日曜のテレビは、くだらない。いや、いつもくだらないけれど、日曜以外はたまに、いい物がある。朝5時の「こころの時代」も時々いい話が聞ける。目が悪くなって、新聞をやめてから、テレビ番組表というものを見る機会が少なくなったが、この前、予約機能を発見して、予約しておくと勝手に付くから、以後、つまらないのにつけっぱなしにする必要がなくなった。

実は、そうなると、音がない世界になり、音が恋しくなる。くだらない音がいやで、人間嫌いで、それでも「音」を求めるなら、自分の持っているCDをつける以外にない。そう思ってその前にパソコンに保存してある音楽を探した。数回失敗しているけれど、パソコンて、きまぐれだから、入っているリストをクリックすれば、今日だけ聞こえるかもしれない。

ところで、聞こえた。100曲モーツアルトがどこまで聞けるか知らないけれど、とにかく、今、聞こえている。

今日の「こころの時代」は、宗教ではなくて、音楽だった。ショパン演奏家。一人の音楽家の歩んだ人生の物語だから、示唆に富んだ言葉もあるけれど、あまり、身を乗り出して聞くほどでもなかった。音楽は、解説なしに、半眼閉じて聞くものだ。というのは、私の勝手なやり方。

今朝、木の枝を切るのに協力したおばさんたちが、うちの庭に切った木の枝を乱雑に置いて行った。枝がうねうね曲がった木で、まっすぐな枝が少なく、あまり役に立たないなと思ったけれど、午後、気を取り直してその枝を例の電ノコと鉈を使って処理しやすい大きさに切ったから、今日の「音」は「森の音」だった。

「森の音」のあとで、疲れた脳みそをいやすには、私にとって、モーツアルトしかない。こういう時、歌謡曲だの、ジャズだのが聞こえると、殺意を感じるから、私はあえて、日ごろの音楽部屋に入らなかった。

私一人だけなら、リクエストする。でも、大勢いるとき、自分の好みを主張する気がない。どういうわけか、クラシックが好きな人口は少ないらしい。絶対多数の好みを私は邪魔するつもりはない。私は森で木コリの木を切る音と、暖炉はないけど、静かな居間でクラシックを聴いているのが好きだと、スカイプ電話をしてきた娘にいったら、お母さんて、ハイジの山の爺さんみたいだと言っていた。

どんな爺さんだろうね、ハイジの爺さんて。