「自伝及び中米内戦体験記」10月24日

 「仏教との出会い」(7)

 

「輪廻転生と終末観」

 

ある時、私は仏教のチャット部屋に入ったら、札幌男がメンバーを相手に、仏教の講釈をしていた。アングリマーラとかいう人物の話だった。彼はアングリマーラが特に好きらしくて、よく、話題にしているが、彼の話の帰結がどうもあやしくて、それまであまり興味を惹かれなかった。

 

ところがその時は、どういう風の吹き回しか、打たれるログをじっと目で追っていた。

 

彼の語るそのアングリマーラとは、本来はまじめな男だったらしいが、彼が仕える主人から誤解を受けて、その命令によって1000人もの人を殺した男だそうで、紆余曲折の末、一念発起して釈迦の教団に入ったのだそうだ。

 

で、その男、入団してから町に托鉢に出るたびに、彼に親族縁者を殺されて怨念やるかたない町の人々から、お布施どころか石を投げられ、罵倒され、アングリマーラはいつも血だらけになって教団に戻ったのだそうだ。

 

「それを釈迦はよしとした。」と札幌男は言う。

 

釈迦がよしとしたのは、札幌男によると、罪を犯したアングリマーラが「今世」において罪の償いをしておかないと、因果が「来世」に響くからだそうだ。私には、その因果だの来世だのがわからない。因果が来世に及ぶという考え方の根底にあるのは、輪廻転生思想だから、それがわからないと、ひどく、彼のいう釈迦の態度が冷淡に思える。

 

へ~~え。人を殺したら、遺族から復讐を受ければ来世で、救われるのか・・・。だったらその「遺族」の方はどうなるんだ?復讐は復讐を呼んで、永遠に続くんじゃないの?そこにどんな救いがあるのかね・・・殴られたら殴り返す、殺されたらその遺族が殺し返す、それっていったいどんな「救い」なの?

 

この話には、輪廻転生観が付きまとう。今世で罪の償いをしておかないと、来世で苦しむことになる、と言うのだから。

 

再び、札幌男の説明によると、輪廻転生観とは、人間をはじめ、生き物の魂は永遠不滅で、肉体を借りて生まれては死に、死んでは生まれ、六道輪廻を繰り返して、永遠にぐるぐる回っていると言うことらしい。

 

それを悟りによって打破したのがお釈迦さんだと、信じられている。で、その悟りを開いたお釈迦様を正しいと思うから、仏教は成立しているんじゃないの?復讐の連鎖を永遠に続けていたら悟りもヘチマのなかろうに。

 

そもそも「悟り」って何なのだ。

 

輪廻転生など、信じたこともなく、悟りとは何を意味するのかも知らない私には、この手の物語はどうしようもなく理解不能で、むしろいかがわしい物語に聞こえる。それはちょうど、旧約聖書を読んだ門外漢が、キリスト教徒のことを、こんなおとぎ話信じている集団かとさげすむ感覚と同じだろう。

 

この世でこうすれば次の世でああなる、だからこの世でいいことすれば次の世でもいいことがある、この世でうまく行かないのは、前世の報いだ、だからお墓参りしなさい、100万円の壷を買いなさい、という話が、輪廻転生の尻尾には付きまとう。こういう考えがさまざまないかがわしい新興宗教を生み出す元凶だと、私は考えていた。

 

で、札幌男の説明によると、アングリマーラを殺人鬼のまま放置しておくと、来世で修羅界とやらに追いやられて苦しむから、今世で、投石を我慢して報いを受けておくのが救いだと、お釈迦様が考えたことに成る。でさ、投石したほうの救いはどうなるんだろうね。

 

これは先ほどから引用してきたキリストの「無条件の愛」とはまったく逆のやり方だな、と私には思えた。札幌男の解釈だと、釈迦の救いには冗談じゃないほど厳しい「条件」がついている。 

 

それで私は以下のような考えを札幌男にぶつけてみた。

 

1)釈迦は死ぬほどの厳しい修行の結果、修行を放棄して悟りを開き、「輪廻転生を超えた」ことになっている。だいたい、この輪廻転生を「超える」って何のだ?超えたのに、何でまた輪廻転生を肯定しているんだ。

 

しかもなんで、「釈迦が自分で放棄した厳しい修行をしないと」のちの人々が悟りとやらを開かないのだ。そこのところがわけががわからない。

 

2)殺したやつは、石を投げられて我慢しなければ救われない、投石に耐えると救われる、そういうことなら、刑法と変わらないじゃないか。

 

この考えの中に、愛も慈悲も何もないじゃないか。殺したら殺されても仕方がない、そうすれば因果は終わって、悟りとやらを開くことができるというのかい。石を投げた群集のほうはどうなる。アングリマーラも、群衆も、どこに救いとやらがあるのかい。

 

イエスは石殺しの刑にあっている女性をかばってこう言った。「お前たちのうち罪のないものが、まずこの女を打て!」つまりイエスは「合法的に」殺されかかっている女性も、「合法的に」女性を殺そうとしている群衆も、罪においてどこにも違いがないことを皆に知らしめたのだ。

 

仏教の方じゃ、アングリマーラには投石に耐えることを要求し、群衆には投石することを許したのなら、ただの復讐合戦だよ。仏教の救いって何を意味するの?

 

そういうと、札幌男は、「仏教の生死観と、キリスト教の生死観は、次元が違うので、キリスト教徒のアンタにはわかるわけがないんだ」と、いって済ましている。

 

この言葉は全くの拒絶だ。質問には答えない。キリスト教徒にはわからない世界だ、ある種の人間には、理解不能だから教えない?だったら布教なんかするなよ。

 

少し頭にきたので、その場に居合わせなかった、無関係な真宗男に、私はがみがみ抗議のメッセージを送った。

 

「仏教ってなんだよ。人殺しのアングリマーラにはこの世でやった罪はこの世で石で打たれて罪を償え、自分で石打の刑に耐えよというなら、慈悲って、どこにあるんだい。人間、めくらも、びっこも、らい病患者も、全部因果応報の結果を身に受けているんだから全員修行して、自らを救えというのかい。

 

イエス以前のユダヤにだって、そういうのはみんな罪の結果だという常識があったんだぞ。イエスはその常識を叩き壊して、律法や伝統的慣習や、常識に、愛を優先させたんだ。

 

仏教じゃ、それは因果応報だから、自分で自分を救う以外にないというのかね。

 

釈迦と言う男は、だいたい、一人息子に『ラーフラ(障害)』などと名づけて、妻子を捨てただけあって、人間の弱さに対して冷淡だ。結局自らの力で自らを救えと言うなら、釈迦の悟りって何だったんだ?」

 

無関係な相手に、ちょっとむちゃくちゃな言いがかりだった。

 

「仏教との出会い」(8)

 

「スッタニパーダ」の解釈

 

私にねじ込まれた真宗男は、へらへらと笑った。(ネットの中だから、実際はへらへらと笑ったかどうか知らない。でも打たれた文字から、私はそう感じた。)

 

そして彼は、あまり私の言葉の相手をせず、「へんてこな奴の言葉なんかにいちいち惑わされないで、原典に当たったらどうだ?」といってきた。

 

そこで私は彼のいう「原典」、「スッタニパーダ」を読む羽目となった。

 

「ブッダのことば:スッタニパーダ」中村元訳、岩波書店。いつも行く図書館で見つけた。釈迦と弟子たちとの対話で、仏教の経典としては最も古いものである。

 

読み始めてしょっぱなから、おや!と思った。「~するものは、この世とかの世を共に捨て去る」と言う言葉が連句のように出てくる。怒り、愛欲、妄執、驕慢、固定観念、栄枯盛衰、妄想、虚妄、煩悩、などなどを捨て去るものは、「この世とかの世を共に捨て去る」のだそうだ。

 

キリストが、すべての私有物を捨て、執着の足かせである家族も捨てて、「自分の十字架をとって我に従え」、と言った、あの言葉に通ずるものがある。

 

意味ありげな怪しい言葉が並んでいる。これはどういう意味だ。ひじをついて、じっくり眺めた。妄執ってなんだ?固定観念てなんだ?妄想ってなんだ?さらに、「この世とかの世」とはなんだ?「捨て去る」とはなんだ?矢継ぎ早に私は真宗男に聞きまくった。

 

「それだよ」、と真宗男は言った。

 

「釈迦はしょっぱなから、前世(かの世)今世(この世)も、永遠に続く輪廻転生なんてのも否定しているよ。みんなが仏教の考えだと思っている輪廻転生観は古代インドのバラモン教の考えで、バラモン教を超えたのが釈迦なのだ。札幌男が好きな、釈迦の前に梵天がひれ伏したという表現も、釈迦がバラモンの神々を否定したという意味だ。」

 

「えええええ?札幌先生は釈迦の前では神々さえも額づくほど、釈迦は偉大なのだと解釈しているよ。まるでヤーヴェが釈迦に降参したみたいに得意そうに、言っているよ」

 

「いちいち変なのに惑わされないで、原典にあたれと言っているじゃないか。ほっとけ、そんな解釈。だから釈迦は妄想とか虚妄をうち掃えと、しょっぱなから言っているんじゃないか。釈迦はバラモンの妄想の世界にあったことを、すべてをうち掃えと言っているんだ。だからバラモンに根差した輪廻転生感など、思考の土台にしていないよ。」と、真宗男は再び、へらへら笑った。

 

とすると、妄執、妄想、虚妄というのは、バラモンの思想の輪廻転生感からくる考え方?!!それを捨てるところに「この世とか、かの世」とかいう妄想から解放される?

 

うっひゃっひゃ、こりゃおもしろいや~~。でも、それじゃあ、なぜ、日本で、その「虚妄」が復活しちゃったのだ・・・?新たな疑問が湧いた。

 

彼によれば、仏教における「輪廻転生」とは、人間一生の間に起きる、心の動きだそうだ。順境にあればいい気になって貪欲の限りを尽くし、逆境にあればうじうじ自己憐憫に陥って、人を恨んだりするのを「地獄界」の状態といい、貪欲を「餓鬼界」、愚痴を「畜生界」、怒りを「修羅界」、食欲・色欲・睡眠欲の他に名声・利欲の二欲を加えた五欲の世界で右往左往するのが「人間界」、成功して、「天上界」にいる気分でいい気持ちで遊んでいる状態も、ちょっとの隙があれば修羅道に陥る、そういうことの繰り返しが、「現実の人生」で繰り返して起きている、そういう状態を「輪廻」と言うのだそうだ。

 

おおおおおお!!!納得したぜ!

 

人生の終局で、それらの妄想を乗り越えたときに、多分、永遠の安寧が訪れるんだろう。そのことを、釈迦は「悟り」といったのかもしれない。

 

「だとすれば!」私は、突然聖書のあの有名なとんでもない箇所を思い浮かべた。

 

ハルマゲドンの記述だ。あまりにも詳細に渡り、あまりにも視覚的表現が生々しいために、世の終わりには、地震災害が現実に起き、死者が蘇り、偽のキリストが現れ、最後に人々を裁くために、本物のキリストが再臨する、そう預言されたところのあの「ハルマゲドン」。

 

とんでもない似非新興宗教の教祖が、ハルマゲドンを演じるために、地下鉄にサリンを撒いたりするよすがとなった、あの有名な記事が意味するものは、これも、人間一生の間に起こりうる、人生のハルマゲドンではあるまいか。たとえば、先ほど余談で出したスペイン兵士の例は、まさに仏教における「修羅道」、キリスト教徒の心の中の「ハルマゲドン」状態だわ。

 

人間一生の間に、平和だった生活も、どんでん返しが起き、信じていた人々に裏切られ、愛する家族も離れていき、災害によってすべてを失い、詐欺師にだまされ、われこそは神だぞというものたちの出現に、引きずられて右往左往し、そして、最後に裁きの庭(これも実体じゃないだろう)に出される、そのことが、あの終末論の意味することではないのか。

 

もし両方とも、苦楽が人間一人の一生の間に起きることと言う解釈が正しいなら、キリスト教の終末観はかなり刹那的な表現で、仏教の輪廻転生のほうが、よりよく整理ができているが、何も奇跡や輪廻転生を無理して「信じ」なくても納得がいく。

 

仏教は出身母体のバラモン教の同じ言葉を受け継いでいるために、誤解し混乱するが、それは、キリスト教のそれが、旧約の預言を意識して、重ね合わせた言葉遣いになっているために、混乱するのと同様なのかもしれない。

 

輪廻転生もハルマゲドンも、共に、一人の人間の人生上のさまざまな出来事なら、意味も分からず信仰箇条として盲目的に唱えるというような行動をする必要もないのだ。そういう思いに到達した。

 

(アングリマーラの伝説について。上記はチャット内の一人の人物の語った話。アングリマーラの物語にはもっと深い前後がある。仏教の名誉のため^^以下参照。

http://www16.ocn.ne.jp/~housyuji/bukyo/bukyo7.html 

 

「仏教との出会い」(9)

 

「無明の発見と原罪の意味」(1)

 

「キリスト教徒って馬鹿みたいだな、神様が粘土でこねて人間を作ったって信じているよ。」と、チャット部屋で発言した人がいた。

 

そりゃ、馬鹿みたいだな^^。大賛成。聖書の記述は、字面どおりに読めば、みんな馬鹿みたいなのだ。アダムとイヴをだまして、りんごを食べるようにそそのかした蛇は、神様から罰を受けて、地を這うようになったという記述もあるが、字面どおりに解釈するなら、そそのかす前の蛇は、尻尾で立って歩いていたんだろう。そりゃ面白いけれど、バカみたいだね。

 

しかも、旧約の預言によると、一人の処女が現れて、その蛇の頭を踏み砕くということになっているから、中世、製作されたイエスの母マリアの像は、足の下に踏みつけられた蛇がいる。私の行っている教会にもそういう像があるよ。

 

ところで、新約聖書の記述のほうには、マリアさまが特に蛇を見つけて踏んだという記述はない。あの時代の女性が靴をはいていたかどうか知らないけれど、蛇、踏むのも楽じゃなかったのだろう。

 

この手の話題に関しては、聖書のすべての記述を何の研究も洞察もなく、実体として把握するタイプの人と話せば、とんちんかんで滑稽な会話にならざるをえない。

 

世界の古文書を記述どおりに受け取るなら、そこから何の精神性も発見できず、今の世に、聖書は必要がない。世の中に聖書学者は必要ない。とくに、外国語訳された聖書なんて、そもそも、言葉を受け取る民族の感受性と時代性にかかわっているから、真実なんて、絶えず検討されなければならない。聖書が神の手によって書かれたものだから、研究してもいけないというとき、すでにその聖書は偶像となっている。偶像とは何も、でくの坊のことだけではないのだ。

 

ところでそういう私も、過去、いくら指導者に教わっても「原罪」の意味を理解できなかった。だいたい、楽園の真ん中の木の実は食べちゃいけないと神様がいったのに、食べたと言う事が、楽園を追われ、人類のすべてがその罪を負わなければならないほど、たいそうな罪とは、いくら子どもだからといって、考えられなかった。その意味することを深く考えようにも、教会と言う組織の中にいると、暗黙の強迫観念に陥って、質問するのもおっかなくて、「本当は笑いたくなるような」記事でも、思考停止にしなければやっていけなかった。

 

昔、カトリックの教会の中で、本当か嘘かしらないけれど、一つの伝説があった。それは、「ユダヤ人は、イエス様を殺した罪によって、神様から国を奪われ、決して再建ができないのだ、もし再建したら、地球が滅ぶのだ。」と言う伝説だった。小学生の私が、そのようなことを知っていたのは、指導のシスターがそう言ったからで、まさかその時代から私に研究癖があったわけではない。

 

ところでイスラエルは1948年建国した。私はその当時小学校2年だったから、それを知っていたわけではない。高学年になって、新聞を読むようになってから、そのことに気がついて「おかしいな」と思った。

 

だから、私は単純にただ、教会のシスターに、「でも、イスラエルは、もう建国していますけど・・・」と言ってしまった。その時シスターは真っ青になって怒った。「そんなことありません。イスラエルと言う土地の名前だけがあるだけで、国が出来るわけありません。出来たら地球は滅ぶのです!」。ものすごい剣幕だったのに、私はアホだから、よせばいいのに追求した。「でも、新聞にそう出ているし、地球は滅んでいませんが・・・」

 

その質問が気に障ったのか、私は教会の教理のクラスから追い出されてしまった。私は特別喧嘩腰で言ったわけでもなく、ぽかんとしていったのだから、多分それが余計神経に障ったのだろう。母はそれを聞いて「馬鹿馬鹿しい・・・」とつぶやき、以後無理に教会学校に通わせたりしなかった。

 

何しろ、信者が被るベールを洗濯させる為に、「ベールの色は心の色を表します」とシスターに言われたときに、シスターのベールが黒いと指摘して、小学校退学になった経歴の持ち主だ。母も、こいつだめだと思ったのだろう。

 

実はこの話を真宗男にしたところ、「よかったなあ」と言う。なぜだ、と聞き返したら、「ヤーヴェはちゃんと貴女を守っていて、へんてこなところから、はずしてくださるじゃないか」ということだった。^^

 

かようなしだいなので、アダムをだました蛇が、だます前は尻尾で立って歩いていたんだろうよ、なんていおうものなら、教会の指導者から殺されちまったかもしれない。だいたい、教会のシスターは「蛇にだまされた」という表現を「表現」として教えないで、「実体」として信じることを強要したんだから、始末に終えない。多分彼女自身が、聖書の記述をサンタクロースの存在みたいに信じていたんだろう。(あ、まだ信じている人、ごめん。サンタクロースは世界中にうじゃうじゃいますね。)

 

私はそんなわけで、子供のときから「ひねくれている」といわれていたが、私は目がよかったにすぎない。ほかの仲間みたいに警戒心が強くなかったが、目に見えることに対して、私はひねくれたことは一度もない。

 

(ところで、これも余談だが、イスラエル建国から80年近く、中東の情勢をみるにつけ、どうも、あの伝説は正しかったんじゃないかと思う今日この頃である。^^)