naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「古事記」の虚像と実像

    「騎馬民族征服王朝説」1

 

 人も知る「騎馬民族征服王朝説」を唱えた、かの江上波夫氏は、崇神朝、あるいは応神朝は、朝鮮半島の民族の興亡と移動によって日本にやってきた騎馬民族による王朝であって、日本の王朝はこれによって「征服」されたと述べている。

 

 私が今扱っている時代は、学会から否定された上代九帝の時代、つまり「幻の」3世紀あたりのことと、その時代の天皇とよく似た諡号を持つ継体朝に始まる7,8世紀の大和朝廷時代のことだから、江上氏の扱う崇   神朝、或いは応神朝とは時代的にずれがある。しかもなお、私は江上氏の説を引き合いに出すのは、崇神朝なり応神朝なり、つまり日本のある時期のある王朝が、日本を「征服」したという江上氏の説に興味を惹かれるからである。

 

 私は、7,8世紀の大和朝廷、つまり、継体朝から始まるこの朝廷は、異民族の朝廷であって、上代とは言語習慣を異にすると主張するものではあるが、それでもなおかつ、武力による「征服」があったとは思わない。

 

 どんな国のどんな民族も、興亡はつき物であるが、ひとつの民族が、他の民族を「武力制圧」したとき、征服民族は被征服民族の国名を名乗ったりしないものである。近代史を眺めてみても、同民族内の内戦でさえ、「武力制圧」したほうが、「誇りを持って」国号を改めるのが常識である。

 

 ところが、崇神も応神も継体も、少なくとも日本国内では、「ヤマト」を名乗り続けている。「ヤマト」の皇統にもぐりこみ、「ヤマト」の正統の後継者を自称し、「上代ヤマトの伝統的記名」にあやかった諡号を贈り、天武9年にいたると、政令を出してまで、服飾習慣の統一を図り、土着の豪族たちから祭祀権を奪い、万世一系をでっち上げ、日本中心の国粋化を、異常に精力的に進めている。

 

 こういう「征服」の形がありうるか。もし江上氏が言うように、朝鮮半島で勢力を失った辰朝の後裔が、日本を「武力制圧」して「大和朝廷」を樹立したのなら、なぜ光輝ある「先進国」だったはずの辰国を名乗らずに、ヤマトの皇統にもぐりこんで、「ヤマト」の正統な後継者の振りをしたのか。大陸向けには、事実上国号を変えながら、なぜ国内では「ヤマト」と称したか。なぜ、「ヤマト」にこだわったか。

 

これらのことを考えれば、たとえ、崇神、応神、継体が「個人として」異民族であったとしても、一国が他国を「武力制圧」という形で、攻略したのではないという結論に達せざるをえない。

 

 朝鮮半島の国々は、先進国であった。先進国の武力は強大であった。一国単位で襲い掛かってきたのなら、その強大な武力を持ってすれば、神話時代を生きていた「ふとまに国家」の一つや二つ征服するのにそんなに手間はかからなかっただろう。しかし、その強大な武力を誇る「騎馬民族」の先進国は、「ヤマト」の民族をだますために、「ヤマト」の皇統の仮面をかぶるのである。なぜか。

 

 理由は二つある。
1)武力は万能ではない。
2)王朝は家族単位の小さな集団によって「簒奪」されたのであって、一国単位で「武力制圧」されたのではない。

 

 武力は万能ではない。一民族の宗教と、宗教を土台として形成されるメンタリティーを、武力で滅ぼすことはできない。一民族の宗教とメンタリテイーを滅ぼすためには、その民族を皆殺しにする以外にない。

 

 高度な文化を持っていたと伝えられる、中南米のアステカ、マヤ、インカなどのアメリカ大陸の原住民国家は、西洋の圧倒的に強大な武力によって、宗教も言語も滅ぼされ、その土台の上に、キリスト教国家が建設されたと信じられている。確かに原住民国家は国家としては粉砕され、民衆はキリスト教の教会に通い、十字を切って、キリスト教の「形式」を受け入れている。

 

 しかし実態はどうか。彼らは自分の民族の伝統的な神々の上に、キリスト教の聖人たちの衣を着せてカモフラージュしただけである。武力は彼らの心を征服しなかった。グアテマラのカトリック教会には、民族の宗教習慣が入り込み、彼らの神々が名前を変えて祭られている。私は他のどんな国の教会でも、あんなカトリック教会を見たことがない。

 

 中国の文献に現れるかの「邪馬台国」は武力を持った男王によっては治まらず、女王の鬼道によって治まった国である。

 

 たとえ崇神、応神、継体が、「武力強大な先進国朝鮮」から来た人々であったとしても、これがヤマトの皇統を名乗り、あるいは可能性として、ヤマト皇統wと姻戚関係を結び、たとえそれが国内向けだけであったとしても、「ヤマト」を国号とし続けたということは、「ヤマト」を名乗る決定的な必要があったからで、まさかただの懐古趣味ではないだろう。彼らは「ヤマト」に対する完全な武力制圧を果たせなかったのである。そして、「ヤマト」の大祭司としての地位を保持していくことが、この国を支配できる絶対不可欠の条件であったのである。

 

 つまり、「ヤマト」を征服したのは、武力をもった大集団ではなくて、「ヤマト」の皇統を簒奪することによって支配権のみを獲得した、きわめて少数のグループであっただろう。

 

 平安時代、鎌倉時代、江戸時代を通して、「武力」を持って実際に支配できた天皇は一人もいない。そして、「邪馬台国」の卑弥呼も「武力」など、もっていなかった。現代の天皇も「武力」を持っていない。しかし「邪馬台国」の3世紀以来、好むと好まざるとにかかわらず、天皇は国の長として祭祀権のみを保持してきた。下積みから這い上がってきた羽柴秀吉さえ、関白太政大臣の位を無力な朝廷からもらうのである。「国の長として祭祀権」を保持した存在というのは「国家統合の象徴」と呼んでもいい。まったく同じ意味であるから。かなり重要な蛇足だけど、この意味でマッカーサーという男は日本を支配できる条件を完全に理解していたといえるのだ。

 

 史書の編纂は継体朝、天武朝以来の国家の仕事である。同様に異民族であるかもしれない崇神、応神両朝では継体朝から元正朝にかけての王朝ほどには、少なくとも神懸った諡号を考案するほどの熱心さでは、史書の編纂をしなかった。「神国日本の純粋な王朝ヤマト」をこれほど意識して叫びはしなかった。朝鮮半島との訣別と同時に万世一系の神聖性をそれほどしつこく、詩人人麻呂を登用してまで、強調した形跡は、継体以前の王朝には残っていない。

 

 表記改革における上代神話化も,ヤマト系諡号の創作も、すべて継体朝に創始された天武持統の王朝が、ヤマト一統の後継者であることを主張するための、万世一系神聖思想につながっており、これが史書編纂を促し、しかもそれが、国家の大事業なのである。

 

 同じように皇統にもぐりこむなら、崇神や応神のように「いつの間にか」もぐりこんでいればよい。それがなぜ継体朝だけが、国家の大事業として万世一系思想を強調して、古事記と日本書紀という史書を二種類残したか。

 

    「古事記の史書としての疑惑」

 

 私は実は「古事記」のほうは果たして史書として作ったかどうかを疑問視している。

 

 俗に「古事記」は国内向けに、「日本書紀」は大陸向けに」編纂されたといわれている。しかし私は考える。「古事記」は史書としても体裁を整えていないばかりでなく、埋没して後世発見された文書である。史書が必要なのは無学文盲だった庶民ではなく、史書に記述されたものの正当性を理解可能な、政治に携わった宮廷人たちである。彼らはすべての記録を漢字に頼り、漢詩漢文のみで事足りていた八母音語族の人々だ。いったい誰が和語の「古事記」を必要としたのだろう。

 

「古事記」と「日本書紀」は同時代の同内容の記録であるが、前者は和語で、後者は漢文で書かれている。しかも国家が史書として扱ったのは、漢文の「日本書紀」のみである。「古事記」編纂に功のあったはずの稗田阿礼は、どういう人物かさっぱりわからないばかりでなく、和語を受け持ったということ以外は生年も没年も存在さえも明らかにされいない。なぜ、「漢文」のほうは正史として保存され、「和語」のほうは後世研究が不可能のような立場におかれたのか。

 

 考えてみれば「漢文」を「和文読み」に読み下すという複雑な文化形態は、従来「日本人の知恵」という風に説明されているが、この種の知恵が民族が混交したこの時代のみに現れ、ポルトガル船が漂着して西洋との文化交流ができた中近世においても、黒船が来航して鎖国を解いた江戸時代末期から明治にかけても、敗戦によってアメリカ軍の支配下に置かれた時代にも、いっこうに現れないのだ。

 

 とにかくこの時代は説明不能なことが多すぎる。というより、支配者にとって必要があって隠されたとしか思われないことが多すぎる。記紀の台本になったはずの「一書」なる資料は紛失している。蘇我氏が持っていたことになっている資料も焼失している。「風土記」の大半はなくなっている。日本書紀の中の「系図」は伝わってない。つまりこの時代を語るものは時の政府が残したいから残した「日本書紀」しかないのだ。この事実そのものがある「意味」を語っている。

 

 私は「古事記」はもともと史書として編纂されたものでなく、「日本書紀」を編纂するための資料として書き記されたものだと思っている。史書の編纂を必要とした7,8世紀の朝廷の為政者が、古代の伝承を口承によって知っていた稗田阿礼を利用して、古語の台本を作ったのだろう。多分そういう段階を経ないと、和語の伝承を漢文に「翻訳」することができなかったのだろう。

 

 以下に稗田阿礼の名前が出てくる「古事記」の冒頭の記述を紹介する。

 

「臣安万侶まをす。それ混元すでにこり、気象しるしあらず。名なくなすなし。たれかその形をしらむ。
ー略ー
飛鳥の清原の大宮に 大八州しらしめしし すめらみこと(天武天皇)のみよにおよびて、潜龍元をたいし、洊雷期に応ず。
ー略ー
ここに すめらみこと のりたまはく。「われ聞く。諸家の賷たる帝記および本辭、すでに正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今のときに当たりてそのあやまちを改めずば,幾年を経ずしてその旨滅びむ。これすなはち邦家の経緯、王家の鴻基なるを。」かれ、これ帝記を撰録し、旧辭を討覈(とうかく:調べ、正すこと)し、偽りを削り、実を定めて後の世につたへむとしたまふ。時に舎人あり、姓は稗田,名は阿禮、年二八。人となり聡明にして、目にわたれば口に誦み、耳にふるれば心にしるす。すはなち阿禮に勅語して、帝皇の日継と先代の旧辭とを誦みならはしめたまひき。」

 

 要するに、天武天皇が考えたことは、諸部族に伝えられている帝記や旧辭は嘘が多いから、その中から正しいものだけ選考してそれを稗田阿礼という頭のいい青年に誦承させて、それを太安万侶が筆録させたという意味だ。

 

 妙な話である。たとえ「でたらめ」が多いと判断したとしても、帝記や旧辭が存在するのなら、それを元に、なぜ太安万侶が直接整理してまとめなかったのか。ここの稗田阿礼の存在の意味がわからない。

 

推測に過ぎないが、私は考える。

 

 稗田阿礼はもともと吟遊詩人のように、口承伝説を歌い継いできた人物である。もしかしたら、失われた「ヤマト」の伝承を伝えることのできる、たぶん「ヤマト」の朝廷の血統を持った語り部ではなかったか。当然のことながら、伝統的な「和語」を理解し、その意味を「理解しない」太安万侶に伝えることのできる人物として抜擢されたのではあるまいか。そして、それを筆録した台本を元に、「日本書紀」は編纂されたのではあるまいか。つまり、稗田阿礼は「日本書紀」の上代の部分の資料を口頭で提供できた人物として登用された。「古事記」は史書として編纂されたものではなく、「日本書紀」の台本である可能性がある。

 

    ★「継体帝の役割」

 

 継体帝(体制を継ぐ帝と私は解釈する)という天皇は、史書編纂に本腰を入れ始めた天武、持統天皇の直系の祖先であり、この王朝の創始者である。ところが、その子孫たちにどういう扱いを受けていたのか、諡号が贈られていないばかりでなく、十一代垂仁天皇の七世と十五代応神天皇の六世の子孫という断り書きはついているが、その六代、七代の記録がない。記録のない13人を飛ばして子孫だということになっているのである。その両親はヒコヌシとフル姫である。この一組の夫婦はどこから沸いたか記録もない。

 

 江上波夫氏が問題としている崇神天皇は先代の開化天皇の皇太子ということになっているし、応神天皇は仲哀天皇の死後生まれていて、生まれるのに手間取っているから疑えば疑うこともできるけれど、一応は仲哀の皇子という辻褄あわせができている。ところが継体に関しては辻褄あわせもしていないのだ。

 

 しかも、きわめて王朝の創始者にふさわしい諡号、アメクニオシヒラキヒロニワノ尊が贈られている第二十九代欽明は、継体と先代武烈の同母姉,仁賢の皇女であるタシラカノ皇女との間に生まれた皇子である。継体は即位のときはすでに后を持っていて、二人の皇子があったにもかかわらず、新しくタシラカノ皇女を正妃にたてたのだ。

 

 これは明らかに、継体にヤマトの血統がつながっていなかったから、血統のつながった正妃を立てることによって皇統をつなぐための処置である。

 

 つまり、天武、持統天皇ら、継体の直系の子孫に「王朝の創始者」として扱われたのは、継体でなくて、女系によって、先代と皇統をつないで生まれた欽明なのだ。つまり、ここで継体は、文字通り、「体を継ぐ」役割、ヤマト皇統を継ぐ「種馬」としての役割しかないのである。 しかもご丁寧に日本書紀は、継体帝の跡を継ぐべきは、欽明のはずだが、幼少であったため、欽明帝の成長を待つ間の処置として、すでに成長していた二人の皇子が継いだという記述がある。

 

 ヤマトの血統が王権支配にとってどれほど大切なことだったか、この記述でもわかるし、実際上、王朝が交替したとしても、ヤマトを名乗らねば王権を保持することができないほど、大和の宗教的呪縛力は強力であったことを物語っている。

 

 このことは応神天皇出生の辻褄あわせのやり方を見てもわかるし、兄弟相克の結果、皇統が絶えたときに、探し出して立てたイチノベノオシハノ皇子の二人の遺児、ヲケノ王(二十三代顕宗)、オケノ王(二十四代仁賢)、が皇統をつなぐために、雄略の皇女を正妃とした例を見てもわかる。

 

 つまりこの継体帝という天皇は、辻褄合わせが不可能なほど、ヤマトの皇統とは無関係で、諡号を贈るというほどに大切ではなかったため、子孫に疎んじられた天皇であるということが言える。(諡号を贈ることと贈らないことの意味は、欽明帝の皇子である、蘇我馬子に殺害された崇峻天皇の例参照。)

 

 そして、創始者のこの出自は、子孫に少なからず劣等感を抱かせているとおもわれる。劣等感をもつ人間の特徴として、逆に一族の神聖性を極めて熱心に主張させる結果となったのかもしれない。