naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「古事記における国名ヤマトの漢字表記について」6-2

    ★「ヤマト」という国名の裏を探る 

  高校の古典では、古事記はあまり扱わないけれども、扱うときは古事記の言葉を、特に奈良朝文法として、平安朝以後の古典文法から区別して扱っている。つまり古事記の言語の文法は平安時代の言語の文法とは異質なのである。異質というよりも、古事記の言語と平安朝文学の言語との間には明らかに断絶がある。

 

 しかし古事記の筆録時代と平安文学の発生した時代とは、そんなに時期的に隔たりがあるわけではない。物語の「祖」の「竹取物語」でさえ、1世紀の隔たりしかないが、言葉はすでに「古事記」の用語ではない。半世紀の違いしかない「万葉集」の言語でさえ、わざわざ神話を意識して作ったと思われる人麻呂の宮廷賛歌を例外とすれば、古事記筆録時代と同時代の皇子の歌でさえ、古事記の言語よりは平安時代の言語に近い。

 

 激動の明治維新から昭和の大戦を経て1世紀有余年、まったく言語体系の違うヨーロッパの文化に激しく影響を受けながら、文法を変えなければならないほどの言語の変化を現代の日本語はきたしているだろうか。否、口語の文法は明治に整えられ、いまだに現代語の文法として生きている。

 

 しかるに、一世紀も隔たっていない所謂「奈良朝文法」と「平安朝文法」には隔たりがある。だから私は、奈良朝文法として区別されている古事記上代の言語は、「奈良朝言語」ではなくて、筆録の対象となった三,四世紀の言語ではないかと踏んでいるのだ。

 

 ところで表記の方は、七,八世紀の考案創作による表記である。この表記から、七,八世紀の言語には八母音あったということはすでに研究済みである。そしてさらに上代に遡れば、四母音であったということも研究済みである。

 

 つまり古事記は、少なくとも上代は、古代四母音語族のヤマト伝承を七世紀八母音語族の主導で、稗田阿礼の「誦習」に助けられて解釈し、筆録したものと考えられる。意味にずれが生じるのは当然であり、口承言語を漢字表記した場合に意味が不明になるのもうなずけることである。

 

 そして天武天皇の「日本」は、もともと「大和」であり、遡れば「大倭」であり、「倭」である。国号を漢字の国の蔑称「倭」と表記して羞じなかった民族からなる国家である。そしてこれはすでに述べたように、「ヤマト」とは読めない。大体記紀編纂以前に「倭」を「ヤマト」と発音したかも怪しいものだ。とにかく少なくとも七,八世紀には読めない文字を「ヤマト」と訓じていたことは確かなことではある。

 

 ところで、改竄といわれようが創作といわれようが、上代には「カムヤマト」とか「オホヤマト」とか「ワカヤマト」とか言う名を戴いた天皇たちが九世代に渡って皇位を踏んでいるという記録がある。この「ヤマト」も「倭」と表記されるが、七,八世紀の表記しか残っていないのだから致し方ない。要は、この「ヤマト」がどう表記されようが、この九世代を最後に「ヤマト」の名を戴く天皇は皇統の系図から消えており、七,八世紀の天皇たちの諡号にのみ、あやかり復活しているという、記録上の事実がある。

 

 つまり、本来「ヤマト」と称すべき国家があったとしたら、それは七,八世紀の読めない「日本」ではなくて、この九帝の活躍したと思われる、少なくとも伝承に残っている上代の「ヤマト」に違いない。 

 

 上代にのみ活躍し、後世消えている、しかも「ヤマト」と呼ばれる国があったとしたら、それは学会のタブーを無視すれば、「ヤマト」と読みうるあの「邪馬台」だろう。

 

 「邪馬台」を私が「ヤマト」と読めると主張するには根拠がある。通称「魏志倭人伝」と呼ばれる魏国の同じ記録の中に、卑弥呼と呼ばれる女酋の死後、その後を継いだ女性は「台与」とかいて「タイヨ」でなくて「トヨ」と読ませる。「台与」の「台」を「ト」と読むことは日本の学会の承認を受けている。しかし、「邪馬台」の「台」は「ト」と読むには抵抗がある。なぜか。同じ国の、同じ時代の同じ記録者の同じ記録の中に、同じ文字が書いてあって、一方は「タイ」と読まねばならず、一方は「ト」と読まねばならない根拠のほうこそ示してほしいと私は考える。

 

  ★「やまと」と読める「邪馬台」の上代が「幻国家」か?「やまと」と読めない「大和」が虚像国家か?

 

 「魏志倭人伝」の「邪馬台国」の記述は、いわば日本の古代史にとっての傍証である。しかも二,三世紀のころの、なぞに包まれた時代の傍証である。この傍証が「ヤマト」と読め古事記の記述の上代の部分に、それが極めて神話性が強い記述であっても「ヤマト」の名を戴く九世代に渡る天皇の存在が記述されているときに、その関連性を検証せず、その九世代に限って「存在しなかった」という決定を下してしまうのは、私には解せない。

 

 同時に「ヤマト」とはどうしても読めない漢字を書いて「ヤマト」と読ませる国家が誕生し、その国家が率先して古代史を改竄したと考えているくせに、その国家の誕生以後の記述のみ史実として信用に足ると考えるのが、「常識」という考えにも納得できない。

 

 なぜ、「やまと」と読めない漢字を「ヤマト」と読ませなければならなかったか。

 

 それは、過去、民衆の承認を受けていた「ヤマト」の正当な継承者として、なんとしてでも、民衆の承認を勝ち取る必要があったからである。つまり、読めない「大和」の立役者は読める「ヤマト」の正当な後継者ではないのである。

 

 読める「ヤマト」の正当な後継者は天照伝承を持つ、そして頭に「ヤマト」の名を戴く九帝は、卑弥呼の邪馬台国と表記される王朝の直系であって、征服戦争の結果,他部族の中に埋没したか、あるいは滅ぼされたか、とにかく後に「万世一系」と高らかに喧伝されるような純粋な形では、存続しえなかっただろう。

 

 現代の歴史家は、かの神話や神話に続くヤマトネコ時代を、「ないものを作った」という。あくまでもそれに「続く」読めないくせに「大和」と表記する8世紀の国家が正統唯一の「ヤマト」であると主張する。そして史実としてその存在を傍証されている「邪馬台」が「ヤマト」と発音ができる事実を認めず、これが8世紀の「大和」と何らかの関連があることを、考えることさえ禁じている。

 

 上代の現代史家によって、その存在を否定された天皇の「実名」には「ヤマト」がついている。実名は一族の伝統にのっとったものである。彼らには諡号がない。8世紀の「大和朝廷」の実名は地名などにのっとっている。そして、「否定された九帝の一族の伝統にのっとった実名」を模した諡号にのみ、「ヤマト」が復活している。

 

 諡号というものはその性質上、何かを土台にしている。ところが現代の歴史家は、後世の諡号を土台にして、上代の「本名」が作られたという。

 

 歴史は事実を基にして、為政者の都合により書き換えられることは可能である。同時に書きたくないものを書かないことも可能である。しかし、「ないものを作る」ということは、たとえ可能であっても無意味である。または、千歩譲って、人物を創作することができて、かつ、その人物に意味を与えることが可能だとしても、その人物の嫡系も傍系も、夭逝して史上重要でもない人物にいたるまで、全員の名前をそろえ、しかもその名前の用語は、自分たちの名前の伝統や日常語からまったく遊離し、言語全体を創作することは不可能である。

 

 それゆえに私は、読めない漢字「大和」を「ヤマト」と読ませ、諡号にのみ「ヤマト」を配した7,8世紀の「大和朝廷」は虚像であると考える。つまり、「大和朝廷」は「ヤマト民族」の「ヤマト国」の直系ではない。「ヤマト民族」の仮面をかぶった朝鮮半島の一民族に違いない、と推定する。

 

 実像は「ヤマト」と読み、鬼道を操る女帝を戴くあの「邪馬台」の国、つまり天照伝承を持つ、上代九帝の朝廷のほうである。ただし、これがもともとの日本原住民国家であったか、またはこれも渡来者国家かは、わからない。しかし、本来「ヤマト」と称する国家があったとしたら、これは「邪馬台」以外にない。

 そこで、もし7,8世紀の「大和朝廷」が、古代九帝が活躍した上代の「ヤマト」直系の皇統でなくて、言語習慣を異にする異民族の国家であるとしたら、なぜ「ヤマト」の仮面をかぶらなければならなかったか、建国期の神話伝承の登場人物の実名にあやかった諡号を、なぜ一族の皇統につけねばならなかったか、草壁の皇子をニニギノ尊になぞらえてまで、なぜ上代を憧憬し、模倣に勤め、ひたすら、神懸らねばならなかったか、という疑問が当然出てくるはずである。