ある犯罪者の記録

殺人を犯して2年以上逃げ回った青年の記録を読んだ。でもその記録は、どのように逃げ、どのように潜伏し、どのように逮捕されたかという「経過」だけを記録していて、どうも「心」が読めなかった。うわべの「経過」だけしか書けないほど、「心」は動揺していて、まとまらないのかもしれないと、私は「善意」に解釈した。

自分の犯した犯罪の重大さに深い心の内を自ら洞察するには、2年という期間は、あまりに短いのかもしれない。他人の人生だ、なにも期待することはないのだけど、あまりに淡々としていて、唖然とする。

ところで、彼は、どうも「普通の」青年らしい。私よりもよほど、常識的な、普通の、通り一遍の人間らしい。まだ、通り一遍の大した極端な性格の持ち主でもない人間が、人を殺すほどの犯罪を犯すという事実を知って、私は、ちょっと、感想を書くのを躊躇している。私は子供の時、電車の中で他人の足を踏んだぐらいで、深く苦しんだ人間だから。

「後悔」とか「悔悟」とか「苦悩」とか、「自省」とか「懊悩」とかいうものは、もしかしたら、子供の時からの宗教教育の全くない人間には、自然に湧いて出たりするものではないんだ。「愛」と同様、「悔悟の念」も、たぶん、「自然」や「本能」ではなく、教育によって、身につくものなのか…

だとしたら、「罪」の観念は、動物が他の動物を殺して食べるのが自然であるのと同様、もともと動物なる人間にはないのかもしれない。

だって、刑罰があり、警察があるから「逃げる」のであって、「罪の意識」があるなら、自分から逃げることはできないのだし、時効が過ぎれば、罪の意識はなくなるのだしなあ。

刑罰や警察から逃げるのは「心の罪の意識」とは無関係で、むしろそれは「自衛本能」だよ。