巫女になる素養あります

昨日、頭を洗ったせいかな、やっぱり恐れていたように、風邪、ぶり返した。一人暮らしで冬を越す、日本中の老人たち、大変だろうなあ。「一人暮らしで冬を越す老人体験」を自分でやってみて、初めて同じ体験をしている他人のことを思えるようになった。それはきっと、いいことなのだ。
 
そういうわけで、毎日毎日、「いいこと」を積み重ねて終焉に向かって歩いているのだけど、「終焉」と言わずに「天国」と言い、「極楽」と言い、ぼんやりとでも「あの世」と言い、「輪廻転生」とまで言うほど、「死」に希望を与える宗教の役割というのは、馬鹿にならないね。「死んでおしまい」「すべて消滅」という言葉の重みにおびえて、ヒトは現世にしがみつく。現世の権力や豊かさや子々孫々の繁栄にまで思いをはせ、死にゆく自分が支配しようとする。
 
その「執着を断ち切る」という救いの道もあるし、死の先の「復活の希望」を持たせる救いの道もある。それらの救いの道を説くために、人間、地上に生れて以来、「物いう人」が物を言って死んでいった。
物いう人の言葉にたまげて、その人だけの手柄として、あがめてしまう、または「物いう人」自らが、それを自分の手柄として自分をあがめる人を募るのが新興宗教の姿であって、「物いう人」を送った存在を、その先に見てきたのが、古来引き継がれてきた世界の宗教だろうなあ。
 
昨今日本で生まれた新興宗教の信者の言動から、そんなことを考えた。
 
私だって巫女や、教祖になれるよ。エルサルバドルのマリイサベルが、彼女の人生の途上で出会った私のことを、自分の救いの一歩みたいに考えていることを利用すれば。