いろいろな宗教について(3)

 

4)「神、God 、ヤーヴェ」

 

 日本語本来の「神」は「自在」するものでなく、「生成変化する存在」である。記紀によれば、「葦カビのごとくもえいずる神」という表現にあるように、不思議な現象として「湧いてくる」ものだ。人が死んで神になるのも、神という存在が「自在」するものではなく、「成る」ものとしての性格を物語っている。

 

 キリスト教の発生源であるユダヤ教の「ヤーヴェ」はぞろぞろいる神々のうちの一人ではなくて、天地万物の元としての存在を意味し、固有名詞ではない。これをGod と英訳し、「神」と日本語訳したのは、国際的大誤訳である。 

 

 英語の大文字のGodもきわめてあいまいな言葉で、もともとはユダヤ教のヤーヴェの英訳なのだが、一ユダヤ民族の軍神のような扱いを受けていたヤーヴェを、ナザレのイエスが全人類の父として世界に紹介した。布教を受けた西洋諸民族には、もともと小文字の神々godsが信仰の対象になっていて、「原存在」を意味するヤーヴェに相当する概念がなかったから、とりあえず大文字にしただけなのだ。ユダヤ民族に軍神として捕らえられたヤーヴェは、ユダヤ民族にのみ利する神として旧約聖書に表現されている。ユダヤ民族のみに利する神だから、パレスチナを打ち滅ぼす神なのだ。

 

イエスはこのヤーヴェを全人類の愛の父と解釈した。

 

「ヤーヴェ・原存在」は「存在の大元」であって、多々いる神々のうちの一人の「名前」ではない。つまり天地万物のすべての存在が、ここから生ずる大元の存在を意味する。当のキリスト教徒でさえも誤解しているこの「原存在」なるヤーヴェを、多分、何語にも、訳すのは無理なのだろうと、私は思っている。 

 

 キリスト教は俗に「一神教」といわれているけれど、たくさんの中から一を選んで一神教にしたのでなく、数量でしか物を考えられない人間の表現は完全ではないから、「真理なる神は一人」と表現する。

 

 しかしこれが世界に誤解を生んで、宗教戦争の原因になっている。人類が自分の無明を抱えて宗教戦争をしようと、殺し合いをしようと、十字軍遠征をしようとイスラム討伐をしようと、ヤーヴェはイエスの解釈が正しければ、戦争をしている両方の父であり、全人類を隔てなく救済する「原存在」なのだ。

 

 ユダヤ民族とユダヤ民族に経済的に軍事的に加担するどこかの国の軍産共同体だけを救う「神」など、どこにも存在しない。

 

 世界に原存在は唯一無限である。お前の神は偽者だ、とどこかの民族が主張すれば、当然拒絶されたほうが反発する。しかし、「原存在」は真理であって、「一人」の「二人」のと数量で表現できるような存在ではない。私はこのような「存在」を表す言葉は、仏教の「法」意外に知らない。被存在なる人間が、その存在を信じようと疑おうと、争いの余地なく存在するものは存在するのだ。

 

 原存在は数量を超えて、むしろ、∞(無限大)の存在と表現するほうが正しいと、私は思う。

 

5)「人殺しが好きな人が多いね 」

 

 ある犯罪の容疑者も被害者も含めて、人殺しが好きな人が多い。数年前世をにぎわした殺人事件の犯罪者に対する、検察側求刑のコメントに「鬼畜としか思えない」という言葉があった。その気持ち、わからないわけではない。私はただ、自分の信念から、「一番救いの必要なのは加害者と加害者の家族であって、被害者と被害者の家族のほうの魂はすでに救われている」と思うのだ。

 

 で、そういう意見をあるサイトで言ったところ、それに対する反応が、2時間ぐらいの間に50件以上。しかも、もう「私が鬼畜同然の殺人鬼女を救いたがっている、放免して楽しい生活をさせたがっていると言った言った」と大騒ぎして、とうとう、お前が死ねとまで書いてきた。

 

 要するに、人々は、「理由さえあれば」一人の人間を殺したいという欲求を持っているとしか思えない。で、その反応に対応していたら、突然足がつり、座っていられなくなった。で、いったん中止して、私は寝たのだけど、もうあのサイト覗きたくもなくなった。どうせ、100件くらいになっているだろうけど、罵詈雑言だけだからね。ま、人のいないところで、大騒ぎさせておくことにした。相手にしなきゃ、そのうち、静かになるからさ。

 

ところで、ある「、まじめな」人物が、個人的にメールしてきたので、以下のメールを送った。

 

★「私が言いたいことは以下に尽きる。

 どんなに残忍で不可解な殺人事件であろうとも、ひとたび、「救済」ということを考える限り、救済の必要なのは加害者と加害者の家族です。加害者とその家族は、全世界の“正義”狂信者から糾弾される身であって、ただ一人の味方もいません。被害者をののしる人間は、世界でただの一人もいないという点、すでに被害者とその家族は、救われているのです。ましてや、死んだ子供は、何が起きても生き返らないし、加害者が死んだら、被害者が成仏するなんていう考えは、本来の仏教からだって逸脱しています。たとえ法律が、彼らを守らなくても、彼らは責任を問われるべき“罪”を犯していません。むしろ、正義感に駆られた仲間に守られて、“被害者”として生きていくことができます。社会は彼らを受け入れます。   

 

 もし「救済」があるものなら、それは誰にも受け入られない人間に対してです。彼は生い立ちから見ても、かつて社会から受け入れられたことがない、救済者というものがいるとしたら、神と呼ぼうがイエスと呼ぼうが、仏と呼ぼうが、医者が、必要なのは病人である被告であって、救済者は被害者でなく、加害者の彼女を見ているだろう。」ということ。

 

 私ははじめから終わりまで、今回の事件の被告が無罪放免されて、楽しく生きていけばいいなどと、一言も言っていません。赦せとも愛せとも言っていません。「救い」が必要なのは誰なのか、といっているだけです。それ以上のことも以外のことも言っていません。それを拡大解釈したり、卑小解釈したりするのは、お祭り好きな暇人の趣味であって、私とは関係ないことです。趣味を満足されるまで、お祭りの場を提供しますよ。言いたいことは以上です。」

 

6)「象と盲人のたとえ」 

 私は、仏教関係では門外漢である。高校生のとき、国語の時間に「歎異抄」に接したことがあるが、そのときは、仏教の何たるかという事に、気にも留めなかった。数年前あるきっかけがあって、突然般若心経にふれ、言っていることの意味がわからないから、図書館にこもり、仏教書を読み始めた。1冊や2冊ではわからなかった。なんとしてもわかりたいと思ううちに、読んだ仏教書は30冊を超えた。

 

 それでも、今でもわかったわけではない。しかし、読んだ本の中に、釈迦の言葉といわれる2,3の言葉に気を引かれた。そのひとつが、「象と盲人のたとえ」であった。繰り返すが、私は仏教に関しては門外漢であって、そのたとえだって、釈迦が求めるような理解の仕方で理解しているのかどうかわからない。

 

 私の理解力にたよって、その話を要約すれば、以下の様な意味であったと思う。正確な言葉は覚えていない。正確な言葉を引用するのが目的ではない。あくまでも、私が「捉えた」意味である。

 

 ある王様が盲人を集めて、象を触らせた。そして、盲人一人一人に対して「象とはいかなるものか」と尋ねた。

 

 そうすると、象の耳を触った盲人Aが、「象とはビラビラとした布のようである。」と答えた。鼻を触った盲人Bは「いや、象はホースのようである。」と答えた。足を触った盲人Cが「いや、象は太い柱のようである。」と答えた。腹を触った盲人Dは、「いや、象は皮を張った太鼓のようである。」と答えた。

 

 みんなの答えが違うので、みんなお互いに自分の象体験が唯一の真理であると主張して譲らず、激しい討論の挙句、取っ組み合いのけんかになった。

 

 このたとえ話からわかることは、「無明である人間は、真理のすべてを捉えることができないにもかかわらず、我欲にとらわれ、自己主張をし、自分の知っている真理の一部を真理のすべてであるといって、争う。宗教間の争いとはこんなものであって、その一方にだけ真理があるのではない。」

 

 このたとえ話に出会って、私は、突然、マザーテレサという人物を思い起こした。

 

 私はカトリック教会という組織の中で、79年信者を続けている。しかし、私は、マザーテレサが死んで、インドが彼女を国葬によって、見送るまで、彼女の人物を知らなかった。カトリックの組織の中によくありがちな、ごく当たり前の,奉仕好きのシスターの一人だろうくらいにしか思っていなかった。インド、貧困、カトリック、布教、奉仕活動、という構図が頭を掠め、そもそも、インドを貧困にしたのは、どこの誰だ、という思いが強かった。

 私は彼女が有名であればあるほど、冷淡な思いがつのってきて、彼女を心で受け入れなかった。

 

私の頭には、インドの近代の聖者、ガンジーの言葉がいつも去来していたのだ。彼は言った。「自分はイエスキリストは好きだが、キリスト教徒は嫌いだ。キリスト教徒はイエスキリストにどこも似ていない。」言いえて妙!

 

 マザーテレサが死んだとき、私は、インドの片隅で布教に生涯をささげていた一介の外国人シスターにすぎない人物を、多宗教国家のインドが国葬を持って見送るとは、いったいどんな人物だろうと、実は腹から驚愕し、そのとき初めて、興味を持って、手当たりしだい、彼女に関する資料をあさった。彼女に実際あったという神父さんにも、彼女の人間像を聞き、映画も見た。あの複雑な多宗教国家が国葬を持って見送るほど、国をあげて受け入れるカトリックの修道女なんて、何者だ!?と私は思ったから。

 

 私は、内戦のラテンアメリカに8年滞在し、カトリック教会の過去の所業を見てきた。殺戮と破壊と廃墟の上に立てられた金銀財宝にちりばめられた教会を見てきた。

 

 内戦の中では、ラテンアメリカのカトリック教会は、一丸となって、農民の側について農民の代弁者となり、多くの布教者が暗殺されるのを見送るという体験をした。1980年3月に事件がおきた。農民を殺害する政府軍に武器援助をし続けるアメリカの政府に対して、「武器を送らないでください。あなたが送る武器が、罪のない民衆を殺しています。」と、エルサルバドルの大司教、ロメロは訴えた。彼は兵士に向かって「兄弟たち、兵士よ、殺せという上官の命令に従うな、あなた方が従うべきは、殺すなかれという神の命令のみである」と説教壇上から絶叫した。その説教によって凶弾に倒れたロメロ大司教の暗殺事件は、その後の私の人生を変えるほどの衝撃的事件だった。

 

 彼は「布教」など、しなかった。彼は、そこいらのキリスト教徒が、宣伝カーで「悔い改めよ」などとおおさわぎしながら自分の言葉に酔うような、そんな布教などしなかった。彼は命を盾に戦った。「汝、殺すなかれ」と叫びながら。

 

 その両方の体験から、自分は以後決して、布教活動をするまいと、心に決めていた。なぜなら、「布教」とはとりもなおさず、「自分だけが正しい」と思い込み、「正しくないやつに正しいことを教えてやろう」という「使命感病」に陥ることにほかならず、それが諸悪の根源なのだと信じたから。

 

 私の理解によると、かのマザーテレサなるカトリックの修道女は、「布教」などしなかった。少なくとも、伝統的な「真理植え付け狂信者」の使命に狂って他人の生活を根底から覆し、破壊し、「恭順させ、支配しやすくする」そういう、伝統的、正攻法による布教など、彼女はしなかった。彼女がそのような布教をしていたら、インドは彼女を国葬にするほど、敬意を持って見送らなかっただろう。

 

 彼女は、社会の最下層の人々の人生と死に立ち会った。彼女の信仰にしたがって、「まつろわぬやから」に洗礼を授けたわけでもなかった。最下層で死に瀕している人々のあるがままを受け入れ、その宗教を尊重し、苦悩の人生に並走し、その魂をその人の仕方で持って、見送った。ヒンズー教徒にも、シーク教徒にも、イスラム教徒にも、彼らの今のあり方を受け入れ、彼らの宗教のやり方をもって、見送った。

 

 彼女は、自分が「象のすべて」を知っているわけではないことを知っていた。

 

 彼女は象の鼻を信じる人も、象の耳を信じる人も、象の腹を信じる人も、象の足を信じる人も、すべてが、象の子であることを知っていた。そして彼女はイエスにおいて象の子であった。

 

7)「救いに条件などない 」

 この世のどの宗教団体も、教祖というものを勝手に設定していて、釈迦は仏教の教祖、イエスキリストはキリスト教の教祖ということになっている。しかし、釈迦もイエスも、死後教祖にさせられただけで、生前に、我こそは新しい宗教の教祖である、我こそは神の子だあ、と宣言したわけではない。

 

 教祖宣言は麻原とか、その他いろいろの自称「なんとかの化身」たちの専売特許で、本物は沈黙しているから本物なのだろう。

 

 キリスト教は、キリストの死後、キリストを救世主と信じた人々が作った宗教であって、組織の教祖と呼ぶにふさわしい人がいるとしたら、それはむしろ、パウロである。

 

 だいたいその、させられちまった教祖は人類に救いをもたらす主のはずなのだが、その救いには、いろいろの条件が決まっていて、その条件に合わなければ地獄に行くと宣言されたりする、案外恐ろしいものなのだ。

 

 但し、そういう条件を出すのは、その「本物」を教祖にいただいて、組織を作った人々の「支配上の都合」によるところが大きく、イエスキリストは、救いに条件を設けなかった。信じなければ地獄に行くとか、愛さなければ地獄に行くとか、これこれの戒律を守らなければ地獄に行くとか、洗礼を受けなければ地獄に行くとか言う条件を設けなかった。だいたいイエスの家族は洗礼受けてないよ。

 

 救いが本当に救いなら、一方に地獄の恐怖を見せ付けられて、脅迫されて達成されるものではないだろう。大体、ある意味、精神の暗黒である地獄を体験したことのないものはないだろうから。救いとは、精神の暗黒からの救いであって、天使ばかりがぞろぞろいる、永遠の花園に住むことではない。そういう退屈な「場所」なら、変化に飛んだこの世のほうが、「場所」としては面白いではないか。

 

 ナザレのイエスは、パウロの解説なしに、その言動だけを見れば、救いに条件など設けなかった、と私は解釈する。

 

 パウロという男は、その出身母体がイエスが嫌ったファリサイ派だけあって、ものすごくファリサイ派の特徴を色濃く持っている男である。男尊女卑が激しく 、教条主義的で、イエスの人間主義、自由な、旧約の戒律を超えようとする考え方を、ユダヤ教に引き戻した男だと、そういう、感想を私は持っている。キリスト教徒の、激しい、異民族に対する敵対心は、パウロが造ったのだとさえ、思っている。

 

 イエス様は洗礼を救いの条件になど、しなかった。 そういう儀式をイエス様は超えていた。イエス様は、各所で、教条主義的なユダヤ教の戒律を超える発言をしている。安息日に病人を癒す、麦を積む、そういうことを禁じた戒律に対して、彼は敢然と戦った。

 

 しかし、彼の死後、教会とローマ皇帝によってキリスト教徒に対する組織が形成される過程で、新しい教条主義が芽生え、統制と権威の芽生えが生まれる。キリスト教を国教にして支配の道具にした指導者側と別の意見を持つものは、宗教裁判にかけられて、異端者呼ばわりされ、破門を恐れた人々は、統制された教義の中でしかものが言えなくなった。

 

 人が安息日の主であって、戒律が人の主ではないという、イエス様の人間主義は、教会の組織の中で完全に封鎖されてしまった。現代人はそれを『キリスト教』と呼ぶ。

 

 イエス様が、救いの条件として、洗礼を勧めた、または、制定したという事実はない。ましてや、それを救いの条件にしたということはない。 救いの条件に、改心を促したということもない。彼はすべてに先行して愛をといた。 マグダラのマリアを救ったとき、彼は彼女にどんな条件も与えなかった。洗礼も悔悛も聖体拝領も、儀礼の一切を条件としなかった。

 

 イエスはむしろ、彼女を攻める人々に、罪の自覚を促した。お前らのうち罪のないものが一人でもいるのか?その言葉によって女性の「生物学的命」を救うと同時に、人を一人、リンチによって、「合法的に」殺そうとしていた群集の「心」を「無条件に」救ったのだ。

 

 「あなた方のうち、罪のないものが、この女を打て」と彼は吼えた。その言葉を聞いた群集は、石を投げることができない自分を悟った。それによって、彼らが得たものは、女性の命の救いよりも、自己の魂の救いにとっての強烈な自覚だっただろう。

 

 イエスが言う愛とは、決して、生暖かい、ちょっと見、優しい人間同士の感情ではなく、冷徹な、透徹した自己洞察による、罪の自覚と、罪あるもの同士の連帯である。「罪の女」が悔い改めたとしたら、それはイエスに促されたからではなく、イエスの愛に触れたからである。それは条件ではなく、結果だったのだ。

 

 罪あるもの同士の連帯に、教条主義は無用である。救いの条件を人間が設けるとき、人間は必ず、条件に満たないものを、攻撃する。「洗礼を受けていないもの」を「差別」する。 「異教徒」を「救い」からはずす。 「救いを自分の集団のみに限定」する。人間は、そういう動物なのだ。

 

 差別はユダヤ教徒のものである。異教徒を人間とはみなさない考え方は、ユダヤ教徒のものである。パレスチナを乗っ取り、住民を無条件に殺してもいい、救いは自分の民族の軍神ヤーヴェから来る。ヤーヴェを自分の民族のみに救いをもたらす神として独占する。

 

 その考えから解放し、ヤーヴェを全人類の父と教えたイエスを教祖とするならば、排他的なキリスト教など、アンティキリストだろう。