原語と訳語

今朝方ひどく寒かった。寒さで起きて、時計を見たら、まだ2時台だった。いつも起きる1時間前にエアコンをつけるのだけど、寒さにたまらず、すぐにつけた。しかし温まらない。足には湯たんぽ、背中にホカロン、それでも温まらないから、眠れない。あとひと眠りしないと、あとで祟るから、日ごろ起きているときに着ている袖なしの防寒着を着こんでまた寝た。それで眠ったらしい。

目が覚めたら6時で、こころの時代を逃した。

こころの時代と言えば、昨日の聖書講座、内容が複雑なので、聞きもらすまいとして聞いていたら、まったく筆記できなかった。彼、ちょっと私のこだわりと同じことにこだわっていたから、興味があった。キーワードは原語と訳文。

まだ「悔い改め」という言葉にこだわっていた。面白い。

「悔い改めよ」と説教していたのではなくて、(そんなのだったら、あれほど熱心に聴かない)イエス様がギリシャ語や日本語や英語でなく、古代ヘブライ語のアラマイ語で言った「悔い改め」と訳された言葉が、何を意味するのかを、しつこくしつこく研究している。

新約聖書ギリシャ語で書かれた。しかし、イエス様はギリシャ語を話したことがない。ギリシャ語で書かれた「メタノイア」という言葉は、日本語訳された「悔い改める」とだいたいが同じ意味だけれど、ヘブライ語で書かれた旧約聖書には、「悔い改める」と日本語訳される言葉は出てこないそうだ。その代りに再三出てくる言葉は「シューヴ」という、ヘブライ語であって、これは日本語訳では、「立ち返る」という言葉に訳されているという。

「悔い改める」という言葉は、人間が自分の心の中で、「一人で」自分の行為を悔いることであって、基軸はあくまで自分にあり、「シューヴ」という言葉は基軸が神の方にあって、「人間が一度離れた神の方に立ちかえる」ということなのだそうだ。

なぜ、そこにこだわるか、彼は、神から離れた人間を「探して元に戻すの」は、群れを離れた羊を探しに探して群れに戻す飼い主のように、神の側の働きかけであって、無力な人間の側からの努力を要求していない、と強調する。

エスを裏切ったユダが自分を基軸にして取った行動、「後悔して」行った先は絶望であり、自殺であったが、同じようにイエスを裏切ったペトロが「シューヴ」して行った先は、自分に基軸を置いた決済でなく、基軸を神の方に向き直した、そこに日本語に訳された「後悔」の意味の違いがあるのだと雨宮神父は言う。

実は、私がこのことをよくわかっているわけではない。私が捉えているのは、聖書が各国語に、正確な訳文で記されているわけではない、ということ。そのことは、ヘブライ語ギリシャ語を研究したわけではない私が、日本語の変なぎこちない訳からいつも感じていたことだ。

雨宮神父が強調しているのは、日本語に訳されて日本人にとらえられる、本来の意味からかけ離れたニュアンスの違いらしい。彼の研究は、純学問的知的趣味でなく、本来の意味を正しくとらえて伝えないと、訳語だけを読む人々がとんでもない誤解をし、イエスが死をかけた福音が正しく伝わらないということに対する、彼の使命感から来るものであるらしい。

もう一つは、「悔い改めよ」とセットして伝えられる、「天の国が近付いた」について。これは、まだ消化しきれていないから、また日を改めて。