いろいろな宗教について(番号不明)

「金(きん)について思うこと」

 金は美しい金属である。そのことに異存はない。私も、思い出の人から頂いた金のペンダントを身につけている。ただし、私は金の市場価値を身につけているのでなく、思い出の人の心を身につけている。

 

 金が単に市場価値だけならば、そのことにも異存はない。ただし、市場価値があるということは、人間の物欲と権力欲の対象となり、力の象徴であることは否めない。純粋のスポーツの祭典であるはずのオリンピックで、金メダルに国威をかけて、選手に圧力をかけている各国の政府の異常な姿を見ても分かる。金メダルの一つがどれくらいの市場価値を持っているのか知らない。しかし、あのメダルには市場価値とは無関係なものが付加されている。

 

 それはそれが、目に見える「金」だからに他ならない。

金は「目に見える」ものであり、それが「目に見える」物欲の象徴であるなら、物欲というものが「心」にとって危険なものであると考える、古代からの諸宗教の価値観の対象ではない、ということを、私は初めに提示しておきたい。そして、その当の宗教が「金」を神のごとく崇めてきたという矛盾した事実も提示しておきたい。

 

 王族に生まれながら、富も権力も、その象徴である金銀財宝も城も捨てて、出家した釈迦は死後美化されて金銀で飾られた像となり、金銀で飾られた殿堂に鎮座し、金銀ずくめの僧服で身を包んだ僧の礼拝を受け、権力者が権力安泰の祈りを捧げる対象となった。

 

 徹底的に弱者の傍らに立ち続け、どんな権力をも拒絶し、ひたすらに愛を説いたために、一片の衣もまとわず、十字架上で刑死したイエスと呼ばれるナザレの男は、金銀財宝で飾られた教会のど真ん中に金の偶像として祭られ、全世界の征服欲の亡者の軍神となり、略奪と破壊の先頭に立たされ、いまだに「救世主キリスト」の地上の王国を夢見ている、物欲にまみれたキリスト教徒なる集団に、「金」に飾られて大殿堂の主となっている。

 

 モーゼがシナイ山から降りてきたときに、モーゼが引き連れてきたイスラエルの民は、「金の仔牛」を神として拝んでいた。人間とは金を拝むものなのである。仏教もキリスト教も、教祖が死ねば「金の仔牛教」になってしまう。

 

 新興宗教の集団が、まず人々をひきつける手段も「金の仔牛」と、金で飾られた殿堂である。人々はそれが「仔牛」でなくて、「足の裏」でも、横文字に弱い日本人の心を直撃する異国風の妙な名前を付けられたどでかい神様でも、金の衣が着せられていると目がくらみ、拝んでしまう。そこに集まる人々の数が、真理の確かさを表していると自負している宗教集団もあるが、人を集める能力なら、ヒットラーだって持っていた。バイ菌は純種より繁殖力が強いのだ。

 

 私は帰国以来、自分が所属する教会から、遠のいている。過去の教会なら、その態度を「罪」と規定して、私を断罪しただろう。罪人と言われても何でもいいけれど、私は遠のく理由を持っている。

 

 24年前、私が帰国してこの所属教会に来たころは、それは質素な教会だった。真中に裸の木の十字架がかかっていて、その隣に「聖櫃」と呼ばれる、いわば、カトリック教会の「御本尊」を安置する質素な木でできた箱があるだけの、聖像も絵画もない、がらん堂だった。西洋やラテンアメリカの強大な権力の象徴である金銀で飾られたカテドラルに苦々しく思っていた私は、その質素なたたずまいが好きだった。

 

 バザーの折には、教会員の老女が祭壇でお茶をたてるという、なかなか味わい深い行事もあり、それを面白いと思っていた。ミサ聖祭の心は「茶道」に通じるという、先任主任司祭のはからいであった。

 

 主任司祭と呼ばれる教会の主が何代か代わり、現在の主任司祭は、その「質素なたたずまい」が「王たるキリスト」の殿堂としてふさわしくないという。喫茶店じゃないんだから、祭壇でお茶をたてるなんてとんでもない、という。おまけに、神のお住まいが「木の箱」なんて恥ずかしい、というのだ。神ってあんなところに住まっていたんだっけ。

 

 だいたいあの小さな「聖櫃」といわれる箱の中に収まるほど、あんたの「神」ってちっぽけなのかよ。

 

 あるとき彼は、思い立った。その「神のお住まい」を「金」にしなければならぬ。あれよあれよと工事が進み、信者の教会維持費が使われて、ある日曜日、彼は興奮して、説教台でのたまわった。

 

 私は啓示を受けて「ご聖櫃」を金の箱に代えました。神のお住まいは「輝くもの」でなければなりません。今まで、木のちゃちな箱に、ご聖体をお入れするのが恥ずかしくてしようがありませんでした。やっと、「輝くお住まい」をおつくりしました。私は今回の自分の考えを誇りに思っております。

 

 真中にあった、大きな木の十字架は30センチほど裾が切られてその下に、壁がくりぬかれ、彼の「啓示の」金の箱がはめられていた。周りの壁の塗料は塗り替えもせず、醜く不揃いの白い漆喰の跡が残ったままである。彼は箱の中を開け、公開した。

 

「ほら、光り輝いています。神様のお住まいは、こうでなければなりません。」

 

 何度も何度も繰り返して言うけれど、彼が言っている「神」は、本来「ありてあるもの・ヤーヴェ」であり、金の市場価値など、相手にならない存在である。金の箱におさまるのは、「金の仔牛」以外にない。

 

 冗談じゃない。いや、冗談がひどすぎる。私はどうしても、あの金の仔牛箱を拝む気がしなくて、教会から足が遠のいている。(多分10年以上前の話)

 

 「靖国 」

 私は別に右翼でもないし、皇国史観の信奉者でもない。あえていうなら、戦前の国家神道による宗教対策に被害を受けたカトリック信者である。

 

 私は憲法9条を、それを押し付けたアメリカの思惑はともかくとして、字面だけで判断するなら大切だと思っているし、戦争も富国強兵も好きではない。戦争中の日本の大陸政策や大東亜戦争が正しい戦争だったなどとも思っていない。ましていわんや、アメリカ・イギリス・ソ連という戦勝国が一方的に正しかったなどとも思っていない。

 

 戦争をすればどちらかが勝ち、どちらかが負ける。勝ったほうが正しくて、負けたほうは、戦死者の墓参りもしてはいけないなどとも思っていない。

 

 墓参りというものは、常に背景に、ある、生死観があり、宗教観があって、人は古来、死者を悼み、死者を弔い、死者の霊の平和を祈ってきた。そのことは、死者と関わりをもつ個々人の心の問題であって、誰かがそれを賛成したり、反対したりしていい問題ではない。

 

 毎年終戦記念日がやってくると、靖国に、だれが参拝する、だれが参拝しない、などということがニュースで取りざたされている。靖国に生前何をした人が、祀れていようと、それはそれを祀る宗教の問題であって、誰を祀ってはいけないなどということを、門外漢が言うべきではない。

 

 日本の古来の民俗宗教では、生前国家に楯ついた武将でも、恨みを持って死んだ霊でも、死ねば「神」になったのだ。人々は、それらの「あらぶる御霊」を鎮めて、祟りのないように特別に祈ったのだ。将門だって神になり、菅原道真だって神になった。

 

 いわゆるA級戦犯なるものも、生前何をしようと、戦争に勝てば英雄になったはずの男たちである。日本のために戦い、日本のために死んだのだ。戦勝国によって処刑されようと、「あらぶる御霊」は日本の民俗宗教によって、「神」になるのは、当然なのだ。

 

 日本の「神」とはそういう「霊」のことを言うのであって、外国語なんかに訳せない。だから天地万物の創造主や「ヤーヴェ・ありてあるもの」を「神」と訳すのはとんでもない誤訳である。「神」は「なるもの」であり、ヤーヴェは「在るもの」なのだ。

 

 このようなわけで、日本人は誰でも、靖国神社にいって参拝することに、何の問題もないはずである。それを中国や韓国がが問題視するのは、内政干渉でなく、宗教干渉である。まあ、どこの国がそうさせているのか、私は知らないけどね。