「霊」と「気」の話

この前の「こころの時代」で、ちょっと衝撃を受けた言葉の意味。

それは、「霊」と和訳されたヘブライ語の、本来の意味が、日本語の「霊」という言葉から想像する意味と違い、むしろ「気」に近いという解説だった。これはちょっと、え!と思った。「気」と「霊」はいかにも違う!

そういう話になったいきさつは、「信仰する」と和訳されている言葉の解説からだった。

「信仰」という言葉は、かなり「危険な」言葉だと、私はいつも思っていた。「信仰」をある宗教なり、団体なりの「掟」とする時、それはある集団を手名付けるための思考停止の強要につながる。「なになにを信じよ」ということは、「知性の働きがあろうとなかろうと、それ以上追及するな」という意味であり、それゆえに、「危険」なのである。

それゆえに、どの団体にとっても、「信仰」は人間集団をつなぎとめる最後の手段であり、目に見えぬ神そのものではなくて、その団体の指導者が「神」になりうる危険性をはらんでいる。だから私は、この「言葉」に警戒をするのだ。

テディベア神父の先回の話の主題は、「山上の垂訓」という名で知られているイエスの言葉だった。

例によって、自分の都合から、文語体の聖書の言葉で言うが、「幸いなるかな、心の貧しきもの」という言葉の、「こころの貧しさ」の説明だった。日本語の表現では、「心が貧しい」の反異語は、「心が豊か」であって、どう考えたって、この日本語の言葉の意味にしたがう限り、「心が貧しい」方をイエスが選ぶというのは、異常である。だったら、「こころが貧しい」と和訳されたものは何か、というあたりの解説だった。

エスの言葉というものは、何が主題であっても、常に必ず、「神とのかかわりにおける人間のあり方」であって、神なしに、Aという人間と、Bという人間を比べて、Aが正しい、Bが正しいと言っているのではないと、断わったうえで彼はいう。

「こころが貧しい」をもとの言語の意味と照らし合わせてみると、「霊に置いて、自らの貧しさを知っている」、「神とのかかわりにおいて、自らのみじめさを知っている」という意味であるらしい。仏教用語をとりいれたあとの私に言わせれば、「神とのかかわりにおいて、自分の無明を知っている」ということになる。

ふむふむ、と感じていたときに、彼は「霊」の本来の意味の説明を始めた。ヘブライ語の「霊」と和訳されたものは、「心霊」とか、「御霊」とか、「幽霊」とか、「精霊」とか、想像されるようなものになりがちだけど、本来の意味をよく研究して見ると、それは本来、「気」に近いと。

「気」とは、はて、なんだっけ・・・。「霊」が「気」に近いとすると、では、「神」と和訳されたものは、怪しいぞ!

ところで、「信仰」の話がどっかにいっちゃった。

テディベア神父によると、「神を信じる」という言葉は、「神に置いて自分を確かなものとする」という言葉を、簡単に1語で和訳したものらしい。

つまり、「神あってはじめて自己がありうる」、または「神に自己をゆだねる」ということかな。とにかく、なんでもいいから問答無用で化け物を信じ込むという意味とは、かなり違うニュアンスだ。

だから現在でなく、旧約時代のイスラエル人が考えた、「神」とは何か、ということも研究課題だな。