不幸の効用

おや?4時ごろ目が覚めて、トイレに立った時、のどの渇きを覚えなかった。なにも飲まずにそのまま寝て、6時に目が覚めたとき、思った。今日は湿度が高いんだろうか…
 
しばらく、湿度とのどの渇きの関係を考えた。うちには、湿度計なんかない。湿度を気にするという習慣もない。温度も湿度も、高い低いでいちいち生活形態を代える必要なんか、感じなかった。近年になってから、自分の方に変化が起きたせいか、自分の身の回りの大気のほうに変化が起きたせいか、何か、本来の動物としての体感や嗅覚がまだ残っているのか、やたらに、周りに呼応する体調の変化に気づくのだ。
 
ところで「舌」というものは、もしかしたら、「湿度計」そのものなのだろうか。からからに乾くのは、舌のセンサーが感知した湿度の不足によって、「水を飲めよ」という指令だし、異常なく快く眠れるのは、動物にとって、生きるに必要な湿度を舌が感知するからだろうか。
 
朝から雨の音がした。6時に起きて外を見たら、雨が降っていた。気温は、暖かく、暖房の必要もなかった。しばらくしたら、雨風は、ほとんど轟音を立てて家に向かって襲ってきた。はた!と気がついて、私の崖を眺めたが、どうやら無事のようだった。
 
雨も風も、湿度や温度の変化も、それによって起きる不都合も、病気や死に至るまで、科学や文化の発展を促してきたものだなあ、と私は感じていた。たぶん身近なものに起きる不都合なもの、天災で家を失い、路頭に迷い、病気になり、戦乱にさえ巻き込まれる、そういったものの、「不幸」と呼ばれる事象は、すべて、人類の発展のきっかけになってきた。もっと突き詰めて言えば、それらの「不幸」に見える事象は、すべて、人間の存在の本質を知るための材料となり、仏教言語で言えば、「無明」の発見につながってきた。
 
また、例の新興宗教の信者と自力と他力について話をしていたら、彼がいった。「人間は、神のロボットかい?戦争も神が起こすのかい?世の中の不幸は、皆、神の仕業かい?」
 
こういう単純な発想に、私は答える言葉を失うのだが、彼は自分は仏教徒だといいながら、「無明」の意味をまるで把握していないような気がするのだ。「神のロボット」という言い方は、人間と神を同格に考え、神を現世の絶対専制君主のようにとらえているから起きる発想だ。こういうのがいるから、私は、「神」という言葉を避けるのであって、すべての存在の源泉を、仏教では「法」と呼び、ユダヤ教を経由したキリスト教では「ヤーヴェ」と呼んでいる。
 
その存在は、有限存在の人間が認めようと認めなかろうと「在る」のであって、説明不能の信仰以前の事実だというのが、いわゆる一神教と言われるものの考え方である。「神」というあだ名で呼ばれる「原存在」は、一でも二でも多でもなく、無限大だと、私がいうのは、そういうことで、私の言う信仰とは、誰か偉い人のいうことを問答無用で信じ込むことではない。私の言う信仰とは、人間が認めようと認めなかろうと、「在る」存在にたいして、無明なる人間としてすべてを任せることである。
 
今日はのどが乾かない。今日は舌がうるおっている。
 
こういう状態の時、人間はのどの渇きをいやすための方策を考えるか?
 
気管支炎にもアレルギーにも、腰痛にも老齢化現象にも、まったくの経験がない人間は、そのための対策を講じるか?
 
裸で暮らせるアフリカで、暖房器具は発達するか?マラリア蚊のいない地方で、マラリアの薬が開発されるか?
人間は、自分が体験したことのない不幸のために苦しむ人を思い遣れない。愛せない。愛するために必要なのは、「愛されたことがない経験」かもしれない。
 
聖書の中に記録されている、イエスの発する言葉の節々から、私は彼が現世において、ちやほやされて天才児として成長したのでなく、社会の中で苦しんだだろう足跡をじっと眺めている。彼は、人間に最終的に必要なことが、「愛」以外にないことを、言葉の端々からほとばしらせる。その愛は恋愛でも情愛でも、条件付きのねちねちした人間関係でもなく、死んだヒトをよみがえらせる「ある心のほとばしり」であるらしい。
 
それによって迷った羊は生を得、社会的に職業差別されたザーカイが変身し、生活の中で場末に生きざるを得なかったマグダラのマリアはイエスのあとに従った。
 
「ある心のほとばしり」に出会うこと、それはもう、人間の領域を超えている。