naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

 

「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う」

 

 ここに記すのは、中米内戦時代エルサルバドルに過ごし、庶民としてじっと内戦の様子を目撃し、そして「報道」と「現実」の矛盾に気づいた筆者が「記紀の研究」という無関係そうな命題をひっさっげて、世界情勢の分析を試みた研究である。

 

 日本の神話を一応史実の反映と、肯定的に研究の対象にして扱った本を、私は2冊読んだ。原田大六氏の「実在した神話」と、安本美典氏の「神武東遷」である。

 

 その2冊以外の、参考に読んだ30冊ばかりの研究書は、すべて否定の論理に裏づけされているものばかりである。これら否定の哲学に支えられた歴史書ばかり愛読していたころ、私はまだ、記紀を通読していなかった。私は否定の対象を知らずに、否定の歴史学に傾倒していたのだ。

 

 私は一度日本を離れ、外から日本を眺める機会を持った。「外」は内戦の巷であった。そして強国の代理戦争といわれたその内戦の中で、新聞もテレビも、どんな報道機関も、信用に値しないことを、私は肌で感じとっていた。なぜなら、あの国に生きて、私が昨日、自分の目で見たことが、報道では世界の強国とその追従者の立場でしか知らされなかったから。

 

 私は、古代史の研究であっても、対象を知らずに、利害を賭けた一方的な研究に納得していく自分の研究態度が、いかに危険なものであるかを、内戦の異国に住むことによって理解した。私は一方を「信じる」ということが「真理を知る」には程遠い結果を生むことを理解した。

 

 私は異国の地でやっと「記紀」を読み始めた。註を頼り、辞書を頼り、読み進むうちに、その註にさえも辞書にさえも、為政者の哲学が色濃く現れていることを知った。それが、私に、表記と意味のずれを気づかせるきっかけとなった。

 

 それで私は表記の研究に没頭した。表記の研究に没頭していたときは、まだ私は邪馬台国と大和朝廷の関係にきづかなかった。考古学も言語学も、まだ関連付けてはいなかった。そもそも縄文弥生の4000年に、生々しい人間の活躍があり、「言語」があり、「国際関係」があり、「国家」がある、ということにさえ思いをいたさなかった。

 

 私は「表記」のからくりに気がついたとき、始めて、記紀神話と、中国文献上にある邪馬台国と、縄文弥生の考古学と、それから、好きだからもっていたに過ぎない大野晋の日本語の研究書とを並べてみた。その関連を探りながら、すべての本を読み返してみた。頭の中に、ひとつの流れが組み立てられていくのが感じられた。記紀編纂者の強烈な意図が見えてきた。 

 

 それは国民性を操ることだった。かつて、九州に君臨した大いなる巫女、どんな優れた強力な男王が立っても、まとまらなかった国をまとめた、大いなる巫女の存在を「ヤマトの民」は忘れていなかった。あの巫女の尊い血筋に、いつまでも憧憬を感じ続けているヤマトの民を支配するには、オオヒルメとして死んだ巫女をアマテラスオオミカミとして祀ること、そしてその血筋を絶やさずに、そこから発生する王権の象徴を守ることが、鍵であることを、記紀編纂者は知っていた。

 

 しかし記紀編纂者は八母音語族であったため、四母音語族の「ヤマト」の伝承をそらんじている稗田阿礼の助けを借りなければ筆録できなかった。記紀におけるさまざまな「改竄」に見える「矛盾」、または「神代に見える言葉のからくり」は、漢字にそらんじた太安万侶が「表記の統一」という「文化的貢献」をすることによって、生じた。しかしその「文化的貢献」は「政治的貢献」であった。なぜなら、「表記の統一」はとりもなおさず、「各豪族の持っていた古代伝承の解釈の統一」であったから。

 

 時の政府が、民を支配統一するとき、強力な役割を果たすのが、政府によって「再編成され、再構築され、理解の範囲を統一された」思想、哲学、宗教である。

 

 初めは民族の間で、優しく暖かなまなざしで記憶され、吟遊詩人によって歌い告がれ、神として祭られ、1地域の民間信仰の中に残ったに過ぎないオオヒルメの利用価値に注目した、多分、大陸渡来の小集団だった為政者が、その末裔を担ぎ出し、民族の統一の象徴として国家の中心にすえ、「大和朝廷」を築いた。

 

 それはやがて数世紀を経て国家神道という巨大な組織に組み替えられ、明治政府によって近現代の統一の象徴として「国教」にまでされてしまった。国民は与えられた「宗教」を、ほとんど無意識に受け入れる。その根拠を求め、文献をあさり読み、納得してから受け入れる国民なんて、いない。宗教とは「文献批判」や「歴史研究」から入るのでなく、問答無用で「信じる」ことから入るのだから。

 

 国民は「真理」として与えられた宗教を信じることによって、国家を信じる。だから古今東西広大な地域を統一支配したどんな為政者も、為政者が飼いならした宗教を国教にした。

 

 かくして、すべての現世の執着を捨てたお釈迦様も、富や権力の一切を捨て、人間の精神の自由を奪う「律法」に異議を唱えて十字架にかけられたナザレのイエスも、為政者の富と権力への執着のために利用される。

 

 為政者はその矛盾に気づくことを赦さず、従わないものは、その宗教の名において、排除する。あらゆる宗教の教祖は、その本来の思想がどうあろうと、信仰の対象として、偶像として、民に与えられる。

 

 そこで持ち出される「信仰体系」はお釈迦様が作ったのでもナザレのイエスが作ったのでもない。それは巧妙にしくまれた誘導により、蒙昧な民を支配するために為政者によって作られた「体系」である。

 

 西洋の歴代の王侯貴族も、異民族を征服することによって立てられた教会の頭も、自分を拝めと信者を集めて金儲けしている新興宗教の教祖達も、宗教を否定した共産主義者たち、レーニンもスターリンも毛沢東も金日正もその息子も、信仰の対象になる。宗教を「アヘン」といったマルクスさえ「信仰」の対象になる。現代の無辜の民の「意思統一の手段」である新聞、テレビ、インターネットによる「報道」でさえ、「信仰の対象なる偶像」である。

 

 キリスト教の神が拝むことを禁じた偶像とは、木や石や石膏でできていなくてもいい。「為政者の手になる目くらまし」はすべて偶像なのだ。

 

 私は30年の間、この研究を眠らせておいた。いま、インターネットという手段を手に入れ、執筆の機会を得て、過去の研究を読み返しながら気づいたことは、歴史のうねりの中で同じようなことが、現代も繰り返されているということである。

 

 911問題にせよ、アフガニスタン、イラク侵攻の問題にせよ、靖国問題にせよ、はたまた歴史教科書問題にせよ、署名に駆り出され、運動に駆り出される人々は、自らの目で、自らの研究によって、全く何も見ていないのに、自分がたまたま所属する団体の誘導によって、賛成反対の行動をしている。

 

 アメリカの同時多発テロ、いわゆる911事件の報道をテレビで見ながら私は思った。「なぜあれが突発的な事件なのに、あらゆる角度から実況中継ができるように、カメラがそこにあったのか。そして、もうひとつの『事前に発見されて、乗客もろとも撃墜された』飛行機のほうは、なぜ隠蔽されてまったくいかなる角度からも報道されないのか。」

 

 この怪しげな報道によって、アフガニスタン侵攻は強引に正当化され、その関連で、イラクのほうは大量破壊兵器所持というでっち上げによって国そのものが壊滅した。

 

 その報道に、どちらが大量破壊兵器をより多く持っているかということの矛盾を追及するものがほとんどいなかった。

 

 そして報道機関は、安易に、この戦争を「宗教戦争」と呼んだ。キリスト教徒とイスラム教徒の戦いであると。誰もあの戦争に、ヤーヴェの名前もアラーの名前も出していないときに、あれがアメリカの石油のっとり戦争だということを知りながら、「宗教戦争」は報道機関によって仕立てられた。

 

 おまけに、両方とも一神教だから狭量で残酷だ、多神教の東洋人(たぶん日本人)は寛大だ、などという説まで飛び交うようになる。天皇を中心に、「天に代わりて敵を打つ」というスローガンを立ててアジア侵略をしたどこかの国は、「多神」を掲げていたのではなくて、天皇という「一神」を掲げていたのではなかったか?併合した「朝鮮」に「朝鮮語を禁じて、義務教育で日本語を強要した」東洋民族は「寛大」か?

 

 異質の存在を赦さない点において、多神教とやらの範疇に入れられた「東洋人」の日本人はとりわけ「異物の存在を赦さない」、「純粋」を尊ぶ、人種である。

 

 閣僚の靖国参拝反対を叫び、歴史教科書は中国朝鮮の都合に合わせて編纂されるべきだと主張し、911の報道に「日本に何も影響を及ぼさない民間のイスラム教徒」を意味もなく憎み始め、戦争が起きるたび、その都度反対したり賛成したりして、署名運動をしたり、デモに参加したりする善男善女は、為政者や、その反対者の将棋の駒に過ぎない。

 

 為政者もその反対者も、国民が、いちいち靖国参拝や、教科書問題や、911問題や、イラク戦争参加の是非の問題に関して、自分の意見を持たないのを知っている。靖国の成立の歴史を自らの目で研究し、資料を集め、自分の頭で考え、「新しい教科書」とやらを買って読み、その主張を自分の頭で吟味し、911の報道をあらゆる角度から研究したしすることがないのに、「報道」ひとつで動揺し、怒涛のように統一行動することを知っている。

 

 為政者は、国民は「為政者の意図によってゆがめられ、支配の道具とされた」宗教・信条・信念・哲学なるものを示されれば、その真髄を研究せずに、「ひたすら信じ」、自分が何を見きわめ、何を信じ込まされ、何のために駆り出され、何のために行動しているのかも知らずに、納得して行動することを知っている。

 

 他の存在を赦さない「一神教」とは、為政者が自分を「神」にすることであって、「真理は一つである」という哲学の命題を掲げる宗教のことではない。仏教は多神教ではなく、キリスト教は一神教ではない。東西を代表するこの二つの宗教は、1の2のと人間の頭で数量化が可能な概念を「神」としているのでなく、数量化のできない、無限大の真理を真理とする宗教なのだ。

 

 無限大の真理は、人間の有限の頭で考えられるほど小さなものではなく、種々さまざまな事象を含み、種々さまざまな様相を呈し、すべてを包含する宇宙である。人はこの無限大の真理に沿って生きるのがよろしく、「自ら神となった」為政者に与えられた「たった一つの真理」に、何の吟味もせずに踊らされるべきではない。