「自伝及び中米内戦体験記」10月25日

「仏教との出会い」(10)

「無明の発見と原罪の意味」(2)

 

例の真宗男と、仏教の話をしている間に、私はこの「原罪」の意味について論争を交わすことになった。原罪というものが、宗教や哲学や人間すべての存在にかかわる基本的な大問題であるはずなのに、蛇の尻尾に追いかけられて、思考停止状態にしておく手はない。だいたい、キリストは、人間に「原罪」がなければ、登場する必要がない存在なのだ。原罪ゆえに救いが必要で、救いの意味は原罪の意味を追求することなしに、理解できないものだから。

 

これを神様が人間を粘土でこねたとか、人祖がりんごを食う前は、蛇が尻尾で立って歩いたとかいう漫画チックな次元のまま、放置するわけには行かない。

 

私の原罪に対する思索の歴史は高校時代にさかのぼる。かつて私の通っていた高校は、校長が面白い人物だった。校長は自ら宗教の授業を受け持ったが、小中学時代に出会った、アニメ漫画みたいなものを信じているシスターとのやり取りのような目には、幸いながら会わなかった。まあ、高校生相手で、あんなんだったら、どうしようもないけれどね^^。

 

何しろ私は、高校の入学試験の面接のときの校長との問答で、すっかりあの学校が気に入ってしまったのだ。校長の強烈な視線に、こちらも強烈な視線(実は、それまで、この「強烈な視線」がいつも嫌われていた原因だったのだけれど)で答えながら、私は「テスト」を受けているという気はしなかった。

 

其時の会話

 

校長:あなたは信者ですね?

私:はい

校長:イエズス様の生涯で何が一番大切だと思いますか?

私:ご死去とご復活だと思います。

校長:クリスマスはいかがですか?

私:生まれたことより、どのように生きて、何を語り、どのように死んだかの方が意味あることだと思います。

校長:イエズス様の教えの中で中心はなんですか?

私:隣人愛だと思います。

校長:隣人愛がなぜ大切ですか?

私:一番難しいからだと思います。

校長:あなたにそれができますか?

私:私は今まだ、中学生なので、何を愛と言うのかさえわかりません。

校長:おおー!」

 

私にはその「おおー」の意味がわからなかった。しかし、出て行くとき、すっと振り返って、私はいった。「たとえ合格しなくても、今日の問答、とてもうれしかったです。ありがとうございました。」

 

これもへんてこな態度かもしれない。でもあの時、それまで出会ってきた指導者と違って、初めて真面目に相手にしてくれた人との対話に心から満足したのだった。

 

私はあの高校で、自分の思索を深めた。あの3年の間に本を読み、ノートに書き記した思索集は、大きな段ボール箱にいっぱいになるほど、私は思索において、充足した高校時代を送った。

 

その後私はカトリック系の大学に入った。大学には、色々のカトリック関係の行事があった。私にはそれがひどく煩わしかった。あの女傑校長との対話の3年間、深い思索を続けてきた後で、形骸化した「行事」なるものに意味を感じられなかったのだ。特に「聖母マリアの無原罪のおん宿り」の記念日の「ゆりの行列」と言う意味不明の行事には、反吐をもよおすほどの嫌悪感を感じた。

 

「聖母の無原罪の御宿り」とカトリック教会で信じることが要求されている項目に、私はかなり当惑していた。「原罪」とは何かを深く考えるとき、「無原罪」なんてありえないから。私の原罪に対する思索は、この聖母マリアの「無原罪」に対する疑問から再び燃え上がり始めた。

 

原罪の意味をひねくり回していた私は、原罪とは罪そのものでなく、「罪に向かう傾向」だという結論にたどり着いていた。

 

「人祖が蛇にだまされて、知恵の木の実を食べた」というのは、「人間が他より抜きんでたいという自分の心の誘惑に負けた」ということだと解釈した。食べてから、「裸に気がついた」ということは、「自分の本当の姿が見えてしまった」ということだ。

 

だから「自分の本当の姿」を隠すために、人間はもだえ苦しんであらゆる行動をし続ける。

 

権力を求め、他人を支配しようとする。金を稼ぎ、身を飾る。知識を蓄え、学歴をつけ、人よりもぬきんでようとし、これでもかこれでもかと、目に見える豊かさをもとめ飢え続ける。そういう傾向のことを言うのだと、私は考えた。

 

「無原罪」とはその「自分にない豊かさを求める傾向」さえないということだ。と言うことは、「自己と戦い、鍛錬し、成長する」と言う過程さえもないのだ。それがない人間なんか、人間として尊敬に値しない。だから、「無原罪」で生まれたと言うことに設定された唯一の女性の記念行事など、無邪気にやっていられなかった。

 

カトリックの行事は、神輿を担いで大騒ぎするような、あの無邪気な村の行事ではなくて、どうしても何処かに、「信仰」を強要される。こちらは無原罪など頭から信じていない。何処かの田舎娘にマリア様が現れて、「私は無原罪です」といった話など、もう、冗談じゃない。だいたい、謙虚な人は自分で「謙虚ですと」は言わないものだ。「自分は無原罪です」と、田舎娘の前に化けてでも言うために出てくるといういうなら、自己に対する執着心はいかばかり、そりゃ、もう原罪だらけの証拠だよ。

 

そう思ったら私はやっぱり無邪気な仲間に背を向けざるを得なかった。何しろ私は原罪だらけなもんで。 

 

「仏教との出会い」(11) 

「無明の発見と原罪の意味」(3)

 

私は真宗男の「象とメクラ」のたとえで、「無明」という言葉を知った。

 

彼は「無明」について説明する。

 

「人間は真理の前に無明である。然り。無明とは何か。真っ暗なことである。人間は無明のゆえに自我にしがみつく。自我とは、自分で存在を感じられる唯一のものだから。自我に執着し、そのために苦しむ。

 

自分だけは正しいと思い込む、自分だけは神を知っていると思い込む、そういう『自分』が、生まれ、生き、変化を繰り返し、病気に成り、やがては死ぬという無常の存在だということさえ現実のものとしては自覚をしない。富を求め、社会的地位を求め、知識を求め、自己拡張をしようとする。絶えず、自分を他人より抜きんでているところに置きたい。」

 

「え・・・?」私はここに来て、はたと、膝を打った。これは自分が若い頃思索の果てに辿り着いた「原罪」の意味と同じところに着たのではないのか?

 

とすると、かの「知恵の木の実」とは「自分の裸を知る木の実」だ。自分の本当の姿を見て怖れのあまり、身にまとうもの (比喩表現として「イチジクの葉っぱ」と書いてあるけれども) を求めた、見える自我に執着した、あれと同じじゃないか。

 

人祖の罪とは、「神を超えようとした罪」と言う言葉で説明されていた。それがいまいち、わからなかった。「神を超える」と言うことの意味は、「自我に執着する、自分を唯一の真理であると思い込む。だから神よりも上に行こうとする。」そういうことだったのだ。イスラエル民族発のキリスト教で言う「原罪」とは、仏教で言う「無明」のことか?

 

民族も歴史も違うところに生まれ育った二つの宗教の「原点」が一致した!

 

「私と真宗男の問答」

 

「無明の人間が『信じる』時に、真理のすべてを把握しているのではないのに確信する自我に固執しているのだ。その人間が自分の無明に気が付かずに、自分の『信仰』のみを主張するとき、当然、他を排除するという結果が生じる。

 

一方、「真理」は無明の人間が信じようと、信じなかろうと、存在するのであって、真理は無明の人間に、信仰表明を要求しない。自在するから存在するのだ。自我が『信じる』ことを主張すれば、それは自我と自我のせめぎあいになる。」と、真宗男はいう。

 

「おう!それはすごい!」

 

私には、この考えは明確に理解できた。ただ、私は、「信じることの是非を問われた」自分の心の状況を、説明せざるを得なくなった。

 

ただし、私はカトリックの信仰に生きていて、誰かにカトリックの信仰を教わったことがあっても、「教えた」ことはない。布教を受けたことはあっても「布教」したことはない。妙な話には当惑して反発もしたけれど、今私がやっているのは「思索の発表」だけだ。

 

日本のカトリックの歴史にとって、ありがたいことに、西欧の布教者が日本国民に信仰を強要し迫害した歴史がない。逆に日本の統治者から迫害され追放され禁教令まで出された歴史があっても、ラテンアメリカにおけるスペイン人による破壊行為と同様な歴史を持たなかった。それどころか、戦時下の日本では、私の一家は敵国宗教を奉じる輩としてマークされていた。

 

日本では、ラテンアメリカとは逆に、信仰は隠さなければやっていられない歴史があった。変な言い方だけれど、立場が弱い側にいた歴史のほうが、楽な気持ちでいられる。

 

だから私は、イエス様を「信じる」ことそのものが、そんなに自我と自我のせめぎあいになる経験は、あまり深刻な問題としては持っていない。イエス様が旧約の預言によって、人類救済のためにヤーヴェから「神の子」として送られたというのが、単なる「表現」にすぎないとしても、イエス様の存在を原存在であるヤーヴェが送った救世主として「信じる」ことが、どこに問題があるのだろう。仏教徒は釈迦を「法」から来た「如来」だと信じているのと同じではないか。

 

法華経を見ると、ほとんど釈迦はメシア扱いだ。彼のこの世における働きを見、彼を慕い、彼をほとんど神格化し、彼を真理から遣わされた人と呼ぶとき、私はそれをカトリックの教えを受けた人々の心情として納得する。

 

原存在によって存在せしめられた被存在はすべて「神の子」と「表現」してもいい。私もあなたも「神の子」でありうる。しかし神の意思をその時代の常識に逆らって、強烈な言葉で伝え残して行ったイエスは、原存在の愛を伝えに来た「神の子のうちの神の子」だ。それゆえ、彼は「神の一人子」と呼ばれる。

 

私は比較しながら色々考えているが、聖書に記述されているミカエルとか、ガブリエルと言われる「霊たち」の働きをあまり納得していなかった。

 

「ない」、または「荒唐無稽」、と断定しているわけではない。この記述はあまりにもありえないヴィジュアルな形で、記述され、ヴィジュアルな形で、芸術家たちが表現してきたため、その表現にひきずられて、かえって真実がつかめない。私には仏教の、名をつけられた仏たちが、ちょうど、ミカエルやガブリエルのように見える。

 

親鸞は、阿弥陀如来のことを「阿弥陀如来は人間の形なんかしていない、形もなければ色もない」といったそうだが、方便に形や色を付けられると、その形や色をめぐって、さまざまの憶測が流れ、さまざまの怪しい宗教が誕生する。

 

たとえば、自分の経験から言うと、

 

私には人生のある時点において、なんどか「霊感」とでも呼べそうな体験をしている。それが他人の感覚では「幻覚」または「幻聴」に過ぎないとしても、私が人生の危機を乗り越えるに当たって、それによって生き抜き、それによって、今があるということも確かなのだ。まあ、それは自分だけの心に畳み込んでおけばいいのだろうけど、人にそれは幻だといわれても、自分の経験を「なかったもの」にはできない。

 

だから、聖書の中の記述で、ミカエルとかガブリエルとか名づけられた霊の声として「表現」された、ある「確信」によって動いたマリアやヨゼフの心の動きは、どんなものだか、断定はしなくても「想像すること」は出来る。

 

マリアは自分の生涯に起きた出来事に対する「或る確信」がなかったら、生きることに耐えられなかっただろう。聖書の記述から「聖なる」表現を取り去れば、イエスという人物はヨゼフの子ではなかったことは明らかだ。下世話な話をしたいと思っているのではなくて、厳格な戒律下の旧約の社会で、「ある確信」がなければ、息子のイエスがヨゼフの子ではないことを知られている社会で生きるのは大変だっただろう。もしかしたら針のむしろだったかもしれない。

 

イエスのあの深い人間洞察と、弱者に対する深い愛は自分と自分を取り巻く人生の経験の中から生れてきたんだろう。一般民衆にとっては、自分たちの社会に、泊まるホテルがなくて厩で生れてきた庶子を、「神の子」と信じるには、あまりに無理な状況下で彼は育った。

 

しかし、私はマリアの「幻覚」であれ、「啓示」であれ、彼女だけが知る「ある確信」に敬意を表するだけの、想像力は持っている。

 

「仏教との出会い」(12)

「無明の発見と原罪の意味」(4)

 

そこまで言ったら、真宗男は口を挟む。

 

「人間の目に見えるもの、耳に聞こえるもの、心に感じるもの、頭で考えるもの、見たえり聞こえたり感じたりするものから想像するもの、それは全て『空』なのだ。それに思いとどまることは煩悩のなせる業なのだ。人間は皆無明なのだ。」

 

私は続ける。

 

「まあ、あなたはそう言うだろう。たとえば、かくいう私だって、無原罪のどうのという、聖母に対する、異常なまでの神聖視は、本当は女性蔑視と表裏一体をなしていて、後世のデッチ上げだと思う。しかし私は思うのだ。戒律厳しい宗教国家で、庶子を身ごもるという境遇に置かれた女性は『ある確信』を胸に抱いて『苦悩』の人生を生きただろう、そして、イエスはその母親を見て育っただろう、だから、イエスの弱者に対する眼差しは、経験から組み立てられた本物の愛による眼差しだろう、ということ。

 

そしてそういう境遇の人間を世に送り、深い思索に導びき、覚醒を促し、世界に福音を発する人物として後の世に大きな影響を及ぼした、そういうヤーヴェの計らいも本物だろう、そう考えることを、私は「信仰」と呼ぶ。

 

イエスの「系図」と言うものは、王侯貴族の系図ではない。ダヴィデの子といわれるけれど、ダヴィデその人が、部下の妻を寝取ったりする男だった。義人ばかりがいたわけではない。娼婦もいれば、律法違反者とされた罪人もいた。

 

イエスがマリアを母として生まれたとき、星が導いたり、天使が歌ったりしただろうか。ピカピカ光る赤ん坊だったろうか。イエスがピカピカと光って生まれ、3人の王様が星を頼って拝みに来、成長してピカピカ光って教えを説いたなら、誰が彼を殺せただろう。」

 

真宗男は答える。

 

「自分はキリスト教に信仰を持っていないから、その話は限りなく真実に近いように見えるが、それをキリスト教社会で言ったら、破門されるだろうなあ。」

 

私は答える。

 

「信仰はヤーヴェから直接与えられる。人を通して、環境を通して、必ず歴史の中に生きる人間が目覚めるように与えられる。受けた人間は自分の人生の中で、その信仰の意味を考える。初め信仰の灯がともったものの心に、たとえ教会という『建物』や『組織』から離れようと、人間の支配欲以外の何物でもないヒエラルキーのくびきから、『破門』されようと、ヤーヴェは直接人の心に働きかける。人間の集団から破門されても、私は考えるし、人生をヤーヴェの前で生き続ける。

 

『聖書は、霊感を受けた人々が書いた、それは、ヤーヴェが書いたのも同じことだ』と教わった。 『だから、一字一句も替えてはならない、付け加えても削除してもならない』と教わった。

 

だったら、なぜ、年代が変わるごとに『改訂版』などが出るのだ。ギリシャ語の原本を一字一句変えてはいけないことはわかる。それを変えたら研究もできないだろう。ただし同時代の傍証となる資料を、すべて『異端』『禁書』として葬ることは、支配欲、権威主義以外の何物でもない。象の耳を触って、これが象のすべてだといい、尻尾を触ったものの説を異端とする、盲目の人間のなす業である。

 

しかも、世界各国語に翻訳されたものは、すでに其処で言葉は変化してしまっているのだ。日本語には日本語の意味範囲があり、日本語を使っている民俗の表現である言葉の意味と、原語の意味は違うだろう。日本語訳の聖書をもって、ああだ、こうだと議論したり喧嘩したりしても始まらないほど、到底原本の言語の意味など、正確に伝わらないものだ。

 

だから20世紀もかけて学者が研究し、解釈し、歴史の中でその世界の聖書を生きるために、聖書に触れた人々が『自分の聖書』を生きてきた。

 

解釈が必要のない古文書などはありえない。時代も民族も社会現象も変わってきている地球上で、それでも尚聖書に意味があるのは、その時代、その歴史の中で、人々が自分に役立つ解釈をしてきたからだ。イエスが働きかけるのは、歴史の中の人間に対してであり、2000年前のユダヤ人の小さな集団だけが相手ではないのだ。だからイエスはすべての時代の人々に働きかける『神の子』と呼ばれる。

 

イエスはヤーヴェを『父』と呼び、自分を『人の子』と呼んだ。弟子たちが、『いける神の子』『メシア』と彼を呼ぶとき、イエスはそう呼ぶことを禁じた。彼は自分が、彼らが期待するような、力を持ってユダヤを治める王ではないことを知っていた。だから彼は、あくまで、この世においては『人の子』だったのだ。彼が『言葉』を残してこの世から消えてから、弟子たちが、イエスはただの人ではないと感じ、ヤーヴェに送られた『神の子』だったとして、信じた。

 

何を研究し、何を解明しても、最終的に残るのは、『信じる』と言う行為だ。人間が無明なら、わからないことが残る。ヤーヴェの計らいは理解を超えている。『信じる』以外にどうすればいいのだ。 

 

真宗男は言う。

 

「人間は無明」だ。これは、真理だ。「人間はいつか必ず死ぬ。」これも真理だ。出発点はここにある。「自分にはわかる力がある」と思ううちは念仏もいらん。

 

「信じる」ことが起こりうるとすれば、それは「賜る」までおとなしく待っていればよい。こっちから何もする必要はない。 人間が無明だ という真理をそのまま自分が受け止めれば 各々の信仰も無明にならざるをえない。 人は「信仰」といいながら その対象をみているのではない。その一部だけを見て 「象(真理)のように見えるもの」を 「象(真理)そのもの」だと言っている。 それがわかったら 、誰にとっても「象(真理)」はそれぞれの目に違って見える「象のようなもの」ということになる。

 

それを「ヤーヴェ」と言おうが「法」と言おうが「神」と言おうが 無明な人間が見ているのは、そのほんの一部でしかないということになる。 自分は無明なのだから、 信仰をもったとしても、その信仰の対象はそういうものでしかない。 自分が信仰をすれば、 結局はそれにこだわり自分の信仰の正当性を主張したくなる。 それは、自分が常にあやまてる存在であることさえも見失わせる。 ヤーヴェ(真理)の前にいつも過てる存在という自覚だけが ヤーヴェにとりうる人間の精一杯の態度ではないのか。

 

私は言う。「ヤーヴェ(真理)の前にいつも過てる存在という自覚」とは、原罪そのものだな。

 

真宗男は答える。「そうだ。無明とは、原罪そのものだとも言える。

 

だから信仰は、自分は拒否する。 ただ「如来から賜る信心」だけをたよりにするのさ。 これは賜ったものかそうでないのかは 当人にしかわからない。 無明なんだから、どこから賜ったのか はっきりとはわからない。 無明なんだから、信心を賜った相手をかりに「如来」とよぶ。 不可思議だから、それ以上の説明はできない。それがかえって安心感を呼ぶ。

 

「不可思議を不可思議として納得するのからか?私はそれを信仰と呼んでいるんだけどな・・・」