naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「ばあさんの自転車奮闘記」2020年11月6日

 

1)「骨粗鬆症闘病記と自転車」

 

「ある男の巣」

 

ネットの中でであったある男と友達になった。同じネットの中で別の若い美女とも友達なった。車を持っている女性である。

 

私の中南米旅行の準備に、色々手助けしてくれた男で、鶏を好み、鶏と共に生きているらしい。私は旅行中、この鶏男に、自分のペットのマックとロケの面倒を見てもらう約束で、車の美女に運び屋を頼んだ。(マックとロケは鶏のつがい。真っ黒けなのでそのように命名。)

 

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(実は始めめんどりは2羽いて、ロロとケケだった。1羽が死んだので、残ったほうがロケ)

 

旅行前のある日、マックとロケをつれて、その男の家に行った。鶏がぞろぞろ出迎え、ケッケケッケキャキャコッコーと叫んでいた。私にとっては懐かしい風景だ。私も対抗してケッケケッケキャキャコッコーと鳴いてみた。子供の頃から鶏と共に生きていた。これは私の原風景といってもよさそうな匂いがした。

 

ところで、その男は、応接間でもなく、居間でもなく、屋根の上に私たちを案内した。板のきれっぱしを組み立てて、男が趣味でこしらえた、いわば、彼の巣のようなところだった。立ち木を利用して作ったような、怪しげな階段を登り、その家の屋根が下に見えるところに、空間があった。

 

鶏男はそれを「ベランダ」と呼んでいた。その「ベランダ」にはテント状の巣があって、中は子どもが喜ぶような陣地のような趣を呈していた。

 

ふむ。これは「ベランダ」と言うより、チンパンジーの巣に似ているな、と思ったので、私は即座に自分の気持ちをチンパンジーの精神に切り替えた。机とイスがあって、それをなんとか車の美女がきれいにし、3匹のチンパンジーよろしく、食事を始めた。 

 

その食事も、鶏男が作ったものだ。味はともかくとして、野趣豊かで、なかなか面白かった。男はよく笑い、よくのみ、むちゃくちゃにでたらめにこの会合を喜んでいる。底抜けに正直で、底抜けに喜びを表し、その他のことは底抜けに「どうでもいい」らしい。それに、相手が人間だなんて思っていないような雰囲気もある。

 

やっぱりチンパンジーの一種として、付き合うべき男だなと、精神をチンパンジーに切り替えた私は、案外快い気持ちで思った。 

 

あたりをみまわして、これは男の「ままごと」かなと思えるほどに、この空間はまさに鶏男の童心の作品なのだ。つくづく男の顔を見た。昔会社員をやっていて、営業マンだったなどと言う面影はまったく残していない。膝の抜けたズボンをはいて、草笛なんか吹いている、森の少年の趣しかない。彼の童心が彼の行動範囲の空気の中に漂っている。 

 

巣を辞して帰る時、垣根に咲いていたクチナシの花を一つ失敬して帽子につけた。そのクチナシが、今部屋中に香りをただよさせている。

 

「野の花]

 

 その男は、この5月の個展に、私のうちまでやってきた。TX(つくばエキスプレスという新しい路線)で来たのだけれど、私はその駅をあまり利用していなかったので、案内がおぼつかない。自分だって、何回利用しても迷うのだ。野原や田んぼや畑の中を切り開いて作った路線なのだ。そのあたりの雰囲気としては、とんでもなく現代的な駅だから、これはまるで、宇宙ステーションだなと思っていた。 

 

仕方ない、最後の手段として、私はMSNの地図を検索し、その男に送った。あきれたことに私の住所に「ER英語教室」なんていうのが出ている。私の経営する英語教室だけど、どこにも広告出していないのに、しかもたった2人の生徒しかいない、人気のない教室なのに、それがMSNにでているなんて。 

 

ところで、その男は、その宇宙ステーションを降りて野原を抜けて、やってきた。帽子をかぶって、ニッカボッカ風のズボンで山の男のいでたちだった。玄関に立って挨拶をしたときに、彼は手に持っていたヒメジオンの花を一本、すっと私に手渡した。なんだかいかにも自然なので、私も自然に受け取った。 

 

かつて私は、ガキンチョ以外から、ヒメジオンの花をささげられたことがない。ヒメジオンをさして美しいと思ったこともない。何もない野原に咲いているのは、ちょっと心温まる花なんだけど、普段は雑草として、いつもぬいている。葉っぱは鶏が好きなので、刻んでやったりしている。 

 

ところで、50を過ぎたその男から、個展のときに、すっと手渡されたそのヒメジオンは、心に残った。おや、面白いことが「できる」男だぞ。そう思った。 

 

個展というとたいてい、ものすごく高価な花束や、その他色々常識的なプレゼントがあつまる。時に私はその豪華なプレゼントに当惑する。ヒメジオンは、何か心を野に誘う。そして、まったく常識的返礼を要求されない。そうか。そういう心に心がある。 

 

野原を歩いてきて、ズボンを草の実だらけにしながら、ヒメジオンを差し出すその男は、やっぱり、自分で作った巣に、人を招待する、チンパンジーの精神を持っている、野生の詩人だな、と、思った。

 

「 4月23日」

 

4月23日は私の誕生日だ。その年家族がみな国外にいて、私は一人暮らしだったので、私の誕生日を祝う人などいなかった。そこにあのヒメジオン男がやってきて誕生日のプレゼントだと言って「白鷺」を置いて行った。

 実は、誕生日にヒメジオン男からもらったという「白鷺」は、白い組み立て式自転車のことだ。車が小さくて、車体が真っ白で、ハンドルが伸びているから、私が、「白鷺号」と名づけた。バスや電車を乗り継いで、家まで運んでくれたプレゼントだから、なんだか、新しいペットのように可愛い。

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もらってから数日間、雨で試運転することができなかった。しかし私はまだ、その「白鷺号」を乗りこなす自信がなかった。

変な物語を言うようだけど、自転車に関しては、私には「乗れなくなった思い出」がある。子供のころ、実家に1台の自転車があった。もちろん大人用の自転車で、兄、二人が、その自転車を乗り回していた。中学生になったころ、姉と私は背丈も何とか大人用の自転車を試せるようになったので、庭で一生懸命練習をした。

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この自転車です。↑ 

私はちびのときから、ものに熱中する人間で、転んでは起き、おきては転び、怪我しても、泥だらけになってもやめなかった。其れを見ていた二人の兄が、「あいつは明子より先に自転車を乗りこなすようになるだろう。」と一言言ったのだ。其れを聞いた姉明子は、猛然と私に飛び掛り、私から自転車を取り上げ、以後、私が自転車に触れようとすると、飛び掛ってきて引っかくわ、跳び蹴りするわ、乗っている自転車の後ろから引っつかんでがたがたがたがた揺らすやら、負けを認めた私は、以後、生きて自転車には触るまい、乗るまいと観念した。 

何しろ自転車を見るとぶるぶる震えるほどのトラウマが深層心理として、私を支配し、結婚して自分の視界から姉がいなくなっても、自転車に触れることはなかった。 

人生紆余曲折を経て、私も結婚し、海外に渡り、夫の祖国の内戦で、難民となって4歳の娘を連れて帰国した。そこで、私は娘には、友達も乗っている自転車を乗れるようにしたいと思い、自転車を買っってやったのだが、娘の友達は、みんなお母さんと一緒に自転車を乗り回していて、どうも、お母さんが乗らないと、子供も、乗る機会を失うらしかった。 

仕方ないな、と私は考えた。それで私は安物の自転車を買い、早朝の公園で自転車の練習を始めた。公園には時々、早起きの好きなおっちゃんがいて、練習している私の姿を見て、応援してくれた。そのうち私は町中を乗り回すことができるようになり、かくして娘も、できるようになった。それで、当時、バイオリンを習っていた娘に併走して、教室に送り迎えができるようになった。 

ところが、そのころ住んでいた町は、坂道の上下が激しく、車だって、よく事故を起こすところだった。あるとき私は、娘を教室に送って、帰る途中、くだりの坂道で、ハンドルが効かなくなった。そのまま下れば車のとおりの激しい大通りに突入する。危険を察した私は、たまたま道路わきに見つけた発泡スチロールの山にハンドルの効かない自転車を突っ込んで倒れた。

以後、自転車に乗っていない。怖いだけじゃなくて、まだ小さい娘を育てているという責任感があった。難民として日本に来て就職した主人は、なれない日本企業で苦労している。私が怪我して入院なんかしていられない。どうせ自転車は、親が乗らないと娘が乗らないから始めたことだ。娘が乗れるようになった今、もう、私が乗る必要がない。 

そんなわけで、私は娘が7歳だった20年前自転車を手放して以後乗っていなかった。

 

さて、私の「白鷺号」は、67歳の骨粗しょう症の脳梗塞ばあさんとうまく付き合ってくれるかどうかわからない。昨日、4時に目が覚めて、晴れているのを確認して、誰もいない公園で、とにかく練習してみようと思って、連れ出した。公園に行くまでは、上り坂。怖いから乗らない。転がして公園にたどり着く。サドルを低く、足が地面につけるようにしてある。 

そろりそろりと乗ろうとした。なかなか自由が利かない。体が硬くなっていて、凄く怖がっていることがわかる。とにかく1周するまではがんばろうと思った。子供のときみたいに、がむしゃらに練習するのは危険だから、危ないぞと感じたら、すぐに足をつける。だからなかなか半周もできない。やっと動いたときには、おう!できたぞ!と叫んだ。叫んだら、またふらふらし、バランスを崩して結局半周しかできなかった。

恐ろしく疲れたけれど、なんかうれしい。明日は2周しよう。計画を立てることはいいことだ。自分で納得して、また転がして連れ帰った。 

今日、その「明日」が来た。朝、4時に家を出た。公園は誰もいなかった。きのうより、白鷺は動いてくれる。何とか動かしているうちに、よたよたと、3周できた。目標はクリア。あしたは5周しよう。地道に努力して1ヶ月で、近辺を歩き回り、8月までは、駅まで買い物にいけるくらいになればいい。 

今、おかげで、とりあえず、8月までの目標ができた。

 

「10月のある日 」 

68歳の誕生日に貰って「白鷺号」と名づけた自転車の練習をおっかなびっくり公園でしていたのだが、途中、個展が入り、8月は猛暑続きで、ああだこうだと理由をつけながらひかえていた。9月は雨が多くて、なかなかできなかった。 

10月になって天気がいいし、別にすることもないので、骨のリハビリのためと称して朝の5時半から、練習していた。当座の目標は、「あじさい寺」で有名な本土寺まで。自宅から、歩けば30分かかるところだ。 

むかし、6歳の娘に自転車を覚えさせるために一緒に練習をして、娘の塾の送り迎えまでできるようになったけれど、転倒して止めて以来、自転車に乗っていない。だから、今、この年齢で自転車はかなり怖かった。 

でも、戴いた自転車は、小さくて足が付くようになっていて、何とか、散歩くらいできそうに感じたから、ともかく5月に練習を始めたんだけど、びくびくしているから、ほんの家の周り程度しかできなかった。ところが骨の医者も勧めるので、9月になってから、少しずつ距離を伸ばし始めたのだけど、だんだん欲が出て、駅に近い本土寺まで行けば、自転車で買い物ができるかなと思って、本土寺を当座の目標にしていた。 

10月から、自宅で「中米内戦語り部展」なるものを初めたが、こんな辺鄙な田舎、どうせ誰も来ないだろうと思っていた。ところで10月の初旬、10年以上国外に出ていたある友人が、帰国しているとの情報を得たので、我が家の「内戦語り部展」に来てもらおうと思い、連絡をしようと思ったが、相手のメールアドレスを知らない。仕方ないから古典的な郵便で連絡をとることにした。 

ここはまったくの ど田舎で、郵便局までも、歩いて25分。そこまでポストなんかない。郵便局は大通りにあって怖いのだけど、このところ自転車で探って裏道を覚えたので、朝も5時ごろ出れば、すいているからいいかなと思って、出発した。 

裏道は無事通過。しかし大通りに出たとたん、こりゃだめだと思った。とうてい、あんなところ、よたよたと自転車で歩けない。車道は車の往来が頻繁で怖いし歩道は凹凸が激しくて、今の私の力では、無理だ。仕方ないから交差点から郵便局までは、降りて歩いた。郵便局から本土寺までは上り坂。乗ったり降りたり、苦労した。 

ああだこうだと自分に言い訳しながら、それでも何とか本土寺に着いたときはうれしかった。というのは、いつも、駅まで歩いている道は、わりと平坦な畑と民家の5分5分の道のりで、車の通りも少ないのを知っているから、帰りはあの道を通れば、多分降りないですんなり家に帰れるだろう。 

そう思って走り出した。思ったとおり、車のとおりは少なくて、散歩の人もすくなくて、障害物なしで家に付くことができた。

 

やったぞ、万歳^^。たいしたことじゃないけれど、骨の崩壊寸前の私にとってはエヴェレスト征服みたいなもんだ^^。あしたは、リュックにちょっと重いものを入れて、この道をもう一度試してみよう。11月までの目標は、Saty(現在のイオン)の裏側の八百屋まで。

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 本土寺到着記念