naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;5

古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;

★系図からの検証(1)

 

系図1

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 私はここまで述べても、邪馬台と大和が“支配者”を異にする、“血縁上”ほとんど関係ないだろうと思われる国であることを疑っているわけではない。しかし、邪馬台国という国がかつて日本の九州あたりに実在したことと、大和がその民族の伝承として抱えている神話のモデルが邪馬台らしいことを密かに考え始めている。

 

 そこで、大和が持っている神話のモデルが邪馬台で、しかも両者が血縁上関係がないらしいということが、歴史上どういう意味であるのかということの追求をする必要がある。ただし、これはこの章の主題から外れるので、(C)に上げた井上氏の説を検討した上で、章を改めて追求しようと思う。

 

  私は一般に流布している「神話から歴史へ」を読んだだけで、井上氏のほかの学説を詳しく知っているわけではない。だから私の理解はこの本から得たものに限られるということをあらかじめ断っておきたい。

 

 というのは、(C)のはじめの文から察すると、この説が歴史の概説のようなもので、井上氏の説というよりは、むしろ、津田氏と水野氏の説を紹介して、解説を加えたに過ぎないようにも受け取れるからである。

此の説は、上代に記録されている神武以下八帝の存在を否定した説であり、その理由として井上氏が挙げているのは、

 

①八代の天皇の名前が後世的であること
②八代の皇位継承の仕方が父子継承であって、それは5世紀の皇位継承の仕方と異なっているし、
③中国の相続法が入ってきた7世紀以降の相続法に影響されていること、の3点である。

 

 ここで私は、この古代の八帝の天皇の名と、7世紀以後の継体朝創始になる天皇たちの諡号とを比較しなければならないので、2章の“命”の考察で述べたことと少なからず重複することを断っておきたい。

 

 なお、再度重ねてお断りしたいのは、私は歴代の天皇の名前を学校教育において暗記させられた世代ではないから、現代の歴史学会でその存在を否定された八帝の名前を聞いても何の感慨も沸かないし、特別な嫌悪感も持たない。井上氏の此の説に初めて接したころは、まったく何の疑いも持たず、反論を試みようなどという考えも持たなかった。つまり私は記紀の研究よりも前にこの本を読んでいるのであって、反論のため読んだわけではないのである。私の疑問はいわば、2章の“命(みこと)の考察”の副産物であって、特別な立場や思想に固執した結果の疑問ではない。

 

 私が(ホ)の傍線に示したように、井上氏はこの八代の天皇の名前が、はなはだしく後世的であると主張される。この八代の天皇たちの名前と、7世紀以後の継体朝に創始される大和朝廷の天皇たちの諡号がはなはだしく似通っていることは確かである。しかし、それは“似ている”事実があるだけであって、どちらがどちらを似せたのかを言う回答をまだ得ているわけではない。

 

 つまり、前後に二つの似たものがあるときに、少なくとも似た原因として二つの可能性があるはずである。つまり、ひとつは井上氏が言われるように、前者は後者の創作による“後世的”なものとする見方と、もうひとつは後者を前者の模倣による“古代的”なものとする見方である。

 

 井上氏の結論、または私がまだ読む機会を得ていない水野氏の結論が、この二つを検討した上の結論なら問題はないが、少なくとも井上氏の文を読む限り、前者を後者の創作による“後世的”な物とする見方しか紹介されていないようである。世の中に本物と偽物があるとき、常識的には後に出てくるものが偽物のはずだが、両方の検討がされないで、はじめから先に出て来たものが偽だという論理は、理解できない。

 

 ここに比較検討している2種類の名前のうち、7世紀以降の名前のほうは、ほかに実名が記録されているから、“諡号”であることは確実であるが、上代の8帝の名前は“諡号”であるか実名であるかということは研究の余地があり、もし実名であるとしたら、この比較は成立しないことになる。諡号というものは死後に贈る名前であって、井上氏が問題にされている7世紀の天皇たちの名前は、明らかに死後に贈られた諡号なのだ。

 

 諡号は本人が死んでから送られる名前で戒名みたいなものであるから、家族の名前と共通項がなくてもかまわないのに比較して、実名は生きている間の名前で、家族の名前と必ず共通項を持つものだ。しかし実名は必ずしも生まれたときに親がつけた名前とは限らない。

 

 例をあげれば、牛若丸も九郎義経も一人の人間の実名であるが、九郎義経は本人が元服のときに選んだ名前である。そして、義経の義は家族の伝統にしたがって選んだ文字で、言い伝えられているところによると義経は八男であったにもかかわらず、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮して九郎を選んだといわれている。このように、実名は家族の伝統と密接なつながりを持つ、一族への帰属を表すものである。そこで私は再び、“命”の考察のときに示した別表を見ながら私の論旨を述べたいと思う。

 

 系図の2は、上代の、一代神武天皇(神日本磐余彦彦火火出見尊:かむやまといはれひこひこほほでみのみこと)から六代孝安(日本足彦國押人尊:やまとたらしひこくにおしひとのみこと)までなので、系図3まで目を通して問題の第九代開化(稚日本根子彦大日日尊:わかやまとねこひこおほひひのみこと)までの名前を、史上活躍の記録のない、または犯罪者も、反逆者も、病弱で早世したものも、女性も、取るに足らぬ傍系の人々もすべてを含めて、その名前の傾向を見ながら検討したい。

 

  第二代は綏靖(すいぜい)といい、その本名を神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)という。カムヌナカワミミの名は実兄カムヤヰミミの命、異母兄タギシミミの命、また、孫で皇位継承者ではないオキソミミの命の名と系統を同じくする。カムヌナカワミミは神武天皇の第3子で、異母兄で,庶子のタギシミミの命はカムヌナカワミミが2代天皇に即位したのを不服として、反旗を翻してカムヌナカワミミに殺された王子である。

 

 

系図2↓

 

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  第三代は安寧(あんねい)といい、その本名は、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまでみのみこと)である。磯城は地名であって磯城の男子という意味だから、名前の本体は、タマデミである。ヒコホホデミノ尊の后トヨタマヒメ、ウガヤフキアエズの尊の后のタマヨリヒメ(この二人は姉妹)、事代主の神の系統のアメノクニタマ、カモタマに共通するタマと、父方四代前のヒコホホデミノ尊のデミとの合成である。カモタマは、母方の祖父であるがこの人物は命(みこと)称さえついていない、無名の士である。

 

 第四代は懿徳(いとく)といい、その本名は大日本彦耜友尊(おほやまとひこすきとものみこと)という。この世代以後オオヤマト、ワカヤマト、ヤマトという名を冠した名前が十三代成務の代まで男女共通の一族の名前として時々出てくるが、その中で皇位継承者となったのは、六代から九代までである。安寧の皇子である磯城津彦の命の姫にヤマトノクニカ姫というのがいて、7代孝霊(こうれい)の側室になっているが、その二人の姫もヤマトの名をもらっていて、八代も九代もヤマトの名を継いでいる。しかし十二代景行(けいこう)の皇子は有名なヤマトタケルの尊、ワカヤマトネコの尊の二人だが、一見皇位継承者らしい名前をもらっていながら、両方とも即位できず、不運の生涯を終える。

 

  第五代は孝昭(こうしょう)といい、本名は観松彦香殖稲尊(みまつひこかゑしねのみこと)である。この名前は、家族に同系統が見られない唯一の名前だが、7世紀の天皇の諡号にも似ていないことは言うまでもない。

 

  第六代は考安(こうあん)といい、すでに述べたが本名は日本足彦國押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)である。ヤマトの部分を一代と四代からもらい、タラシの部分を母から受け、クニオシヒトの部分は兄と分け合っている。

 

系図3↓

 

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  第七代は孝霊(こうれい)といい、本名を大日本根子彦太瓊尊(おほやまとねこひこふとにのみこと)という。オホヤマトネコは伝統の名に由来し、フトニの部分は傍系の孫、ヒコフトオシノマコトの命に受け継がれている。

 

  第八代は、孝元(こうげん)といい、本名を大日本根子彦國牽尊(おほやまとねこひこくにくるのみこと)という。オホヤマトは伝統の名で、ヒコはこの世代の一族に多く見られる名前の一部である。前述のヤマトノクニカ姫との間の皇子はヒコフトオシノマコト、後継者の九代開化(かいか)は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおほひひのみこと)であって、その二人の皇子はヒコユムスミノ命、ヒコイマスノ命である。

 

  ところでこの世代には、ヤマトの名を冠した女性が多く記されているが、彼女たちは神に仕える女性たちであった。孝元の異母姉妹のヤマトトドヒモモソ姫、ヤマトトドワカヤ姫、実子のヤマトトド姫がそれである。この事実から考えると、ヤマトの名を冠するということには、特別に神聖な意味があったと思われる。

  これらの家族間の名前の類似は何を表しているのだろうか。この名前は特別な役職にあるとか、地位にあるとかいうことに関係なく、類似が見られるのである。ということはこれらの名を持つ一群は、同族であって、家族の伝統にしたがって名前を選んでいる、つまり、実名であって、死後にその人物の実績によってつけられた諡号ではないということだろう。