naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

神社の祭り

数日前、松戸教会の知り合いに電話をかけた。そろそろバザーがあるはずだけど、はっきりいつだかわからない。松戸教会のバザーではいつも函館のトラピスト修道院産のジャガイモを売るので、それお確保しようと思った。
 
ところが、その知り合い、意外なことを言う。バザーは確かに17日にあるけれど、自分は、今年は自治体の都合で行けないのだと。彼女の住む自治体は、私の住む所からたいして離れていないけれど、町名が違うから、組織が違う。
 
よくよく聞いてみたら、彼女の自治体では神社の祭りがその日にあって、彼女今年はその委員長になっちゃったため、神社の祭りを仕切るのだそうだ。しかも滑稽なことに、松戸教会のバザーより、神社の祭りに来ないかと誘ってきた。
 
凄く愉快になった。
 
私の子供のころは、頭のお堅いピオ12世教皇の治世で、他宗への参加など、とんでもないこととされていたから、私の一家は、住んでいる自治体ののどかな祭りに参加したこともなく、「見た」こともない状態だった。うっかりすると「罪」だとか言われるんでね。だから私の一家は徹底的に隣近所から浮いていた。兄貴の一人が「うちはまるで共産圏の中の西ベルリンのようだった」と述懐したほど、「異文化の中」を生きていた。
 
その経験から、私は日本に帰国して子育てを始めたころ、子供を自治体の祭りに参加させるため、教会を休ませて、子供神輿に送ったものだ。それで私は教会から浮いてしまうという憂き目にあったが、どこでも「浮かなきゃ」ならないような宗教のあり方はおかしいのだ、と今でも思っている。
 
人類を含めてすべての命の存在の大元を神と呼ぶなら、日本ののどかな民族宗教だって、その神に所属する
のだ。そこで人々が楽しんでいるなら、一緒に楽しむのが、一緒に生れた人間のするべきことなのだ。
 
それを詭弁というなら詭弁でもいい。どちらからも相手にされないけれど、私はそう思ってきた。
 
それで、教会の知り合いが、教会のバザーはともかくとして、地方の神社の祭りのほうに来いと誘ってくれたのが、何とも嬉しくてしようがなかった。宗教団体の垣根など、融けて見えなくなっちまうときに、初めて「天の国が近付いた」ということになるんじゃないかと、やっぱり私は思った。