続々々 昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

4)「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う4」

 

 私に記紀神話研究のきっかけを作った生徒は、結論を見ずに卒業して行った。私は卒業前のSさんに、私は必ず研究を続けることを約束し、Sさんも協力を約束して別れた。その時はすでにSさんは、自分の出自に正面から向き合い、研究の対象として冷静な目をもって洞察できる学生に成長していた。実に47年前のことである。

 

 しかし現代の日朝韓闘争は、卒業した生徒達とは無関係の、新しく受け持った生徒達にも浸透していた。問題はこちらのほうが根深く、学問的研究などという範囲をまったく逸脱していた。

 

 あるとき、担任をしていたクラスの生徒の母親から、電話があった。

 

その電話は以下のごとき内容であった。

 

 クラスのある生徒が同級生のその娘に、「お前は朝鮮人だ」と言って「侮辱」した。うちの娘は朝鮮人ではないし、そういう噂がたてば、お嫁に行くにも差しさわりがあるから、侮辱した生徒に注意をしてほしい。娘はショックのあまり、学校に行けないと言って泣いている。

 

 ということであった。昭和50年代、「朝鮮人」という言葉は「侮辱」だという感性を実は私は持っていなかったが、20年歳下の生徒には、そういう感性があったのだ。生徒に韓国、朝鮮籍の生徒を持ち、日本人を侮辱するために使われる「悪口」が、「朝鮮人」なら、相方を傷つけないために、なにを言ったらよいのか。私はかなり、当惑した。

 

 ところが、未だ別の当惑を感じさせられた、別の生徒の発言もあった。それはさらに年下の生徒の発言であった。私が古典の授業で「枕草子」を扱っていた時のことである。私が枕草子の時代的背景について説明をしていた時、何代目の天皇という言葉を聞いたある生徒が、手を挙げて立ち上がり、抗議していう様、「先生はなぜ、『天皇陛下』と敬意を持っていわないのですか?」というのだ。私は明治以後の天皇の話をしていたのでなく、「枕草子」の背景として関連の年表を読んでいただけである。

 

 私は別に天皇蔑視の精神で、三条天皇陛下とか、一条天皇陛下とかいわなかったわけでなく、だいたい枕草子の時代は「みかど」と言っていたのであって、江戸時代以前の天皇に「陛下」という称号はないから言わないだけだ。と言っても、どういうわけか、その生徒は不信感をあらわにして納得しなかった。

 

 記紀神話研究前の私には、「天皇崇敬」の裏に「朝鮮蔑視」がある意味を理解していなかった。そして、どうしてその時代の高校生に、そういう精神が遺伝しているのか、理解できなかった。そして同時に、「天皇崇敬」と「朝鮮蔑視」の精神をセットそして持った高校生の価値観が、あの異常な先輩後輩の「力」の支配につながるのかも、わからなかった。

 

 実は私が学生として育った時代は、「谷間」なのだ。私の世代は、そのようなたぶん本来「日本的」な精神が、何もわからないように、意識の外に置かれるように配慮された教育を受けた希少な世代らしいのだ。小中高大学を通して、私の時代には先輩後輩という言葉さえもなかった。後輩が先生に対してより先輩に対して敬語を強要されるということが全くなかった。あれは、たぶん、借り物のバタ臭い「民主主義」が行われた唯一の世代だったのかもしれない。

 

 日本が戦後経済力を得て国力を盛り返し、自信を取り戻して以後の世代は、「本来の日本精神」(そこに理論があろうとなかろうと)が鎌首を持ちあげたのだろう。私にはそうとしか思えなかった。

 

 外国の「文化」を摂取した後、それを日本化して行くことは本来の日本のお家芸である。しかし、摂取するのは「洋才」のみで、精神文化は「和魂」でやっていくというものお家芸である。その「和魂」を私は、記紀の研究と同時並行的に分析せざるを得なかった。初めは「否定的に」、そしてだんだん「肯定的」に。

 

 「和魂」に論理は不在である。「論理的な魂」など、元々世の中に存在しないのだ。そしてあらゆる歴史的「行動」は、「論理」によってでなく、「魂」によっておこされる。それはむしろ「衝動」と言ってもいい。論理や理性は衝動を食い止めるほどには強くない。

 

「民主主義」はそれを始めた国の国民にとって、「論理」であるか、「魂」であるか、それは知らない。だいたい、民主主義とは、キリスト教の精神と同じく、ほとんど実現不可能な高邁な精神らしく、私は、いわゆる「民主国家」を掲げている国家が、「民主的」とは到底思えない。ならば、それは日本人にとってだって、実現不可能な理論なのだ。日本人は世界中のあらゆる「理想」や「理論」を理解する知力はあるが、日常における実践とは、無関係である。その「高邁な精神」を押し付けてきたアメリカ国民でさえ、実践なんかしてないのだから。

 

 しかし私は、少なくとも、われわれ日本人が理論不在の「和魂」の上に生きているという事実を自覚して生きることを望む。外来の理論や正義や宗教によってではなく、建国以来持ち続けた理論不在の、「すめろき」を神とする価値観を魂として生き続けていることを、受け入れないとしても、宗教無関係に少なくとも「理解」していてほしいのだ。

 

 そういう私だって、欧米由来のカトリック信者であり、矛盾は百も承知である。しかし日本人は、何信者であろうとも、魂の奥底に、古代から営々と遺伝してきたある特殊な価値観を持っていることは否めない。と、私は思う。

 

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