naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

ある聖書講座から考えたこと

昨日の聖書の講座で、ちょっと気になって引っ掛かっている一言。彼、何か言い始めて、これ以上言うと、やばいから、とごまかし笑いしてやめたぞ。彼の言った一言。「組織というものはある方がいいのだろうけれど、イエス様は組織のことなどを重要とは思っていなかった。」

それを「冗談」と受け流さず、そこにまさに本心ありと見抜くのが私の癖でね^^。

講師が、自分の言葉として断言するのを避けたくだりを、勝手に私は以下のように解釈した。だから、以下の記述は、彼に責任あるものでなく、私の個人的な展開の産物なので、誤解なきよう。

トーラーというのはイスラエル民族が歴史的に書き残した、聖典でもあり、戒律の書でもあり、歴史書でもある膨大な文書である。「旧約聖書」として全世界の言葉で訳されている書は、その一部である。新旧両聖書において「律法」と呼ばれているのは、このトーラーのことである。

つまり、すべてを含むトーラーの記述を「戒律」を中心として読み、解釈するのが、わかりやすく言えば「正史」のみを真理とする読み方で、ファリサイ派と呼ばれた人々の姿勢が伝統となっているらしい。

ファリサイ派と、何か反イエス派のように思ってしまう階級は、本来イスラエルの部族をまとめ、ヤーヴェを頂点とした民族の秩序を堅持し、組織を守るためのエリートたちであったらしい。つまり、イスラエル民族の宗教的担い手の本流である。戒律を中心とすれば、戒律によって人々を拘束し、戒律に背く、または外れたものを罰し、排除し、社会に差別を生みだしていくから、当然、その支配者としてのエリートが正しいとする者から外れたものは、社会の下積みに放置され、人間として顧みられない。

その本流の是とするトーラー解釈に対するありかたに、異を唱え、本来のヤーヴェの教えはどうだったのか、ということを唱えて戒律至上主義にメスを入れたのが、ひょっとすると、イエスだったのかもしれない。

「戒律」至上主義で部族を支配する時に、どうしても支配者側の「人間的都合」や「伝統的惰性」による解釈がしのびこみ、それがエリート支配者の主導権のもとで人間生活の隅々に渡って取りきめられる時、柔軟な解釈を必要とする状況に、愛よりも戒律が先行することになる。

ある集団を形成し、統率し、存続するためには、規則を作り、その規則のもとに集団をを統率するのは、たぶん必要なことだろう。しかし、その統率の枠からはみ出さざるを得ない状況下に生まれ育ち、社会の底辺で生きていかねばならない人々の救済のために、宗教の役割があるとしたら、同じ宗教を担いながらエリートの統率者階級のみが安楽に暮らせる、その宗教の目的は、エリート階級の自己満足のために捻じ曲げられたことになる。そして戒律を守る自分たちのみが天国に入り、守れないものは地獄に落ちるべきだとされたら、その宗教には、救済の意味がないことになる。

エリート階級がこのような社会を堅持する時に、それにあえて対決しようとする者がいたら、排除するのが組織というものである。その組織の都合をイエスはヤーヴェの教えの根本とは、考えなかった。自分は、戒律を守り、神殿に、収入の10分の1を納め、神をあがめて生きていることを、神殿で宣伝するファリサイ人を、トーラーに述べられている本来の精神として、イエスは正しいとは、言わなかった。彼が矛先を向けたのは、実にこのようなファリサイ人であったのだ。

問題は、当時のイスラエルにとって、戒律至上主義を掲げるファリサイ派が社会の隅々を支配する本流であり、反することが赦されない状況だったということ。イエスの使命は、こうした組織の存続に貢献することでなく、本来の教えの根本を伝えることと自覚したであろう。それが、群れを離れた一匹の羊の喩であり、なくなったコインの喩であり、放蕩息子の喩であるらしい。そして彼は健常者のために来た戒律保護者でなく、病者のために来た医者なのだ。

ところで、講師はもう一つ、面白いことを言った。

たとえ話にある、羊にしても、コインにしても、息子にしても、日本語では、いろいろな言葉で訳されているが、本来の言葉は、英語にすれば、それぞれ、lost sheep, lost coin, lost sonであって、「神の側から見て、見失った」羊、コイン、息子だそうだ。放蕩息子という訳語が定着しているために、あえて訳語をそろえられない事情があるが、本来、息子が放蕩して勝手に神にそむいたということを問題にしているのでなく、神の側から見て「見失ったもの」として、神が探すことに重点が置かれているのだそうだ。

そして、「悔い改め」とか「後悔」とか言う人間の側からの努力を問題にしているのでなく、神の側から「失われたもの」を探して救助することが聖書に描かれているということ。

言われてみれば、イエスが手を差し伸べた、いわゆる「罪の女」にしても、徴税人として職業差別を受けていたザアカイにしても、相手に「悔い改め」を要求し、洗礼を授けてから助けるのでなく、イエスとのある強烈な出会いによって、相手が救いを感じるのであって、そこに現在の教会が求める「形式」は一切介在しないこと。

これは他人の講座の内容を、いつも私が言っている主張に強引に引っ張りこんだわけではなく、そうとしか、解釈できない結論に、本気で、言語を研究すれば到達するんだ、ということの再発見であった。(次は、自力と他力の考え方に焦点を当てて、この思考をもっと続けるかもしれない)