naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

あるシスターの訃報

昼寝していたら、電話が鳴った。亡くなったマドレと20代の時私が出会った本部修道院のシスターだった。私にマドレの死を知らせてきたのは、本部でなくて、静岡県の市部にいた、スペイン人のシスターだった。彼女とも、マドレと出会ったころと同じ時期に出会い、私とマドレの関係を知っていたから、いち早く知らせてくれたのだった。

本部修道院は、マドレが日本で過ごした修道院だから、当時を知る一人のシスターに、当然マドレの死を知っていると思って電話をかけ、マドレのためにミサがあるなら、出席させてほしいと頼んだのだけれど、驚いたことに、彼女は、マドレの死を知らされていなかった。当然、ミサのことなんか、まったく考えていないらしかった。

何を話してもらちが明かないので、私は本部とも支部とも問い合わせをあきらめ、自宅で勝手に祭壇を築いて花を飾った。仏教風に言えば、私が彼女の仏壇を作り、身内でもないのに勝手に喪に服したのだった。

なんだか変だと思って気になっていたので、しばらくしてから、私はカードを作った。手持ちのマドレの写真を数枚組み合わせて、感謝の文句を書き、本部と支部の、関係者に送った。

実は私は、腹の底で、昔の仲間のシスターたちに不信感を持っていた。昔日本で過ごした仲間の死に対して、何も感じないのだなあ、と思ったから。

マドレは日本で冷遇を受けていたのは知っていた。その後彼女は、日本で大した働きもないまま、スペインに送り返され、私が尋ねたことのあるスペインの辺鄙な田舎の修道院勤務となった。そのあとヴェネズエラに送られたらしい。

数年前、私はひょんなことからヴェネズエラの彼女を訪ね、かの地における彼女の活躍を見てきた。彼女の修道院のあるメリダの町の底辺の生活者である人々は、どこに行っても彼女を慕い、町で会えば遠くからでも、みすぼらしい身なりの人々が、自分の屋台の売り物を彼女に上げようと、集まってきた。それはパンであったり、ジュースであったり、とにかく自分ができる最大のものを、彼女に「ささげた」のだった。それを見て、私は、「凄い!」と思った。「どこに行っても」「そこの一番貧しい人々に慕われる」ということの意味を、私は悟ったからだった。

私が感動したのは、メリダに行く途中、カラカス空港に到着した時に、二人の男性がマドレの要請で、私を出迎え、いろいろ世話をしてくれたのだが、帰路の空港でも彼らがやってきて、誠心誠意私の世話をしてくれ、別れるときに私が、ありがとうと言おうとしたとき彼らが言った言葉だった。

「マドレの大事な友達をお世話するのに、マドレが私たちを選んでくれたことが、とてもうれしかった、ありがとう」

その言葉は、「通り一遍のあいさつ」でなく、心から感動していることが、彼らの表情から分かった。その表情の意味を見たときに、私は思わず彼らに言った。「エルマーノス(兄弟)!あえて光栄だった。ありがとう」彼らは修道士でもなんでもない、マドレの経営するフェ イ アレグリアの活動によって、教育の機会を与えられた学生の一人だった。

帰国してから、私は本部修道院に行って、彼女のヴェネズエラでの働きを話したが、気にする人も感心する人もいなかった。「へ~~~~、素晴らしいわ…」と彼女たちはのっぺりした表情で通り一遍なあいさつを交わしただけだった。自分の修道会のかつて同じ釜の飯を食べたメンバーの、世界における働きに対して、興味を持つ者さえいなかった。

しかも、本部修道院に彼女の死の第一報を入れたのは私だった。だいたい、支部のある修道女が、知らせなけらればいけないと思って、初めに思い浮かべてくれたのは私だったという、不思議な団体なのだ。

そのことを知らず、本部に電話を入れて、彼女のためにミサを立てるなら、私も参加させてほしいという私に、「さ~~~」という返事をしたのは、今日の電話の相手だった。

それで私は、放置して、自分だけで、彼女を悼む祈りをささげようと思ったのだった。

私が腹の底で、あるデモンストレーションの下心があって、送ったカードを受け取り、私に電話してきたシスターは、開口一番「あのマドレ、幸福ね」と言った。

「世界に一人だけでも、あなたのように祭壇を作って花を飾っている人がいて。」

とうとう、私は言った。「私一人ですと?彼女の死を悼み涙を流すものは、世界に数万人いるでしょうよ!ヴェネズエラのメリダに行けば、彼女が作った学校の食堂のマントルピースに、彼女の名前が刻んでありますよ。町を歩けば、四方八方から彼女を慕って、ぼろをまとった人々が集まってきますよ。金持ちでなく、ぼろをまとった人々ですよ!」

「そおおお、素晴らしいのね。マザーテレサみたいなところがあったのね。」と彼女は言った。「日本にいらしのは、短かったから、私たち何も知らないわ」

「あのね、短いというなら、私はどうなりますか?私は一緒に暮らしていたのでなくて、日数にしてみれば出逢って、数カ月の付き合いですよ。出逢って数カ月で、私は人生の道をどんでん返しするほどの影響を受けたんです。彼女が日本に来た時、彼女は40代、86歳まで彼女は生きて、ずっと同じ修道会のメンバーとして働いていたのではないのですか?私は40年間彼女と会っていなかった。どこにいて、何をしていらっしゃるかも、生きているか、死んでいるかも知らなかった。ネットの中の不思議な出会いから、私は5年前、彼女に会いに行った。その時、たった1週間、ともにしただけですよ。マザーテレサ見たいとおっしゃるけれど、彼女はマスコミに乗らなかった。ノーベル平和賞も受けなかった。私がひそかに一人で彼女の死の情報を得て、勝手に一人で喪に服した人間がいるように、マスコミに乗らない彼女が‘家族’と呼んだ人たちが、どのくらいいるかなど、誰にもわかりませんよ。おそらく、‘聖人’にもならないでしょう。彼女はヴェネズエラのメリダの埃まみれの路上で生活する人々の中に、無名で生き続ける人間です。」

彼女は言った。「じゃあ、あなた、あの方のそういう働きをスペインの本部に知らせてあげて下さらない?」私の言っていることが、何もわからないような反応だった。

だいたい、スペインの本部が彼女をヴェネズエラに派遣したんだ。私が滞在した1週間足らずの体験なんか、屁でもないだろう。ヴェネズエラの30年の彼女の働きを本部が知らないわけないじゃないの。私は少なくとも、昔日本では仲間だったシスターに、個人的な自分のささやかな話をしたんだから、聞いたシスターが意味がわかるなら伝えればいいことだ。

だいたい、仲間の生涯をかけた働きを知らない方がおかしいんだから。

非難はするまいと思った。昔から、彼女が誤解されて阻害されていたのを、私は知っていた。日本の仲間は、誰も彼女が世界で素晴らしい働きをするほどの人間であるとは、想像だにしていないことを、薄々知っていた。日本の片隅に、彼女の訃報を聞いて、喪に服する人間がいるとすれば、喪に服する方がへんてこだと思っているだろう。私はへんてこで、へんてこだから彼女は私を愛したんだ。

なんだか、腹が立ったが、少し愉快でもあった。彼女の訃報を、東京の本部修道院よりも早く私に知らせたシスターが、あの会の中に一人いたことに。私はごくこの世的執着心から、この事実にたいして「ざまあみろ」という思いを感じた。
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