心と心臓の話

日本語では「心」が意味するものと、「心臓」が意味するものが明らかに違う。「心が悪い」というのと、「心臓が悪い」というのを混同されると、誤解してしまう。今日、主人とその話になった。

主人は、スペイン語圏の人間だから、「心」に当たる言葉も「心臓」に当たる言葉もcorazonという。それを日本語に単純に訳して話したから、おかしな話になった。テレビで駅伝を見ていて、彼は「あまり走ると、心が痛い」という。それを、私は、何か同情しているのだと勘違いした。

「運動を仕事にしている人は大変だ、勝たなければいけないからね、国際舞台で1番なんかとると、それ以後のストレスで、自殺したりする人までいるから気の毒だ。」

彼、ポカ――ンとしていた。

なんでポカ――ンとしているのか、わからなかった。そうしたら、彼、自分の心臓を抑えて、動悸のことや、血圧の話を始めた。

・・・

で、やっと気がついた。「ああ、そういう場合は、『心』ではなくて『心臓』というのよ」

それで、「心」と「心臓」の違いの話になった。「心」は見えないけれど、「心臓」は見える。「心」はむしろ詩的用語で、「心臓」は医学用語だ。聖心(ちなみにスペイン語ではSagrado Corazon)という名前の学校があるけれど、あれは、「聖なる心臓」という意味ではない。「主イエスのみ心」とは言うけれど、「主イエスの心臓」と言ったら、まったく意味が変わる。

ところで^^。その「主イエスのみ心」を、西洋人の画家が描くと、キリストの胸の真ん中にむき出しの「心臓」が飛び出ている、日本人にとっては、かなり気味悪い表現になる。「主イエスのみ心」は「見えない」はずで、あれはまさに解剖図の心臓そのものだ。しかも、その聖心という学校の徽章も解剖図の心臓が二つ並んだ、ぎょっとするものである。

関係者は、自分の文化で慣れているから、それが素晴らしい表現だと思っていて、誇りにしている。こっそりいうと、とんでもないぜ。

関連して想像が飛んじゃって、こういうのもある。

昔はラテン語で「ホスティア」と呼んでいた、カトリックの言わば、ご神体に当たる「パン」がある。そのパンは、イエス様が最後の晩餐でパンを割いて、「これはあなた方に渡される私の体である。私の記念としてこれを行え。」と言ったとされるパンで、カトリックでは「御聖体」と呼ばれていて、パンそのものが、「イエス様の体(神秘体)」と信じられている。その意味は、言ったってしようがないからともかくとして、昔のミサでは、そのパンを司祭が信者に渡す時、ラテン語で「Corpus Cristi」と言っていた。意味不明だからそれでよかったのに、1960年代の改革以後、すべてが日本語になった。

なにしろ、あのパンを渡す時「キリストの体」と、なまなましく言うのである。ラテン語から日本語に代わった時、気持ち悪かったよ~~。生々しく体を食べているみたいで、人食い人種じゃないの!もう・・・

だからやっぱり、心と心臓は別々の表現をする日本文化の方が肌にあっている。