naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

禅の話

ところで今日の「こころの時代」。禅の話だった。

日本語の言葉というのは、無学でも、聴けばすんなり、心に溶け込んで、いいものだ。聖書みたいに、原語を知らずに訳語だけを見ると、まるで何も理解できないのに、むやみに信じろと言われて思考停止を求められるのは、折角生きていて、不本意だ。だから、聖書民族の言語を研究した学者神父にへばりついて、知識を横取りしないと、ならなくなる。

禅の用語は、ちょっと示唆を受けただけで、心に受け皿があるから、あえて学問や研究の必要がない。

とこで、今日のこころの時代の講師はめずらしい。仏教大学出身でなく、外語大出身で、英文学を修め、大学に残って英文学の教授になった禅宗の僧、重松宗育という名の住職である。「禅林世語集」を英訳して、欧米でも有名になった人物だとか。

で、その中の数語を英訳したものを紹介していたけれど、その英語もなかなか平易で、逆にこれで、あの肉食民族が、言葉の真意を把握できるのか?などと思ってしまう。

たとえば、「平常心是道」という言葉を英訳すると、Ordinary mind is the way. だそうだ。「平常心」という言葉の重みと「道」という言葉の重みが、なんとなくペラペラ安っぽくなったような気がするけど、そのぺらぺらが禅的笑い、呵々大笑のようでもあり、楽しんで聞いていた。

「あってなき 角面白や かたつむり」これは、
Are there ? Or not? How interesting snail's horns.
だって^^。あるように見えてないような、ないように見えてあるような、出したり引っ込めたりするかたつむりの、実は「目」だけど、それを1日眺めていても、「存在」の不思議を思考できる、遊びながら、見えて見えない「存在」を把握する 、そんな1句だけど、英語にすると、あの味わいが、変わるねえ。

もう一つはどどいつ。「惚れて通えば千里も一里。広い田んぼも一跨ぎ。(会はで帰ればまた千里。)」

One way to you, a thousand miles become one.
だとさ^^。

これって、把握できたつもりの現象も、実はまぼろし、というようなことかな。気持ち次第で変わって見える事象は実存ではないという意味だろうけど、この住職、決して難しい言葉は使わない。

「生きながら 死人となりて なりはてて、思ひのままにするわざぞよき」

Be thoroughly dead,while alive. Do just as you want.All you do is best.(正確に聞きとれてないかもしれない。でもこんな風な訳だったと思う。

何とか筆録しようと思ったが、面白い内容を聞き逃すまいとして、筆録は途中で断念。

しかし、なかなか面白い内容だった。

彼は禅語録を英訳したが、禅の精神は、別に日本語や漢語から訳さなくても、それぞれの民族の民話や童話の中にあるという。例をあげれば、フランス人にとっては、「星の王子様」であり、イギリス人にとっては「アリス」であり、ドイツ人には「モモ」があるという。なるほど・・・禅の心は、それぞれの民族の中に無意識に表現されているという・・・

それならば、イスラエル人にとって、その歴史書、全世界の国語で「聖書」と訳された彼らの歴史書は、彼らの禅の宝庫であるかもしれない。などと考えた。