「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;4

 

★ 安本美典氏の「神武東遷」

 

  私は“天照大神を持ち出さないと落ち着けなかった”安本美典氏の説が気になったので、わざわざ本屋まで行って探して、彼の問題の著書、「神武東遷」を読んでみた。それはまだ記紀を通読していないころで、したがって古代の神話の記述の信憑性など頭から信用していなかったころである。つまり私は先入観を入れられた頭で、どれどれ、どれくらいうそが書いてあるかを読んでみようという態度で読んだのである。

 

 実をいうと、この本は私にとって古代の神話の記述を史実として肯定しようという態度で記された最初の本であった。それまで私は古代の記紀の神話などを史実扱いするような本は、右翼の本だと思っていたから、題名だけを見て避けてとおっていた。図らずも私は佐伯氏に紹介された形で安本美典氏の本を、眉毛に唾をつけながら読む気になったのである。

 

 私は神話や宗教を絶対視しているわけではなく、科学を絶対視しているわけでもない。しかし人間には解明不可能な要素があることを知っているし、科学がある程度の真理追及の手段であることも知っている。だから精神をあまりに軽視した思想にもついていけないし、同時に非科学的な論理にもついていけない。

 

 ところで私は、佐伯氏の指摘、つまり安本美典氏を天照大神実在論者という範疇に入れる指摘から、安本美典氏はかなり非科学的な学者なのだろうという感じを持っていた。ところが私は「神武東遷」を読んでから、安本氏は非科学的どころか、安本氏はかなり重症の科学万能論者ではないかという結論を得たのだ。

 

 私の理解力に限度があるから、正確に把握していないかもしれないが、安本氏の説をかいつまんでいって見ると、“まず、天皇実在の事実が確実な時代から天皇在位年数に仮説を立て数理的に計算していくと、天照大神と卑弥呼の時代は一致する、だから天照大神と卑弥呼が同一人物であるという可能性が高い、そう考えて整理すると、天照大神と卑弥呼の国には一致する記述が多い、”という説である。

 

 これは佐伯氏の指摘のように、“そのものずばり、卑弥呼は天照大神に比定できる”という説明から受ける感じとはだいぶ違うように見受けられる。安本氏は数理文献学という、科学の権化みたいな学問から、天皇の在位年数を割り出しているのであって、そこには“天皇制の呪縛”らしい要素はまったく見当たらないのである。

 

 私には数理文献学なるものの知識がないから、こういうアプローチの仕方はよくわからない。数理でもって個人の癖を発見することができても、死んだり生まれたりする天皇の在位年数が、しかも平和な時代の天皇の在位年数を元に、動乱の時代の天皇の在位年数を割り出すことが可能なのか、大いに疑問は残るのである。しかし此の説は、佐伯氏の指摘ほど非科学的な説ではなく、むしろ、行き過ぎた科学信奉の精神の産物であって、したがって“天皇制の呪縛”とは関係なさそうに見えるのだがいかがなものだろう。

 

 “邪馬台”と”大和”が無関係であるということを、さらに明確に主張するのは、私が(B)に引用した水野氏である。彼がその論拠としてあげた物をまとめてみると次のようになる。

 

①卑弥呼の伝承は日本国内のどの氏族の伝承にも姿をあらわさないこと。
②日本書紀の編者も卑弥呼に関しては無知であり、中国正史と辻褄を合わせるために、卑弥呼を神功皇后のように記述しながら、それもあいまいな記述であること。

 

 誤解のないように私の立場を明確にしておくが、私は、“邪馬台国”と”大和”が、実質上関係があったと思っているわけではない。だから“邪馬台国”と”大和”が本当は無関係であるという佐伯、水野両氏の結論にだけは賛成である。ただし、“無関係”であるという意味が、二人の考える意味とは異なっている。2世紀の邪馬台国の延長線上に、記紀で主張しているような形では、7世紀の大和の歴史はつながっていないだろうという意味である。 

 

 つまり私は、この二つの国に血縁上の関係があるとは思っていない。しかし、その理由は水野氏の挙げるような、卑弥呼らしき人物の伝承がどんな形でも存在しないとか、佐伯氏のように、卑弥呼と天照大神を結びつけるのは皇国史観の呪縛であると断定するような理由ではない。

 

 当然のことだが、卑弥呼は、そのままの形、表記も発音も変わらない形では、日本の伝承の中に現れてはいない。そして中国文献の中の卑弥呼の記述を読んだときの記紀編者が、中国側文献に現れたような形の、その名も“卑弥呼”と表記される、鬼道をあやつる女酋については無知であったかもしれない。少なくとも日本書紀の記述からは、編者がこの女酋に思い当たる節がなかったらしいのは理解できる。

 

 しかし私はこの二つの事実から、日本の文献には卑弥呼(中国側の文献に登場する)に“相当する”人物の記述がまったくないかということには疑問を持っている。そしてこの日本側の文献にその片鱗も姿を見せない卑弥呼という人物が、存在しなかった、あるいは存在したかもしれないが日本国家の形成には何の関係もないと断定する前に、考えるべきことが三つだけ残っていると思うのである。

 

 その1は、ある事象に対する先進国中国の態度と、後進国日本の態度の違い、または受け取り方の違いである。

 

 その2は、二つの文献を読むときの、現代史家の態度の偏りについてである。すなわち、中国側の記述にある卑弥呼の邪馬台国については、現代史家は過小評価をしすぎており、日本側の文献である神話に対しては、彼らは実に“神聖視”しすぎているのである。

 

 最後、その3は私のこの研究の主題である表記の問題である。古代中国は近隣の国々を野蛮国と考えており、中国に朝貢してくる国々の国名を記述するのに、動物の名前等の見下した漢字表記であらわしている。邪馬台、卑弥呼は、どう見たってつけられた側からすれば名誉ある名前ではあるまい。

 

  佐伯氏や水野氏が卑弥呼の邪馬台国と天照大神の高天原とを結びつけることを拒むのは、邪馬台国という国はわずか2,3世紀の間に、民族の記憶から消え去ってしまうほどの、取るに足らない国であるとみなし、逆に天照大神の高天原は、現代に至るまで、歴史学者を悩ましつづけるほどのインパクトのある神話で、その強烈な妖気ゆえに、科学者まで神懸ってしまうほど神聖だと感じているからなのだ。

 

 一見科学的精神があるからこういう結果を招くのだろうともいえるが、妖気に当てられることを恐れている(つまりタブーを設けている)ということは逆に科学的精神から程遠いものである。天照大神の、あるいは神話全体の、神話としての要素を取り去って、史実を導き出そうとする態度のほうが、より科学的であって、それは天皇制復活を願っていることとは逆に、天皇制の成立そのものに、メスを当て解明していこうという態度である。そしてそのことによって、現代のアジアの抱えている国際問題まで理解できるのではないかということを、少なくとも筆者は考えている。

 

 3世紀の日本の九州の文化圏に、中国に朝貢をしたひとつの国があった。中国側(魏王朝)は事務的にして多分特別な記事としてではなく、正史の中の一夷狄、倭人の項にこれを記録した。中国にとってはこの朝貢をしてきた国を、何ら特別視する必要もなく、特に倭人の立場や倭国の信仰形態などに留意したり配慮したりする必要もなかった。中国は中国近隣の国々を等しく野蛮国扱いにしていたから、当然記録するときの態度も、一野蛮国の一事実として以外の扱いはしなかっただろう。かくてヒミコと発音されたヤマタイ(ヤマトであり得る:後述)の女酋は“卑弥呼”と表記され、国名は“邪馬台”というものすごい表記によって結果として後世に残ったのだ。

 

 一方3世紀日本の日本側の歴史は、当然魏王朝ほどの事務的態度で“正史”の記録などをするすべもない。3世紀にあたるところは全て口承伝承として残っているに過ぎなかったものを、7世紀になって、“まとめて”記録したに過ぎない。勢い話は叙事詩的であり、神話伝承的であるのは言うまでもない。神懸っていると考えてもよい。

 

 そのような状態の3世紀の日本に、百余国にわかれた国々の連合国の盟主となって中国に朝貢までした女王がいたとしたら、そしてそれが神話伝承に中に残るとしたら、どんな形で残るであろうか。“卑”弥呼、“邪馬”台、などという自ら卑下した表記で怪しい国の鬼道を操る女酋として残るだろうか。

 

 先進国中国にどのように受け取られようと、その女王は百余国に分かれた連合国の盟主である。しかも、軍事によってまとまらなかった国を祭事によってまとめた不思議なカリスマ性を持った女王である。その女王が死ねば再び大乱が起きてしまうほどのカリスマ的指導力を持った女性である。男王の軍事によって収まらなかった国が彼女の太占(ふとまに)の力で収まるのだ。

 

 その時代の日本は考古学的区分に従えば、弥生時代である。狩猟時代からやっと抜け出して農耕経済に移行するころである。規模の小さい古墳が築かれ、その古墳の中から鏡が続々出てくる時代。精神文化は、形而上学的な宗教などなかった時代で、もっぱら森羅万象に宿る精霊を拝んでいた、魑魅魍魎の活躍した時代である。そういう時代の口承伝承の中に、祭事によって連合国をまとめることのできた妖術を持った女王が、語り継がれるとしたら、それは女酋としてでも、女王としてでもなく、“女神”であったとしても不思議はないだろう。

 

 繰り返すが、中国の魏王朝の正史として記録された文献に見られる倭国代表の最高権威者は鬼道を操る女性であり、日本の神話に記録された最高権威者も太占(鬼道)を操る女性である。日本の記録の中の神話の部分は、畿内大和を舞台にした神話でなくて、もともと九州を舞台とした神話である。魏誌に記録された方位からも、2,3世紀の日本の状況からも、記紀の記録からも、ほかに関東や奥州に別の文化があったとしても、後に畿内で花開く文化は九州から開けてきているといえる。

 

 最高権威者の性も、性格も、政治形態も、国の位置も、時代も、記紀編者と中国側の記録者とのメンタリテイーの違いと表記の違いを排除すれば、一致することの多いこの二つの記録が、一方が夷狄の一女酋、一方は女神として伝承されたからといって、関係ないと断定するのは早計であると私は考える。

 

 日本書紀の記録と中国の記録が同じではないのは、日本書紀の編者のほうが、故意に人間を神(みこと)に昇格させたからであって、祖先神の最高峰にたつ女性を、中国正史の記録にある“卑”弥呼などと表記された卑しい女酋と、たとえ同一であることを知っていたとしても、同一視する気など、あるはずがないのだ。なぜならば、日本書紀編纂の目的は、神聖な国家、大和朝廷の正当性の強調であって、持統天皇の息子の草壁の皇子や、その子、文武天皇が、女神からその神性を受け継いだ、万世一系の後継者であることの主張だったと思えるからである。

 

 日本書紀の編者は、卑弥呼の記録を知っていた。しかし中国の記録を改竄するわけに行かないから、それをほとんど目立たないように配慮して、一応取り上げることは取り上げ、当り障りのない、傍系の神功皇后の項に、「一書にいわく」の形で載せておいたのだろう。記紀の編者が歴史を改竄したと異口同音に主張する現代の諸歴史学者にして、卑弥呼に関してのみ、編者は正直で素直だったと考えるのはどういうわけだろう。もしかしたら彼らの心中にも案外、卑弥呼、邪馬台国の恥ずべき表記を、大和民族の祖先神と同一視したくないという気持ちが働いているのかもしれない。