信じることと行動すること

信じる宗教と実行する宗教

私は確かにカトリック信者である。ただし、カトリックの外にいる人が、勝手に、カトリック信者とは、こういうものであると定義づけている姿とは、かなりのずれがある。

新旧両聖書に書かれているすべての記述を、神話、伝説、物語的な物を含めて、研究も論証も思索もなく、メッセージの意味することへの探求心もなく、「自国語に翻訳された誤解されやすい言葉」も含めて、信じろとは、いくらなんでも現代のカトリックの指導者さえ、言ってない。私が去年の暮れから行き始めた聖書講座の指導者は、常に、「聖書に書かれている言葉の意味するものを視覚的にとらえるのでなく、そのメッセージの意味するものを読み取れ」と言っている。

特に旧約聖書は、イスラエル民族が、「自国の視点から」歴史、宗教、倫理観、信仰感を、ヤーヴェを主語にして書いたもので、言語の研究もしないで、日本語で感じたことを信じることなど不可能である。創世紀に書かれている天地創造の「物語」にあるように、「神が粘土をこねて人間を作った」とか、「そのでくの坊に息を吹き込んだ」とか、「男のあばら骨をとって女を作った」とか、「蛇が人祖を騙した罪で、地を這うようになった」とか、そういう記述を、現代人の頭で信じ込むことが求められたら、それは与えられた知性を放棄することであって、そういう宗教は、「邪教」である。

だいたい、「神」とやらは見えないのであって、粘土をこねる手も頭もなく、息を吹き込む口も器官もないのだぞ。それに、蛇とやらは、人祖を騙す前は、尻尾で立って歩いていたのかえ?

そういう記述を視覚的にとらえていると、そういうくだらない議論になって、宗教そのものの本来の役割が、漫画になってしまうのだ。

昨日、ワインがどうのということでうんざりして議論をやめた相手は、イエス様がワインは自分の血だと言ったと勝手に考えていて、彼に言わせると、赤玉ポートワインキリスト教徒は神様の子の血として大切にしなければならないらしい。パンが人肉だの、葡萄酒が血だのという前に、パンと葡萄酒というものが、ユダヤ人の庶民のごく一般の日常的な飲食物で、ごく一般的な庶民の飲食物を日本にたとえるなら、それはご飯とみそ汁みたいなもんだ、キリストは、ごく当たり前の生活をしている庶民の日常性の中に永遠にい続けるという意味だ、と言ったら、聖書に書かれた言葉をそのまま信じないなら、マルキシストだとか言うに至っては、言語道断で、相手にできない。

私は学生時代、マルクスも研究しているし、マルクスが唱えた主義が、どういう社会状況下で生まれたかも研究している。自分の気にいらないものは、みんなマルクス主義者というような研究の仕方をしていない。

聖書の中から詰まらないものばかり拾っている時間があったら、もっと語られているメッセージを見つめてみたらどうだ、たとえキリスト教徒でなくても、洗礼など受けていなくても、語られているメッセージを拾い読みすることは、有益かもしれないのに、なんで、ワインを血だと信じろなんて、滑稽すぎて相手にできないことをいうんだろう。ばかみたい!

カトリックには、信仰箇条というものがあって、教会が成立する過程で、カトリックを担う西洋諸国の宗教会議の中で其の箇条はまとめられていった。その「作られた」信仰箇条は当然時代背景を反映している。

それが以下に参照する、子供の時から暗唱している文語体の祈りである。(現在は口語体になり、私は一緒にとなえられない。意味もちょっとごまかしているようである^^。)

「我は天地の創造主、全能の父なる天主を信ず。またその御一人子我らの主イエズスキリスト、すなわち聖霊によりて乙女マリアより生まれ、ポンショピラトの管下にて苦しみを受け、十字架上につけられ、死して葬られ、古聖所に下りて三日目に死者のうちよりよみがえり、天に上りて全能の父なる天主の右に座し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来たりたもう主を信じ奉る。我は聖霊、聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉親のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る。」

私流儀に解説をすると、これは過去の、カトリック(聖なる公教会)以外では人間は救われないと信じ込まされていた時代の、もっとも基本的信仰箇条だけど、そこに、まったく一語も、パンと葡萄酒の話は出てこない。パンと葡萄酒に関する儀式は、いわば秘儀であって、カトリックのミサの根幹にかかわる儀式ではあるけれど、どんなパンでもどんな葡萄酒でも、みんな人肉と生血だとは、いくらなんでも聞いたことがないのだ。まして、知りもしない他人から、お前の信仰は、こうあらねばならぬと言われる筋合いはない。

キリスト教徒にとって、イエスキリストは、神のひとり子と信じられていることは間違いない。しかし、その「神のひとり子」だって、仏教からカトリックに改宗したある著名な人物によると、仏教用語で「如来」と呼べる言葉なのだ。特別な使命を持ってヤーベから送られてきた人物を信頼して、そのメッセージを自分の人生に実行することが、キリスト教徒としての「信仰」の姿なのであって、聖書の記述を丸のみ、うのみにすることではない。

偉人聖人の生まれには、異常性が伝えられるのは、付きものである。お釈迦様が、母親の産道を通らず、脇の下から生まれたという伝説を持つのも、自分たちとは、似ても似つかぬほどの偉大な人物が、同じ生まれのはずがないというある種の信心の作りだしたもので、そんなことで、現代人が、大騒ぎするような記述ではない。だいたい、これだって、中世西洋の公会議で「決められたこと」なんですよ。

あの処女懐胎の物語の成立には、諸説があって、キリスト教世界宗教としての成立過程で、イエスユダヤの家父長制から自由にするためには、ヨゼフの長子としての「立場」から自由にする必要があった、とも言われている。

また、あの物語の背景には、キリスト教ギリシャに布教するためのテクニック上の理由があったとも言われている。

ご存じギリシャは神話の神々の中心地、神殿には神々に仕える神官や巫女がいた。その巫女は神と直接交わり、生まれた子は神の子と呼ばれた。それをDivine Matrimonyというらしい。布教の便宜上その形を取りいれて成立したのが、あの形になったという説もある。

それらの諸説をいちいち信じろと言っているのではない。「研究」は、「信じる」ためにすることではなく、「知る」ためにすることである。それらを知った上で、信仰箇条とされてきたものの中の最も大切な部分を自分のものとして残せばいいのであって、伝説をそのまま信じたり、研究をそのまま信じたりすることが「絶対的な信仰」とされたとき、その宗教は「邪教」になる。

釈迦の唱えた教えは、魑魅魍魎の類を信じる宗教ではなく、ひたすらに自分を見つめ、無明の発見を実行するための教えではなかったのかと、門外漢である私は憶測する。無か無限かは知らない。たぶん、あの宗教には、イエスが言う「父なる神」は存在しないだろう。自分の修行が中心だから、ひたすらに自分を見つめ、自己を発見し追求し、「何を」悟るのかよくわからないが、悟りの境地に至るのが、目的らしい。

信仰箇条にある、「天地万物の創造主」という言葉だって、「宇宙のすべての存在の源泉」という言葉に置き換えたって、差し支えないほど、一人の限りある存在である人間に把握すること不可能な∞の存在である。呼び名なんて、民族の共通の「記号」にすぎない。「こういう存在」を「こういう記号」で呼ぶ。それがヤーベであれ、神であれ、アラーであれ、大日如来であれ、阿弥陀様であれ、天神であれ、または日本的あいまいな「天」であれ、それが「取り扱い不可能なほど手に負えない存在」だということを考えてみればいいことだ。

私の個人的な考えでは、「信仰」とは、言われたことを無思考、無知性の状態で、荒唐無稽のことを信じることではない。自分に人生を与えてくれた存在に、すべてをゆだねて、送られてきた愛の使者であるイエスを信頼して、そのメッセージを実人生の中で実行していくこと。大切なのは「信じること」でなく、「信頼すること」。愛のメッセージをもたらした如来なる神のひとり子の、そのメッセージを生きること。

だから、かの信仰箇条は、一行目だけでいい。主よ、あなたを信頼します、だけでいい。難しいけれど、あなたの送られた一人子のメッセージを生きてみようと思います、でいい。その私の個人的行動を、助けて下さい、だけでいい。蛇が人祖を騙す前は、尻尾で立って歩いていたことを信じますなんて、言わなくていい。

パウロだって、愛がなければ山を動かすほどの信仰があったって意味がないと言ったではないか。与えられた知性を使うことを放棄して、魔術やおとぎ話を信じることに勢力を使って、人間どおし喧嘩していたって、そんな信仰に意味がない。