naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

また、聖書の話

で、聖書解釈のこと
 
23日、雨宮神父の聖書講座をきいた。旧約聖書と、新約聖書を並べて、旧約聖書における思想と、新約聖書における思想の違いを見比べた。なかなか範囲の広い、同時に、中心点のしっかりした講座だった。
 
ただ、訳された「言葉」の羅列だけを見ていれば、つまらないおとぎ話でも、「何を伝えたくて、一見矛盾に見えるこういう物語が並列して載せられているのか」という観点からの説明だったから、納得できた。
 
マルコがイエスに期待したことと、マタイがイエスに期待したことの違い、旧約を記した古代イスラエル人の考えと、それを踏まえてイエスが伝えたかった内容の違い、「奇跡」として伝えられる、事実の意味。その奇跡を伝えた、聖書作家のイエスのとらえ方の違い、それを明かさないと、イエスの存在の意味さえ、卑小なものになる。
なるほどお、と思うこと暫し。
 
マルコの記述が、いちばん古く、その他の伝承の土台となっているらしいが、マルコのイエス解釈は、「人」としてのイエスの行動に、驚愕しているらしいし、マタイのイエスのとらえ方は、「遣わされた神の子」としてのイエスに焦点を当てているらしい。
 
出エジプト記における、神とイスラエル人の関係は、苦悩の中での神への絶対的信頼が土台となっている。約束の地に到着して、富を得、生活の安定を得たあとは、イスラエル人は、神を形式的にあがめる存在としてしか思い出さず、本心はバアルを拝み始めた。バアルとは偶像。
 
偶像とは、一神教多神教のという時の「拝んではいけない彫像」という意味ではなく、「自分の思いをかなえてくれそうな神」。出エジプトのあと砂漠をさまよって、苦しんだ時に頼って祈った神を忘れ、富を得た暁には、もっと多くの富を、もっと強固な権力を、もっと多くの土地を求めてやまない心で、自分が欲しいものが手に入るまで、別の神を作ってまで、求め続ける。
 
これは仏教的に言うと、「執着」そのものだろう。「偶像はむなしい」と旧約聖書では言う。それは自分の我欲にしがみつく状態を神聖なことのように錯覚しているから。
 
神様に勝手な願いをして置いて、それが得られないと、「神も仏もあるものか」といって、「別の神」、自分の望みをかなえてくれそうな神を探して拝むこと、それが旧約聖書のいう、偶像であると、説明を聞いた時、私の心はガバット目覚めて、昔、真宗男とのやり取りで、仏教キリスト教問答を、2年間もやったことを思い出した。
 
荒野にいたとき、イスラエル人の心に神がいた。荒野にあっても、心に神がいるとき、イスラエル人は生かされた。
 
荒野で説教していたとき、弟子はイエスに、食事がないから、解散しようと言った。イエスは、その必要はないと言い、5つのパンと3匹の魚で、5000人の群衆を養った。
 
この奇跡物語で、雨宮神父が、何度も何度も強調したのは、4つの福音書のどれも、同じ物語を載せているが、どこにも「パンが増えた」とは書いていない、ということ。描いてあるのは、男だけでも5000人が「満たされた」ということだけだそうだ。そう言う読み方をしたことがなかったから、そうなのか、と初めて気がついた。
 
荒野をさまよっているときに、イスラエル人が「満たされた」ように、荒野にいるとき、イエスの存在が、5000人を「満たした」と、彼は解釈する。つまり、マタイは、奇跡物語によって、そのようなイエスを強調している、と。
 
この奇跡物語は、仏教学者のひろさちやが、かなりの紙面を割いて解説しているのを思い出した。彼の解釈だと、「砂漠の中での共存は」「分けること」。5つのパンと2匹の魚を、ちぎってちぎってお互いに分けあうこと。この「分けあう」という精神が群衆を救ったのだと、ひろさちやは解釈する。
 
それはそれで、納得できる。私はマイアミの難民部落で、一つのリンゴを9人で分け合った経験を持っているから。その時の感動を、私はほとんど、「聖書とは、こういう状況の中でできるんだな」と感嘆したほどだった。だから、私は、ひろさちやのこの考えに、大賛成だった。
 
しかし、雨宮神父は、仏教学者でなくカトリックの坊主。やっぱり彼の考えに、私は惹きつけられる。「荒野でも、食事がなくても、イエスがいるとき人々は救われる。」そうか・・・。ただし、それがマタイの解釈だと、彼が解釈しているだけ。