続々 昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

 

 

3)「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う3」

  

 後になって私は、かの宗教集団を脱退し、ある高校の国語教師となった。その高校は、三井の一族が趣味で建てた学校で、特に帰国子女を受け入れることを看板にした、国際的な学校であった。

 

 その時に私が担任をした生徒の中に、一人の韓国籍の子供がいた。英米日中韓混淆の国際的集団で生活したことのある私にとっては、もとより、生徒の国籍がどこにあるなどということに、偏見も、特別な思いもなかった。

 

 ところが、高校全体で、夏休みにキャンプをしたときのことだった。そのキャンプはバイブルキャンプという名目だった。キャンプについてきた学校の理事長が、いろいろな国々の学校の話をしながら、私のクラスのその韓国籍の子に、話しかけた。

 

「あなたも韓国人なら、自国の韓国に、愛国心をもっているでしょう?」

 

 その言葉はごく自然で、別にまったく何も問題発言ではなかった、と、私は感じた。そんなことを感じる以前に、私はその言葉にさして注目していなかった。

 

ところがその時、かの韓国籍の子供が、一人でおいおい泣き出したのである。

 

 え、なんで?と私はいぶかしんだ。そこまでなら、私が彼女に個人的に話し合って、問題にならないうちに収拾することができたであろう。問題は、周りにいた日本人の生徒達の反応とその反応に対する私の言葉から、こじれたのだ。

 

 そのSさんという韓国籍の子の友人達が一斉に立ち上がって、理事長の言葉に抗議をし、友人のSさんを取り囲んで慰めにかかったのだ。「あなたは韓国人なんかじゃないよ。日本で生まれて日本で育って、もう、私たちと同じだもの。あなたは日本人よ。韓国人なんかじゃない!」

 

 よってたかってそう慰めにかかった彼女達は、理事長さんが怖いものだから、その代わりに私に詰め寄った。「あまりひどいと思います。Sさんが韓国人だなんて、先生がそんなこと言っていいんですか?」「そんなこと」って「韓国人という言葉は差別語かよ」当惑して私は変な気分になった。

 

 韓国人のSさんは「韓国人」と呼ばれたことで、泣き出し、友人達は韓国人のSさんが「韓国人」と呼ばれたことに憤慨し、Sさんは日本人だ日本人だと、当の理事長にでなく私に詰め寄るのだった。私には訳が分からなかった。

 

 理事長はいつもは職員会議で、日本人離れしたアホみたいな言葉を繰り返していた人物だったが、その時彼がSさんにいった言葉は、彼にしてはまっとうな言葉だと私は思っていた。「自国に愛国心をもっているだろうということに、どこに問題があるのだ?」と私は詰め寄る生徒に言ってみた。そうしたらある生徒が、「先生も大人気ないです。泣いている生徒に追い討ちをかけるんですか?」という。韓国人と言われて泣いた韓国人だって、日本人の友人達だって、明らかに私よりそっちのほうが差別的に「韓国人」をとらえていた。

 

 私が、教師になる前に入っていた国際的な修道院で、出会った韓国人は、日本嫌いで自国に誇りを持っていた。逆に日本人だというだけで、私は彼らの攻撃の対象になっていた。

 

 私の出身家族は、満州で暮らしたことがあり、中国朝鮮人に対して、まるで差別の意識を持っていなかった。彼らが日本人であるべきだなんて全く考えていなかった。だから、自国に誇りを持つことは誰にとっても常識であると考えていた。戦後何年たっても一般の日本人の意識下にある、差別意識に私は無頓着であった。だから、私には、この生徒達の反応が理解できなかったのだ。

 

 私は日本人として生まれ、日本人として日本の国土に育ちながら、たぶんカトリックの家庭で育ったため、「民族差別」という日本の現状を知らなかった。

 

 だから、韓国人といわれて泣いた生徒を前にして、このとき私は、かつて、国際的団体の中で経験した「自国に誇りを持つ韓国人が、日本嫌いとセットに、その誇りを保持している」という状況を、初めて不思議に思った。「韓国人」といわれて傷つき、「日本人と同じ」といって慰める、そのことの異常さを、初めてその時、「歴史的に」解明したいと考えた。

 

「これは、研究の価値がある!」

 

 おりしも、私が担当していた古典の教科書に、古事記の一節が載っていた。私は教科書に何かの一節が載ると、教授資料というものを見ないで、原典に中り、研究書を読み、その一節が書かれた背景や状況を把握するのに、時には10冊ぐらい読み漁る。その時もそうしているうちに、古事記の記述を解明することが、Sさんの問題を解く鍵になるのではないかという思いに至ったのだ。

 

 「一緒に古代史を研究しよう」、と私はSさんに個人的に持ちかけた。相手が泣いたからと言って、うじうじと気持ち悪い生徒指導などしたくなかった。現代に至るまで、こじれにこじれている日朝関係の原因を、古代史に求めることによって、別の心の展開があるだろうと、私は、そういう形で、彼女が世界の中の自分を見つけることを狙ったのである。

 

 私は担当の高校2年のクラス全員に、「古事記」の戦前の扱い、戦後の扱いを説明し、その変化の根拠を一緒に研究しようという名目で、協力を求めた。古事記の一節から古事記成立の背景から、そこに秘められた、日本と大陸との関係に至るまで、みなで一緒に研究を始めたのである。

 

 私は、古事記の記述されている人名を記述に従って、長い長い系図をつくり、同時に、古事記に記述されている地名を書き込んだ地図を作った。もちろん当時のことだから、こつこつと手書きで作成した。系図の中に、豪族や天皇家の勢力関係を入れ、反物のようになった系図をじっと眺めていたときに、世代によって、名前の付け方が極端に違うことに気が付いた。それはまるで、民族の入れ違いを髣髴とさせるほどの違いだった。

 

下はその名外形図の一部。手書き。

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 高校生ができる範囲の研究だったが、彼らはおもしろがって付いてきた。ある程度までできたところで、担当の高校2年生は、3年になる直前、修学旅行に連れて行くことになった。

 

 ところで、その学校の修学旅行は、開校以来、京都奈良と決まっていた。一学年一クラスの小さな規模の学校で、教師はみんな、基本的にまじめ人間だった。内容的に、納得がいくものなら、案外個人の意見が通る、だから其れまで、担任がしゃにむに主張すれば、案外なんとかなってしまう学校だったので、私は職員会議で、生徒を九州に連れて行きたいと主張しようと考えた。「古事記」に載っている地名が九州に多く、私の「神話地図」は九州に集中していたから。

  

 私は職員会議の根回しのために、生徒と共同で研究した資料のすべてをガリ版印刷し、全職員に1部ずつ渡した。そして職員会議で言ったのである。

 

 「修学旅行の意味は、学んだものを修めるための研究旅行です。日ごろの研究と関係のない、観光目的の京都奈良を回っても意味がありません。私は生徒達と1年かけて、古典文学から、古代史を覗く研究をしてきて、これだけの資料を作成しました。修学旅行は、九州にさせてください。」

 

 学校が伝統的に続けていたはずの修学旅行は京都奈良、という決まりはこのガリ版刷りの生徒たちの研究資料にたまげた教師たちの全員の賛成によって、結果はあっけなく、九州に決まった。

高千穂の夜神楽見学

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