いろいろな宗教について(7)

 

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 「0,1、多 」

 

 またしつこく、「神」にこだわっている。キリスト教も、イスラム教も「神は一人」と表現する。新旧両聖書にも書いてある。「世の中に神は俺んとこの神だけ」と言う風に、当の一神教徒が公言し、多神教徒の「神々」を偽者だといって、ののしる。その言葉がいわゆる「多神教」徒の神経を刺激し、「多神教」徒は「一神教」徒の心の狭さに頭にきて、そもそも神を一人だと思っているほうが傲慢だという。

 

 私に言わせれば傲慢も糸瓜もない。そもそもその表現と解釈が間違っているのだ。

 

 人間は有限な存在だから、数字で物事を判断すると、心が安定するらしい。数で計算することなどもともとできないさまざまな事象に対して、数値を上げては、俺はお前より優れていると、または俺の所属する団体は、民族は、人種は、お前の所属するそれよりも優れていると思うことによって、人間はやっと生きていられる動物のようだ。

 

 目に見えるところでは、日本の小学生の数学の国際的順位だのに一喜一憂し、オリンピックの金メダルの数に、国家の威信をかけ、人口増加率だの、自殺人口の統計だの、堕胎率だの、国家に無用なじじ婆の数だのに、問題を感じ、数値を出せばそんなものを人間の力で、「思うようにできる」と思っている。

 

 世の中が思うようにならないのは、2500年も前にお釈迦様が指摘したとおりだが、人間はいつまでも数を見つめて、計算すれば、好きな数値が出せると信じて止まない。

 

 ところで、私は、そのお釈迦様が始めた仏教といわれる宗教のチャット部屋によく出入りしている。私自身はカトリック信者なので、別に今から、仏教に帰依したいと思っているのでなく、キリスト教のチャット部屋は、例の「一神教」を振りかざしてものすごくおっかないか、愛だ愛だと言って大騒ぎして、気持ち悪くて困るので、どうでもいいのが集まって、駄洒落を言い合っている仏教の部屋が気楽なのだ。

 

 ところで、その手の部屋で、あまりどの宗教にも知識がない御仁がすぐ話題にしたがる項目のひとつに、「キリスト教一神教だから心が狭く、仏教は多神教だから心が豊かだ。故に西洋人は心が狭く、東洋人は心が広い。」という類の説である。理論はどうでもいいけれど、たぶん日本人は心が広いのだと、とりあえずいいたいらしい。

 

 しかし、いつかここでも述べたけれど、私は別の考えを持っている。

 

 つまり、「キリスト教一神教ではなく、仏教は多神教ではない。」という両宗教を研究した結果の結論である。本当はそもそも「神とは何か」から始めないと、理論の展開さえできないのだが、キリスト教で「神」と和訳されている存在と、仏教で「神々」と呼んでいる存在と、もともとまったく相手が違うということを先に述べておきたい。

 

 釈迦はバラモン教の世界から、つまり、バラモン教徒の世界観の支配する世界から、出てきた御仁である。イエスユダヤ教徒の世界観が支配する世界に生を受けた御仁である。しかしともに、出身母体の世界観を「超えた」ところに、新しい福音をもたらした御仁である。釈迦は「バラモンの神々を超えた」のであり、イエスは他民族を敵視する「ユダヤ教徒の軍神である神観(神じゃないよ、「神観」だよ)」を超えたのだ。

 

 釈迦は自分の死後、自分や、その他の仏達を神々として偶像として拝めとは言わなかった。釈迦は自分の死後頼るべきは「法」であるといったのだ。「法」とは何か、という問いに対して、誰も「法」のすべてを把握することができない、無明なる人間に捉えられるものは「法」のすべてでなく、何を理解したとしても、其れは目くらが象を理解するごときものだと言ったのだ。

 

 つまり、釈迦が言う「法」とは人知のすべてを動員しても捉えることができない存在なのだ。其れがどうして「多神教」なのだ?

 

 インド人は0を発見した民族である。0の発見と同時に、1から∞に至るまで、すべてのものを、見えるだけの存在として、数字の中に組み込み、この世を理解するという「文化」が生まれたのだ。しかし、釈迦は「0」も「1」も「多」も相手にしなかった。彼の宗教は多神教ではない。

 

 イエスの神は愛の使徒であり、全人類の父である。ユダヤ教徒の所有物ではない。イエスの神はエル、ヤーヴェ:在りて在る者であり、普遍にして不変の、遍在する真理である。普遍不変の遍在する真理が1などという安っぽい数字で語れるのか?1とは無明なる人間の限界の中の表現であり、人間の表現に矛盾がある場合は、たとえ聖書にかかれていようとも、改めるべきなのだ。なんとなれば、聖書は人間が歴史の中で書いたものであり、人間の表現に頼らざるを得なかったことは、いうまでもない。

 

 筆者は子供のころ、聖書と聖伝は、聖霊によってかかれたもの、作者は天主様ご自身であるから、書いてあることはすべてにおいて真理であって、疑念の余地なしと教えられた。しかし、その聖書が2000年前のローマだかギリシャだかで、ユダヤだかを舞台にして、その時代の、その民族の言語で書かれた限り、その時代のその民族の歴史的背景を持つものであることは、どんなに偉い人がおっかないことを言って脅したって、事実なのだ。

 

 神様の方だって、困るよ。啓示を受けて泡食った人々が書いたものを、作者が自分だと2000年にわたって言われた日にゃあ。

 

 その聖書を、絶対に一字一句も変えてもならない、解釈してもいけないなどという主張は、特定の宗教団体が被支配者をドグマの中に縛り付けておくために作った、支配者としての主張であって、すでにその言葉は、聖書そのものを「偶像化」しているのだ。

 

 ヤーヴェが他の神々の中から、選んで突出した特別な1というような、存在ならば、それは己の民族の軍神、己の民族をのみ助ける神、己の民族にパレスチナの土地を所有するべく約束した神、愛よりも怒りを、攻撃には復讐を誓って荒れ狂う暴風のようなユダヤ教徒の「神観」とまったく変わらない。そういうヤーヴェを戴いて、他者を誹謗し、攻撃し、破壊し、征服するために引っ張り出してくるのなら、イエスがこの世に愛の福音をもたらした意味がまったくない。

 

 釈迦の「法」も、イエスの「愛なる主ヤーヴェ」も1でもなく多でもなく、そもそも「神」ではない。其れは「普遍にして不変の真理」である。誰も数字で捉えられない、無明なる人間が信じても信じなくても「在りて在る者」である。

 

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ところで、あるサイトにこの文を載せたところ、       ある仏教徒からのコメントがあった。

 

「仏典には次ぎのような話が載っています。釈尊は、あるとき、弟子達に、『あなた方は私の教えをどの位聞いたと思うか』と尋ねたところ、弟子達は、『数が分からないほど、沢山の教えを聴きました』と答えました。

 

 すると釈尊は地面に落ちている落ち葉を手の上に載せて、『私が説いた教えはこのくらいなのだよ。しかし本当は、宇宙の法というのは、この森の全ての木の葉くらいの数ほどあるのだ。それを私は知っているのだけれども、あなたがたに説いても分からないだろうから、私が説いたのは、この一握りの落ち葉くらいなのだ。真理というものは、本当はそのくらい沢山あるのだよ』と言ったそうです。」

 

以下は、これに対して、私が書いたコメントです。

 

「日本人は、仏教思想を持ち、多神教徒だから『何でも受け入れ寛大だ』などということを、ローマの歴史を研究しながら、自負している御仁がいる。

 

 私は、日本人が『仏教徒らしく』もないし『多神教徒』でもないし、『何でも受け入れるほど寛大』でもないことを知っている。

 

 本物の仏教徒なら、曽我と物部が争ったり、聖徳太子一家を全滅に追い込んだり、財力と権力追及の象徴としての寺社の建立をしたり、欣求浄土の旗を掲げて人殺ししたり、キリスト教を弾圧したり、宗門改めを行ったり、廃仏棄却をしたり、国家神道を打ち立てて、アジア全域に社を建てたり、敵国宗教を報じるものとして、キリスト教徒を隣組を使って監視させたり、時間の奴隷になったり、金の奴隷になったり、学校教育でさえ異質なものに制裁を加えたり、村八分したり、そういう一切のことは、起きなかったであろう。

 

 日本人は、物事をとことんまで追求することが苦手なだけで、『寛大』なわけではない。日本人が心が狭いという理由で忌み嫌っている一神教徒の西洋人がしてきたことを、日本人もその歴史の中で行ってきた。宗教が理由で心が狭くなるのは、多神教一神教も変わらない。とにかく『俺の考えじゃないとだめだ。俺の考えに従わないやつは、従うまで戦って殺してもいい』という考えが、どっちにもあるうちは、どんな信念を『バッジ』として胸につけていようと、人はお互いに殺しあう。

 

 人が人を征服して殺すのは、キリストが悪いからでもないし、釈迦が悪いからでもないし、神道その他の民族宗教が悪いからでもない。其れは、人がキリスト教用語では『原罪』を持ち、仏教用語では『無明』であるからである。『原罪』を持たず、『無明』から免れている人間はいない。象の鼻だけ拝みながら、俺は象のすべてを所有しているといい、象の尻だけ拝みながら俺は象のすべてを把握しているという、そういう状況を人間すべての状態として見抜いた釈迦は、優れた心眼を持っている。

 

 しかし釈迦の信奉者は釈迦だけを『象のすべて』として拝んでしまう。おまけに、キリスト教を奉じる西洋人は『みんな』不寛容だという。その西洋かぶれの日本人キリスト教徒も全部不寛容だという。あいつは間違っていて、俺が正しいという。

 

  これを仏教徒というなら、おらんとこの教会に来ないと地獄に行くと大騒ぎしているキリスト教徒とどこも変わらない。そんなことを論文にまでしてほざくやつの説は、あほらしくて、きいちゃいらんない。」

 

「復讐願望と救済願望」 

 

1)物理的空間としての天国地獄、極楽浄土、黄泉の国というものは、人間の願望による想像の産物だろう。物理的空間が永遠に存在し続けることは、物理的に無理である。 

 

2)どんな宗教であろうとも、現世における宗教集団の組織統一のために作った、天国地獄入場の条件というものは、すべて現世の組織と支配の都合により作られたと考える。キリストを信じないものは救われない、洗礼を受けないものは救われない、だからキリストを信じる集団の法と規律と倫理とに、特に末端の信者は思考停止して盲目的に従うべきだという「律法」は、キリストといわれるイエスが2000年前に「超えた」ものである。 

 

3)仮に天国地獄が存在するとして、その条件は有限存在なる人間が作るものではなく、存在のもとなる無限存在が決めることで、したがって、その条件は死ぬまでわからないから、詮索したり、条件を満たせと恐喝したりしないほうがいい。俺が正しくお前が間違っているという限り、殺し合いは合法化される。 

 

4)聖書には、やたらに「剣」とか「戦い」とかいう表現の元に、「愛」を強要するかに見える激しい文句がある。信者は伝統的に「キリストの兵士」という表現でいさましくおどろおどろしく愛のために戦う生き物であるかのように表現されてきた。これが歴史的に曲解されたか、知りながら利用されたか知らないけれど、異宗教集団撲滅のための十字軍を産み、世界中の原住民撲滅のために利用された。 

 

しかし、このおどろおどろしい表現は、あくまでも比喩であり、キリスト自身は愛のためにただの一人も殺していない。自分を信じないものは地獄行きだとも言っていない。 

 

キリストを通らねば天国にいけないとは、「愛の具現としてのキリストを生きなければ、心に平和はこない」ということで、キリストが死んで後に結成された教会が制定したにすぎない洗礼を受けなければ、「目に見えない魂が、八つ裂きになったり、目に見える火で焼かれ」たりするという意味ではない。

  

ヒトは復讐を好むが、キリストの愛は復讐の否定である。地獄思想が復讐願望のために生まれたものならば、地獄思想はキリストの否定である。敵を愛せとは自己愛の否定であり、自他の無明を悟らない人間に愛は不可能である。天国願望は自己愛のなせる業である。ヒトに救いがあるならば、其れは自己を受け入れ、他を遠ざけてくれる物理的空間としての避難所ではなく、有限存在である自己愛を去って、無限存在にすべてをゆだねるあり方を発見した人間の「心の状態」を言うのであろう。(2021.3.31)