用語の解説

再び、一神教のこと

日本人が「一神教」という言葉を使う時、それが仏教徒でも、キリスト教徒でも、無神論者でも、「多数いる神々のうちの一人を自分のグループの神と考えて他を排除した」という風に考えるらしい。だから「一神教徒は多様性を受け入れずかたくなで非寛容である」と不快感をこめて弾劾する。

キリスト教徒自身も、そう思っているらしい。ただしこれは、自分たちと他を区別し、差別するために、思いこんでいる偏狭な信仰であって、イエス様自身は、そんなことを一言も言ってない。イエス様は、天地万物の創造主に対して、信頼をこめて「父よ」と呼びかけるが、俺だけの父ちゃんだとは、一言も言ってない。

エス様は、その伝えられている言が正しければ、自分は律法を壊すために来たのでなく律法を完成させるために来たのであって、したがって、モーゼ律法は「未完成」だったのだ。ユダヤ人は、歴史的にヤーベを自分たちの軍神としてあがめてきたのであって、「人間」とはユダヤ人だけだったのだ。そのことにメスを入れて、父なる神をすべての人類の父とイエス様は教えたのであって、ヤーベという「名前」の神をキリスト教徒だけの神とする考えは、ユダヤ的であって、反キリスト的考えなのだ。

私は生まれたときからカトリックの家庭だったから、耳にたこができるほどに、「天主様は天地万物の創造主」と言われつづけてきた。しかも同時に、現在は、少なくとも学のある指導者はそんなことを言ってないとしても、天主様(現在、「神様」と呼ばれている存在)は  あたかもカトリック信者だけにとっての「創造主」であるかのように錯覚するように導かれてきた。

そんなばかなことってあるかい!

その存在が「天地万物の創造主」なら、どんな民族のどんな階級のどんな環境にあるどんな種類の宗教を持った人間にとっても、またはどんな危険で醜悪で迷惑な動物や虫けらであろうとも、それら「天地万物」にとっての「創造主」であって、その「天地万物の創造主」はキリスト教徒の「所有物」ではなく、「天地万物」が「創造主の所有物」であるというのが、誰がなにを言おうと正しい見解である。

エス様が教えた「父なる神」は、キリスト教徒にとっても仏教徒にとっても、ヒンズー教徒にとっても、イスラム教徒にとっても、ゾロアスター教徒にとっても、神国日本の臣民にとっても「父なる神」であって、どの民族の「所有物」でもないのだ。

それがまともに考えられていれば、一神教が非寛容なんていう批判が起きるわけがないじゃないか。私に言わせれば、キリスト教徒ほど、自分たちが信奉する「教え」を誤解している集団はない。イエス様が命をかけて伝えた「愛」さえも、「愛だ、愛だ」と言いながら人殺しをしているし、各派教会の指導者が勝手にものを言う言葉を信じなければ、天国に入れないとかいっている。そんなんだったら、天国とは、偏狭で異常な人間ばかりはいるらしいので、わたしゃ、地獄を選ぶよ。

そのことを一言でも言おうものなら、みんなで大騒ぎして迫害がはじまるのがおちである。

その「天地万物の創造主」と「表現した」ものを仏教用語でいうと、「法」であってお釈迦さまや阿弥陀如来大日如来やエルカンターレではない。つまり、仏教では、「法」を人格化していないだけで、宇宙の理法、真理のことである。そして、人間界の目で見て、すぐれて卓越して深遠な思想を教えつたえたものを、預言者(予言ではない。「神の言葉を預かるもの」である。)と呼んだり神の使いと呼んだり、真理から遣わされた者「如来」と呼んだりしてきた。

その意味をよく考えれば、釈迦如来大日如来阿弥陀如来とは、神々の名前ではなくて、かれらを通して真理に到達するための教えをつたえるために遣わされた「人間」である。その意味で、イエス様も仏教用語を借りるなら、「如来」と呼んでも差し支えない。

私はここで、宗教談義をしているのでなくて、あくまで用語の解説をしているのだから、そこで覗いている野次馬は、石を投げたりしなくていいよ。