あの存在のこと

ずっと心に残っていることがある。

この春舅の100歳の祝いに行って、かつて私がエルサルバドルに暮らしていたときに一時、小間使いとして家に置いていたマリイサベルという女性にあった。娘の話だと、そのマリイサベルが、お母さんを慕っていて、お母さんの話になると、涙を流して感謝しているという。この春その話は聞いたが、ついこの間も、娘がそう言っていた。その話によると、なんでも、彼女の子供の頃、私が唯一「かわいがってくれた」人なのだそうだ。なんとも、私には、不可解な話なのだけど、マリイサベルは、「私から習ったことをずっと覚えていて、息子たちにも教えている」ということなのだ。

私は、照れて、そういう言い方をしているのではない。私はエルサルバドルにわたる前、高校の教師だった。それもやたらに使命感あふれた教師だった。その仕事が「恋愛」という極めて理不尽な心の嵐のために、できなくなった時、年端の行かない子供が、学校にも行かずに家から離れて女中として稼ぎに出ているという現実にであった。そういう現実が、使命感病の私にはただたんに受け入れにくかっただけなのだ。だから、私は、時間を決めて、文字を教え、算数を教え、料理を教え、世界の水準としては極めて極めて優れていると、その時つくづく感じた日本の小学校で学んだことを、ただひたすらに教えた。

別にかわいいからだったわけではない。別に何もかわいいという感情は、湧かなかった。学齢にある子どもが、他人の家庭に入って、女中をしていることが、許せなかっただけだった。彼女、頭悪くて、何を教えても、無駄だと、その時の私は感じていた。

だから、30年たった今、彼女が涙を流して私との出会いに感謝し、私に教えてもらったことを忘れまいとし、娘と話していたスカイプ電話に飛びついてきて、「感激しながら」思いのたけを話す彼女の激情に、実は、茫然としている。

私の心に、「愛情」など、あったかどうかも怪しい出会いだったということは、これは人的状況ではないのだ。私には全くの自覚もなく、ある存在に「使われて」、一人の子供が豊かな心を培ったとしか、考えられない。人間に意思があろうと、なかろうと、自覚があろうとなかろうと、いや、そんなもの、むしろないほうが、あの存在は、人をある目的のために「使う」のだ。と、そう思うより仕方がない。

使命感と呼ばれる変な自覚があれば、その使命感はむしろ、その人物をむしばんでしまう。その自覚症状が、数々のえせ宗教を生んできて、多くの無辜の民の労働を犠牲にして、巨大な殿堂の設立を許し、金もうけの生き神様の存在を許し、人は「見えるものばかり」をあがめるようになる。「目に見える」仏像をあがめ、キリスト像、マリア像をあがめ、豪奢な殿堂をあがめ、金をあがめ、集金術の長者、教祖とか呼ばれる目に見える「権威」をあがめ、人は目に見えない「あの存在」を忘れてしまう。知らないうちに、「バカ」をも有益なものとして使うことを知る「あの存在」を忘れてしまう。

自分という「バカ」の一人が使われた、それによって、マリイサベルという一人の子供が豊かな心を養った、そういうことを考えさせられたスカイプ電話であった。