「自伝及び中米内戦体験記」10月22日  

 

「仏教との出会い」1

「チャットの部屋にて」

 

私はある時ある物事にものすごく興味を持った。それで神経が猛烈にその物事に集中し、わからないから、その物事について知っている者の胸倉つかんで、教えろといい、図書館に飛び込んで、その物事にかかわる30数冊の本を借りて読み、ネット書店のアマゾンを探して、どんどん、その物事にかかわる本を注文し、むさぼり読んだ。

 

いつもそんなことやりながら生きてきたんだけど、その結果、それでも何もその「物事」の本質はわからないくせに、いつの間にか、その物事、つまり「仏教」の影響を深く受けてしまった。

 

そういうのを多分、「出会い」と言うのだろう。そうやって、私は仏教と「出会った」。

 

私は別に仏教を「求めた」覚えはない。わからないから、私の脳みそがわかろうとして努力しただけだった。毎日毎晩それはそれは緊張し、私の脳みそは仏典に集中していた。

 

さかのぼる事2年前、私はある仏教校に国語講師として臨時採用をされた。その時、初めて、「般若心経」なるものに触れた。いくら読んでも意味がさっぱりわからず、なんとしてでもわかろうとした。その当時英語講師として週1で勤めていた幼稚園の空き時間に近所の図書館に通い、仏教関係の本を手当たりしだいむさぼり読んだ。たぶん、あの図書館の仏教関係の蔵書をすべて読んだだろう。分館にまで探してもらって読んだ覚えがあるから。

 

自分は「仏教国」日本の国民でありながら、厳しかった時代のカトリックの家庭に生まれ育ち、他宗に触れたことがほとんどなかった。地域の祭りにも参加せず、仏教寺院は偶像崇拝の館として近寄らなかった。

 

だから、そもそも、仏典や、仏教用語、その解説書に書かれていることは、初体験で、ほとんど外国語に近かった。むしろ、解説書を英語で読むほうが、よほど何を意味しているのか理解できた。

 

まだ、エノクと一緒に住んでいたころ、彼は仏教に興味を持って鈴木大拙の英文の仏教解説書をいつも読んでいたから、自分もそれをぺらぺらとめくってみたことがあったのだ。その時、それほど仏教に興味はわかなかった。興味がわいたのは、仏教校で生徒が理解している世界を理解したいという切実な願いがあったからだった。そして、相手がいなくなったあとでも、わからないままにしておくのは、なんとも気がかりだった。

 

あの学校の教壇に立つ前、仏教関係の本では、たった一冊、「歎異抄」を知っていた。高校時代、変わり者のさる日本人神父が、説教で、「歎異抄」を引き合いに出し、それを極めてキリスト教的に解釈して紹介したのだった。

 

ヤフーのチャットの部屋で、ある男に会った。その男は、私の直接の知り合いではなく、私が出入りしていた、かの仏教部屋の主の札幌男の友人で、いつも二人は議論していた。その議論が面白かったので、私は傍らで会話を眺めていた。

 

彼は親鸞の話をしていた。自分の仏教への取っ掛かりは、唯一、その親鸞だった。歎異抄なら高校時代にふれたことがあるから、そこから入っていけば何かわかりそうだったし、質問のし様もあった。

 

その会話を見ているうちに、私は、自分の疑問を、その男にぶつけてみようと思った。彼の話し振りには知性と論理性があり、ご利益宗教、呪術宗教、前世、来世の化け物信仰に陥りやすい、もろもろの「仏教風の」宗教の徒ではないようだった。

 

こちらが真面目に質問をすれば、一晩でも二晩でも付き合ってくる、そのくせ自分の信念を他人に押し付けない、他宗を誹謗しない、数少ない種類の人物だった。彼はこちらがキリスト教徒だと知ると、聖書も読む、そしてその聖書を仏教的に解釈する。それがいかにも面白かった。私は聖書を読むよりも前に、教条的な聖書の解釈を「習ってしまった」人間だったから、他宗の人物の別の解釈は、新鮮だった。

 

彼はお寺の出身ではなくて、理解できないことを理解しようと原典に当たって研究している「凡夫」だそうだ。「凡夫」とは、キリスト教で言う「罪びと」なのだろう。

 

仏教部屋の主は自分のことを「煩悩具足」だという。これもやっぱりキリスト教で言う「罪びと」なのだろう。反発を食うかもしれないけれど、そのことは後に解説する。

 

で、話の都合上、この部屋主を、その出身地から「札幌男」とよび、その相手は浄土真宗の門徒らしいので「真宗男」と呼ぶことにする。

 

始め、私の疑問は、「神」と言う言葉の意味から始まった。札幌男によれば、「お釈迦様の前には神々も額づく」そうだ。彼はそれをあたかも、仏教がキリスト教の神の上を行くとでもいいたいような口調で言う。その「神々」っての、キリスト教にはいないけどね。

 

ともかく仏教で言う「神々」って言うのは、何かに「額ずいちゃう存在」らしい。これ、キリスト教に結び付けるのは、無理だ。

 

そのチャットのメンバーの他の話者がいう。「一神教は諸悪の根源だ。多神教との東洋人のほうが、一神教徒の欧米人より平和を愛するのは、欧米人は一神教でヒステリックであり、多神教の東洋人は鷹揚なのは、多くの神々を認めているからだ。」

 

神々って言うのは、人間様に「認められる存在」なんだね。つまり神様の戸籍謄本は人間様が統括するんだ。それに戦争の勝敗で言うなら、欧米人は勝者だから、宗教に無関係で傲慢で、東洋人は敗者として、宗教に無関係に卑屈だけどね。

 

なんだか、余りにも私の持っている概念と違う話を聞いて疑問に思った私は仏教部屋の面々の会話を目で追いながら、あるとき、真宗男に、数件の質問状を送った。

 

彼はその質問に対して、A4版30枚ほどの回答をよこした。うちのコピー機を使って全部コピーして読んだけど、すごかったね。まあ、その回答にすべて納得したわけではなかったが、その真摯な回答書に満足だった。

 

彼はその中で、一般的に「仏教的」とされている論理性を欠いた化け物信仰の解説をしてきた。

 

「仏教との出会い」(2)

 

私は、30代のころから教え子との関連で、言語の意味の上から「記紀神話」の研究を、続けてきた。さるサイトにも、それを発表してきた。始めに発表の場としていたMSNは閉鎖になり、その代わりにメルマガ配信をした「記紀神話考」というブログを書いたが、これも閉鎖になった。原稿だけが私の手元に残っている。

 

この研究の中で、私は「神」と言う日本語にこだわった。

 

記紀の記述に拠れば、日本の神々は生成変化するもので、「葦黴のごとく成る」ものである。いわば「涌く」ものだ。人が死んで「神」と成るのも、日本古来からの原始信仰の中にあり、東条英機が「神」として祭られるのも、それは「成った」からであって、キリスト教の「ヤーヴェ」には、まったく関係がない。東条英機はヤーヴェになったとは誰も言っていないから、誰かが靖国参拝をしても、キリスト教徒が騒ぐことはない。

 

一方、キリスト教が「ヤーヴェ」の日本語訳として現在使っている「神」は、生成変化する存在ではない。「ヤーヴェ」とは「在りて在るもの」、つまり「自在するもの」「すべての存在の元」、「原存在」である。だからヤーヴェを「神」と訳すのは完全な誤訳である。

 

本来ヤーヴェはイスラエル民族の伝承の中に出てくるからといって、イスラエルの軍神ではない。イスラエル民族が自民族の軍神として今でも捉え続けている存在を、全人類の「父」、「愛の源」と、初めて公言したのが、キリスト教の元祖であるイエスその人だ。

 

そこをイスラエル人も当のキリスト教徒も旧約聖書の記述にこだわって、誤解している。「と、私は考える。」

 

イエスは「律法を完成させるために来た」といっている限り、旧約の律法は「未完成」だということであり、イエスは「目には目を」の価値観を「右の頬を殴られたら、左も出せ」の価値観に置き換えた人間だ。

 

そこを受け入れない「キリスト教」は、キリストさえもある集団だけを守る軍神にしてしまって、キリストを信じないものはぶっ殺すぞといって、世界戦争を起こしたりする。1神教だからおかしいのではなくて、母体となったユダヤ教から脱皮していないからおかしいのだ。

 

「全人類の父」と表現されたヤーヴェは「原存在」であるから、人間が信じようと信じなかろうと、存在そのものなのだ。人間から存在の許可をもらって存在しているわけではない。だから、東洋人は神々を「認める」から心が広い、などという論理は成立しない。

 

そして、ヤーヴェの「存在」を表すような、そんな定義を持つ言葉は、日本語の中に存在しない。

 

そもそもそれを「一神教」と呼ぶのは間違っている。「原存在」は始めなく、終わりなく、遍在するものであり、真理そのものであるから、一も二もない。そもそも数の概念の範疇にない。

 

だからヤーヴェは宇宙の根源、すべてを包含する存在である。そういう存在が、お釈迦様にぬがづくかいな。だいたい、ヤーヴェには、額づくための「額」がないよ。(げらげら^^)見えないんだもんね。

 

そう私が、真宗男にいったら、「そうか、ヤーヴェがそういう存在なら、それは仏教で言う『法』だな。」と答えた。「おう!」と私は、紛らわしい「神」以外に、ヤーヴェの訳語が、他宗にあることに喜んで話を進めた。

 

「そんな存在が仏教のほうにもあるのか!私は仏教の仏さんたちは、みんな人間が死んで生成変化したものかと思っていた。」

 

「ヤーヴェ」と「法」の相違点は、一方が人格化された存在であり、他方が、より抽象的な観点から捉えたものである点らしい。

 

そのことにあえて留まらず、私はこの真宗男との仏教・キリスト教論争を進めて行った。

 

「仏教との出会い」(3)

「ヤーヴェ」と「神」、「一神教と多神教」

 

私は中村元と、もう一人は ひろさちや という仏教学者の本をかなり読み漁った。この二人からは、仏教に関しては多くを学んだ。ひろさちやは読みやすく、中村元は読みにくかった。

 

ところで二人とも、仏教を語りながらよくキリスト教に触れる。しかし、キリスト教に関しては、中村氏はかなり否定的で、ひろさちや氏は非常に深読みをし、かなりの部分肯定的な要素が多い。

 

ただし二人はヤーヴェ解釈では一致して、誤解している。もともとは仏教を知りたいと思って読み始めたことだけれど、キリスト教に対する記述が、何度も何度もでてくるので、どうしても神経がそういうところにいくのだ。

 

「神など、ごろごろいるのに、自分の神だけが正しいというのは、傲慢である」と、中村氏はキリスト教を批判して言い、「一神教は、たくさんいる神々の中から一人を選んで、それだけが唯一の神だといっている」と、ひろさちや氏はいう。「神」って「ごろごろいるのかい。

 

キリスト教側の常識では、「ごろごろいる神(存在)」を、そもそも「神」とは呼ばない。ひろさちや説は、新約聖書を無視して旧約聖書の記述のみを読んでいると、そう取られても仕方がない観がある。つまり、旧約聖書の「神観」は「他を排除して、一人だけ選んだイスラエル民族を守る軍神」である。新約聖書の「神観」は全宇宙の存在のもと「第一原因」である。

 

旧約聖書のヤーヴェの表現は強烈で、「始めなく終わりない、『在りて在るもの』以外に呼称のない全宇宙の創造神」であると「表現」しながら、一方、その「神」はイスラエル民族のみを守り、異民族はハエのごとく追い払い打ち滅ぼす神として表現されている。

 

そして、現実に旧約聖書を母体とする多くのキリスト教集団は歴史的に異民族に対して「うちてしやまむ」の精神で侵略を繰り返してきたのは事実である。それはカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、世界制覇を目指すキリスト教陣営の心のよりどころにさえなっているから、こういう解釈がなされても致し方ない、と私は考える。

 

世界の趨勢を歴史的に見ても、キリスト教徒は、異民族を支配するために、聖書を「利用」してきた。三位一体の神を信じないもの、洗礼を受けないものは、地獄に落ちると脅迫して、強引に、キリスト教圏を増やしてきた。(2020年現在の米大統領だって、聖書片手に、吠えてるしね^^。あれ、なに?もう)

 

私が子どものころに通ったスペイン系修道女会の学校でも、スペインカトリックの体質を表す出来事があった。

 

ある生徒の妹である赤ちゃんが死んだ。知らせを受けたあるシスターが、いきなりその生徒に聞いたのだ。「赤ちゃんに洗礼を授けましたか?」きょとんとして、首を横に振った生徒に、そのシスターは言下に宣言したもんだ。「それでは、あなたの妹さん、地獄です!」

あまりにひどいと思った私と姉が、帰ってからそれを母に言った。母はあきれてあいた口を閉めなかった。我が家は全員カトリックだったが、こういう反常識発言が正しいといった者は一人もいない。

 

「キリスト教徒の大半はイエスを誤解することによって成り立っている」とひろさちや氏は言う。そうだなあと、私も思う。しかし、聖書を深読みするひろさちや氏も、ヤーヴェに関しては、誤解しているようだ。

 

イエスはユダヤ民族が自民族の軍神として捉えた「ヤーヴェ:在りて在るもの」を本来の姿に戻した。すなわちそれは「全人類、全宇宙をつかさどる普遍、不変の真理として、全人類に対する無条件の愛そのもの」として、「父」と呼んだ。それはユダヤ教に対する革命であって、イエスの福音とは旧約の制約や自民族の軍神としてのヤーヴェの定義からの解放であり、全人類に対する愛の宣言だったのだ。

 

旧約の記述に従えば、「ヤーヴェはたった一人の神で、他の神々は偽者であり、しかも、その神はユダヤ民族のためにあり、ユダヤ民族だけを守り、600以上の戒律の遂行をヤーヴェとの契約であると主張し、安息日には人が死んでも身動きもせず、その名に置いて、有史以来の約束の地であるパレスチナには侵略し、破壊し、爆撃し、住民を無差別に虐殺しても赦される」というのなら、キリストが出てくる意味がまったくない。

 

イエスは実にそれらを否定したから捕らえられ磔になったのだから。

 

旧約聖書と新約聖書の違いを無視して、読んでいる限り、「神など、ごろごろいるのに、自分の神だけが正しいというのは、傲慢である」と言うのも正しい。

 

しかしそれは、仏教の出身母体であるバラモン教と仏教を同一視し、釈迦の活動を無視してバラモン教の神々を仏教に取り込むことと同じである。

 

梵天や帝釈天は、バラモン教の神々である。釈迦のまえに「額づいた」と言う表現は、釈迦がバラモン教を超えたという意味だと、かの真宗男は言う。

 

そうならば、仏教に神々は無用だから多神教ではなく、普遍、不変の原存在としてのヤーヴェは数の観念で数えられる存在ではないからヤーヴェを戴くキリスト教は一神教ではない。

 

私は世界に名だたる仏教学者が、一神教の名の下に、キリスト教をそのように断罪しているときに、チャットの部屋の一介の非キリスト教徒の民間研究者に過ぎない真宗男が、「ヤーヴェ:在りて在るもの」を仏教における唯一の真理、「法」と同じものだろうと言う言葉を聞いて、うれしかった。

 

じつに物事は、其処から出発したのである。