「自伝及び中米内戦体験記」10月21日

 

「使命終了」3

 

「家族集合」

 

エノクは11月に、JICAの面接を受けたが、受からなかった。そのために、彼は暮正月を日本に残って、個展の手伝いをしてくれることになった。クリスマスは娘が孫を連れて帰ってくる。あの騒動以来、家族が始めて合流し、休暇を共に過ごすことになった。そのことを私は複雑な思いで、受け入れた。

 

あるとき、私はいつも一人でやっている冬の準備に、自宅の外側にある斜面の草木や、通行人が放り投げていったごみを片付けていた。冬は草木が枯れる。ただでさえ寂れた家の周りが冬になると又いっそうみすぼらしくなるのがいやだった。私はいつも冬の前に家の周りをこぎれいにしていた。

 

まったく誰も管理をしていないけれど、他人の土地だ。葛が勝手に蔓を伸ばし、木を伝って電線に巻きつき、いつも冬になると風に揺られてヒューヒューと泣き声をあげる。その電線は我が家に直接影響を受ける。電力会社に時々電話して、危険だから取り去ってほしいと頼むのだけど、葛の根っこがもぐっている土地は、持ち主がいる土地だからと取り合ってくれない。根っこはともかく、蔓は木を登り、電線に巻きつき、近隣の家に影響が出る。

 

仕方ないから私が、「葛の根っ子が潜っている土地」の持ち主を探して、交渉した。そうすると、持ち主は、あの土地なら、木を切ろうと草を抜こうと、何をしても結構です、と言うのだ。自分がどうするとは決して言わない。県道と市道の2本の道路の分かれ道になっているあわせて2坪にも満たない三角の土地で、おまけに斜面だから利用価値がない。持ち主にとってはどうでもいい土地なのだ。何をしてもいいという意味は、ごみを捨てようと我関せずと言う意味だけれど、其処は、我が家の入り口に当たる。ごみをすてられたら、実害はうちだけが被る。

 

そんなわけで、その小さな斜面の清掃は、私が気がついたときに、一人でしていたのだ。木の小枝を切り、伸びて絡んだ葛の蔓を切り、捨てられたごみを集め、すべてをまとめてごみ出しの日に持っていく。その後に、今年は私は、草花を植えようと計画した。草花を植えるなら、開墾をしなければならない。

 

そのために私は本格的な労働着を着込んだ。地下足袋を履き、首にタオルを巻き、植木バサミと、高枝きりと、枝を束ねる縄と、用意万端整えて、外に出た。

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(この写真は、いつか蜂にやられたときに、蜂退治のために着こんだ仕事着姿の私。)

 

エノクは、パソコンを眺めていたから、別に声もかけずに外で働き始めた。しばらくしたら、エノクが出てきた。私を探していたらしい。何をしているんだというから、ご覧のとおりですよ、といって、うつむいたまま草をかき集め続けた。

 

エノクは不審そうな顔をしている。「なぜこんな仕事をすると自分にいわないか」と言う。私はその言葉に、怪訝な顔をした。なぜ言わなければいけないか、一瞬見当が付きかねた。エノクは定年前はいつも出張していた。留守の間私はいつも一人で体を動かしていた。誰かに手伝ってもらったことも、手伝いを期待したこともない。「いつもやっている普通のことを普通にやっているだけだけど?」といったら、「なぜ自分がいるのに自分に手伝いを頼まない?」という。

 

なぜといわれたって、誰かが手伝ってくれることなど、考慮の外にあったのだ。それがエノクを「不快」にするなどと、考えてもいなかった。「ああ、じゃあ、手伝って」といったら、彼は会社で支給された仕事着を着て出てきた。そういえば、彼はJICA関係の仕事で、いつも僻地に行って穴を掘ったり、鉱脈を探したりしていたんだっけ。こういう仕事は、別に彼にとって新しいことではなかったのだ。私は、彼が家にいるときは、いつもパソコンを相手にしている姿を見ていたため、デスクワークなんかをしている人間は、野良仕事はしないものだと考えていた。

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(なんかおっかしい。)

 

仕事は彼が手伝い始めてからばたばたと進み、斜面は見たこともないほどきれいにすっきりとして、木の枝と刈り草とごみを自宅の庭に引き取ったから、庭いっぱいに山ができた。それを束ねても、ごみの集積所ではどうにもならないほどの量だ。

 

エノクは近所とのトラブルをものすごく嫌う。飼っている鶏が、ククッとささやいただけでも、飛んできて、声を出させないように、大騒ぎをし、かえってそのほうが煩いほどだ。エノクのいないときに、このごみの山は何とかしようと考えた。「いつも」私はある程度の草木は庭で焼いてしまうのだけれど、多分それをエノクはゆるさないだろう。

 

次の日、エノクが出て行ったのを見計らって、山を焼いた。私はコツを心得ている。少しずつ、焼きながら次から次へと木の枝をくべていく。手にホースを持って、いざと言うときのために、消火の用意をする。そうやって、庭いっぱいの枯れ枝の山を一握りの灰にして、灰は肥料の為に貯めて保存して置く。毎年のことで、容器も用意してある。あとは何食わぬ顔をしていればいい。(ただし、数年前から野焼きは禁止されるようになった。)

 

娘が来たのは、ちょうど個展の開催初日だったので、空港に迎えに行くことができなかった。孫にとっては初めての冬、服装を心配して私はコートと防寒靴を買い、迎えに行ってくれる兄嫁に託した。主人は、あらかじめ頼んだ赤帽と一緒に個展の搬入をすませ、とんぼ返りをして、娘と孫を迎えるために、家に帰った。個展が忙しくて、私は家族に何も食事を用意していなかった。娘は元気だと思っていたから、適当に何かをするだろうと、考えた。

 

娘にとっては何年ぶりの日本の冬だったろう。私が始め心配していたことが、この家族に次々とおそった。インフルエンザにかかったのだ。国外に住居を移してあるから、健康保険がない。はじめに娘がかかり、高熱のため動かなくなった。2歳の孫は、明らかに心配して母親を気遣っていた。どうしたの?元気を出して。ママ、ママ、といいながら、40度の熱にうめいていた母親の傍から離れなかった。たった2歳。はたから見ても、子どもは明らかに、母親を「介抱」していた。娘が回復をしないうちに孫がインフルエンザにかかった。

 

日本の冬を知らず、病気になった二人のため、私は長時間出かけることもできなくなり、病院にいくのも、買い物も、タクシーを使った。寄付をした後に手元に残った私の個展の収入は、あれよあれよと言う間に、ふいの出費に消えていった。エノクは、昔の会社からアルバイトをもらい、2週間ばかり新潟に出かけてしまった。家は片付かず、やたらに忙しかった。そのことが、昔なら、何の苦もなくこなしたことなのに、何かひどく不当なことをさせられているかのように私は感じていた。

 

私は1年以上、家族と言うものから隔絶して一人暮らしをしたために、家族がいるということの意味を忘れてしまったようであった。心からそれが当たり前だとおもって、「世話をする」と言うことが、その時、私には出来なかった。私は新潟から帰って来たエノクを迎えもせず、玄関にエノクの気配を感じて飛び跳ねて迎えたのは2歳の孫だけだった。

 

昔、私は毎朝、ベッドメーキングをしていた。朝食が済むころ、いつもベッドはしわひとつもなく、ホテルのベッドのようにきれいだった。それを私はその冬はしなかった。エノクが、いつまでたっても整理されていない起き抜けのままの自分のベッドを見て、しばらく脇に立っていた。何も文句を言わなかった。ベッドメーキングをしてくれとも言わなかった。

 

しばらくしてから、「あれは、もう、終わってしまったんだな・・・」と、エノクはつぶやいただけだった。かつて、私が心のすべてをささげて尊敬した人の、寂しそうな表情を私はちらりと見た。私の心にも、かすかに影がよぎった。

 

「使命終了」4

「大司教暗殺」が行く

 

それから2006年の正月が来た。

 

個展が終わって、50号の大司教の絵は業者に梱包してもらったが、航空会社に問い合わせたらやはり、サイズオーバーだった。そこで、空港で100ドルの差額を払って手荷物として運べるように準備した。仮縁は仮縁で、解体し、これはただで運べるような大きさに自分で梱包したので、娘と主人が手分けしてもって行くことになった。

 

娘の大学は2月に始まるが、暮れに日本に来る予定を組んで航空券を買ってしまったために、進級テストが受けられず、追試と言う形を取るので、娘は、早く帰らなければならなかった。エルサルバドルの国立大学は、いつでも不穏で、良くストライキがあり、進級テストの日程にまで影響するのだ。11月のはずのテストの予定がどんどん延ばされて、12月の半ばに伸びてしまった。それで、飛行機便の調整が効かなかったらしい。いつまでも、問題が収まらない国なのだ、エルサルバドルと言う国は。

 

それで娘と孫は、正月早々、先に帰った。

 

たった二日間、私はエノクと二人で暮らした。たった二日間、私はエノクのまともな妻であろうと試みた。私の神経は複雑に揺れ動き、昔当たり前だったことが、「努力」しなければできなかった。務めて、笑顔を作ろう。務めて自分に義務を課そう。しかしそれは自己に課した戒めであり、演技以外の何でもないことを自分自ら知っていた。どうしても、元の感情は戻ってこなかった。

 

JICAの面接試験で日本に帰るとき、彼はあえて便利なヒューストン経由を選ばず、彼の「過去の」女と娘の住むロスアンジェルス経由で、しかも彼女たちの家に泊まったことをエノク自らの口から聞かされて、私は唖然とした。宿泊費節約のためだと、彼は言い張ったが、私は彼の友人がロスにはうじゃうじゃいることを知っていた。少なくとも私が聞いてもいないことを言う必要などなかろうに。

 

彼は過去だ過去だと主張するが、人の出会いに「過去」も「現在」もない。仮にそういう時間を区切った言い方をするならば、60過ぎるまで何も知らず、やっと二人になって余生を楽しくと思い始めていた時になって「過去の」真実を知らされた私には、すべては現在進行形ではないか。

 

嫉妬とか怒りを通り越して、私には、男の心の世界がまったくわからなくなった。この人には、すでに私に対する「他人としての」最低の思いやりさえないのだ、と判断せざるを得なかった。この思考以前の鈍感さは一体全体、なんだろう、と、私は苦しむ以前にいぶかった。どう、反応していいか、もう、私の思考の範囲を超えていた。すでに、こうなると、彼は友人でさえもなかった。

 

エノクの持ってきた荷の中のくたびれた衣類の様子を見て、新しい靴下や下着を買い込み、黙って詰め込んだ。エノクは決して自分のもので、贅沢をする男ではなかった。その衣類の様子から、彼が自分のことなど考えず、娘のため、老いた父のため、安い給料に堪えて、身を賭して働いている事が知れた。夫婦としての感情がなければ、彼はじつに「よい人」なのだ。まことに、変化したのは私だけだった。

 

淡い雪が降った。雪の降る外を窓辺に立って、エノクは眺めた。「ここは静かでいいなあ。平和にやっていけるものなら・・・」とエノクは雪を見ながらつぶやいた。私の感情凍結状態を、彼は恨めしく思っていた。しかし、彼は、私の変化が、自分に原因があるとは、夢にも思っていなかった。あくまで、自分は家族思いで、協力的で、誰よりも良い夫で、誰にもひけをとらない一家の大黒柱なのだと思っていた。

 

1月17日、エノクは私の「大司教暗殺」の絵を持って、エルサルバドルに発った。私が稼いだ個展の収入の残りは、最後の3000円だけだった。「3000円あるな・・・」、エノクが帰って、当時週1で働いていた幼稚園が始まれば、月末には3万円入る、それまでこの3000円で生きよう、と考えた。しかしその3000円は、エノクが出国間際、足りないから貸してくれ、といって持っていった。あれが最後の3000円だということを、もちろんエノクは知らなかった。

 

その年の3月24日の大司教の命日に、あの絵の授与式があり、エノクと娘は、儀式の中で、かの絵をロメロ財団に寄贈した。その「儀式」の様子を、彼はファイルで送ってきた。

 

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贈呈式1

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贈呈式2

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贈呈式3

 

そのファイルを見て、自分がエルサルバドルに行って内戦を体験したことの意味が、これで一応成就したな、と感じた。その時私は、すでに、絵も二科会も、家族も、健康も長生きも、余生の過ごし方もどうでも良くなった。

 

私の使命は終了したのだ。