naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

いろいろな宗教について(4)

8)「天国と地獄の入場券」 

 イエス様によると、天国に行く入場券をもらえるのは、「私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたもの」で、地獄に行くのは、(洗礼を受けていても)「私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せてくれず、病気のときに見舞ってくれず、牢にいたときに訪ねてくれなかったもの」らしい。

 

 条件に洗礼とか初聖体とか、毎日曜に教会に行くこととか、告解(懺悔)とかいうものが入っていない。

 

 ここでいう「私」というのは、日ごろから「苦しみを受け、差別を受け、空腹に耐え、病み衰え、挙句の果てに罪を犯し、刑罰を受けて牢につながれた」人々らしい。

 

 つまり、経済大国日本の中で、メタボリックを恐れながらも毎日たらふく食べ、のんだくれ、冷暖房完備の部屋の中で、パソコンお宅になって生きる心配もせず、他人の日記に暴言なんかを書き込んだりする「一般の善良な人々」には無関係な人々、町の隙っこにうずくまっているような、あたりに臭気を放って避けたいような、そういう人々のことらしい。

 

 イエス様はそういう人々を「私」という。その「私」を受け入れるものが天国に行き、受け入れないものは地獄行きなんだと^^。困ったね^^

 

 So-calledクリスチャンは、二言目には、イエス様を信じる信じるというけれど、いったい何を信じているのか、私にはわからない。処女マリアから生まれたイエス様か、奇跡を起こすイエス様か、十字架上で死んで3日目によみがえったイエス様か、栄光に包まれ、神の子として「天の玉座」に座っているイエス様か、そんなところだろうか。その「きらきらした世界」に行くためには頭に水をかけられれば良いとか、水をかけられてそういう、「実生活にはどうでもいいこと」を信じれば救われるとか、そう思っているのだろうか。

 

 私には、聖書にどんな表現で描かれていようとも、天国や地獄を実態として把握することなどできない。

 

 そういう世界を想定する前に、「誰かが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる」ような体験を一度でもして、そのとき心に何を感じるか、一度でも体験してみるが良い。

 

  「誰かが飢えていた時に食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のときに見舞わず、牢にいたときに訪ねない」、ましてや、死刑囚の刑を執行することに満足を感じる法務大臣のような心が、どのようなものかを想像してみるが良い。

 

 おのずと天国とは何か、地獄とは何か、がわかるだろう。

(ところで、そういう条件は、私だって無理だから、洗礼受けたり、聖体拝領したり、毎日曜日に教会に行ったりする条件のほうが楽でいい。やっぱそっちにしよっと)

 

9)「象と盲人のたとえ」へのコメント 

 かつて私があるサイトに書いた既述の「象と盲人のたとえ」を読んだ読者から、コメントが来たので、それに対する私の意見を書いた。実はこの「象と盲人のたとえ」は、ある死刑囚に対する罵詈雑言の数々に対する私の意見だった。

 

 何年前のことだったか、死刑を求刑されたある容疑者の事件に対する私の考えを「象と盲人のたとえ」を引用して発表した。それにたいして、書いた私に対する膨大な量の罵詈雑言の猛烈なコメントが殺到し、犯人と無関係の日記を書いた本人である私の意見はかき消されて収拾がつかなくなった。それでもとの自分の日記ごと削除せざるを得なくなり、あとで自分の考えをブログにシリーズで書いておこうと思って書き始めたという経緯がある。

 

 だから、シリーズが終わるまで、そのサイトでもコメント拒否の設定にした。ただ、罵詈雑言のコメントの中で、まじめなコメントを書いてくださった一人の方の意見を発表して、同時に私のそれに対する自分の考えも書いた。

 

★読者の意見「マザー・テレサの苦悩」

 「マザー・テレサ」と呼ばれ、世界に知られたカトリック修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いに基づき2003年に列福された。ところで、マザーテレサが亡くなって10年目に、彼女の生前の書簡内容が明らかになった。

 それによると、修道女テレサは下記のように記している。

「私はイエスを求めても見出せず、イエスの声を聞きたいのに沈黙している。」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶の告白と、「私は孤独で暗闇の中に生きている」という言葉がある。

 この言葉によって、西側メディアは「テレサ、信仰への懐疑」などと、センセーショナルな見出しを付けて報じた。ちなみに、彼女は生前、その書簡を燃やしてほしいと願っていたが、どのような経緯からか燃やされず、このように彼女の内面の声が明らかになった。

 マザー・テレサのこの手の内面の告白は、キリストに信仰を持つ者の歴史では決して珍しいものではない。むしろ、程度の差こそあれ、神を信じる多くのキリスト者の信仰生活の中で見られる葛藤だ。

 新約聖書のなかでパウロでさえ言っている。

 パウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の体には別の律法があって、私の心の法則に対して闘いをいどみ、私を虜にしているのを見る。私は、なんという惨めな人間なのだろう」(ローマ人への手紙7章22節~24節)と告白している。"パウロの嘆き"と呼ばれる内容だ。

 パウロの場合、自身の神への信仰の弱さを嘆いたわけだが、マザー・テレサの告白の場合、神、イエスを求めても答えを得ることが出来ない、"神の沈黙"への嘆きともいえる。

 コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者の姿に接し、テレサには「なぜ、神は彼らを見捨てるのか」「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の疑問を持った。

 それに対し、神、イエスは何も答えてくれない。このような状況下で神、イエスへのかすかな疑いが心の中で疼く。マザー・テレサは生涯、神への信頼と懐疑の間を揺れ動いていたのだろうか。

 神が愛ならば、愛の神がなぜ、自身の息子、娘の病気、戦争、悲惨な状況に直接干渉して、解決しないのか。その「神の不在」を理由に、神から背を向けていった人々は過去、少なくなかったはずだ。 

 マザー・テレサの告白は、「神の不在」に関する説明が現代のキリスト教神学では致命的に欠落していること、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活がもはや神の願いとは一致しなくなったこと等を、端的に示している。」

 

★上記のコメントに対する私の考え

 このコメントは、マザーテレサの手紙の紹介であって、私の読者そのもののコメントとは言えないけれど、「人間」マザーテレサの本来の姿を知る上で、大切なコメントだと思う。

 ところで、私はどこかで、発表したことがあるけれど、カトリック教会において、なくなった信者を聖人の位につけたり福者の称号を送ったりすることが嫌いなのだ。どんなに立派な人物でも、人間は人間であって、欠点を抱え、苦悩を抱えて生きて死ぬ。

 その人物の人生をいつくしんで受け取るのはヤーヴェ(原存在の意味、法と呼んでも可)だけであって、生き残った人間が彼女を聖人呼ばわりしたりして、崇め、ほとんど新しい偶像のごとく拝むのは、彼女にとって、迷惑な話だろうと思うから。

 残されたものは、故人の遺業を自分のできる方法で継げばよく、故人を祭壇に乗せて、自分とは関係のない「聖人」だから彼女はああいう生き方ができたのだ、自分は「拝む人」、彼女は「拝まれる人」と決めてしまうなら、自分の弱さと戦いながら、生きて、苦悩し、生を全うした彼女の人生にどれだけの意味があったのか、むしろ、聖人扱いされたテレサは気の毒である。

 

 同じことが、聖母マリアに関しても言えるのだ。彼女は処女で子を生んだ無原罪の超人ということになっている。ヤーヴェ以外に真理はない、ヤーヴェ以外に絶対と呼べるものがない、ヤーヴェ以外はすべて無明の被存在であるときに、罪の闇の苦悩もなく、処女で子を産む超人が、なぜ信仰の対象、尊敬の対象になりうるのか、私にはわからない。生きて、苦悩し、自己の闇と戦い、生を全うした人物ではないのなら、人間はどうやって、彼女を真似ればいいのだろう。などと思う。

 

 その意味で、これだけ自己の矛盾と闘って苦しんだマザーテレサを「我々一般人」とは違う存在である「聖人」として祭り上げて、祭壇上に上げてしまおうとするローマ本部の陰謀が、この手紙で崩れることを、むしろ私は願うものである。