった。それは私が一度、訪問したいと思っていた、ロメロ大司教暗殺の現場だった。ある修道院の経営する癌病院の一角の聖堂である。その癌病院の入り口に、ロメロ大司教の生前の小さなオフィスがあって、それが記念館として、一般に開放されていた。

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大司教が最後に身につけていた血みどろの祭服、その他の小物が展示され、彼が死んだときのまま、彼の机は保存されていた。写真、絵、その他、奉納品があった。案内してくれたシスターに、額装した自分が描いた絵のキャビネ大の写真を渡した。もしよかったら、実物を寄贈したいが、受け取っていただけるかと聞いたら、ひどく喜んでいた。

 

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絵は50号で大きいので、送る方法を考えなければならなかったが、かかる費用は、修道院側が何とか集めるということで、とりあえず、日本に行ってから、方法を検討することになった。

 

行事は歌や踊りで、ロメロ大司教の生涯を知るものにとって、軽すぎるかな、と思われるような内容だった。あまりよく意味もわからず、新しい、若い人たちの考えで、主導されたものらしい。

 

其処を辞して、私はとにかく、自分のエルサルバドルに来た目的を達成しつつあるのに満足して、家族と共に、家に帰った。

 

「私の絵が印刷された袋とシャツ」

 

それから、今度は別の行事の開催地に、娘と一緒に行った。カトリック大学(略してウカ)と言う。この大学は日本にもあるイエズス会の経営する大学で、私たち一家が日本に帰ってしばらくして、政府に送り込まれた軍隊に包囲され、イエズス会士6人が、賄い婦と共に虐殺された場所である。娘が中学3年の時、一度訪れて、その写真展を見たことがあるので、その凄惨さは脳裏に焼きついている。

 

構内に、たくさんの店が出ていて、色々な関連施設のチャリティーバザーのようである。ライブがあり、演説があり、まあ、ロメロ大司教の25周年を記念しての「お祭り騒ぎ」の様相を呈している。店には、ロメロ関係の「ロメログッズ」が売られていて、私は記念の太いろうそくを買った。

 

人々を掻き分けて歩いていたときに、前を歩く娘が、素っ頓狂な声を出した。「ねえ、これ、お母さんの絵じゃない?」

 

見ると、B4大くらいの封筒に、私が描いて二科展に初入選した、「大司教暗殺」の絵が印刷されたものがおいてある。「ええーー!?これはどうしてこんなところにあるの?」と私は叫んだ。

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中には、ロメロ暗殺の生々しい現場の写真が15ページ入っている。凄い写真集だ。それにしても、作者の名前もなければ、承諾も何もなく、勝手に、私の絵を袋に使って売りに出すとは何事だ。内心、穏やかでなくなった私は、売っている人に聞いてみた。「これはどういうわけでここにあるのだ?」

 

売っている学生らしいのが答えた。「ああ、これは作者不詳の有名な絵ですよ。シャツの柄にもなっているし、知らない人は居ないくらい有名な絵です。」これは自分がかいた絵だといっても信じてもらえなかった。

 

そして、私は「シャツの絵」にもなっている私の絵が、何処かにないか、探してみた。売りに出されているのは発見できなかったが、着ている人を発見した。いた、いた。背中に私の「大司教暗殺」の絵をくっつけて歩いているおじさんがいた。私は追いすがって、彼に聞いた。その絵は20周年記念のとき出たもので、もう、売ってないという。

 

私は仕方なしに、先ほどの写真集を買い求め、其処に書いてある出版元の名前を頼りに、追跡調査を始め、マルタに協力を求めた。

 

調べてわかったのだが、実はそれはエルサルバドルの大司教座が出版の責任を負っていたのだ。ふと思い出した。私があの絵で初入選を果たしたとき、数枚の写真を専門家にとってもらって、額装し、ロメロの跡を継いだ名も知らない新しい大司教に送ったことを。その大司教も数年で逝去し、私の絵は文字通り、「作者不明」になったらしい。

 写真集の中身(一部)

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「ロメロ大司教25回忌」(12)

「エルサルバドルにて」(9)

「絵の寄贈の約束」

 

中米と言うところは、著作権関係など、無法地帯である。問題にするほうがあほなくらい、あらゆるものは海賊版になって、巷で売られている。テープ、CD、ビデオ、コピーできるものなら何でも、中国顔負けの商魂である。

 

しかし、まさか、同じ「商魂」がエルサルバドルのカトリック大司教座が、堂々と名前を出してまで、幅を利かせているわけはあるまいと、私は日本における、自分が育ったひどく良心的な教会のイメージを持って、「善意に」解釈した。

 

それで私はまず、売り場を提供した、カトリック大学のメールアドレスに、事の次第を書いて送り、あの絵の作者として名乗り出た。

 

考えてみれば、無名の作家として、たとえ作者不詳でも、自分の絵の海賊版が作られ、シャツの柄にまでなるということは、案外うれしいことかもしれない。でも私には、ほんの少しの愛国心がうずいていた。あの勝手に歩き出し、有名になっているらしい絵の作家が、「日本人」の私であることをアピールしたかったのだ。

 

カトリック大学は誠実に返事をくれた。そして、あの写真集を出したところが、本当に正式に、カトリックの大司教座であり、問題にしたいならそちらに直接どうぞ、と、そのアドレスを送ってきた。

 

私は苦笑いをした。「問題にしたい」わけではない。相手がカトリックの大司教座なら、穏便にことを済ませたい。私はマルタに相談した。

 

数年前、あの絵を描いて、二科展初入選を果たしたとき、私は心を込めて、あの絵の写真を額装したものを、ロメロ大司教の跡を継いだ、大司教に贈った。丁寧な返事をもらい、うれしかったので、家に保管してある。マルタによると、その当の大司教は、ロメロ大司教暗殺20周年を迎える前になくなったそうだ。

 

そうか、それで、あの絵は「作者不詳」になったのだ。悪意はあるまいが、名乗りだけは上げておこう。そして自分の大司教に対する思いも伝えておこう。ただそう思って、私はメールをかいた。しかし返事は来なかった。

 

マルタはそっと言うのである。「あなたは知らないだろう。現在の大司教座の秘書をしている人物は、大司教暗殺に直接加担したダヴィッソンの親族だよ。あまり関わらないほうがいいよ。」

そりゃ、すごいことだ。それでマルタは冷たかったんだ。

 

そしてマルタは、直接話を聞いてくれる人物を知っているし、絵の寄贈に関しても、自分が便宜を図ろうといって、動き出した。

 

彼女は同居人の、かつて私の主人と同窓だった男を伴って、その「直接話を聞いてくれる人物」に会うために、私を連れて行った。

 

私は相手のことを何も知らなかったのである。私はずっと、それは大司教座にかかわりのある人物だと思っていた。私はただ、ことの顛末を訴え、ただ、絵の作者を名乗り出たかった。そして、「絵を使って出版物を売るなら、別に版権を主張して儲けに関して何らかの報酬を期待するのでなく、むしろ、その儲けは、大司教の心にかなう、貧しい人々のためのみに使って欲しい」という、作者としての意図を文書で伝えるつもりで、自分で書いたものを用意していた。

 

ところが、何がなんだか判らないことが起きた。後で、おきた事の問題を整理しての話しだが、マルタの紹介で、出会った人物は、大司教ゆかりの「ロメロ協会」、あるいは「ロメロ財団」と言う団体で、大司教にかかわるすべての行事を担当しているという団体の関係者であった。

 

私の文書は、あれよあれよと言ううちに、目の前で手を加えられ、絵を寄贈する相手先も、あの癌病院のロメロ記念館でなく、その「ロメロ財団」になってしまい、その文書のコピーを3枚とって、大司教座と、癌病院と、当のロメロ協会宛にサインさせられてしまったのだ。

 

私があの時、かろうじて主張したのは、「その儲けは、大司教の心にかなう、貧しい人々のためのみに使って欲しいという、作者としての意図」だけだった。いくら私のスペイン語が貧しくても、私はその部分を改変させられるのは納得できなかった。だから、たとえスペイン語がつたなくても、其処だけは変えるなと主張したのである。

 

私はあの癌病院のシスターをだましたみたいな、変な気分で、憂鬱だった。マルタもその人物も、口を揃えていったのだ。「癌病院のオフィスは小さくて、絵なんか置けない、あの協会がロメロ関係のことはすべて取り仕切っているので、ロメロゆかりの展示室も公開されているし、ずっと大きな空間があり、多くの人々が集まる。」

 

あの時私は言うべきだった。「自分はあの絵を名誉のために描いたのではない。大きい空間に飾られたり、たくさんの人に知られるためでもない。私はロメロ大司教への追悼の念で描いたのだ。できればあの暗殺の現場に飾って欲しいのだ。」しかし後の祭りだった。すべてはあのときの、私の理解不足で、おかしな方向に行ってしまった。

 

まあ、いい。私は気を取り直した。自分の作品を欲しがる人がいる。こっちに飾りたい、あっちに飾りたい、シャツの柄にしたい、写真集の袋にしたい、といって、争っている人がいる。それで、無名の画家としては満足じゃないか。

 

私は、エルサルバドル訪問の当座の目的を果たして、帰路に着いた。