naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

価値観について

エス様はアラマイ語を使っていた。しかし、イエス様の言葉は、ギリシャ語で伝えられた。たとえば、「悔い改める」という日本語に訳された言葉は、アラマイ語とギリシャ語では、まるで違うという。そのまるで違う言葉を、さらに日本語に訳せば、過去の罪に執着して、一生涯後悔しながら、後ろ向きの人生を送るみたいに聞こえる。

伝道者らしいのが、町を宣伝カーで「悔い改めよ」とがなりたてているのを聞くと、ちと、虫唾が走るのだが、そんなこと、イエス様はもとから言ってないんだそうで、そう伝えられたのは、困ったことだ。

「異邦人」という言葉が聖書には多く使われている。数えたことはないけれど、常に、「イスラエル人」との対語のような形で出てくる。当然、読む方の反応は、イスラエル人という行政上の国家に所属する人々と、それ以外の人々という風に解釈する。その解釈によれば、弱者の味方であり続け、隣人愛を説いたイエス様も、人種差別をしていたかのように思ってしまうのは当然だ。


ところが、聖書の用語は、「悔い改める」と訳された言葉も、「異邦人」と訳された言葉も、ヤーヴェとの関係において言っている言葉であって、人間の側の自発的な行動を言って
いるのではないという。「離れて行った人間を『求めるヤーヴェに』向き直る」というのが「悔い改める」の本来の意味だという。


人間の側の行動として胸を打って後悔して告白して謝ったりすることを指さない。イスラエルはヤーヴェを信じる民であり、ヤーヴェを知らない民を「異邦人」という。「異邦人でもそんなことはやっている」という時、「ヤーヴェを知らない人間でさえそんなことはやっている。知っている民なら、ヤーヴェが求めることをやれ」ということになる。


ヤーヴェがアブラハムに命じたことば。

「生まれた土地を離れ、父の家を離れ、私がさし示すところに行け。」つまり、ヤーヴェの指し示す土地「約束の地」とは、地縁血縁を超越した、ヤーヴェの指し示す「世界」であって、だったらそれは、「カナアンの地」「パレスチナ」というような、目に見える土地ではないだろう。


目に見える土地だったとしても、「ヤーヴェが指示した土地」と彼らが考えた土地の片隅で、旅の途中で宿もなく、動物小屋で出産せねばならなかったホームレス状態の夫婦から「メシア」が生まれるということの意味は、なかなか、物凄い。王侯貴族から生まれるのでなく、宗教的支配者から生まれるのでなく、当のイスラエル人が尊ぶ価値観の、およびもつかぬ夫婦から、生まれた赤ん坊が、メシアであるとは、奇想天外であるなあ・・・

というより、この世の価値観のま逆が聖書の価値観。

で、それがどういうわけで、今の気違いじみた、キンキラキンのクリスマス祭りになっちゃったのだろう。しかも、金持ちの子供の所有欲を満たすサンタクロースの爺さんまで登場して、こうなったらイエスという男が、命をかけた「救い」のメッセージの意味を揶揄しているとしか思えないわ・・・